奈良市高畑町にある文豪・志賀直哉(1883―1971年)の旧居が展示する志賀ゆかりの写真のうち、昭和初年に同居宅室内で撮影された観音像が、元は宇陀市内の有名寺院のものだった可能性があることが、分かった。観音像は平安時代のものとされており、志賀が奈良に自宅を建築した当時は、市内の骨董(こっとう)品店に売られていた。
観音像は現在、東京都新宿区西早稲田の早稲田大学・会津八一記念博物館が所蔵する。流転の経緯を調査している大阪教育大学名誉教授の梁瀬健さん=奈良市在住=がことし3月、同人誌「りずむ」(白樺サロンの会)で詳細を発表し、読者の1人が奈良市内の大寺院の長老に見せたところ、具体的な情報が得られたという。
それによると観音像は、元は宇陀市内の寺に安置されていた可能性があり、明治から大正にかけ、売りに出されたが、その際、国の文化財行政の担当者2人が調査に立ち会い、「かなり傷んでいるから売りに出してもよい」と言う趣旨のことを言ったという。
情報を得た梁瀬さんは現在、関係寺院などへの確認を進めている。梁瀬さんは観音像にまつわるエピソードを、作家の瀧井孝作や大仏次郎の著作などから収集。1927(昭和2)年、志賀と谷崎潤一郎が連れだって奈良市登大路町の骨董品店を訪れ、双方とも観音像を切望したが、谷崎が3000円で購入。しばらく兵庫県本山村(現、神戸市)の谷崎邸に安置された後、志賀が譲り受けた。
奈良を去り、東京に移った志賀は戦後まもなく、観音像を売却し、行方が分からくなっていたが、「りずむ」の代表で相愛大学教授の呉谷充利さんが昨年、インターネットの情報から会津八一記念博物館が所蔵していることを発見した。
像高は95センチ、ヒノキの一木造り。「寺院が売りに出したエピソードは当時、公然の秘密だったと聞いています。観音様がゆかりの寺に里帰りできたらよいですね」と梁瀬さんは話している。