日本語ラップとナショナリズム “不良映画”から読み解く思想の変化とは?

 音楽ライターの磯部涼氏と編集者の中矢俊一郎氏が、音楽シーンの“今”について語らう新連載「時事オト通信」第2回の後編。前編【ヒップホップとヤンキーはどう交差してきたか? 映画『TOKYO TRIBE』と不良文化史】では、今夏に公開された映画『TOKYO TRIBE』を軸に、90年代のヒップホップ文化やチーマー文化について掘り下げた。中編【『ホットロード』主題歌の尾崎豊はアリかナシか? 不良文化と音楽の関わりを再考】では、引き続き『TOKYO TRIBE』に見られる不良文化について考察を深めるとともに、同時期に公開された『ホットロード』についても議論を展開。後編では、2002年に公開された日本映画『凶気の桜』の背景を辿るとともに、そこから浮かび上がる近年の日本のナショナリズムとヒップホップシーンの接点について考察し、さらには日本のラッパーがどのような思想的変遷を経てきたのか、時代背景とともに推察していく。

磯部「“反米かつ親米”という歪みは、日本のラップ・ミュージックが抱え込んでいるものでもあるように思える」

中矢:では、ちょっと話題を変えますが、近年、日本では右傾化が進行していて、例えば、嫌韓・嫌中を叫ぶ一方、「世界から愛される日本」などとうそぶく、愛国ポルノとも呼ばれるような書籍が大量に出版されていますよね。振り返ってみると、00年代前半には、窪塚洋介が主人公の右翼青年を演じた映画『凶気の桜』(02年)でラッパーのK-DUB SHINEが音楽を担当したり、日本語ラップとナショナリズムが結びつく傾向が目に付いたように思いますが、それは、ある意味で今の状況に先駆けていたのではないでしょうか。

磯部:前回からの流れで説明すると、『TOKYO TRIBE』が、チーマー同士が抗争を繰り広げていた80年代末から90年代初頭の渋谷をモデルにしていたとしたら、『凶気の桜』の「渋谷で軍服を着たナショナリストがチャラチャラした不良を狩る」という設定は、特攻服姿の関東連合がアメリカナイズされたファションのチーマーと抗争を繰り広げていた、90年代半ばの渋谷をモデルにしている。映画に関わったのは、むしろ、キングギドラ(K-DUB、ZEEBRA、DJ OASIS)みたいなチーマー人脈なんだけどね。そして、『凶器の桜』に象徴される日本のラップ・ミュージックのあるいち部分の右傾化は、彼らのような特定の土地に根差さない新しいタイプの不良たちが、自身のアイデンティティを探す過程で起こった現象だと言えるんじゃないかな。

 映画『凶気の桜』がつくられた背景と経緯を説明すると、まず、ヒキタクニオの原作(新潮社、00年)に窪塚洋介が惚れ込んで、映像作家の薗田賢次に映画化を持ち掛け、そして、薗田がMVを手掛けていたK-DUB SHINEが音楽監督を務めることになった。窪塚は同作のイベントにおいて、前年公開の映画『GO』(01年)で在日韓国人の主人公・杉原を演じたことで、日本人としての自覚を持ったと、以下のように語っている。「去年なんですけど、『GO』って映画があってボクの役作りのなかで自分のこととか国のこととか社会のこととか考えるようになって。今まで、そういうのどうでもよかったっていうか、まぁ関係ないなと思って生きてここまできてたんですけど、なんか“そうか、オレ日本人じゃん”みたいな。オレが生まれて育ってここにいる、ココは日本。だから、やっぱそういうことは無視できないし。オレらだからやれることがある。アメリカがやってきて日本にいろんなことをしていまこういうふうになってる」(探偵ファイル/映画『凶気の桜』窪塚洋介トークショーin渋谷HMVより)。

中矢:『GO』で窪塚は、民族的アイデンティティを強調する旧世代の在日コリアンではなく、民族的アイデンティティから比較的自由な新世代の在日コリアンを演じましたよね。そういう形でエスニック・マイノリティに感情移入したので、彼の中でナショナリズムが相対化されるように思うわけですが、むしろナショナリズムに傾倒していった。その点で窪塚に違和感を覚えた人も少なくなかったはずです。

磯部:当時、窪塚はヒップホップやダンスホール・レゲエにもハマり始めていたんだけど、彼はそれらのジャンルにしても、『凶気の桜』の主人公・山口にしても、反米保守という観点から共感したみたい。(映画『凶気の桜』には)「とにかくいろんなパワーが集結して“平成維新”(引用者注:キングギドラの楽曲のタイトルで、映画でも窪塚がアドリブで口にする)だバカ野郎みたいなかんじなんですけど……。この映画の向こう側にあるピースっていうか、そこにみんなで向かっていけたらなぁと思ってこの映画を作りました。2002年のアメポン(引用者注:作中に出てくる言葉で、アメリカナイズされた日本のこと)が生んだネオトージョー(引用者注:山口率いる愚連隊の名前)っていうか、こういうヤツらがいてもぜんぜんおかしくない時代だし、なんか自分が今立ってる場所とか考えるキッカケになるといいなと思います」(同上)っていうふうに。

