赤塚不二夫ゆかりのまち記録事業、進まず 大和郡山市が構想
赤塚不二夫が少年時代に住んだ長屋があった付近の路地=2020年9月2日、奈良県大和郡山市内
赤塚少年が泳いだ可能性のある新木山古墳の堀=2020年6月、奈良県大和郡山市新木町
1960年代に曙出版が刊行した赤塚不二夫作品(記者蔵)。裏表紙には自画像があしらわれている(右)
漫画家の赤塚不二夫(1935~2008年)が戦後まもないころに少年時代を過ごし、漫画家になることを決意した立志の地、奈良県大和郡山市がゆかりのスポットや人々の回想などを冊子にすると構想してから4年。記録事業は進まず、来年度も予算化の予定はない。
市秘書課によると、聞き取りした内容について裏付けを取ることが難しくなり、また、市は著作権料の負担なども考慮。構想は課題を残したまま進んでいない。
戦後ギャグ漫画の巨星は著書「これでいいのだ 赤塚不二夫自叙伝」(文春文庫)を残した。そこには、11歳から12歳までの1946(昭和21)年から1948(同23)年にかけて過ごした大和郡山市内の様子や縁のあった人たちが、生き生きと記述されている。
市の冊子化構想は全国紙が2017年2月大きく取り上げたが、正式な事業化に至っていない。職員の有志が休日を生かし、ボランティアで赤塚ゆかりの人たちの証言を集めてきた。自叙伝に出てくる初恋の人、旧姓・笠井さんとも連絡が取れ、赤塚の同級生にも会って情報提供を呼び掛けるちらしを渡した。漫画「おそ松くん」のチビ太のモデルとなった当時3歳の少年ではないかと、候補に挙がった市民も2人いたという。
一方、ゆかりの土地の住民によっては、場所が有名になることを迷惑がり、協力を得ることが難しいケースもあった。
自叙伝によると、母の実家である生駒郡郡山町(現・大和郡山市)の2軒の棟割長屋の1軒(間取り、6畳と4畳半)に一時、大家族で住んでいた。家の前の細い路地は今も変わらない。現在は木造モルタル造りの3軒長屋がある。市によると赤塚一家の転居後に建て替えられたよう。
赤塚が泳いだという古墳の堀は、自宅から約500メートル離れた新木山古墳の可能性もある。母は紡績工場独身寮の「女工さん」が使う布団づくりを請け負った。JR郡山駅近くには大日本紡績郡山工場跡の碑が立つ。悪がき仲間とクリ泥棒をして補導され、深夜零時近くまで留置された郡山署の駐在所位置は、まだ駐在所があった1968年の住宅地図(奈良県立図書情報館蔵)から分かる。
旧満州からの引き揚げ者という理由で赤塚一家が差別を受ける出来事もあった。自叙伝に語られている。配給の食事をもらえなかったという。ある日、地元の青年がオート三輪で走ってきて、近所の子どもたちを荷台に乗せたが、「満州はダメ」と赤塚だけが拒否された。友達と一緒に金魚池の物置小屋の屋根に乗って遊んでいたときも、自分だけがこの青年に叱られ殴られた。この屈辱感が「今に見てろ」の負けん気を起こさせた。赤塚少年は、小学校6年にして自作のストーリー漫画を大阪の出版社に売り込みに行った。
聞き取り調査をした市職員は言う。「冊子化はすぐに実現できなかった。しかし市立図書館を会場に、赤塚さんの著書を並べて顕彰するなど、今すぐできることから取り組みたい。ゆかりのまちづくりの芽を必ず伸ばしていきます」