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どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~

 越前北ノ庄城にて柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、織田信長の後継者として日増しに勢力を強めはじめます。勝家とともに秀吉と対抗していた信長の三男・織田(神戸)信孝も、秀吉と連携した兄の織田信雄に攻められ、勝家の死から約1週間後の天正11年(1583年)52日、自刃に追い込まれました。これは、秀吉の内意があったともいわれています。その後、勝家に加担していた滝川一益も降伏し、その所領だった北伊勢は信雄のものとなりました。信雄は尾張、伊勢、伊賀の三国を領有することとなり、その居城を伊勢長島城としました。


どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~_e0158128_18033896.jpg この間、秀吉と信雄の関係は比較的良好でした。信雄は安土城に移された三法師後見役となり、実質的に織田家の家督として政務を執るようになっていました。ところが、勝家、信孝、一益がいなくなり、もはや旧織田家中では歯向かうものなしの実力者となった秀吉にとって、それまで主筋として立ててきた信雄の価値は急速に低下していきます。そして摂津を知行していた池田恒興を美濃に移し、大坂城の築城を開始するなど、織田家に成り代わって天下取りの野望をあからさまに見せ始めます。こうして、秀吉の本音を否応なく知らされた信雄は、次第に秀吉から距離を置くようになり、11月ごろには両者はいつ決裂してもおかしくない状態となります。そして、そんな信雄が秀吉の対抗馬として頼ったのが、徳川家康でした。


 どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~_e0158128_20450078.jpgこのころ家康は、北条との和睦で手に入れた甲斐・信濃の経略に専念していました。ただ、秀吉の主導を快くは思っていなかったようで、清州会議での三法師の家督継承の決定も不満だったようです。家康は長男の織田信忠が死んでしまった以上、次男の信雄が家督を継ぐのが筋だと考えていたようで、『家忠日記』によると、天正11年(1583年)正月18日に家康が尾張まで出向き、そこで信雄と会見しています。そこでどのようなことが話し合われたかどうかはわりませんが、その後の連携につながる何らかの約束が交わされていたかもしれません。


 ただ、その時点では、家康はまだ露骨なかたちで秀吉に敵意を表してはおらず、むしろ友好的な態度を示していました。賤ケ岳の戦いの際にも、勝家からの援軍要請を蹴っており(ドラマでは、それでお茶茶の恨みを買うという設定でしたね)、秀吉が勝ったあとには、ドラマで描かれていたように、名器として名高い茶器「初花の肩衝」石川数正戦勝祝いとして持たせています。家康が秀吉に対して警戒の念を抱き始めるのは、信孝が自刃に追い込まれたころからでした。織田家の力を弱体化させて乗っ取ろうとする秀吉のやり方を見て、いつかは秀吉と戦わねばならないときがくると思っていたでしょうね。


 天正12年(1584年)2月、家康は酒井重忠を使者として尾張に送り、信雄と密談したといいます。そこでどのような打ち合わせがあったのかはわかりませんが、36日、信雄は津田雄春、岡田重孝、浅井田宮丸という3人の家老を、秀吉に内通したという嫌疑で長島城に誘って誅殺しました。これが、秀吉に対する事実上の宣戦布告となります。その報せを受けた家康は翌37日に浜松を発ち、8日に岡崎で出陣を触れ、13日に清州城で信雄と会談しました。


 一般に、この戦いを小牧・長久手の戦いといいますが、実際には、その名が示す通りふたつの戦いです。ただ、連続している戦いなので、後世に小牧・長久手の戦いと呼ばれています。


どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~_e0158128_18093233.jpg 当時、大垣城には池田恒興岐阜城にその子・元助がおり、兼山(金山)城には恒興の娘婿である森長可がいました。恒興は織田信長の重臣の一人で、その母は信長の乳母だったため、信長と恒興は乳兄弟という関係だったことから、当初、家康・信雄連合軍は恒興らが味方になると踏んでいました。ところが、その恒興らが、13日に織田方の犬山城を攻略してしまいます。これを受け、家康は直ちに酒井忠次隊を尾張に向かわせます。そして3月17日、南下してきた池田・森隊と、これを迎え撃った酒井忠次隊との間で合戦となります。このとき、森長可隊が功を焦って羽黒まで陣を進めたため、その隙をついて酒井忠次隊がこれを襲撃し、大勝利を収めました。この森隊の敗戦が、長久手の戦いの伏線となります。


