丹後田辺城跡第33次発掘調査説明会備忘録
去る令和5年(2023年)7月15日、京都府舞鶴市にある田辺城跡の第33次発掘調査説明会が開催されるという情報をいただき、急遽行ってきました。
旬なものは旬なうちにということで、さっそく起稿することに。
田辺城はかつての丹後国に細川藤孝(幽斎)が築いた城で、関ヶ原の戦いの前哨戦のひとつである田辺籠城戦の舞台として知られます。
江戸時代に入って細川氏が豊前国小倉に転封となると、代わって京極高知が城主となりますが、京極氏は3代続いたあと、豊岡藩へ転封となり、代わって牧野親成が田辺城に入り、以後、牧野氏は10代に渡ってこの地を治め、明治維新を向かえます。
歴史の話は以前の稿でお話ししたので、今回は発掘調査について。
細川氏に代わって入城した京極高知は、手狭だった田辺城を大規模に改修、拡張しました。
その後、牧野氏時代にも修繕がつづけられます。
説明会場で配布された資料によると、田辺城の遺構は歴代城主で区分し、(1)細川期、(2)京極期、(3)牧野期の3期に分けることができるそうです。
現在確認されている田辺城の輪郭は、京極期の大改修によって形づくられたとされているそうです。
細川期の縄張りは、籠城図の絵図に描かれた姿によって知ることができますが、その実態はほとんどわかっていないようです。
今回の発掘現場は、本丸跡とされる舞鶴公園の南側で、かつての二ノ丸にあたる場所です。
今回の調査では、堀に面した細川期と京極期の石垣と、上述した籠城図の絵図とも一致する虎口の一部が確認されました。
虎口跡です。
入口通路の幅は約6mと推測され、中央には城内に入る通路とみられる敷地面があります。
通路東側には入口の城壁となる石垣が二段分確認されており、この石垣はさらに城内側に続いています。
また、虎口西側には、城壁となる裾部分に石材抜き取り痕跡と、小ぶりな石材を使用した東西方向の石列が確認されたそうです(土塁土留め)。
これは、土塁の土留めのための「腰石垣」の痕跡と考えられているそうです。
虎口右側(東側)下の石垣の上に、石垣①と石垣②という表示がありますが、積み方などから、石垣①は細川期、石垣②は京極期のものと考えられるそうです。
素人のわたしには、その区別がつかない(汗)。
その石垣①はそのまま東側に逆L字状に折れ曲がって約14mつづき、さらに折れ曲がって東西約11m続いています。
東側から見た写真です。
ちょうど虎口の前あたりで石垣の並びが波打っているのがわかるでしょうか?
あの湾曲の手前が細川時代の石垣①、湾曲の向こうが京極時代の石垣②です。
石垣①の下には、胴木が確認されたそうです。
胴木とは、地盤が緩い場所に石垣を築く際、補強として敷く木材のこと。
こっちには、杭のような木材が見えます。
これも400年以上前のもの?
よく腐らずに残ってましたね。
入隅の一番高いところの石垣は7段積まれており、およそ2.3mの高さがあります。
ただ、この石垣の姿というのは、廃城後に石垣が抜かれた状態の姿だそうで、元の石垣の高さはわからないようです。
こちらは西側の写真。
土塁の断面が確認され、細川期土塁の上に京極期土塁が構築され、その間に石の層が見えます。
石垣③と表示があるのは、城内の石垣だそうです。
いい場所が取れなくて、いい写真がありません。
今回の発掘は第33次ということなので、当然、過去に32回発掘調査が行われています。
しかし、舞鶴公園内の遺構以外は、すべて埋め戻されており、今回確認された遺構も、来月から埋め戻されて、その上に建物が建てられるとのこと。
都市化している土地には無用のものですから、仕方がないことだとは理解しますが、歴史ファンとしては寂しい限りです。
美術品や骨董品などと違って、遺跡はたいそう邪魔になりますからね(笑)。
むしろ、発掘調査に協力いただいた地主さんに感謝すべきなのでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2023-07-19 20:35 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)