目次
- 「旅の終わりに」から五木寛之さんの心象風景を読み解く
- 精神分析批評の視点
- 歌詞から見える深層的な要素
- 五木寛之さんのトラウマ
- メランコリーを歌った?
- 五木寛之さんにとっての「旅の終わりに」の意味
- まとめ
「旅の終わりに」から五木寛之さんの心象風景を読み解く
こんにちは、シロッコです。放送大学「文学批評への招待」で「精神分析批評」を学びました。
これを切っ掛けに、今回は五木寛之さん作詞の演歌「旅の終わりに」をChatGPTの力を借りながら、精神分析批評をしてみたいと思います。
なぜ「旅の終わりに」なのか
最近、Youtubeで深夜放送「五木寛之の夜」をレコメンドされ、それが気に入ってYoutubeにあるほぼ全ての動画を聞き終えたところです。五木さんはベストセラーの小説、エッセイの著者ですが、ラジオのニュース番組、業界紙編集を皮切りに、歌詞の作詞、ラジオの構成作家スタートした人です。
五木さんは作詞家としてもヒットを飛ばしていますが、私のお気に入りは次のとおり。
- 「旅の終わりに」
作詩:立原岬(五木寛之) 作曲/編曲:菊池俊輔 歌:冠二郎
小説『海峡物語 【五木寛之ノベリスク】 (講談社文庫)』が書かれ、TVドラマ『海峡物語』が作られ、その中の劇中歌です。 - 「青年は荒野をめざす」
作曲:加藤和彦 歌:ザ・フォーク・クルセダーズ
小説『青年は荒野をめざす (文春文庫)』が書かれ、『青年は荒野をめざす’99』としてテレビ映画化され、小説をモチーフにして歌が作られた。
- 「愛の水中花」
作曲:小松原まさし 歌:松坂慶子
小説『水中花(新潮文庫)』がが書かれ、松坂慶子さん主演の『水中花』としてTVドラマになり、その主題歌。
どれも、小説→TVドラマ→歌の順ですね。その中でも一番のお気に入りが、演歌「旅の終わりに」。劇中歌ですから、筆名が「立原岬」になっていて、無名の新人・冠二郎さんが歌いました。
歌詞は以下をご覧ください。
冠二郎さんの歌声もいいですが、宇多田ヒカルさんのお母さん藤圭子さんの歌が好きです。ご両親が浪曲師だったからでしょう、クラッシック歌手のような透きとおった声でなく、吉田拓郎さんのような地声に怨念がこもっているような歌いかたをしているからです。
GPT-4に教えてもらいながら、演歌「旅の終わりに」の歌詞を精神分析しました。五木寛之さの深層心理は何なのか。なぜ、こんな詩が書けるのか、感情の旅路と心の風景を考えて行きます。
精神分析批評の視点
GPT-4 に質問すると以下のようなアプローチを教えてくれました。
- 作家の無意識の解析:
作家自身の性格や経験、無意識の欲望が作品にどのように反映されているかを解析します。 - 文字・象徴の解析:
作品に登場するキャラクターや象徴が、より深い無意識の欲望や恐怖を表現している可能性があります。例えば、ヘビや鳥が性的な象徴として解釈されることがあります。 - テキストの欲望の解析:
作品自体が表現する欲望や恐怖、抑圧された感情を探求します。これはフロイトの理論における欲望の経路や抑圧の概念を用いて行います。 - 読者の無意識の解析:
読者自身の反応や感情もまた、無意識の影響を受けています。読者の反応を精神分析的に解釈することで、作品が読者に与える影響や意味を深く理解することができます。
読者の無意識の解析は考えていませんでした。この曲が好きでよくカラオケで熱唱する人がいましたが、なぜ歌詞に共感するのか、その深層心理も読み解くことができるのですね。
歌詞から見える深層的な要素
GPT-4は、歌詞全体から、旅をしている男性が孤独感と対峙している、彼の孤独感やさみしさは、恐らく彼自身の欲求不満や内面的な葛藤から来ていると言います。
「春にそむいて 世間にすねて ひとり行くのも 男のこころ」
男性が社会的な期待や役割に反抗している様子を示している、自己の存在と意義を確立しようとしていることを示唆しているかもしれないと言います。
「誰にわかって ほしくはないが なぜかさみしい 秋もある」
彼が他人からの理解を望んでいること、そして孤独感から逃れることができないことを示していると言います。「わかってほしくはない」は逆に「分かって欲しい」であり、だけど、「分かって貰えない」から寂しいのですね。
「旅の終りに みつけた夢は 北の港の ちいさな酒場 暗い灯影に 肩寄せあって 歌う故郷の 子守唄」
酒場は彼にとって安全な場所。故郷の歌を歌って、アイデンティティと安心感を取り戻しています。故郷の子守唄は、幼少期の安心感と慰めを求めているのではないかと言います。
「春にそむいて 世間にすねて」の「春」とは何ですか?
