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真田丸 第40話「幸村」 ~方広寺鐘銘事件~

 今回は、「大坂の陣」に至るまでの経緯の説明の回でしたね。九度山村で蟄居中の真田信繁の前に突然現れた明石全登が、会わせたい人物がいるといって連れてきたのが、豊臣家家老で豊臣秀頼の傅役を務めていた片桐且元でした。「傅役を務めていた」過去形で紹介したのは、この時期すでに且元は大坂城を追放されており、徳川家康の元に寝返っていたからです。その且元がなんで信繁に・・・と思ったのですが、どうやら、世情を知らない信繁に対する、の語リ部役だったんですね。制作サイドの話によれば、今回のドラマは可能な限り真田一族きりがみていないシーンは描写しない方針だそうで、石田三成、大谷吉継の最期のシーンと同じです。

 大阪の陣に至る経緯のなかで、そのもっとも銃爪となったといわれるのが「方広寺鐘銘事件」ですね。この事件は、家康が豊臣家を攻めるための大義名分をでっち上げた言いがかり事件として知られていますが、今回のドラマでは、少し解釈が違っていました。まずは一般に知られているストーリーから紹介します。

 豊臣秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っていました。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれますが、逆に豊臣家としても、今なお秀吉の時代に劣らぬ力があるということを世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めていたといいます。

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 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建がありました。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがありました。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉でしたが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒します。

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 この言いがかりともとれるクレームに淀殿が逆ギレ。事態を重く見た家老の片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かいます。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けます。且元は即答を避け、大坂への帰路につきます。

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ところが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送ります。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したといいます。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰りました。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑います。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説きますが、これを淀殿が受け入れるはずもなく、逆に大阪城内で且元暗殺の企ても聞こえ始め、とうとう大坂城を退去するに至ります。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなりました。

 というのが、よく知られている「方広寺鐘銘事件」の経緯です。そしてそのすべては豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書きだった・・・と。この家康最晩年の老獪さが、後世に家康の印象を悪くしているといえますが、今回のドラマでは、ところどころ解釈が違っていました。そのひとつに、「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。これはまったくの言いがかりではなく、鐘銘を書いた文英清韓が、意図的に「家康」「豊臣」の字を隠し文字として用いた言葉で、しかしそれは、喜んで貰おうと思って考えたものが、逆に裏目に出てしまった、という設定でしたね。これは、ドラマオリジナルの解釈ではなく、時代考証の丸島和洋氏によれば、ずいぶん以前から存在した説のようです。つまり、何もないところから重箱の隅をつつくように言いがかりをつけてきたわけではなく、使わなくてもいい言葉を用いたために誤解を招いたというんですね。前者と後者では、ずいぶん印象が違います。

 また、片桐且元が持ち帰った和解のための条件も、ドラマでは勝手に且元が考えたという設定でしたが、またまた丸島和洋氏によると、実はこれも史実通りだそうです。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣家を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう・・・と。これが事実なら、且元と大蔵卿局の温度差も説明がつきます。これまでの物語では、徳川方が且元と大蔵卿局との対応の仕方を変えることで、豊臣家における且元の立場を悪くする狙いだったとされてきましたが、そうではなく、且元と大蔵卿局双方の受け取り方の違いだった・・・と。なるほど、それも、説明がつきます。

 つまり、「方広寺鐘銘事件」から「大阪の陣」に至る経緯は、家康の確信的な策謀ではなく、双方のすれ違いによるところも大きかった・・・ということですね。そうすると、家康の印象もずいぶん変わってきます。豊臣家が勝手に破滅の道を辿っていったことになりますね。どちらが真実なんでしょう。


 さて、「幸村」についてです。一般に「信繁」という名より多く知られる「幸村」ですが、このドラマが始まって以降、「幸村」という名は後世の物語で創作された名前だということは、いろんな方が解説されていますので周知のところだと思います。したがって、大坂城に入ることタイミングで「幸村」改名したという事実は存在しません。しかし、史料が存在しないだけで、ないともいえません。というのも、「幸村」という名前が使われ始めたのは、後世といっても明治や昭和になってからではなく、信繁の死後、わずか50年後のことです。その意味では、創作といえどもかなり古いものになりますよね。まだ信繁を知る者も生きていたかもしれません。そんな時代にすでに使われていた名前ですから、あるいは、何らかの根拠があったのでは・・・と、思いたくなります(学者さんは否定されるでしょうけど)。今回のドラマでは、「幸」の字を捨てた兄・信之に代わって、代々受け継がれてきた「幸」の字を信繁が継いだ・・・と。そしてそれは、昌幸の希望でもあった・・・と。いいじゃないですか!この設定。ここに、伝説の名将・真田幸村が誕生しました。



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by sakanoueno-kumo | 2016-10-11 15:19 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)  

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