国宝天守の松本城を歩く。 その3 <二の丸御殿跡・太鼓門・外堀・総堀>
「その2」のつづきです。
本丸を出て、東側の二の丸御殿跡にやってきました。
二の丸御殿絵図です。
二の丸御殿は初めは藩の副政庁として造営されましたが、享保12年(1717年)に本丸御殿が焼失し、その後は正政庁となったそうです。
廃藩置県後、一時筑摩県庁舎として用いられましたが、明治9年(1867年)に焼失してしまいました。
敷地約1900坪(6270㎡)、建坪約600坪(1980㎡)、部屋数約50を数えたそうです。
地面にこうして往時の間取りが表現されています。
これ、他のお城でもよくありますが、建築のプロではないわたしらにとっては、この地面だけではどうもイメージしづらいですよね。
ドローンでも飛ばして上空から見れば、スケール感といい間取りといい、イメージできるかもしれませんが。
西側に天守が見えます。
写真手前の石表示には「味噌部屋」とあります。
味噌の保管部屋だけでどんだけ広いねん!
二の丸御殿跡敷地内北東に、こんもり盛り上がった土塁跡があります。
おそらくここは北東隅櫓があった場所でしょう。
登ってみましょう。
北東隅櫓台上から見た二の丸御殿跡。
ちょっとわかりやすくなった気もしますが、やっぱ、もうちょっと高いところから見下ろしたいですね。
二の丸御殿跡敷地内にある明治天皇駐蹕遺址碑です。
明治13年(1880年)に明治天皇がここを訪れられたことを記念し、大正10年(1921年)に建てられたそうです。
二の丸御殿跡の南側に、太鼓門があります。
門は平成11年(1999年)の復元ですが、かつてここに二ノ丸東側に面した枡形門があり、門横のにあった太鼓楼がその名の由来でした。
残念ながら、ここを訪れたこの日は工事中だったようで、枡形門を通ることは出来ず。
門の外側から見た太鼓門。
本丸虎口の黒門と同じく出枡形の構造です。
その説明板。
外堀沿いを歩きながら、松本城の歴史についてお話しします。
松本城の前身は、永正年間(1504~21年)に信濃の守護小笠原氏によって築かれた深志城です。
深志城は南東にある山城の林城の支城として築かれた城でした。
天文17年(1548年)、小笠原長時は武田信玄と塩尻峠で戦って敗北。
2年後の天文19年(1550年)には信玄によって攻めこまれ、林城や深志城を開城して脱出し、信濃北部の村上義清を頼って落ち延びていきました。
この地を手に入れた信玄は、信濃支配の拠点として、林城ではなく深志城を選び、城を整備します。
時代は下って天正10年(1582年)、その武田氏が滅亡し、同年に本能寺の変も起こりました。
織田信長死去後の動乱に乗じて、徳川家康に臣従していた小笠原貞慶が旧領を回復して深志城へと入城。
この機会に、名称を松本城へと改めました。
ところが、小笠原氏傘下の時代も長くはなく、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下を統一すると、秀吉は家康を旧北条領の関東へと移し、このとき、松本城主だった小笠原氏も、家康に従って下総国古河へと移っていきます。
その後、秀吉の命で石川数正・康長父子が松本城に入りました。
石川父子は城と城下町の整備を進め、この時期に近世城郭としての松本城の基礎ができたとされます。
とくに康長の代には、御殿、太鼓門、黒門、櫓類が
造られたほか、本丸、二ノ丸、三ノ丸を整備しました。
石川氏は慶長2年(1597年)に豊臣姓を下賜されるほど秀吉への忠義で知られていましたが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍につきます。
その功で所領は安堵された石川氏でしたが、慶長18年(1613年)、康長は大久保長安と縁戚関係にあったことから、長安の失脚に連座してしまい、領地隠匿の咎を受けて豊後佐伯に流罪となりました。
取りつぶしの理由はほかにも諸説ありますが、大規模な城普請が目に余ったためともいわれます。
石川氏が去ったあと、松本城には小笠原秀政が入り、一時的に小笠原氏が城主として復活しましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で小笠原父子が戦死し、元和3年(1617年)には松平(戸田)康長が入ります。
その後、寛永10年(1633年)には松平直政、寛永15年(1638年)には堀田正盛が入城するなど、短期間で城主がめまぐるしく変わる時代がつづきました。
寛永19年(1642年)、水野忠清が松本城主となり、ようやく城主が定着したかと思われましたが、享保10年(1725年)、当時の城主水野忠恒が江戸城松の廊下で長府藩の跡継ぎの毛利師就を斬りつけるという刃傷事件「松本大変」を起こしてしまいます。
もともと素行に問題が多かった忠恒でしたが、自身の領地が没収されて師就に与えるといわれたなどとわけの分からない理由を言い始めたことから、乱心とされ、水野氏は取りつぶしとなりました。
松本大変を受けて、享保11年(1726年)には松平(戸田)光慈が入城。
翌年に本丸御殿が焼失するなどの事件はあったものの、以降は戸田氏が代々城主を務めて、明治維新を向かえています。
明治4年(1871年)の廃藩置県後、城は不要となり、門の解体や堀の撤去が始まりました。
このとき天守も払い下げられて解体されかけますが、政治家の市川量造ら地元の有力者の尽力によって、買い戻されて難を逃れました。
その後も数々の危機を乗り越えながら、今日までその姿を残すことができました。
上で見た二ノ丸御殿跡敷地内にあった北東櫓台を外から見ています。
外堀の外から見た天守。
国宝5天守ならびに現存12天守で人気投票をすると、だいたい1位は姫路城で2位が松本城となることが多いですよね。
今回初めて訪れてみて、なるほど天守の迫力、美しさは姫路城に勝るとも劣らないと思いました。
人気投票は納得です。
ただ、天守以外の見どころはというと・・・残念ながら姫路城の足元にも及ばないといった感想が正直なところです。
姫路城の見どころは天守だけじゃないですからねぇ。
松本城公園から少し東に歩いていくと、総堀が一部残っていました。
欄干には「史跡松本城総堀」とあります。
以上、出張ついでの松本城でしたが、この日、他にも2か所ほど城めぐりしました。
次稿につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2024-07-01 18:14 | 長野の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)