諏訪湖に浮かぶ高島城。 その1 <本丸外周>
信州最大の湖、諏訪湖。
厳冬期には湖面の氷が大音響とともに山脈のように盛り上がる「御神渡り」が見られることで有名ですね。
近年では、アニメ『君の名は』の舞台にもなり、その聖地めぐりの観光客で賑わっていとか。
その諏訪湖に、かつて高島という浮島があり、高島村という漁村がありました。
文禄元年(1592年)、諏訪郡の領主となった豊臣秀吉配下の日根野高吉は、その島に城を築きます。
それが、諏訪高島城です。
本丸北西隅に位置する天守を、北側から見ています。
いうまでもなく現存天守ではありません。
かつてこの場所に、望楼型の三重天守が聳えていました。
現在の天守は明治8年(1875年)に取り壊される寸前の古写真を参考に昭和45年(1970年)に築かれたものですが、窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には柿ではなく銅板が葺かれており、復元ではなく復興天守に位置付けられます。
かつての天守は独立式望楼型3重5階で、初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられていました。
各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺でした。
古写真では3重目の切妻破風出窓の華頭窓はひとつだけなのに対し、現在の復興天守は3つあり、大きさも少し大きく見えます。
これは光源のためでしょうかね?
材質は仕方ないにして、せっかく古写真が残っているのだから、せめて見た目だけでもそっくりに造ってほしかったですよね。
ここを訪れたのは2023年1月21日。
天気は良かったのですが気温は氷点下で、水堀が凍っていました。
水堀に沿って外周を歩きます。
写真は冠木門と冠木橋、向こうに見えるのが北東隅櫓です。
いずれも復興天守と同じく昭和45年(1970年)築。
でも、冠木門っていうと、普通は左右の柱と上部に一本の貫を通しただけの簡単な門のことで、ここの門はどう見ても櫓門ですよね。
その話は、まだ次回に。
東側から見た冠木門と冠木橋、北東隅櫓、そして復興天守。
隅櫓をいろんな角度から。
かつて本丸の東側には二重の櫓が3基(隅櫓、持方月櫓、富士見櫓)あり、3基は多門で接続されていました。
復興されたのはこの隅櫓だけ。
水堀東側を少し南下すると、石垣が横矢掛けになっている場所があります。
どうやら、この上に持方月櫓があったようです。
さらに南下します。
いちばん南東から北側を見ます。
本丸南側の土塁下に何やら水道管のようなものがあります。
近づいてみると、コンクリートに「三之丸温泉」の文字が。
蛇口を捻るとお湯が出ました。
ここ高島城は、城内に温泉が引き込まれていたというユニークな歴史があります。
江戸時代中期の天明6年(1786年)、天守の修復工事の際に自然湧出していた温泉を木管で城内に引き込み、当初は藩主が使用し、次いで城内居住の藩士一同に便宜を図ったのが始まりとされています。
明治に入って、三之丸温泉は「士族の湯」として旧藩士が維持管理していたそうですが、大正14年(1925年)、庶民も入浴できる共同浴場になったそうです。
水道の向かいには「三之丸浴場」と看板に書かれた建物が。
入浴料は無料で、誰でも気軽に入れるようでした。
ここは昭和30年(1955年)に設けられた第二浴場だそうで、江戸時代から続いていた第一浴場は、この少し南にあったそうです。
ところが、現代になって使用者激減し、平成8年(1996年)に閉鎖取り壊されて200余年に及ぶ歴史を終えたそうです。
現在、その場所には石碑があるそうですが、この日は痛恨にも見逃しました。
本丸内にある石集配湯枡。
享和3年(1803年)、第7代藩主の諏訪忠粛の頃、城内三之丸浴場に引き湯のため木樋を継ぎ、集湯、配湯をした石桝だそうです。
本丸西側にやってきました。
石垣沿いに歩きます。
天守の南面。
手前にも櫓台のような石垣がありますが、かつてはここに小天守があったそうです。
斜めから。
さて、本丸外周を一周したので、次回は中に入ります。
「その2」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2024-07-09 21:21 | 長野の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
初めて知りました。