探る)大和郡山市が伝えない文化財の建築主 妓楼「大和川」経営者 西田家住宅にまつわる史実公開を求めて
西田家住宅の土蔵と主屋=2020年11月1日、大和郡山市箕山町
西田家住宅の正面。樹木がうっそうとして、建物がほとんど見えない=同
奈良県大和郡山市箕山町に1930(昭和5)年ごろに建築された登録有形文化財、西田家住宅がある。入り母屋造り桟瓦ぶきの威容を誇り、近代和風建築の市内代表事例といわれる。周辺の民家と比べ、ひときわ高い2階建てが目を引く。庭には神社のような立派な祠(ほこら)もある。文化財を紹介する市のホームページは、なぜか建築主の実業に一切、触れていない。
市に問い合わせをしたところ、市都市計画課文化財保存活用係は「西田家住宅の本質的価値を伝える上で必要不可欠な要素であるとは考えていない」と回答した。
建築から90年を経て異彩を放つ豪壮な屋敷は一体、どのような経済が背景にあるのか知ろうと、市情報公開条例に基づき、開示請求をした。
結果は文書不存在だった。その理由について市は本年8月、「登録有形文化財の指定資料は建造物としての文化財的な価値を示すものであるため、建設資金に関係のある西田家の財産形成に関する資料は、公文書として存在しない」とした。
その後、記者は、県教育委員会刊行の調査報告書「奈良県の近代和風建築」(2011年)の西田家住宅に関する記述の中に、「遊郭の楼主によって建築され、独特で優れた室内意匠を有する邸宅」というくだりがあるのを見つけた。施主は平野卯三郎と書いてあった。
よって建築主は西田家ではなかった。完成からわずか13年後の太平洋戦争中に大阪市内の人に所有が移り、築後約半世紀を経た1978年に西田家が建物を取得したのである。「奈良県の近代和風建築」には、大和郡山の遊郭が衰退していく様として「生駒の台頭や取り締まりなどよって、衰微することになる」とある。平野邸が人手に渡った背景とも思われる。
記者は、西田家が建築主とばかり思い込んでいたから、西田家の実業について開示請求したのだった。
もちろん市の担当者は、だれが建築主なのか百も承知であった。というのも、県教委刊行の「奈良県の近代和風建築」は、市町村教育委員会の協力によって1次調査が成り立っており、県に情報提供をしていたからだ。
通常、情報公開制度の運用は、開示請求する人がどのような公文書を求めているのか、担当職員と請求者が電話などで事前にやり取りをすることはよくある。そうした方が文書を特定するのに効率が良い場合があるからだ。
大和郡山市は、請求者と何のやり取りもせず「文書不存在」の決定をした。少し四角四面な運用ではなかったか。「文書がない」と通告されると、請求者はなすすべがない。
審査会に異議申し立てをしたり、訴訟を起こしたりする道もあるが、一般の市民なら諦めてしまうことがほとんどだろう。
行政の職員が安易に「文書不存在」の決定をしないよう、長が戒めた事例もある。片山善博元総務相が鳥取県知事をしていたとき、職員が不存在の決定を検討している際には、自ら現場に立ち会い、本当に存在しないのか、よく探すように注意を喚起したと、ある講演で話していた。
記者が県教委の調査報告書で妓楼(ぎろう)主の存在を確認してからほどなく、大学教授(工学博士)の大場修さんが2002年に成した「西田吉孝家住宅 実測調査報告書」を大和郡山市が保管していることを知った。改めて開示請求し、市は9月、全面開示した。大場さんを主任調査員として、その下に大学院生ら7人の調査員がおり、同市職員も1人入っていた。
平野卯三郎の経営していた妓楼は大和郡山市洞泉寺町の「大和川」であることが同報告書に記録されている。同町から箕山町までは直線距離にして約500メートルである。洞泉寺町には大正時代の3階建ての元遊郭、旧川本家住宅(市有財産、登録有形文化財)が現存し、貴重な遊興建築といわれる。
西田家住宅は、屋敷の石垣は、切り石布積みであり、丹念な仕上げがされた切り石が綿密に積み上げられ「その精巧さは驚嘆すべきものだ」と大場さんの報告書は記している。
天井も注目される造りで、中心に照明をつり、四方に放射状の棹(さお)を渡した棹天井を組むことにより、室内に独特の雰囲気を醸し出しているとも評している。
建具、欄間などの造作の一切は、大和郡山市新町出身、奈良県を代表する指物師、川崎幽玄(1905~2000年、本名・修)の作である。
晩年の幽玄を取材した新間聡さん(元読売新聞記者)の著書「大和指物師 幽玄・川崎修の世界」に「百円も出せば百坪程度の家が手に入った当時、この平野邸は普請代だけで十五万円をかけたといわれる」とある。現代の貨幣価値にして何億円もかけたのだろう。完成まで4、5年を要したという。
大和郡山市の前身、生駒郡郡山町が1953年に編纂した「郡山町史」は、国内の景気がよかった1918(大正7)年から1919年にかけ、洞泉寺町の遊郭も活況を呈した記載があり「娼妓一人一ケ月に千円近い花代を稼いだ者もあった」との伝聞を載せている。
町史には、搾取されていた女性労働者に対するまなざしはない。妓楼主、平野卯三郎が金に糸目をつけずに豪邸を普請した時代背景はうかがえる。屋敷のなかに拝所などを設けて神を引き寄せているが、平野はどんな願掛けをしていたのか。建築史家らの考証を待ちたい。
西田家住宅の着工にまつわる物語が少しずつ集まってきた。この度の情報公開請求は、だいぶ紆余(うよ)曲折があったが、知らないよりは知って良かった。屋敷は、近鉄郡山駅から同市新木町の金魚池に至る散策コースの途中に位置し、観光資源として可能性を秘めている。 関連記事へ