 その後、家康は28日に小牧山城を占拠し、そこに陣を布きます。一方の秀吉は、このころまだ大坂城にいましたが、羽黒の敗戦の報を聞いてすぐに出陣し、大軍を率いて犬山城に入り、さらに小牧山城にほど近い楽田に布陣しました。ここに、秀吉軍10万、家康・信雄連合軍3(一説には167千とも)がにらみ合うことになります。通常、ここまでを小牧の戦いといいます。


 さて、今回は今までになく大河ドラマらしい回でしたね。家康もようやくひとかどの武将となったようです。遅すぎ!・・・と言いたいところですが、あのままヘタレ家康のままで最終回を迎えるのかと心配していたので、ちょっと安堵しました。ここからの家康の歩みは、きれいごとでは説明のつかない知略の道となります。このまま老獪な家康になっていくことを期待しています。


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by sakanoueno-kumo | 2023-08-16 18:10 | どうする家康 | Trackback | Comments(4)  

Commented by sabertiger54 at 2023-08-18 14:54
こんにちは、sakanoueno-kumo様
小牧長久手の戦いが始まりましたね。重要なわりにはあまり注目されない小牧・長久手の戦い。小牧町とかが今回の放送を機に町おこしに推して行くそうですね。
この戦い、最初で最後の秀吉・家康との直接対決だし、戦史的にも最初の開戦が伊勢の神戸城の神戸正武が関城を攻めたところから始まるなど尾張、美濃、伊勢も含む広域な地域に渡るキャンペーンとしての性格があり、面白いんですけどね。
しかし、濃尾平野を一望出来る小牧城をいち早く押さえるなど家康の戦術眼はさすが。
次回が初めて楽しみです(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2023-08-18 23:05
> sabertiger54さん

こんばんは。
おっしゃるとおり、当初は両軍とも決戦の舞台は北伊勢方面になると思っていたようで、酒井忠次隊も桑名に向かっていましたし、秀吉も、伊勢方面に兵を進めていましたが、その局面が変わったのは、池田恒興と森長可が犬山城を攻略したからですね。
そのあたりまで詳しく描いていたら、もう1~2話必要になってしまうでしょうから、省略されたのは仕方がないですね。
2週に分けたあたりは、やはり家康の物語として小牧長久手の戦いが重要だという認識からでしょう。
初めて制作陣の意図を褒めたいと思います(笑)。
Commented by 山城守 at 2023-08-25 23:41 x
私は離脱したため見ていないので知ったような口は叩けないのですが、本能寺での友情云々や、そもそも瀬名や信康がらみなら和解の手を取る素振りを見せて裏切た勝頼を恨むべきである(ドラマでは勝頼の裏切りを家康が知っていたという描写はありませんが、信長を討とうと家康が思った段階で家康は信長の諜報網を調べたはずで、その段階で勝頼の裏切りを知り得たはずです。そして、そうであれば、恨みに対象は信長から勝頼に移るはずです。もし、諜報網を調べなかったか不十分であった場合、家康の計画は信長に漏れ、今度は徳川家そのものが滅ぼされます。)にも関わらず何故か信長を恨み続けている何やらよく判らない頭の構造の家康がその2年後に小牧長久手の戦いでの老獪ぶりを見せるには相当な理由が必要でしょう。
人間の能力は積み重ねですから、本能寺までの人生で積み重ならなかった戦国武将としての能力が2年間で積み重なるというのは普通に考えれば無理な話です。
その辺はきちんと描かれたのでしょうか。
「小牧長久手の戦いになったら急に老獪になっている。」ではドラマとしてつまらないと思うのですが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2023-08-28 20:47
> 山城守さん

離脱されたんですか?
じゃあ、批判する資格はないですね。

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