「春」は、一般的に新たな始まり、生命の再生、希望、そして恋愛や情熱の象徴として用いられ、季節としての春は、冬の終わりと共に自然が再び生き返る時期を象徴していると言います。
つまり、春が象徴するものに背を向け、あえて困難な道を選んでいます。これは旅人が社会的な期待や常識に反抗して自己の道を進むという意志を象徴している可能性があります。春が生命の再生や情熱を象徴するなら、それに背を向けることは自己の欲望や感情に抵抗することを暗示しているかも知れないと言います。
これは、若者に人気のあった週刊『平凡パンチ』に連載した小説「青年は荒野をめざす」のコンセプトに似ていますね。
あらすじ
小説は全部で8章に分れていて、20歳になったばかりの若者のヨーロッパでのジャズ音楽と女と酒の自分発見の旅をつづる。(Wikipedia:「青年は荒野をめざす」)
オレは世間の常識とは違った生き方をするんだという宣言なのでしょうか。
ChatGPT
はい、その通りです。「春にそむいて 世間にすねて」というフレーズは、社会の期待や常識から逃れ、自分自身の道を進むという決意を示しています。したがって、このフレーズは「私は世間の常識とは違った生き方をする」という旅人の強い意志と自己確立の宣言として解釈できます。このような表現は、聞き手に強い印象を与え、その人物の深い内面を垣間見ることができるでしょう。
なんともセンチメンタルな歌です
「北の港の ちいさな酒場」で「暗い灯影に 肩寄せあって 歌う故郷の 子守唄」が「旅の終りに みつけた夢」というのは、なんともセンチメンタルです。
ChatGPT
終わりと始まり:「旅の終りに みつけた夢」は旅人が長い放浪の後にようやく見つけた希望や安らぎを象徴しています。ここには終わりと始まりが同時に存在し、その狭間での喜びと哀しみが混在しています。
故郷の思い出:
「歌う故郷の 子守唄」は旅人の遠い故郷への思い出や懐かしさを表現しています。遠く離れた故郷を想う心情は深くセンチメンタルで、時間や距離を超えた愛着を感じさせます。
共有された孤独:
「暗い灯影に 肩寄せあって」は旅人が他者との繋がりを求め、孤独を共有する様子を描いています。この共有された孤独は、深い共感や理解を生み、感情的な対話を促します。
これらの要素が融合することで、旅人の内面世界が描かれ、その深いセンチメンタリズムが聞き手に伝わると考えられます。
センチメンタルとは
映画評論家の佐藤忠男さんは「センチメンタルとは自分を可哀想な人間だと思うことだ」といっていました。センチメンタルを精神分析的に解説してください。
ChatGPT
精神分析では、人間の行動や感情は、意識と無意識の相互作用によって形成されると考えられています。センチメンタルという状態は、しばしば過去の経験や無意識の欲望が現在の感情に影響を与える結果として生じます。自己憐憫、つまり自分自身を可哀想だと感じる状態は、過去のトラウマや否認された欲望が無意識の中で再生され、それが自己の感情として現れる結果である可能性があります。この自己憐憫は、しばしば無意識の中で抑圧されていた欲求や感情が表面化する形で現れます。
一方、センチメンタリズムはしばしば自己と他者との関係性の中で生じる感情です。自分自身を可哀想な存在と感じることは、他者への慈悲、共感、理解を求める無意識の欲求が表面化した形とも解釈できます。
したがって、精神分析的には、センチメンタリズムは過去の経験、無意識の欲望、自他の関係性など、人間の内面の深層を反映する感情と言えます。
五木寛之さんのトラウマ
作詞の五木寛之さんは朝鮮の平壌で終戦を迎え、命かながら帰国しました。米軍キャンプにたどり着いたときは国家に捨てられたという感覚を持ったそうです。生き延びるために5人乗りのボートに10人がしがみつき、5人を振りほどいて生き残ったという人に言えない過去があります。だから、大きな幸福は望まないのかも知れません。
ChatGPT
五木寛之さんの生い立ちとその苦難の体験は、彼の作品や歌詞に深く影響を与えています。五木さんが経験した戦争とその後の生き延びるための闘争は、彼の視点と感受性を形成し、その結果は彼の歌詞に深みと共感性をもたらしています。「旅の終わりに」に見られるようなセンチメンタリズムや自己憐憫は、五木さんが自身の過去と向き合い、その経験を表現する手段となっています。彼が自身を可哀想な存在と感じることは、彼が経験した苦難を認識し、その経験に対して感情的に反応する結果と言えるでしょう。
また、「大きな幸福は望まない」という観念は、彼が経験した生存のための闘争や困難な経験から生まれたものである可能性があります。それは彼の現実感覚と謙虚さを反映しており、人間の存在と生存、そして生きることの困難さについて深く洞察した表現と言えるでしょう。
したがって、五木寛之さんの歌詞は、彼自身の人生経験と深層心理が結びついた形で表現されており、その生い立ちと経験が彼の作品に深い共感性と意味をもたらしていると言えます。
メランコリーを歌った?
