第三話 普通
普通、平凡とは何かと高橋(たかはし)七恵(ななえ)はよく考える。
身長体重のように明確な数値が出るものならまだしも、境遇についての平凡というものを思ってみると、これがなかなか難しいものだ。よくも悪くもあればいいのか、よくも悪くもなくていいのか、それすら曖昧である。しかし、結論づけるための細かな定義をどこから引っ張ればいいのか若い七恵は迷い、そのため思考はぐちゃぐちゃに捻れてまとまらずに、毎度放り出すハメになるのだった。
それでも、七恵は今日も悩む。普通、平凡とは何かと考えて欲する。少し人とズレてしまっている自分が嫌いだから、もし本当に平凡というものがあるのならば、それが欲しいと願うのだ。
人の群れを眺め、肝心要の自分を顧みずに。
「これで、四匹目。やっぱり、ここいらはミニチュアダックスが多いなぁ。お、今度は柴犬……の割には随分太ってる子。飼い主のおばさんと正反対ね」
日は暮れきっても、車通りの激しい交差点の周囲は明るい。七恵はお気に入りのかご付きクロスバイクにまたがり休みながらも、問題なく周囲の通行人を眺めていた。
イライラした後に一人自転車で気ままに街を走るのは七恵の趣味で、そうして余計なストレスを吐き出した後、体を休ませるついでに人間観察を始めるのは半ば習慣じみたものである。気になるものを見るのは、余裕がある時が一番なのだろう。
「あ、あれってイングリッシュ・スパニエル? ちっちゃいけど、キレイ」
しかし、気を大きくしても自分に自信がなければ視線も低くなりがちで、だから七恵は地を這う飼い犬達をよく気にするようになっていた。元々図鑑から動物を好きになった彼女は、眺めるだけでも犬たちの様々な様態を可愛がることが出来る。
「うーん、撫でたらすごく気持ちいいんだろうな。……やらないけど」
しかし、幾ら好きであっても、七恵が近寄ることはなかった。
それは怖気のせいであるが、別に小犬が怖いということではない。たとえ小水をかけられようが、噛み付かれようが、我慢するのは七恵にとっては簡単なことだ。ただ、機嫌悪く吠えられてしまうことはたまらなく嫌だった。
触れなくとも楽しいのだから、わざわざ満足するために近寄って嫌われることはないだろうと、七恵はそう考えてしまうのである。何時だって、何処であったとしても。
「……行っちゃった。もう誰もいないし、次に行こう、かな」
飽きるまで艶やかな黒い尻尾を見送ってから、七恵はペダルに足を乗せた。後は、重みをかけて回せばスイスイと進むことだろう。何せ、よく整備をしている愛車は、高くついた値段相応には働いてくれるのだから。
「うーん」
それでも、七恵はどうにも踏み出せなくなっていた。それは、次にどこへ向かうかという自問に、家以外のどこかという答え以外を選ぶことの出来なかった自分を恥じたからだ。
「こんなことをしてたら、よくないよねぇ?」
今はまだ夜も浅く、童顔で小柄な七恵がさまよっていても一々見咎められることはない。しかし、ここで戻らずに街をうろつき続ければ、踏ん切りがつかずにズルズルと、警察官に補導されるまで徘徊を続けてしまうかもしれなかった。嫌気や恐怖は、逃げ続ければ余計に増していくことを、七恵は経験から知っている。
「でも、まだお母さんとお父さんが喧嘩してるかもしれないし……帰ってからまたあんな奴らのことなんて考えたくもないし……ああ、イライラするなぁ!」
蚊帳の外で家族の喧嘩を見つめているのは、どれだけもどかしいことか。部署の変更で父親の残業が減った分の時間を、わざわざ言い争いするために充てている二人にどれだけ絶望したことか。そんな気持を上手く吐き出せずに内向的に貯め続けている七恵は、嫌いな自分を省みることで悩みを溢れさせる。
そして、溢れたら爆発するのが常だった。
「ああ、もういい! もう、いいとか悪いとか、どうでもいいよ!」
運動に悩みは邪魔者だ。踏み込む足も強く、七恵は怒りに任せて、クロスバイクを駆る。こうなってしまうと、夜の車道を通ることだってもう、怖くはない。
夏の生温い空気をその身で割って、大げさに風を受けながら、七恵は涼と快感を覚えた。眩しい街灯はどんどんと後ろに流れて行き、大質量の自動車が次々に七恵を追い抜いていく。車から時々漏れ聞こえてくる音楽やラジオ・テレビ番組の内容が不明なままに去っていった。
