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沖縄の翁⻑前知事が菅新政権の喉元に残した「楔」

菅⽒と翁⻑⽒の間にあった決定的な歴史認識の齟齬

阿部 藹 琉球大学客員研究員

 5年前の2015年9月21日(現地時間)、翁長雄志沖縄県知事(当時)はスイス・ジュネーブでの国連人権理事会で歴史とも言える口頭声明を発表した。翁長知事は「沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされています」と主張し、日本政府に対し沖縄の人々の人権を尊重するよう求め、その民主主義の在り方を問うたのだ。

 国際法上「自己決定権」は重い言葉だ。特に人権理事会において自国の政府によってその権利がないがしろにされていると主張することは、国家としての統合性に楔を打ち込むようなものである。

 2年前に志半ばで病に斃れた翁長知事はその重い楔をどうして手に持ち、打ち込んだのか。いや、「打ち込まざるを得なかった」のか。

 その背景には、当時官房長官だった菅義偉新総理大臣との間で明らかになった決定的な歴史認識の齟齬があったと考えられる。

国連人権理事会で発言する沖縄県の翁長雄志知事=2015年9月22(日本時間)、スイス・ジュネーブの国連欧州本部

戦後生まれなので沖縄の置かれてきた歴史は分からない

 知事の声明発表については、その数ヶ月前から準備がなされてはいたものの、実際に行うかはどうか直前まで実質的に「保留」の状態であった。というのも同年8月10日から9月9日までの1ヶ月間、名護市辺野古沖の埋め立て工事を中断した上で米軍新基地建設をめぐる日本政府と沖縄県の集中協議が行われていたためだ。

 知事の国連演説を提言し、実現のために準備を行っていた沖縄の市民団体「島ぐるみ会議・国連部会」で部会長を務めていた島袋純教授(琉球大学)は、「集中協議で知事が折れる、妥協するとは全く思っていなかったが、国連訪問を少し延期するという可能性はあるかもしれないと思っていた」と語る。

 5回におよんだ集中協議で翁長知事が最もその思いを語り、沖縄の歴史を説明した相手が菅官房長官だった。しかし、9月7日に安倍首相も出席して行われた最後の協議において『私の話は通じませんか』と問うた翁長知事に対し、菅官房長官から出たのは『戦後生まれなので、沖縄の置かれてきた歴史についてはなかなか分かりません』という言葉だったという。

 日本の一部として戦中、戦後と多大な犠牲を払ってきた沖縄の歴史を軽んじ、自らの無知を省みることすら放棄して開き直ったこの言葉に、『お互い別の70年を生きてきたような気がする』と返した翁長知事の絶望感、無力感を想像するとあまりある。

初会談に臨む菅官房長官(左)と沖縄県の翁長知事。辺野古についても話しあわれた=2015年4月5日、那覇市内のホテル

 なぜ菅官房長官は1996年の普天間飛行場返還合意より前の歴史を見渡すことを頑なに拒否したのだろうか。

 菅官房長官と翁長知事の対立を描いた2015年11月放送のNHK「クローズアップ現代」で、官房長官担当の記者はその立場について「戦争直後にまで遡って議論することはあまりに現実性を欠き、問題の解決を困難にすると考えている」と解説しているが、たかだか70年前(当時)の歴史を踏まえると現実的な議論ができない、ということは考え難い。もしそうであれば同じく70年前(当時)のソ連の対日参戦と占領に端を発する北方領土問題も到底現実的な議論はできず、問題の解決が困難である、ということになる。

 むしろ、翁長知事と同じ歴史の地平に立てば知事の主張の正当性を否定することが困難であるがゆえに、頑なに歴史を遡ることを拒んでいたのではないかと考えざるを得ない。

 協議決裂から2日後の9月9日、県側から島ぐるみ会議・国連部会にペンディングになっていた口頭声明の第一稿が届く。そして翌10日、国連部会の島袋部会長と、国際人権法の専門家であり、翁長知事に国連人権理事会での資格と発言枠を利用してもらうことになっていたNGO・市民外交センター代表の上村英明教授(恵泉女学園大学)は、国連演説の実施に向けて沖縄県庁で翁長知事と面談した。上村教授によると知事はその場で改めて「私はあらゆる手段を使って辺野古を止めたい」と語り、声明は自らが書き、会議場でも自分の言葉で語りたいと述べ、二人は了承したという。

 英語の表現や語順変更に関するアドバイスなど何度かのやりとりが島ぐるみ会議と県の間で話されたが、声明に綴られた言葉は翁長知事が決めたものである。「沖縄の人々の自己決定権」という言葉は第一稿から含まれており、最終最終稿ではそれが声明の中心テーマになっていた。

600年と19年 翁長知事が立った歴史の地平

 翁長知事がこの「自己決定権」をどのような意味で使ったのか。それを理解する鍵は、口頭声明の直前に開催された国連人権理事会のサイドイベントで翁長知事が行なった講演にある。

