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『壱岐・対馬と松浦半島』佐伯弘次(編)

 

「今日は何でしょう?( ゚Д゚)」・・・(´-ω-`)・・・日本の民主主義の源流についてです…

 

 

「記録された史料で遡(さかのぼ)れるの?( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・そうです…

 

 

(`・ω・´)シャキーン・・・佐伯弘次(編)、『壱岐対馬と松浦半島』(吉川弘文館・2006

年4月)です!画像ドーン!

 

 

 

 

「おお!遠くに教会が!( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・いい装丁(そうてい)ですね~…

 

 

「早速引用してください!( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・よしきた!135Pより!【会議を開く庄屋たち】

 

梶山村の小庄屋向平蔵(むこうへいぞう)の寛保2(1742)年『日記』(「峰家文書」)に大庄屋宅で開かれる「組中仲か間」寄合(よりあい)の件がある。梶山村は馬場組に属し、馬場組を構成する12ヵ村の小庄屋が大庄屋宅に集まって協議している。計8回の会議内容の記述は詳細でないが、家中奉公人・年貢率算出・組財政・年貢勘定・宗門帳(しゅうもんちょう)読み合わせについてであり、組内の行政に関する会議である。この上に大庄屋会議があり、10月11日・12日に大庄屋会議で出張中の馬場組大庄屋の代理を向平蔵が務めている。

 大庄屋会議・組合庄屋会議の開催は明治初年まで確認することができ、藩政の下請け機関として機能するとともに、領民の利益を代表する団体でもあり、藩に一括して拝借米を申請したり、窮民救済のための無尽講(むじんこう)発起や借金の利下げなどを決定している。こうした自治的機能を有した庄屋会議は、明治4年以来の村の統合整理、庄屋制度の廃止によって開かれなくなる。その後、明治期における地方民会が1873・4(明治7・8年)ころから各地で起こってきたように、唐津地方でも1877年の事例を確認できる。しかし、新たな会議は旧来の庄屋会議の延長上にあるのではなかった。かつての大庄屋であった諸岡荒太郎(もろおかあらたろう)が入野(いりの)村総代として参加した会議は、1877年に14回開かれたが、議事内容は政府あるいは県

の通達をいかに実行するかにあり、地域住民の利益を代表するというような機能はきわめて薄くなっていた。

 

「おお!江戸時代の庄屋会議ですか!( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・凄いね…庄屋さんにも大庄屋と小庄屋があったんだ…

 

「こういう地域史の研究成果は有難いです!( ゚Д゚)」・・・(´・ω・`)・・・明治時代になってからは、政府・県の通達をいかに実行するかになっていたのか…

 

「でも、知見が広まりました!( ゚Д゚)」・・・( ゚д゚)ウム・・・いい書物です!

 

 

「良書を読むんだ!( ゚Д゚)」・・・(*´ω`*)ノ・・・悪書は読むなよ!

 

 

 

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