「はっ、はあ……ふう、ふう」
視界に映る誰も彼もが気楽に移ろっている中で、疲れに息を荒らしている自分は滑稽だと感じる。ただ、そんな瞬間こそを、七恵は大いに楽しんでいた。
ひとりきりでも、寂しくはない。翻せば、風に散って体が広がっていくような、この心地よさを感じているのは自分だけだ、という優越にもなるのだから。
「はぁ。赤だ」
しかし、血と同じ色で止まるのは、万人と変わらない。七恵は、信号無視をして五体を散らすような愚か者では、なかった。
「ふぅ、はぁ、暑い、あっつい」
七恵は止まった途端に、ジャージのファスナーをはしたなくない程度に下ろしてから、手で扇いで必死に失くした涼を取り込みだした。気づけば足は熱を持っていて、喉がまた痛いくらいにカラカラだ。しかし、ボトルからスポーツドリンクを摂ってみても、その温さに辟易とするばかりで荒い息は治まらない。
「あー……ふぅ、疲れたあ。はぁ、駄目だな、私」
やけっぱちになりすぎてしまったかと、流石の七恵も思った。我を忘れてペース配分を捨ててしまうのは、どんな運動だったとしても間違いだ。
思う存分エネルギーを発散した分、熱を持った頭を冷やしたい。空になったボトルをケージに戻しながら、どこか休むことが出来る場所はないかと、七恵は目をさまよわせた。
「お、ちょうどいいのがあった」
目が止まったのは、信号ひとつ先にある十字路手前の広場だった。
七恵はよく覚えている。そこには幾つか、実に座りやすそうな形の、奇っ怪なオブジェがあるのだ。それは著明な何某のアート作品であるが、女性の腰元以下の高さで端が丸く凹んでいる幅広の石くれは、信号待ちの歩行者達などの快適なベンチとして使われることも多かった。
「ふぅ、ふう、到着っと。汗がすっごい……わあ、頭がぼっさぼさ」
疲れきった七恵は、闇に浮かんだ白い石のところまで自転車を転がしてから、ようやく乱れ髪を気にしだして、手櫛で整え始めた。昔から、お座なりであっても気を付けてしまうことが、七恵の癖だった。
「なんか、人居ないなあ……スーパーも閉まってる。もう、九時過ぎか」
その目はだらしない自分を注視している人がないかを探し、その手は大事な自転車にカギをかけている。期待と不安は半分。しかし七恵はその両方を、時計塔を眺めることで諦めていた。
「あー、つまんないの」
ならば、後は暇を潰すだけだ。
まずは、街路に植わっている申し訳程度の緑を、直ぐに見飽きる。そして次には、たまたま通りかかり、なおかつ自分に話しかけてくれるような都合のいい自転車乗りを妄想した。
時折路を過ぎる自動車の車体がたとえ白黒であっても自分には関係ないと、別に気にしない。ただ、座り込んだ滑らかな石が、考えていたよりもずっと、冷たくて気持ちいいものだと思う。そうして、体を休めながら、七恵は意識を次々に逸らしていく。
そんな逃避から彼女を独りきりの現実に帰したのは、携帯電話の電子音だった。
「…………喧嘩、終わったんだ」
それは、きっと母親からのものなのだろう。面倒のない独りの時間が好きな七恵は、邪魔をされる事のないよう友達に携帯電話を持っていないと教えていた。頼もうとも両親が買ってくれないからだと毎回説明して七恵は友人を納得させている。
それは事実とは、違う。だが、しかしそんな嘘を誰彼についていても彼女の良心が痛むことはなかった。無論、その内心が悪心に占められているからということではない。
なにせ七恵は、思春期反抗期という言葉だけでは済まないくらいに、親を嫌う文句を内に溜め込んでいるのだ。母親という身勝手の鏡を反面教師にして、そんな思いに蓋をしているけれども、積もりに積もった心の澱はもう嘘の名目に使った罪悪感みたいなちっぽけなものでは汚れることすらないのだった。
「今度は、ベタベタしながらお電話、って感じかな。私を心配したふりして、二人仲良くしてるんだろうねえ………………ふざけやがって」
そう吐き捨て、夜空に浮かべた憎たらしい笑顔を睨む。七恵は両親の怒気に歪んだ顔も嫌いだったが、喜色に満ちた顔も大嫌いだった。
