周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

鹿を引き連れる春日大明神 付:怪異もろもろ

  寛正三年(1462)四月十六日条

        (『経覚私要鈔』5─277頁)

 

  十六日、辛巳、霽、(中略)

 一猿沢池反色候、以外事候、次於西御門前蛙戦候、一方ハ慈尊院前出る候ける、

                          〔仁〕

  人々多以見云々、両篇先以可謂希欤、可驚、次元興寺二王躰罷出見之候、

  いたわしき式候由被申送畢、次南口門守被打殺了、是も其希欤之由有沙汰云々、

  何も兵革表事也、当時之儀憑神慮計也、

                             (長実)

 一河州合戦寄手多被打、城方更不損非直事欤云々、爰大安寺向因幡房女物ニ狂事

  在之、口走云、伊勢大神宮・八幡大菩薩嶽山為御合力出御畢、春日大明神者氏子

  共多可生涯之間、歎思食之間還御之由申之云々、随而辰市大安寺辺ヨリ至

         (×列)

  春日山、神鹿令随跡之由人多見之云々、誠不思儀事也、此物狂女人者十一歳者

                        両神畠山義就

  也、雖及世澆季、為実事者神道猶掲焉者哉、抑○右衛門佐被思食替朝庭御欝忿

  之条、子細甚不審也、既被成綸旨了、十善万乗之綸言、武家一人之調伏、云彼

  云是、縦雖天照大神之冥慮也、争彼逆徒ヲ可有御合力哉、不起信事也、

  莫云事々々々、但進発御勢済々被打了、匪直事欤、誠又為神慮哉如何、

 

【頭注】

猿沢池変色す、西御門前にて蛙合戦す、元興寺仁王像罷り出づ、南口門守打ち殺さる、いずれも兵革表事なり

河内合戦幕府軍利あらず、大安寺向因幡房長実の女物狂ひて天照大神八幡神畠山義就に合力のため出御あり、春日大明神は氏子多く討ち死にするを歎き還御せりと口走る、

また諸人神鹿の行列するを見る、

天照大神逆徒に合力あるは不審なるも幕府軍多く討ち死にせるは直事にあらず、

 

 「書き下し文」

 一つ、猿沢池変色し候ふ、以ての外の事に候ふ、次いで西御門の前に於いて蛙戦候ふ、一方は慈尊院の前より出で候ひける、人々多く以て見ると云々、両篇先づ以て希と謂ふべきか、驚くべし、次いで元興寺仁王の躰罷り出で之を見候ふ、いたわしき式に候ふ由申し送られ畢んぬ、次いで南口門守打ち殺され了んぬ、是れも其れ希なるかの由沙汰有りと云々、何れも兵革の表事なり、当時の儀神慮を憑むばかりなり、

 一つ、河州合戦にて寄手多く打たる、城方更に損ぜざること直事に非ざるかと云々、爰に大安寺に向ふ因幡房の女物に狂ふ事之在り、口走りて云く、伊勢大神宮・八幡大菩薩嶽山に御合力のため出御し畢んぬ、春日大明神は氏子ども多く生涯すべきの間、歎き思し食すの間還御の由之を申すと云々、随つて辰市・大安寺あたりより春日山に至り、神鹿を跡に随はしむるの由人多く之を見ると云々、誠に不思議の事なり、此の物狂の女人は十一歳の者なり、世の澆季に及ぶと雖も、実事たらば神道猶ほ掲焉たる者かな、抑も両神右衛門佐を替へんと思し食す朝廷に御鬱忿の条、子細甚だ不審なり、既に綸旨を成され了んぬ、十善万乗の綸言、武家一人の調伏、彼と云ひ是と云ひ、縦ひ天照大神の冥慮と雖も、争か彼の逆徒を御合力有るべけんや、信を起こさざる事なり、云ふ事莫かれ云ふ事莫かれ、但し進発の御勢済々打たれ了んぬ、直事に非ざるか、誠に又神慮たるや如何、

 

