――――がここのところ空元気でずっといることなんて、エルコンドルパサーは当然気付いていた。
存外彼女は役者であるようだけれども、しかしエルコンドルパサーとて仮面を被る者である。
一枚の奥の少々臆病な内心から覗いてみると――――の笑顔は以前と比べてどこかくすんで見えた。
『ありがとう、トレーナー。私がここまで頑張れたのも何もかも、貴方のおかげだよ』
それでも曇った他者のために懸命になって笑顔を作って彼女は優しさを配ろうとしている。 トレーナーを追い掛けた後に聞いた言葉にこんなの、明らかな無理だと少女は感じた。
こんなに辛さを我慢し続けていたらきっと――――は壊れてしまうだろうと弱さを知るエルコンドルパサーは思う。
だが、その懸命を前に無理に笑うな、なんて言えやしない。
またそもそも走れないことなんて健全なコンドルの少女にとってはまるで想像も付かない痛苦だった。
ウマ娘とは走りにかけたものの擬人化である。だからこそ、己の走りを一等魅せつけることに執着するのだ。
そして、ウマ娘の本能に加えて《《何かの命》》すら賭けていそうだった――――が、怪我で走れない。
そんな事実は友のエルコンドルパサーにだって辛いけれども、本人にとってはきっとそれどころではない筈なのだった。
それなのに、少女は過剰なくらい楽しそうにしながら片足でトレセン内を跳ね回っている。大丈夫だから、私なんて気にしないで貴女の走りを大事にしてと伝えるために。
『ん。大丈夫だよ、私は貴方を間違いにだけは、しないから』
「……――ちゃん」
無理なまでの少女の心遣いは分かった。そして、それが尊く思えて否定なんて出来なかったなら、どう応えるべきかはただ一つ。
トレーナーにすら優しくしてしまう彼女の言葉を影に聞きながら最低でも、エルコンドルパサーはこう決意するのだった。
「なら、アタシは負けないデス」
あの子と違って自分はとてもターフに命なんて賭けれない。本当は痛いのも怖いのも嫌で、恥ずかしがり屋でもあるそんな臆病なウマ娘である。
だが、それでも彼女と違って走れるのだ。なら勝つことだって出来る。そしてそれを続けてこの仮面を真なる英雄の証と化すのだ。
「――ちゃんの、ヒーローになってみせます!」
迷える彼女のための灯火になろう、とエルコンドルパサーは建物の影、役目を終えたタンポポの隣でそう決めたのだった。
そう、だから彼女は負けられない。
エルコンドルパサーが日本ダービーへの出走を決めたことは、驚きと納得の半々で受け容れられた。
本人の考えを尊重するということでクラシック三冠の路線から一時外していた彼女であるが、その実力が並々ならぬものであるというのはこれまで負け無しの結果から周知されている。
また、皐月賞の勝者、そして本来冠を被る筈だったと残念がられる彼女までもが怪我でダービー出走を断念しているのであれば、エルコンドルパサーの参戦が歓迎されるのは自然。
「――ちゃん。見ていて下さい!」
そして来る六月七日、エルコンドルパサーは鷹の舞う雲天を見上げながら、一人呟いた。
稍重のターフを通う風は、そんな声を騒音地味た歓声と共に散らして消えていく。
誰知らず、エルコンドルパサーのダービー出走は――――の弔い合戦のようなものとしても捉えられていた。
トレーナーを同じくする彼女らの絆がただそれだけを由縁するものではないというのは、皐月賞にて――――に縋って嘆くエルコンドルパサーの姿にて周知されている。
またその他――――を囲む金色の才を持つウマ娘達がカメラも何も気にせず涙とともに露わにした友情。それを美しいものと捉える者はあまりに多かった。
前に進む者達が、こぼれ落ちた者を悼む様子は良くも悪くも共感を生むものだったから。
全てを切り取り貼り付け、大凡を美談と捉えてお茶の間は既にひと盛り上がりもしたのだ。
そう、あの子のために結果は変わらず、むしろ数字としては盛り上がった。そうして大衆は彼女の敗北を、怪我を良しとする。
そして、次は誰が盛り上げてくれるのかと期待ばかりするのだ。
あんな、火炎のように命を燃やすウマ娘なんてそうそうありはしないというのに皆はあの走りを在り来りの悲劇と決め込んで。
「違う……」
だがそんなこんなや自らすら何一つ許せないウマ娘が、揺らぐターフに一人。
数多に首を振る、雲が蓋した天より曇りきった少女は、どうしたって《《この第六十五回日本ダービーにて勝つべきウマ娘》》であるスペシャルウィーク。
だが、彼女は天を地の底までを見通そうとでもしているかのように、芝を睨みつけながら、こう言い張る。
「……もう、負けないから」
「スペちゃんも、やる気デスねー……でも、エルだって負けません!」