「ダシにされるのはもう嫌。怒るのも笑うのも私そっちのけなのに、あの人達は私を問題にしてばかり。……そんなんなら、もっと構ってよ」
そんなに嫌いなものでも、まだまだ子供な七恵は欲していた。どうやればいいのか分からずに、苛立ちながら。たとえ今、逃げていたとしても。
七恵は、喧嘩することが夫婦円満の秘訣よ、等と母親がうそぶいていたのを聞いたことがあった。勿論、大嫌いな口から吐き出された言葉だって、一面くらいは正解だろう。しかし、ここまで頻繁に、愛は確かめられなければならないものなのだろうか。いかんせん、それを感じたことのない七恵には、理解し難いことだった。
「はぁ。留守番電話もない、か。……私ったら、なーに期待しちゃってるんだろうね」
留守番電話が残っていたら、勇気を出してみよう。そんなマイルールを七恵は胸にしまっている。
もしも、向こうから来てくれれば。そんな考えを捨てられずに、随分と経った。
「でも、ホント。せめてもう一度、電話をしてくれたらいいのに。変わらないって、諦めてるの? このままでいいと、お母さんはホントに思っているのかな? 普通なら、もう少しって……やっぱ思っちゃうよねえ。私、何か間違ってるのかな」
そんな、情けない自分にまで気を付けて、自分に言い訳をしてしまうのはただの悪癖だった。反省会場は、七恵の頭に出来上がっている。何時だって、自分が悪いのだと準備万端。非行すら自由に出来ないというのは、とても面倒なものである。
「普通、か。ホントに、それってなんなんだろ。普通だって、そう思ってた足立君も、何だか大変なことになっているみたいだし……」
そして、また七恵は普通に悩む。どうあれば、普通になることが出来たのかと、思い悩んだ。その難しさを、昨日も思い知ったことを記憶から蘇らせながら。
「あの、すみません」
「はい?」
思わず七恵は、かけられた声に驚いて聞き返す。それは、内容を上手く聞き取れなかったためでなく、低く沈んだその声の主が近くにいた事に気づかなかったためだった。
振り返ってみれば、まずは白いワイシャツの第二ボタンが目に入り、そして視線を上げてみれば暗く淀んだ顔が見えた。その顔に見覚えはあまりない。
「えっと……」
街中で留っていたとはいえ、別に、声をかけられることを待っていたわけでもなかった七恵は、彼が不信にしか思えず、直ぐにでもこの場から立ち去りたくなった。しかし、よくよく見れば疲れきった様子の彼の姿に多少の覚えがあるような気がして、逃げ出すタイミングを失する。
「あ、大丈夫です。怪しいものじゃないですから。ちょっと、探している人がいて」
この日この時は、翌日に思い出した瞬間よりも短針が九十度ばかり前にある時刻であり、場所も公園前の歩道だから人気はそれなりにあった。また、両親が喧嘩をする前に家を出ることが出来たおかげなのか、七恵の人間観察もまずまず捗っている。
「……どんな、人ですか?」
そんな好況を思い返してみれば、七恵も話を聞く勇気を出すことが出来た。誰かのために何かを行うのは、彼女も嫌ではない。
「あのですね、ええと……どこにやったかな……あの、俺の妹で名前は華子って言うんですけど……ありました。こんな顔です。友達の家に行く、って九日前から居なくなっちゃって……」
そう言い、彼がショルダーバッグの中から取り出したのは、一枚の写真だった。それは、小学校に入学したばかりであるのか真新しいランドセルを背負った女の子が、学ラン姿のお兄さんと柔和そうな両親に囲まれている、そんな平凡な記念写真の様である。
七恵には中央の少女に見覚えはない。しかし、その後ろで仏頂面をしているお兄さんの顔は知っていた。
「あれ、ひょっとして……足立、君?」
「え、俺のこと、知ってます?」
そんな情緒溢れる表情を、目の前のくたびれて崩れ落ちそうな無表情と重ね合わせることに、七恵は四苦八苦。少し悩んで、写真の少年をうんと痛めつければこうなるかもしれないと、彼女は合点をいかせた。
「写真の……ううん、足立君とは同じ中学だったし、ちょっと縁があったから顔と名前は覚えていたの。私、二年の時隣のクラスだった高橋だけど、知らない?」
「ああ……えっと、同じクラスじゃないとあまり……覚えてない」