 「解釈」

 一つ、猿沢池が変色しました。とんでもないことです。次いで、西御門の前で蛙戦がありました。蛙の群れの一方は、慈尊院の前から出てきました。多くの人々が見たという。二つとも、ともかく珍しいと言わねばならないだろう。驚くべきことだ。次いで、「元興寺の仁王のご尊体が出ていくのを見ました。気の毒な様子であります」と伝えられました。次いで、南口の門番が打ち殺された。これも、本当に珍しいことであると噂されたとそうだ。いずれも戦乱の兆しである。現在の状況は、神意をあてにするしかないのである。

 一つ、河内の嶽山城の戦いで寄手である幕府軍は多く打ち取られた。城方の畠山義就軍にまったく損害がなかったことは只事ではないだろうという。さて、大安寺に向かった因幡房の娘が発狂することがあった。娘が口走っていうには、「天照大神八幡大菩薩は嶽山の畠山義就にご合力するためにお出かけになった。春日大明神は氏子らが多く亡くなり、歎き悲しみなさったので、お帰りになったという。辰市や大安寺あたりから春日山に至るまで、大明神は神鹿を自身の後に従わせたのを多くの人々が見た」という。本当に不思議なことである。この発狂した女は十一歳である。この世の終わりになったといっても、事実ならば神慮はやはり目立つものであるなあ。さて、二柱の神が、右衛門佐畠山義就家督を替えようとお思いになった朝廷にお怒りになっている事情は、まったくもってよくわからないのである。すでに綸旨を発給なさった。帝のお言、武家一人(畠山義就)の鎮圧、あれと言いこれと言い、たとえ天照大神の冥慮であっても、どうしてあの逆徒(畠山義就)へご合力になるのだろうか。冥慮を信用することはできないのである。けっして口にしてならない。ただし、進発した幕府勢は数多く打ち取れた。只事ではないだろう。誠にまったく神慮とはどのようなものだろうか。

 

 「注釈」

「辰市」

 ─現奈良市八条町。辰市(東の市)は古代から中世にかけて栄えた市の一つで、「枕草子」にもその名がみえる。寿永二年(1183)の春日御供預散位藤原能季申状(天理図書館文書)に「当社御領辰市」とあり、春日社領であったことがうかがえる。西大寺田園目録(西大寺文書)の弘安六年(1283)の寄進状等によると、左京八条・九条の一─四坊の地域が「字辰市」と考えられる。「大乗院寺社雑事記」の明応元年(1492)八月二八日条には「辰市者奈良之京之八条九条坊ニ在之」、「八条郷ハ辰市四个郷之随一也」とあり、この辰市四ヵ郷とは、八条郷(現八条町)のほか東九条郷(現東九条町)、西九条郷(現西九条町)、辰市郷(現杏町辺り)と考えられる。辰市郷は「杏郷」と「結戒郷」に分かれ、「杏郷」は「小莚郷」ともよばれた。「小莚座」のあったことによる。辰市は戦国期には町場化の動きもみられた(大乗院寺社雑事記)(「八条村」『奈良県の地名』平凡社)。

 

 

【考察】

 ずいぶん前に、「怪異!? 蛙合戦」という記事を書きましたが、そのときには「不思議で不吉な出来事」という評価しか読み取れなかったのですが、今回の記事では「兵革の表事」(戦乱の兆し)であったことがはっきりとわかりました。ただ、次の条文からも明らかなように、畠山氏の家督をめぐる争いがすでに大和・河内で起きていたので、それと結びつけただけなのでしょう…。

 さて、もろもろ怪異を記した一条目の後には、嶽山城の戦いに関連した噂話が記されています。その中で一際気になるのが、やはり神鹿の行進でしょう。鹿の頭数は明記されていませんが、記事になるぐらいですから、相当な数の鹿が一斉に移動したと思われます。辰市から春日山まで直線距離で10キロ程度でしょうか。たくさんの鹿が同じ方角を向いて一斉に歩くのですから、さぞかし目を引いたことでしょう。鹿が群れをなして歩いているときは、春日大明神が先導していると考えたほうがよさそうです。そういえば、以前「鹿の嘆き」という記事を書きましたが、そのときは、鹿が群集し、東に向いて一斉に叫んでいました。これも春日大明神が先導したのでしょう。何が目的だったのか、何を伝えようとしたのかはさっぱりわかりませんが…。

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