メランコリーとはどのようなものですか? 精神分析的に解説してください。
ChatGPT
メランコリーとは、一般的には深い悲しみや失意、無気力などの感情状態を指す言葉です。英語では"melancholy"と呼ばれます。古代の医学では、体内の「黒胆汁(black bile)」のバランスが乱れることで引き起こされると考えられていました。精神分析の視点から見ると、メランコリーは失った愛情や人、ものに対する無意識的な怒りや悲しみと関連があります。フロイトは、メランコリーを抑うつの一種と位置づけ、失われたものに対する無意識的な憎しみや自己非難の感情が内向され、自己価値の低下や自己罰の感情を引き起こすと説明しました。
フロイトによれば、メランコリーの特徴は以下のようになります:
- 悲しみや絶望の強い感情
- 失ったもの(人、関係、物)に対する憎しみや怒りの感情が自己へと向けられる
- 自己評価の低下、罪悪感、無価値感
- 失ったものへの強い固執
これらの要素は、失われた愛情や人に対する無意識的な怒りや悲しみが自己へと向けられ、自我の一部が喪失感によって「影」のようになるというフロイトの考えを表しています。
なお、メランコリーと似た概念に「憂鬱」がありますが、これはより広範で日常的な悲しみや気分の落ち込みを指すことが多いです。対して、メランコリーはより深刻で持続的な状態を示すことが一般的です。
五木寛之さんにとっての「旅の終わりに」の意味
センチメンタリズムを歌った「旅の終わりに」ですが、現実の五木寛之さんはベストセラー作家であり、成功者、資産家でもあります。この現実から考えると精神分析的な隠れた意味を見つけるとしたら、どんなものがありますか?
ChatGPT
精神分析的には、成功や物質的な富が全てを満たすわけではないとされています。これは、人間の心理が物質的な欲求だけでなく、愛情、認識、安全、自己実現といったより抽象的な欲求にも動かされるからです。そのため、五木寛之が成功者である一方で、「旅の終わりに」のようなセンチメンタルな歌詞を書く背後には、物質的な成功を超えた心理的な探求があると考えられます。
- 対象への愛着と喪失:
ベストセラー作家である五木寛之も、人間である以上、愛着対象の喪失という経験からは逃れられません。歌詞の中で描かれているのは、愛や希望の喪失、そしてそれに伴う悲しみや孤独です。これは、彼が経験した喪失や過去のトラウマを反映している可能性があります。- 自己の探求:
五木寛之が描く「旅」は、物理的な移動だけでなく、自己の内面への探求を象徴しているとも解釈できます。「旅の終わりに」は、自己を理解し、自己の存在を肯定するプロセスを描いているかもしれません。成功者である彼が自己の探求を止めない姿勢は、自己の内面的な成長と自己実現の追求を示しています。- 社会との矛盾:
五木寛之が成功者である一方で、「世間にすねて」などという表現が見られるのは、彼が社会的な成功と個人の価値観との間にある矛盾を感じている可能性を示しています。これは、彼が自己の内面的な価値を重視し、社会的な評価に影響されずに自己を表現し続ける意志を反映しているとも解釈できます。このように、五木寛之の成功と彼の歌詞のセンチメンタルさとは必ずしも矛盾しないと考えられます。それどころか、その二つの側面は彼の人間性と心の深淵を表していると言えるでしょう。
まとめ
放送大学「文学批評への招待」で「精神分析批評」を学んだことを切っ掛けに、五木寛之さん作詞の演歌「旅の終わりに」をChatGPTの力を借りながら、五木寛之さんの深層心理を考察してきました。
「旅の終わりに」は五木寛之さんの心情や生き方、日本の社会風土、そして我々一人一人の無意識的な願望や恐怖を反映しているのが分かりました。
作品に隠されたセンチメンタリズム、メランコリー、そして五木寛之さん自身の孤独や葛藤について理解しました。これらは、五木寛之さんが経験した戦争と戦後の混乱、そして70年代の日本社会の変革と密接に結びついています。
この私自信にも、作品が描くセンチメンタリズム、メランコリー、孤独や葛藤があり、だからこそ共感してこの曲が大好きなのだと分かりました。
私は歌が好きでよくYoutubeで聞きます。中島みゆきさん、吉田拓郎さん、小椋佳さん、さだまさしさん、松山千春さん、アルフィー、サイモンとガーファンクル、ボブ・ディラン・・・。
なぜ、この歌が好きなのか。それを考えるのが、自分自信を知ることでもあると分かりました。
いかかでしたでしょうか。今回はここでお別れしますが、この記事が皆さんの何かの役に立つこと、心が潤うものであることを願っています。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
謝辞
ChatGPTは偉大です。ChatGPTがなければこの記事は書けませんでした。AIを開発してきた技術者のみなさんに感謝します。