unreve練成講座、円環超克について。
さて、練成講座は精神論(唯心論)ではなく、
三浦梅園の条理学に近いものです。
独断で作り上げたものではなく、
「多分ここまでは大丈夫だろう」と、
納得したものだけを取り入れていますが、
もちろん「絶対に正しい」ではない。
あくまでも個人主観の枠内であることは言うまでもありません。
端的に言えば、把握できないものを
把握したと思い込むのではなく、
把握できないのだと知りながら、
自然の基本的な在り方を学び、
そこから自分の軸を作る事が目的です。
ここが欠けてしまっては、
単なる観念の一人遊びです。
ともすれば外部を否定し、自閉した
内部の妄想を肯定するだけで終わってしまいます。
(僕はそういった意味のオタクは好きじゃない)
閉ざされた内部に絶対はない。
だかといって開放されっぱなしの外部にも
絶対はない。
啐啄同時、統合の信。
これが円環条理を俯瞰した
超克の視点です。
☞ ☞
何を信じ、現実にどう活かすか。
この「信じる」というものには、
必ず多少の疑いが存在します。
当たり前のことに対し、いちいち
信じるなんて言葉は使いません。
「私は男だと信じる」なんて言いませんよね(笑)
分からない、確定していない、
見えないものに対し、我々は「信じる」のです。
「神あっての信か、信あっての神か」は、
宗教を拠り所にする人達にとって、
生涯に渡るテーマでしょうが、
いずれにしてもこの命題は
近代による主観、主体の要請です。
コンサルタントというものは
事業のリスクやコストやコンセプトを明確にし、
成功させるのが仕事でしょうが、
転ばぬ先の杖というものは
見えるのでしょうか、見えないのでしょうか。
極論、「見えないから信じるしかない」。
そうじゃないですか。
☞ ☞
近代、「見える」物質を細かく細かくし続け、
仏教でいう「微塵(みじん)」になるまで分けた結果、
我々の身体や星を形作ってる物質は
わずか4%ほどだと分かりました。
それ以外は皆目見当がつかないのです。
経済も経済学によって徹底的に
追求された結果、
多様化と成熟化によって複雑系、
散逸構造が露わになっています。
これを「我々はやがて全てを把握できる」と思うか、
「我々には到底辿りつけない」と思うか。
徹底した結果、
そのどちらの立場にいるかの違いでしょう。
しかし、本来この徹底とは「底に徹する」こと、
徹することで「底」という「自分の限界」を知ることです。
相対有限である小さな内部の
主観(底)を知るという意味であって、
相対有限の肯定ではありません。
宗教を拠り所にする人達にとって、
生涯に渡るテーマでしょうが、
いずれにしてもこの命題は
近代による主観、主体の要請です。
コンサルタントというものは
事業のリスクやコストやコンセプトを明確にし、
成功させるのが仕事でしょうが、
転ばぬ先の杖というものは
見えるのでしょうか、見えないのでしょうか。
極論、「見えないから信じるしかない」。
そうじゃないですか。
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近代、「見える」物質を細かく細かくし続け、
仏教でいう「微塵(みじん)」になるまで分けた結果、
我々の身体や星を形作ってる物質は
わずか4%ほどだと分かりました。
それ以外は皆目見当がつかないのです。
経済も経済学によって徹底的に
追求された結果、
多様化と成熟化によって複雑系、
散逸構造が露わになっています。
これを「我々はやがて全てを把握できる」と思うか、
「我々には到底辿りつけない」と思うか。
徹底した結果、
そのどちらの立場にいるかの違いでしょう。
しかし、本来この徹底とは「底に徹する」こと、
徹することで「底」という「自分の限界」を知ることです。
相対有限である小さな内部の
主観(底)を知るという意味であって、
相対有限の肯定ではありません。
見れば、日本の思想家達も同様、
「私には何も分からない」という境地によって初めて、
一切を任せた信が生起している。
つまり徹底したことで悟る「自己否定」と
「信の成立」は同じ環の中にあった、と。
☞ ☞
その限界に辿り着いた時、
相対が絶対へ向かい、有限が無限に入る。
親鸞はそんな超越した阿弥陀を
絶対的に信頼する他力仏教を説きました。
勘違いする人がいるのですが、
この他力というものの主体は超越的なまま、
実在的な他者に成りようがありません。
絶対的に信頼する他力仏教を説きました。
勘違いする人がいるのですが、
この他力というものの主体は超越的なまま、
実在的な他者に成りようがありません。
そんな実際的に存在していない他人の
「他力」というものは観念体の他者です。
他力とは知り合いのAさんでも、
友人のB君でもない。
つまりそれは「自己」の一変容であって、
これが親鸞の説く他力、超越した他者を意味するのでしょう。
まさに親鸞の他力とは
親鸞の内を超えた所(内の内は外)にあった、と。
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