新しい仏教王朝を開いた用明天皇は天然痘に斃れ短命で終わる。激動の東アジア情勢に対応するため崇峻天皇が用明天皇を嗣ぐ。何故、後継が崇峻天皇なのか。不満を持つ人々がいた。
587年丁未の乱
- 仏教導入は天然痘パンデミック対策でもあったが、肝心の仏教王朝の開祖である用明天皇が587年に天然痘に斃れる。
- これに守旧派が勢いづく。敏達皇后のちの推古天皇から天皇位を奪い新しい天皇を立てるために動き出した。
- 用明天皇崩御直前に中臣勝海は太子彦人皇子を擁立するため太子のもとに駆けつけるが、推古天皇と通じていた太子彦人皇子は中臣勝海を殺してしまう。
- おそらく当初は守旧派が大勢を占めていたであろうが、これで形勢が逆転。なんとか推古天皇側が勝利した。
- 日本書紀には、厩戸皇子が四天王に祈願し勝利するエピソードが四天王寺起源譚として語られているが、リアルに負けそうだったのだろう。
崇峻天皇擁立の背景
- 丁未の乱について日本書紀では物部守屋討伐に参加する諸皇子を以下の通りとしている。
泊瀬部皇子=崇峻天皇
竹田皇子=推古天皇皇子
厩戸皇子=用明天皇皇子
難波皇子=敏達天皇皇子
春日皇子=敏達天皇皇子 - 不思議なのは敏達天皇世代が崇峻天皇以外にいないことだ(下記系図参照)。有力な皇子が崇峻天皇だけだったのかもしれないが、天然痘パンデミックで多くの皇子が斃れたためかもしれない。
- こうして有力皇子は泊瀬部皇子一人となり、崇峻天皇が即位した。
隋の中国統一と崇峻天皇暗殺
- 日本書紀には書かれれていないが国際情勢は刻一刻と緊迫さを増していく。崇峻2年の589年には隋が中国統一。高句麗との国境が俄かに緊張する。
- 崇峻天皇も591年に大軍を動員。敏達天皇を陵に葬ったのち、二万の軍勢を九州に派遣した。欽明天皇以来の悲願である任那復活を企図したとされるが、国防の意味合いの方が強かったと思われる。
- 大軍の派遣により大和はカラとなり、警備が手薄な隙に592年に崇峻天皇は暗殺されてしまう。
崇峻天皇暗殺の黒幕は誰か?
- 日本書紀はこの後、百寮が璽印を推古天皇に奉り推古天皇が即位したとするが、敏達皇后である推古天皇は敏達天皇から祭祀を嗣いでいたので、そもそも祭祀上は天皇の立場にいた。
- 591年に敏達天皇を陵に葬ったことから一連の儀式を終えて、592年崇峻天皇を排除し準備万端で推古天皇が即位したという解釈もあるだろう。
- しかし、推古天皇はその後も親政を行うことはなく593年には厩戸皇子に執政は任せている。
- そう、崇峻天皇のポジションに聖徳太子が収まったのだ。
- 大軍の派遣には強権が必要で崇峻天皇が豪族の反発を喰らったのは間違いない。蘇我馬子は自身が擁立した崇峻天皇を斬るのは断腸の思いであっただろう。
- 一方で、後継ぎ争いで、上宮王家が地位を取り戻したという事実がある。黒幕は聖徳太子で蘇我馬子は関与していなかった可能性も十分にある。