「そう」
心象を良くするためだけに、軽く調子をあわせて頷くことがなかったのは、好材料。それだけでも目の前の少年が悪い人間でないと、少しは感じられた。そして、以前興味を持って知った写真の中の足立君は、平凡な人間だと分かっている。
だから、染色されて整っていてもおかしくない髪を汚く乱して、スポーツシューズの左右両方から靴紐を長く垂らしていることにも気付かないくらいに、今の彼を焦らせているその事態に七恵は興味を持った。
「それで、妹さんが居なくなっちゃったって、ホント?」
「うん。どこにもいないんだ。そんな筈はないから、ずっと探しているし、警察も父さん母さんも皆頑張ってくれているんだけれど……」
足立勇二は、最後まで言えずに口をつぐんだ。言葉に出して、再確認したくないのだろう。彼は乾いた唇を舐めて、肩を落としながらも、写真を見せつけるために持ち上げることを止められなかった。
「そうなんだ。うーん……助けになりたいけど、ごめん。ちょっと見たことないかな」
七恵もそれは、それは大変だろうと、人ごとを憂いる。写真を見詰め続けている限り、足立家は立派に家族をやっているように思えた。とても、羨ましいことだ。
しかしそんな円満な家族も欠けてしまえば、綺麗に纏まっていた分だけ不完全な形になってしまうに違いない。九日間も、きっと休みどころを知らないまま頑張り続けているのだろう彼らのために、彼女も一度記憶の海をさらってみたが、しかし少女の姿は認められなかった。
「でも、この写真ってきっと二、三年前だよね。それから変わったところとか、写ってない特徴とか何かあるかな? あ、あと連絡先も出来れば教えてほしい。見て分かると思うけど、私って自転車で街を走るのが好きだから、もしかしたら見かけることもあるかもしれないし」
かといって、簡単にあきらめが付くはずもなく、七恵は少し悪あがいてみる。憧れの普通の家族が、突発的な不幸で簡単に壊れてしまうようなものだとは、彼女も到底認められるものではない。
「うわっ、色々と考えてくれてありがとう。そうだなあ……変わったところっていうのは思い出せないけれど、もしかしたら思いつくかもしれないし、それに何か知らせてくれたらありがたいし……高橋さんは携帯持ってるかな?」
「うん。ほら、持ってるよー……っとっと」
七恵はまるで手慣れているかのように指にストラップを引っ掛けながら、携帯電話をサイクルジャージの背面ポケットから取り出して、勇二に見せびらかす。しかし、そのままクルクルと勢い良く回り指から外れそうになった携帯電話に、彼女は危うく慌てかけた。
「あはは。実はね、携帯電話って面倒くさいからあんまり使ってないんだけど、うん。ホントはこういう大事の時のために持つものだよね。あはは……電話番号、教えて?」
孤独だという弱みを隠そうと、必死に笑顔で誤魔化す七恵。しかし本人は、自分を普通の人間のように見せることで、相手を安心させようとしているのだと思い込んでいる辺りが滑稽だ。もっとも、疲れきっている勇二は、そんな不自然な行動を見逃していたが。
「ああ、ええと……さっきから探してるんだけど……全部使っちゃったかもしれないなあ。本当は、さっき見せた写真より最近のやつと連絡先も載ってる張り紙、みたいなものを沢山持ってたんだけど、掲示板とかに全部貼っちゃってもうないや。そこら辺にまだ貼ったのが剥がされてなければ残ってるだろうけど……まあ、俺の携帯でもいいなら。赤外線使える機種?」
「あ、うん。何かあったら、連絡するね! えっと、えと、これで……よし」
七恵はまごつきながら、交換した電話番号を『足立くん』と題して電話帳に登録する。スカスカの電話帳が、これでようやく一つだけ埋まった。
「ありがとう。何かあったら、俺に電話して。出来る限り、お礼はするから」
「お礼なんでいいけど、分かったよ。ちょっと、これからは気を付けてみる。何か見かけたら連絡するって、約束するよ」
七恵は浮かれて、意識せずに約束していた。だがきっと、翌日になって思い起こすことがなければ、ずっとそれを忘れたままだっただろう。勇二の顔が少しだけ明るくなったことがどうしてだか嬉しくて、彼女は約束を記憶の底に落としていたのだ。