2015年9月21日のサイドイベントで講演する翁長知事(当時)、筆者撮影

 知事はこの講演で、沖縄の歴史について600年前の琉球王国の成立から語り始めている。

 450年間、独立国として各地との交易で栄えていたこと。1879年に日本に武力で併合され、言語が禁止され、日本の一員となるべく努力を強いられたこと。

 それなのに太平洋戦争末期の地上戦では言語の違いからスパイの疑いをかけられ日本兵に殺された県民もいたこと。

 戦後米軍に占領され、土地が強制収容されたこと。そして1952年、日本が「米国から独立をする引き換えに、私ども琉球・沖縄を米軍の施政権下に差し出した」こと。

 1972年の本土復帰まで、国籍も権利もなく、無法地帯のような厳しい27年間を過ごしたこと。復帰した後も米軍基地は減るどころか増えたこと。

 そして老朽化した危険な基地の代わりに海を埋め立てて新しい基地を差し出せと要求されていること。

 翁長知事はこの600年の歴史に立ち、「時代の変化の中で自己決定権というものがある意味蹂躙されてきた」と語ったのだ。

 こうした600年の歴史を踏まえた自己決定権の訴えに対し、菅官房長官が定例会見で語ったコメントは、「19年にわたって多くの沖縄県関係者の協力を得ながら適正な手続きで進めてきた。そうしたことを踏まえない翁長知事の主張は国際社会で理解されないと思う」というものだった。

 国際法上の基本原則の一つである自己決定権の議論を、たかだか20年ほどの国内手続きに依拠して否定しようという論理こそ、国際社会では理解されないものだろう。

記者会見する菅義偉官房長官=2015年9月24日、首相官邸

高まっていた「自己決定権」見直しの機運

 2015年当時、沖縄では自己決定権をめぐる議論が盛んに行われていた。

 地元紙、琉球新報は2014年5月からの連載「道標求めて― 琉米条約160年 主権を問う」で沖縄の自己決定権を問い直していた。2015年には連載を元にその名も「沖縄の自己決定権」という書籍が発行され、自己決定権を考えるシンポジウムも度々開催されていた。翁長知事が声明で「自己決定権」を使ったことも、特に県内では評価する声が大きく、声明を機に自己決定権をめぐる議論がさらに深まる――そう予想されていた。

 しかし帰国後、翁長知事は県議会で窮地に立たされることになる。自民党の県議会議員が自己決定権は先住民族に固有の権利であるという趣旨の発言を繰り返し、「沖縄県民は先住民族であるという間違った印象を広めた」として知事を追及したのだ。

 翁長知事は先住民族という認識ではなく、琉球併合や本土復帰などの歴史に基づき、沖縄の人々の自己決定権という意味で使ったと繰り返し説明したが、新聞でも県議会での追及が大きく報道され、「自己決定権=先住民族に固有の権利」というイメージが定着した。

 「先住民族」という言葉は、沖縄においてさまざまな反応を引き起こす、非常にセンシティブな言葉だ。「イデオロギーよりアイデンティティ」という選挙スローガンが受け入れられ、「ウチナーンチュ」としてのアイデンティティが広く共有されていながらも、先住民族という言葉は日本が沖縄を植民地支配していた時代に植え付けたイメージである「後進性」を想起させるためか、抵抗感が根強い。

 一方で、自己決定権の議論をそれまで牽引して来たのは先住民族としての自己認識をもつ市民の組織やアカデミアであることも事実だ。この間に挟まれて自己決定権の議論は硬直化し、その後翁長知事もこの言葉をほとんど使わなくなった。

日本外国特派員協会で会見し、記者の質問に答える沖縄県の翁長雄志知事=2015年9月24日、東京・有楽町

 このような状況を見れば、自民党の県議たちが執拗に刷り込んだ「自己決定権は先住民族の固有の権利」という言説は、沖縄において「自己決定権」の議論に水を差す、非常に有効な手段だったと言える。

自己決定権は先住民族の固有の権利?

 しかし、「自己決定権は先住民族の固有の権利」という言説は、国際人権法に基づけば明らかに間違った主張である。

 自己決定権は、第一次世界大戦中に発せられたソ連の指導者レーニンによる「平和に関する布告」やウィルソン米大統領による「14条の平和原則」など複数の思想的源泉を持ち、歴史の中でその意味が変化、発展してきた複雑な権利である。第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて帝国の支配下にあった諸民族を独立させるための理論的裏付けとして使われたが、第二次世界大戦後には、アジア・アフリカ諸国が植民地支配から脱し、独立を勝ち取るための権利として発展した経緯がある。

 そして、1960年に採択された「植民地独立付与宣言」などによって、植民地支配、外国による征服、支配、および搾取に苦しむPeoples(人民)が独立などを通じて脱植民地化を進める権利として確立する。その後、先住民族の権利宣言などを通じ、脱植民地化の文脈では権利回復が計られない先住民族の人々も、自己決定権を有すると解釈されるようになる。

 つまり、自己決定権の主体はもともと植民地支配や外国による支配、搾取に苦しむ人々で、先住民族は少し後の時代に権利の主体に含まれると考えられるようになったのだ。この歴史的事実を踏まえれば、「自己決定権=先住民族固有の権利」という図式は成り立たない。

 合わせて言えば、自己決定権はかつて独立の権利として専ら行使されていたが、最近では国家の中で高度な自治を確立する権利としての意味も含まれるようになっている。そのため、自己決定権を主張することが、直接的に独立・分離を求めることにつながるという単純な図式にもならない。

 ただし、この議論はあくまでも「自己決定権は先住民族の固有の権利」という言説の誤りを指摘するものであり、沖縄にルーツを持ついわゆるウチナーンチュの先住民族としての自己決定権の主張を否定するものではない。しかしそれは当事者の自己認識に深く関わる問題であるため、ここでその議論をすることは控える。

 では、翁長知事が口頭声明で主張した「自己決定権」は、何を意味していたのか。

米軍普天間飛行場の移設問題をめぐる初の集中協議を前に、握手する菅官房長官(左)と翁長知事=2015年8月12日、沖縄県庁

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