宝皇女=皇極天皇の庇護のもと葛城王・多智奴女王・漢皇子は生き残り、天智・間人・天武となったとする解釈。
さらに解釈を進めると持統天皇の母は間人皇女という驚愕の解釈も可能になる。
智奴の名を嗣ぐ者
- 皇極天皇の父、茅渟王は、その母である大俣王が敏達天皇皇女である(継体持統⑦:漢王の妹、大俣王 - 上古への情熱)場合、田村皇子と血統的には差がなく、皇嗣筆頭であった可能性が高い。
- 皇極天皇の前夫、高向王は、用明天皇第一皇子である田目皇子の息子である可能性があり、姉妹の佐富女王は聖徳太子第二皇子の泊瀬王妃である。泊瀬王、高向王とも聖徳太子の後継者として有力な皇子であった可能性が高い。
- 628年推古天皇崩御までに茅渟王は亡くなったと思われ、田村皇子により排除された可能性がある。また、泊瀬王と高向王も、山背大兄王に排除された可能性がある。なお泊瀬王は日本書紀では628年に急死したとなっていて、殺されたとは記録されていない。
- 泊瀬王と高向王の遺児3人は628年時点でいずれも年齢1桁と予測され、高向王妃である宝皇女=皇極天皇が引き取った可能性がある。
- この場合、泊瀬王の娘については、茅渟王の名を継ぎ多智奴女王と名乗ったと解釈できる。