奈良県:旧都跡村役場取り壊し、奈良市一貫性なく 近代遺産発掘、佐賀・武雄市との連携事業で表明
奈良市は、昭和初期の近代和風建築、旧都跡村役場(同市四条大路5丁目、市有財産)の取り壊しを決めたが、2012年5月には「近代遺産をはじめとする地域に埋もれた資源を再発掘し、魅力ある観光地づくりを目指す」と表明していた。このままでは施策に一貫性がない。建物存続の可能性を探るのが市政の本筋ではないか。
「近代建築物語~奈良・武雄の古館(こかん)追想」と銘打った新規事業の中で表明していた。事業は、明治の近代和風建築である奈良市高畑町の奈良ホテルと佐賀県武雄市武雄町の武雄温泉楼門・新館(重要文化財)の双方の建物が辰野金吾の設計であることから、2市が連携して観光振興を図ることを打ち出した。
これまでに辰野ゆかりの東京駅でPR活動を行ったり、イベントでの2市共同展示、物産展などの交流事業を実施したりしてきた。奈良市は今後の展開として、近代遺産をはじめとする隠れた地域資源の発掘などを行うと、市のホームページで公表している。
奈良ホテルなどの近代和風建築は、大和路における特徴的な景物だ。1894年、奈良公園に完成したバロック様式の奈良国立博物館に対し「洋風すぎて古都にそぐわない」などの批判が続出し、以後、昭和初めごろまで、景観に配慮した和洋折衷の新築物が模索されるようになった。
お手本として標準設計になったとされるのが、1895年建築の旧奈良県庁舎(解体)。洋風木組み構造に瓦屋根を載せて和風を強調し、正面の車寄せには「かえる股」をしつらえていた。その後、県令第8号(1902年)により、奈良公園の隣接地における新築は許可制になり、行政指導により、洋風の新築が制限された。
以来、奈良公園周辺だけでなく、県一帯に近代和風の建物が続々と登場する。同年には、設計者の関野貞が平等院鳳凰堂をイメージした旧奈良県物産陳列所(現、奈良国立博物館・仏教美術資料研究センター)が建ち、翌1903年には橿原市今井町に旧高市郡教育博物館(現、今井まちなみ交流センター「華甍」)が完成した。5年後、奈良公園では、同博物館と同じ設計者の橋本卯兵衛が千鳥破風のついた旧県立図書館(後に郡山城跡に移築)を手掛けた。
昭和に入ると、瓦屋根に十字架を載せた奈良基督教会堂(1930年)が興福寺境内の隣に建ち、同年、桜井市内に天理教の敷島大教会が建った。このほかにも旧JR奈良駅舎(1934年)など、独特な近代和風の建物が各地で花開いた。旧都跡村役場もこうした流れの中で1933年に建てられた。
旧JR奈良駅舎は、県のJR奈良駅付近連続立体交差事業で取り壊しが決定していたが、保存運動に1万4千人の署名が集まり、2001年、奈良市が所有に名乗りを上げた。旧鉄道省時代の最後の社寺風建築といわれる駅舎が間一髪のところで残された。
その市が今度は、進んで近代遺産を破壊しようとしている。市西部、中西部は文化財と呼べる建物が少ない。旧都跡村役場は、世界遺産「古都奈良の文化財」の第2バッファゾーンの「環境調整区域」(ハーモニーゾーン)に位置する。西大寺を起点に、垂仁陵、世界遺産の唐招提寺や薬師寺を散策する場合、昔の木造校舎のような昭和の役場建物が残っていれば、意外な面白さ、懐かしさが観光客を楽しませることになる。
建築史の上では、旧都跡村役場は、市の「近代建築物語~奈良・武雄の古館追想」事業の要の一つとなる奈良ホテルと兄弟姉妹の関係ともいえる。 市観光戦略課は「旧都跡村役場は地域活動推進課が所管する。耐震構造に問題があり、床の傷みもひどく、建物全体の老朽化が進んでおり、やむを得ず建て替えると聞いている。この件について、特に観光戦略課で検討していることはない」としている。
〈近代和風に関する記述は「奈良の平日 誰も知らない深いまち」(浅野詠子著、講談社)の第5章「古都に息づく近代化遺産」を参照した〉