 また、窪塚同様、監督の薗田も『凶気の桜』の主人公・山口に対する共感を表明していて、原作の新潮文庫版(02年)の後書きでは以下のように書いている。「この小説では、(略)ジェネレーションの違う人々が絡んでゆく。その中で、山口の憤りが際立つ。この憤りが自分の憤りと重なった。もちろん、若い頃に山口のようなことをやっていたわけではない。でも、何か、分かる。あの憤りに共鳴するものがあった」「撮影準備中、俺も憤っていた。誰に対する憤りというよりも、いまの映画、映画システム、そしてロケ場所の制約などに憤っていた。映画の完成まで、ある意味、俺も山口になっていた」。ただ、続いて引用する原作の書き出しからも明らかなように、ヒキタが山口を描く際の筆致は反感と共感が入り混じったもうちょっと複雑なものなんだよね。

 ネオ・トージョーは渋谷の街に誕生した結社である。
 誕生、結社といっても役所に届けを出したわけではなく、カツアゲ、ケンカ、ゴウカンを日常的に繰り返していた若者が勝手に自分たちをそう呼んでいるに過ぎない。
 ネオナチという言葉を聞きかじった一人が「日本人なら東条英機だろうよ」と半分は思いつきで呼び始めた。何故、もっと若者らしく、おどろおどろしい名前にしなかったのかといえば、それは薄っぺらではあるが、ナショナリズムと呼ばれるようなものが三人の中にもあったからである。
 そのナショナリズムも突き詰めれば、誰もが心に抱く不満から発しているにすぎない。たとえば、英語も喋れないのに黒人の格好だけを真似しているさまを見ると無性に腹が立つだの、乗れもしないスケボーで歩道を滑って危ないだのである。
 しかし、1日の大半を渋谷の路上ですごしている三人の若者は、アメリカに取り込まれていく日本の姿や変質していく日本人を肌で感じとっていたのかもしれない。
(ヒキタクニオ『凶気の桜』より)

 他にも、山口の反米保守思想を浅はかなものだとする、以下のような記述もある。

 山口は思い出した。この店はバブル期には高級外車が表に並び、黒人のドアマンが立っていたフレンチの店だった。自分はまだ小学生で、金モールの縁どりのあるいかめしい服を着た黒人をもの珍しげに見ていたら、「ムコウニ行キナサイ!」と追い払われた。ドアの真鍮板を剥ぐと、日本人が札ビラで頬を叩いて外国の文化を無理やり取り入れていた痕跡のようにフランス語の店名が現れるのだろう。
 その時代を大人として体験していない山口は、バブルの頃の日本企業の破廉恥なやり口を知らない。いま行われている外国からの侵略がしっぺ返しに近いものであることも山口には考えの及ばないことだった。
(ヒキタクニオ『凶気の桜』より)

 そして、薗田が「この小説では、(略)ジェネレーションの違う人々が絡んでゆく」と書いていたみたいに、山口の青さと並行して、戦中~戦後の激動の中で生きた、あるいは死んでしまった在日朝鮮人たちの苦悩を描くことで、原作版『凶気の桜』には、“愛国ポルノ”とは違うリアリティがもたらされているわけだけど、映画版は後者のエピソードをばっさりと切り捨てることによって、まさに山口のような子供染みた作品になってしまっていると思うんだ。

中矢:そんな子どもっぽい映画版の主人公を、まだ20代前半だった窪塚が演じたと。

磯部:それともうひとつ、原作と映画で大きく異なっているのは、前者では、反米保守である山口は、当然、日本人がヒップホップ・カルチャーを取り入れることに関しても嫌悪感を示している。先に引用した書き出しの「英語も喋れないのに黒人の格好だけを真似しているさまを見ると無性に腹が立つ」というセンテンスの他にも、グラフティに関する以下のようなシーンもある。

 「ああ、この公園の壁という壁に若い奴らが落書きしてんだろ。それもご大層に自分の名前や自分の所属を誇示するものをな」
 公園の壁ばかりでなく、ベンチにまでスプレーを使ってアメリカの黒人(引用者注:“黒人”のルビに“ラップ”)の落書きを真似た文字や絵が書かれていた。
(ヒキタクニオ『凶気の桜』より)

 一方、映画版では、ネオトージョーとBボーイが街で擦れ違いざまに挨拶を交わすシーンがあったり、渋谷のHMVでNIPPSのアルバム『MIDORINOGOHONYUBI presents MIDORINOGOHONYUBI MUSIC/ONE FOOT』(02年)を手に取った山口が、振り返り様、別のCDを視聴している男に対して「そいつはヒップホップじゃないだろ」と言い放つシーンがあったり、ヒップホップはあくまでも肯定的に描かれる。ただし、ネオトージョーの市川がオハイオ・プレイヤーズの「ファイヤー」を口ずさむシーンで、消し屋の三郎に「ナショナリストがファンクか?」と皮肉らせたり、ヤクザの親分の青田が反米思想を解くシーンで、山口に「(アメリカのものでも)美味いものは美味いっす」と反論させたりと、“反米かつ親米”という、一見、矛盾した趣向に関しては自覚的なんだろうけどね。そして、そのような歪みは、日本のラップ・ミュージックが抱え込んでいるものでもあるように思える。

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