しかし、湿った空気をからりと笑ってエルコンドルパサーは負けはしないと断言する。
実際、このアメリカからやって来たウマ娘はこれまで負けなし四連勝中。当たり前のように一番人気に推されて、今も白い歯と共に喜色を見せびらかしていた。
「むぅ……」
だが、こんなまるで本日の主人公のようである彼女に、スペシャルウィークは珍しく苛立ちを面に出す。
この子があの子の必死のどこまでを知っているというのだろう。
そう、――が私達相手にぶつけてきたあの全霊のその有り難さを本当に、このただの強くてあの子と同じ人に学んでいるばかりのウマ娘が分かっているのか。
口角上げるエルコンドルパサーに、ただスペシャルウィークという名の女の子はそう考え歯を食いしばる。
そしてもう一言、《《調子に乗るな》》といったような悪口でも彼女はかけようとして。
「あはは……勝ち負けを付けるには二人のどっちかは負けとかないと。でも、セイちゃんとしてはキミたち両方が負けてくれるとありがたかったり?」
「っ!」
肩をぽんと叩かれて、その隙間に道化た彼女が割り込んだ。
セイウンスカイ。先の皐月賞では――――を追うものでしかなかったが、本来彼女の逃げ足は十全に発揮さえされれば無比な結果が待っている。
そして、あの日誰より――――の影を踏み続けたそんな自信が四番人気の彼女をこれまでになくただならぬ域に引き上げていた。
また燃え盛る目は雄弁に次こそは、私がと叫んでいる。そんなの自分一人ではないのだとスペシャルウィークは今更にがんと感じざるを得ない。
「はぁ……貴女は余裕ね」
「おや、キングには余裕がないっての?」
「それはそうよ。だって……いえ、そんなのどうでもいいわね。ただ今回ばかりは私も私らしくするつもりはないわ」
「そう……それは、楽しみだね」
そして、何ふり構うことなくただ目尻を上げて気炎を上げている様子のキングヘイローまで出てきてしまってはもうろくに、――――について、なんていうレース外の雑念を考えることすら出来やしない。
「ううん。勝つのは、私!」
だから、怒りに全てを振り切ることで、ようやく胸を張ってそう言い切れてしまったことが、スペシャルウィークには悲しかった。
「っ!」
はじめは、殆ど整列のような横並びから。
しかし、それは王の先導によって大いにリズムを変えていく。
「ここっ!」
「くっ……」
日本ダービーは皐月賞よりも長い2400メートル。そして、独特の重苦しい空気感を覚えながら、突出を選ぶというのはあまりに難事だ。
だからこそ、セイウンスカイが覚えたほんの僅かの迷いを抜けて、キングヘイローが端を取る。
敗北を味わった王は誰に倣うべきか。伴を望んでいた友は痛みに伏せていて、ならばこそ彼女に。
そんな風にしてなんとキングヘイローは似合わぬ逃げという策で打って出る。
「っ、は」
「こ、のおっ!」
当然、そんな逃避をセイウンスカイが簡単に許す訳がない。
足元の芝を土と飛ばし、急な速度変化に悲鳴を上げる身体に応じ呼気のために僅か上がった王の顔。
それを不慣れと無理のせいと察した彼女は、僅かで触れんばかりに後ろから寄りその隣をすり抜けんとした。
「させ、ないわっ!」
「っとっ」
だが、その侵入口をキングヘイローは外に身体をずらすことによって塞いだ。
少々危険な、彼女らしくもないラフな行動。だか何ひとつ気にすることもなく王は再び頭を下ろしだし、前を向く。
そう、あの日――――が見ていた先頭の風景。その孤独な旅路に、挑むため。
「やるね……」
あわや接触かという状況からの退避。驚くほどのキングヘイローの意地の張りっぷりにセイウンスカイはむしろ気を良くした。
なるほど、キングは私からそれを奪うつもりか。あの子と同じ戦法を封じ勝つために、泥臭くも得意を潰す。そのつもりで。
ああ、そんなのとても許せないが、しかし。
「なんて、張り合いがあるっ!」
「っ」
本気の本気。今が持てる全力でキングヘイローはセイウンスカイと構えた。
それが、同じく――――を想いながらのことであるというのはむしろ、セイウンスカイにとって痛快だった。
浅緑色の髪が風を孕み、ゆっくりと持ち上がる。そして面を真っ直ぐにした彼女が選んだのは。
「ははっ! 悪いね、私が勝つよ!」
笑顔だった。
そう、誰よりも楽しんで、この日本ダービーを勝とうとするセイウンスカイは。
「私が、勝つのよっ!」
誰よりも苦しんで彼女のもとに追いつかんとするキングヘイローとぶつかった。
「すぅ……はぁ……」
端でバチバチと熱がぶつかり合う横で、深く息を吸いながらスペシャルウィークはバ群にその身を潜め続ける。