「本当に、ありがとう。じゃあ、また何かあったら」
「うん。じゃあね!」
二人は公園前で手を振って、別れた。
七恵はその場でポニーテールを垂らしたままに見つめていたが、トボトボと歩く勇二は振り返りもしない。きっと、そんな余裕はないのだ。哀れにも、失せ物探しに身を削っている勇二の姿は、快く見送っている内に人ごみに紛れて消える。
「…………ああなりたくは、ないなあ」
やがて、一人ぼっちに戻ってから、ぽつりと本音は溢れていた。七恵は、自分が家族を求めて必死になる姿を想像できない。彼女にとって家族は普通の残骸であって、そんなものに価値を見出すことなんて到底出来るのもではなかったのだ。
「普通、平凡って何なんだろう。取り戻すことって、ホントに出来るのかな」
それを失って途方に暮れる勇二を材料にしながら、その夜七恵は存分に悩みつくしたのだった。
「あー……そういえば、足立君の妹さん……名前なんだっけ。ま、いいか。とにもかくにも私ったら、あの子を探してみるのを忘れてたなあ。約束してたのにそれって、とっても不義理だよ」
回想で経った時は一、二分。その間に思い起こし終えた七恵は、忘れた課題も見つけていた。デジカメプリントで見た少女の顔は、おぼろげに浮かんだだけだったが。
「うーん。でも、もう探すのは無理だね。人はいないし、疲れた疲れた。見つけてあげたいとは思うけど……静かな夜中に子供なんて、見つけられるはずないものね。大体元気でうるさいもの」
もはや孤独でもなければ一人ではいられないくらいに、夜は更けている。半時は明確な人の声を自分の口以外から聞いていないために、耳は静けさに慣れていた。
だから、いくら気持ちが低く落ち込んでいても、甲高い音が響けば顔を上げることくらいするだろう。子供が黙って暗闇の中に居られやしないだろうから、つまりここには居ないのだ。七恵は今日見つけた子供たちを参考に、そうやって自分に言い訳をした。
「ああもう、私ったら役立たず。将来の夢は人の役に立つ仕事に就くこと、って小学校の卒業文集に書いちゃったのに」
やりたいことは人のため、他人のため。そう欺瞞で固めることで七恵は他人の中に溶け込んできていた。そして今回も、他人のためだからと、七恵は羨望を引っ込めて優しく成れているのだろう。元より七恵には、ふわふわくせっ毛でセミロングの少女に、指通りの良さばかりが自慢の長髪を引きずる自分を重ね合わせることなんて無理だったが。
しかしそんな七恵も、もし行方不明の少女を助けることが出来たのなら、そんなとてもえらいことを成せたなら、少しは愛されることがあってもいいのではないか、といった希望くらいは持っていた。
「あ。でもひょっとしたら、もう妹さん見つかっているかもしれないじゃない。そうなら、気をもむだけ無駄だ」
そんなささやかな希望も、しかし直ぐに陰る。また次いでに、七恵の気分は悪くなった。楽天的になれないのが性分とはいえ、再会しているという足立家が一番幸せである可能性を真っ先に考えられなかったことはいささか不明である。それはもう、七恵が、自分が見つけるまで見つからないようにと、内心で願っていたのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまうのも、無理のないくらいには。
「……そうだ。電話で聞いてみるのもいいかも。流石に十時にもなってないのに寝てるってことはないだろうし、それに……もし今も探してるのだとしたら手伝ってあげられるしね。事情さえ話せばもし警察さんに見つかっちゃっても怖くないだろうなー。……もっとも、私は疲れているから手伝うのも少しだけになっちゃうかもしれないけどね」
七恵の独り言は、大概が自分に対する言い訳だ。言葉に出すことで考えをまとめることもあるが、潔癖な彼女には悪心を顕にするよりも言葉を弄して自分に嘘を吐くほうが楽だった。本当は今だって電話することはいいとしても、他人の人探しを手伝うことには内心それほど乗り気ではない。しかし、見つかる展望が僅かな捜索は、深夜徘徊の立派な理由にはなる。家が寝るための場所でしかない七恵にとって、帰らない方が人のためになるかもしれない、という可能性は魅力的なものだった。
