上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

仲哀天皇の事績②

記紀によると、仲哀天皇関門海峡を制圧した後、北九州を制圧し日本統一を果たす直前で斃れた。崩御後、神功皇后が北九州と任那を制圧し、畿内に戻り、反対勢力を駆逐して、日本統一後の最初の天皇として応神天皇が即位した。

具体的に何があったのであろうか?

仲哀天皇の事績① - 上古への情熱」からの続き。

経緯③長門国へ出兵

熊襲反乱の報に接し、仲哀天皇紀伊国から長門国に船で出兵、敦賀気比宮の神功皇后にも船で長門国へ出兵させた。出兵後、即位2年6月には長門国の豊浦津に入り、7月には神功皇后が合流した。

  1. 熊襲景行天皇九州巡幸によって征服されたとされていることから、このタイミングでの熊襲反乱は、景行・成務朝が倒れたから、単に熊襲が独立したに過ぎないと解釈できる。
  2. 長門への出兵について、仲哀天皇神功皇后も船で向かっている点は重要である。即ち、敦賀制圧の時点で日本海制海権を握り、紀伊制圧の時点で瀬戸内海の制海権を握っていたと解釈できる。
  3. 長門国崇神天皇の時代には「伊都都彦(伊都津彦)」が支配していたとされ、北九州の伊都国の勢力下にあった。
  4. 仲哀天皇は、若狭水軍と紀伊水軍を得て、長門国を南北から挟撃し畿内政権として長門国を初制圧した


経緯④関門海峡初制圧

即位8年に筑紫に上陸し、伊覩県主が朝貢。灘県の橿日宮に入った。

  1. 畿内政権による北九州への初上陸であり、関門海峡の制圧に成功したと解釈できる。
  2. 灘県は魏志倭人伝の奴国に比定され、伊覩県は伊都国に比定される。魏志倭人伝によれば玄界灘の中心地は伊都国であった。ことから、伊都県の降伏により、玄界灘制海権を握ったと解釈できる。


経緯⑤仲哀天皇崩御と日本統一と朝鮮出兵

即位9年2月崩御。3月熊襲服従+山門県制圧、4月松浦県に入る。10月朝鮮出兵、12月帰還+応神天皇誕生。翌年2月長門豊浦宮で仲哀天皇の殯。

  1. 仲哀天皇崩御の経緯については諸説考えられることから別に論じるとして、仲哀天皇崩御から殯までを1年として、北九州制圧及び朝鮮出兵を詰め込んでいると解釈できる。
  2. 崩御翌月の3月には山門県(邪馬台国)の田油津媛を滅ぼし4月に松浦県(松浦国)に至り10月には対馬の和珥津から朝鮮出兵していることから、仲哀天皇崩御の年に日本統一が完成したことになる
  3. 順次、北九州の県を征服しているが、魏志倭人伝に登場する各国の征服紀を日本書紀編纂時に並べたとも考えられる。
  4. 古事記の崩年干支から、仲哀天皇崩御は西暦362年となる。つまり畿内政権による日本統一は西暦362年ということになる。

 

記紀の主張としては、日本統一+朝鮮半島任那などの権益を確保したのは、仲哀天皇ではなく、神功皇后であったと言いたいということだろう。統一日本の初代を応神天皇としたいという思想があるように思われる。

 

(参照:解説:記紀が語る領土拡大の歴史 - 上古への情熱)

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