それは、あの敗北から今日まで磨き続けてきた末脚を最高のタイミングで発揮させるため。
その上で絶対に誰もかもにも文句を言わせない結果を見せつけるのだと彼女は静かに熱量を貯め続ける。
とある口の悪いものが今回の日本ダービーを、敗北者達の馴れ合いと呼んだそうだが、それがどうした。
負けて勝って。それでも、必勝を期して私達は走るのだ。
そう、夢で見た栄光だって、今はただの霞。だが、この一生に一度の日本ダービーにて日本一のウマ娘を目指す私が勝つのは必定で。
「すぅ……」
顔近くまでに飛んできた土を身体が知らずに避ける。スペシャルウィークの呼気は深く、下りから上り坂にあっても乱れない。
しかし、一度目の上り坂に差し掛かったということは既に道半ば。
注意深く、瞳を上げながら彼女は先頭の様子を伺う。
「このっ、退きなよ!」
「無理、よおっ!」
しかし、足に負担が相当に掛かっているだろうに先頭を争う二人は元気に足を回しているようだった。
スペシャルウィークは前に出るか、少し迷う。ちらと隣を見て。
「ふんふーん♪」
鼻歌すら歌って好走しているエルコンドルパサーとこのまま並びながら直線に賭けるべきかを悩んだ。
スペシャルウィークのトレーナーは、エルコンドルパサーとは競うな、と言っていた。
どうしてかと彼女が問うと、彼は。
「末脚勝負で唯一負けるかもしれない相手だから、かぁ……」
思わず彼女がなぞったその言はスペシャルウィークも頷けることだったし、実際何か一つ間違えたらどうなってしまうかは分からない。
しかし、よく考えたら、それは。
「なら、私ならエルちゃんに勝てるかもしれないんだよね」
そう。今回反すれば唯一エルコンドルパサーと勝負になるのがスペシャルウィークということでもあった。
だから、先からエルコンドルパサーはスペシャルウィークと付かず離れずの距離を《《飛ぶように》》走っているのだろう。
「分かった」
スペシャルウィークの脳裏にあの日夢見た踏みつけてきた数多の幻影が通う。
そして、一度頷いて彼女は速度を上げない。ただ弓の弦を引き絞るように、スペシャルウィークはその身を一度の本気のために努めるのだった。
ああ、何しろスペシャルウィークは一度怪我した――――を抜き去り、勝ってしまった。
なら、もう誰にも負けないのだと、それを示すためにもここで日本一の強さを発揮するのだ。
あの子に、安心してもらうためにも。
「すぅ……」
息を潜めて。そう、彼女は欲張ってしまったのだった。
「っ!」
「あっ……」
そして最後の曲がり端。ゴール手前の上り坂にて王が尽きた。
意気はある。だが酸欠に頭が上がってしまい、もう姿勢が保てない。
故に、遅れた一歩にセイウンスカイは残る力を振り絞る。
「今だっ!」
その一歩はしかし短く坂を刻んで、上手に進む。
競り合いに多少息が乱れていようと、それでも駆け抜けられる程度は残せた。
これなら。思わず己のクレバーさに満点を上げたくなった彼女の横を。
「ああああっ!」
「わあああああ!」
「は?」
一歩に深く地面弾けさせて、二人が駆け抜けていった。
瞳に炎が灯る。ゾーンというらしいこの常を超えた領域に、しかし相手も当然至っている。
そんなの、スペシャルウィークもエルコンドルパサーも想像できていたことだった。
故に、これは比べ合いではない。
「っ」
息すら邪魔。それは違いない。だが、どうしてか彼女達は叫んでいた。それこそ■の嘶きの如くに。
「ああああああ!」
「わあああああ!」
それは、飲み込めない。だって、思いの丈だから。
これは、好きだ、愛しているという告白と同じ程度のもの。
私だけを見て。そして。
以降の願いは二人共違っている。だが、そこばかりがぶつかって削り合って、前に前にと。
倒れ込むように深く沈む。
あえぐように足を出す。
そんなあの子がとてもしなかった無様な全力を持って、でもあの子が手に入れられなかったものを、手にするために。
スペシャルウィークは、知っている。彼女だけは――――と接触したことによるウマソウルの活発化に端を発した夢想にて今回の|日本ダービー《第65回東京優駿》の結果が見えていた。
世界は美しい以前の世界の結果をなぞるように進む。
『観ているがいいデス……勝利は彼女のものだ!』
だが、故にこそ。
「ああああ!」
「あ……」
足りなかったのはやはり、一歩。
残酷なまでに、彼女の意思は最も望ましい道程を打ち壊して。
「エルの勝ち、デス――――!」
エルコンドルパサーはそう、水無月の空に啼いたのだった。
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