真田丸 第49話「前夜」 その1 ~大坂夏の陣開戦~
ドラマでは、慶長20年(1615年)4月29日に起きた「樫井の戦い」によって戦端が開かれたとされていましたが、史実では、その2日前の4月26日、豊臣方・大野治房隊2千が徳川方・筒井定慶の守備する大和郡山城を落としたことに始まります。徳川軍が大坂城南側の河内平野から進軍してくるであろうと睨んだ豊臣方は、その玄関口である大和口を押さえておきたかったのでしょうね。しかし、ほどなく徳川方・水野勝成隊が大軍で攻め寄せるとの報が届くと、大野隊は大坂城に引き上げます。
そして大野治房はその2日後、今度は2万(一説には4万)の兵を率いて和泉路を南下。紀伊国から攻め寄せる和歌山城主・浅野長晟軍と和泉国樫井川付近で激突します。浅野軍の兵は約5千。数の上では豊臣方有利でしたが、ここで豊臣方は、取り返しのつかない失態を演じます。先鋒の塙団右衛門直之と岡部則綱の軍勢が戦功争いをして飛び出してしまい、その結果、小勢で浅野軍の待つ樫井に飛び込むかたちとなり、浅野軍・亀田高綱隊の鉄砲隊に囲まれた豊臣方先陣は、袋のネズミ状態となってしまいます。やがて岡部隊は敗走し、団右衛門は孤立無援のまま奮闘しますが、遂に矢を股に受け、討ち取られます。大軍といえども、所詮は寄せ集めの烏合の衆、指揮系統が整っていないバラバラの集団だったわけで、一丸となって戦う浅野軍の敵ではありませんでした。結局、豊臣軍は堺の町を焼き払ったのみで、むなしく大坂城に撤退します。
その後も大坂城内はなかなか作成計画がまとまりません。真田信繫(幸村)は四天王寺あたりで徳川軍を迎え撃つか、宇治・瀬田方面に出陣する策を唱えますが、結局は後藤又兵衛基次の主張する道明寺方面に陣を布くことに決定。道明寺は大和路から河内平野への入口にあたり、道が狭いため大軍での行軍が難しく、ここを押さえて徳川軍を小隊ごとに撃破するという思惑でした。
5月5日夜、大坂方は後藤隊を先陣として大坂城を出陣し、真田信繁(幸村)、毛利勝永ら約1万2000は第二陣として出陣します。ところが、後藤隊が道明寺付近まで行軍すると、すでに内通者によって情報を得ていた徳川方に押さえられていました。やむなく後藤隊は誉田陵(応神天皇陵)に陣を布き、ここで真田隊ら第二陣との合流を待ちます。しかし、真田隊らの到着が遅れ、業を煮やした後藤隊は単独で行軍しちゃうんですね。この日は濃霧が激しく、第二陣は道に迷っていたとか。ドラマでは又兵衛が功を焦って行軍したことになっていましたが、通説では、信繁たちの遅参が原因だったといわれます。
6日午前4時頃、後藤隊2千800は小松山に陣を布き、徳川方の伊達政宗ら3万8千の軍と激突します。この兵力差のなかで後藤隊はよく踏ん張るのですが、結局は多勢に無勢。約8時間の激戦のすえ、正午頃に又兵衛は戦死しました。享年56。
同じ頃、河内口の八尾・若江方面では、豊臣方・木村重成隊6千と、長宗我部盛親隊5千300が布陣し、徳川軍本体12万と激突します。若江方面に布陣していた木村重成は、一時は徳川方、藤堂高虎軍の右翼を撃破する勢いを見せますが、その後、井伊直孝軍との激戦のすえ、討死します。ドラマで、万一首を取られても恥をかかないように兜に香を焚きこめたという話がありましたが、夏の陣の戦後、徳川家康が討ち取られた重成の首を検分したところ、頭髪に香が焚きこめてあったので、家康はその覚悟を大いに称えたという逸話が残っています。重成は豊臣秀頼とほぼ同世代で、重成の母が秀頼の乳母を務めたことから、幼馴染のように育ったといいます。重成の討死を知った秀頼は、大いに悲しんだことでしょう。自身もその2日後に後を追うことになるのですが・・・。
さすがに今回は長くなりそうなので、明日の稿に続きます。
by sakanoueno-kumo | 2016-12-12 21:19 | 真田丸 | Trackback | Comments(0)