「うん、良かった。さっきの電話はやっぱり足立君からじゃなかった。それじゃあ……あれっ?」
――――おかけになった電話番号は、現在使われておりません。
まず、着信履歴を確認してから電話帳の一人目を呼び出した七恵に、そんな想像もしない応答があった。慌てて耳を外して液晶画面を見ても、そこにはきちんと『足立くん』という文字が表示されている。
「間違えた? よし、もう一度……また同じだ。じゃあ、次は電話番号を入れて呼び出してみようかな…………ああ、これでも一緒だ」
七恵は思わず、さあ乗ろうと掴んでいたクロスバイクのグリップハンドルに爪をたてた。
――――使われていないはずがない。だって、昨日会って赤外線通信でこの番号を交換しあったじゃないか。まさか、解約した携帯電話を持っていたというのだろうか。それはあまりに気持ちが悪い。いたずらっていうことはあり得ないだろう。だって、私に悪意を持つほどに彼と深く仲を刻んでいないのだから。
そう、一息に考えてから、遂に七恵は分からなくなった。
「おかしい、おかしいよ。何が、どうなってるのよ……」
不明によって混乱して、助けを求めるように彼女は頭を上げる。そして、気をそらすための人すらない歩道から目線は外れ、次には車道を睨んだ。しかし、夜更けとはいえ十時に至る寸前であるにも関わらず、気を向けられるような動く車は一台たりとも通ってはいなかった。ひょっとしたら長々と赤信号が灯っているのかと、七恵はそっと間近の信号機を見上げる。
そんな、一連の何気ない仕草が、更なる異常を発見することに繋がった。
「え? え? あれ? 全部?」
赤青黄色、全ての信号が灯っている。進むな、進んでよし、進むことを止めろ。それはまるで、信号機が意思を持って指示を放棄しているようだった。光り掲げられたそれから、消えたりなどしないという強い意思が向けられているようで恐ろしく、七恵の総身は鳥肌で占められる。
「何、何なの。おかしい、おかしいよ! 何か、私がした? 私、別に悪い子じゃないのに!」
あり得ないことの連続で、七恵の罪悪感に亀裂が入る。唯一の居場所だったはずの街が、変わってしまう。それは、彼女にとってこの上のない罰である。
震える身体を抑えつけるために、七恵は自転車のグリップから手を放す。背は丸まって、瞳は一度落ちた。
しかし、一息だけ時間をかけてからもう一度、七恵は確かめるために顔を上げる。それが、精一杯の抵抗だった。怖じることに任せてしまえば、一人ぼっちで耐え切ることなんて出来ないのだから。
「え?」
それでも、訳の分からない恐怖に開いた目は、もっと恐ろしいものを目撃してしまう。そう、七恵は見てしまったのだ。赤く、濡れた人影を。
「こんばんは、お嬢さン」
果たして無貌は恐怖か否か。不明が恐ろしいものであるとしても、かもすれば、そこに何もない方が七恵にとって幸せであったのかもしれない。
向けられているのは意味のわからない笑顔。そして、ズレた、顔。赤青黄色の電光に浮かび上がった誰かの面の皮が歪んでいる奥で、恐ろしいものが破顔している。
それが分かった。分かってしまったのだった。
「いやあぁあああああっ!」
全ての信号が灯った下にて、赤く濡れたマントと人の皮を被った怪人どころではないシロモノが笑顔で、七恵を呼んだ。ガラガラと壊れた声に呼ばれてしまった。その恐怖ばかりが彼女を狂わして壊していく。
「うん。この子でいいナ」
何かが言った、そんな致命的な声には気付けなかった。恐怖することで息すら出来ずに、七恵は直ぐにでも気を失うだろう。
「ああ、っひ、ああぁぁ……」
近寄って来ているのが分かる。そいつから滴っているのも分かっている。だがしかし、最早彼女にはどうすることも出来なかった。逃げるために使っていた自転車のペダルに触れられないほどの、震えが止まらない。怖気だけで、死にそうだった。
「……もしもし?」
涙と震えで歪んだ視界の中、七恵はただ一つ、気付く。繋がるはずのない電話が発光し、繋がっているのを知らせていることに。
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