紫式部が主人公の大河ドラマ「光る君へ」。京都や滋賀、福井には紫式部や同時代を生きたひとびとのゆかりのスポットがたくさんあります。今回は、紫式部が『源氏物語』を着想したという逸話がある「石山寺」と、定子さまが葬られているお墓について、編集者・たらればさんとともに紹介します。(withnews編集部・水野梓)
withnews編集長・水野梓:9月になって過ごしやすい日も増えてきているので、「光る君へ」ゆかりのおすすめスポットも今後、紹介していきたいなと思います。まずは、滋賀県大津市にある「石山寺」でしょうか?
たらればさん:いいですね。
水野:石山寺は紫式部が『源氏物語』を着想したという伝説の寺ということですが、これは記録に残っているのでしょうか?
たらればさん:記録というか南北朝時代(『源氏物語』執筆から約350年後くらい)の注釈書『河海抄』に、紫式部は石山寺で琵琶湖にうつる月を見ながら、光源氏が物思いにふけるシーンを思いつき、『源氏物語』の【須磨】を着想・起筆したという伝説が記されています。これが石山寺信仰のひとつとして残っているわけです。
水野:もともと石山寺は、「石山詣」が貴族の間で盛んに行われていた場所なんですよね。
たらればさん:はい。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母や、『更級日記』の作者・菅原孝標女が参詣した記録もあるので、女流作家がここに参詣して信仰を深めたのは間違いありません。紫式部もきっと何度か訪れただろうと思います。
水野:わたしも訪れたのですが、本堂のそばに「源氏の間」がつくられていて、紫式部の執筆のようすを人形で再現していました。
石山寺は見晴らしがよくて、近くを流れる瀬田川が見えて、とてもきれいなところでした。
たらればさん:『源氏物語』が好きな人は、一度は行かれるといいんじゃないかな、と思います。いまなら「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」もありますし。
水野:ここにも紫式部像があるんですけど、わたしは一番好きな像かも、と思っています。
たらればさん:おお、京都の像ではなく?
水野:福井・越前や廬山寺には金色の紫式部像もありますけど、石山寺の像は石段をかなり上り下りしたあとの木々の中にあって、「あ、やっと会えた」って感じがしたんですよね。
「ぽつん」といる感じが、紫式部っぽいなぁと思ってすごく素敵でした。紅葉の時期に訪れたらとっても風情があるなぁと思います。
たらればさん:陰キャな感じが出ているわけですね(笑)。
水野:ひとりで静かに物語と向き合っている感じが伝わるなぁと思います。もしかしたら本当の紫式部は、女房たちとわいわいとブレストをやっていたかもしれないんですけど(笑)。
水野:次は、京都市にある定子さまのお墓を紹介しましょうか。
たらればさん:鳥戸野陵(とりべのみささぎ)ですね。定子さま亡きあと、清少納言が近所に住んで毎日お墓参りしながら過ごしたのかなぁ…と思うと、静謐な気分になりますよね。
水野:京都市東山区今熊野泉山町にあって、「本当にこの先にあるのかな?」と不安になる細い道を進んでいくんですよね。
たらればさん:泉涌寺の北ですね。観光地からはちょっと外れているので、観光客もいない静かなところです。
水野:わたしも誰ともすれ違わず、ずっと一人きりでお参りさせてもらいました。たらればさんが行ったのは大河ドラマが発表される前でしたもんね。
たらればさん:そうなんですよ。なので、より一層寂しかったですけど、やっぱり1人で「ここに……定子さまが……」と、興奮していました(笑)。
水野:宮内庁が管理していて、看板に「定子」の文字を見つけて、わたしも「おぉぉ」となりましたね。歴史がいまのリアルと結びついた、というか…。
水野:ドラマ「光る君へ」では、定子さまの葬送の様子までは描かれませんでしたね。
たらればさん:定子さまの葬儀の様子は平安時代の歴史物語『栄花物語』に描かれています。長保二年十二月(西暦1001年1月)に亡くなり、兄の伊周が涙に泣きぬれて歌を詠んだとか、いろいろ細かく書かれています。
雪が降り積もるなか定子さまの棺が運ばれていった描写があるんですが、ここは大河ドラマでやってほしかったですね。再現するのが難しいだろうな、とは思いながら…。
水野:お参りして帰路につくと、京都タワーが遠くに見えるんですよ。当たり前なんですが、歴史と今ってやっぱりつながっているんだな、と思わせてくれる場所です。
たらればさん:京都の主要観光地からはちょっと離れてるんで行きづらいですけど、おすすめです。
9月4日には、公益財団法人古代学協会により、京都府京都市中京区室町通二条下ルに「一条天皇皇后藤原定子の二条宮跡 顕彰碑」が建立されました。
ここはわたくしもまだ行ったことがないので、なんとか「光る君へ」放映期間内に参詣したいと思います。
水野:お墓の話が出ましたが、藤原道長のお墓って「ここだ」とはハッキリ分かっていないんですよね。あんなに権力があった人なのに…。
たらればさん:宗教法人に守られないと、なかなかお墓を伝え続けるのも難しいですよね。
水野:宇治市の源氏物語ミュージアムなどからふた駅ほど離れたところに、藤原氏宇治の陵墓群があるんですよね。JR木幡駅から歩いて、点在するお墓の石碑などを巡ることができます。
明治時代の調査で宇治陵が決められたそうで、一号の総拝所も住宅街にあって「こんなところに!」と驚きました。
水野:また、木幡小学校が建てられるときの発掘調査で、道長が建立したという「浄妙寺跡」が見つかって、小学校の裏側に「建立した寺の跡ですよ」という看板などが建っています。
たらればさん:彰子さまもその宇治陵のどこかに入っているとされていますから。
水野:グランドマザーと称される彰子さまでさえ、葬られたところがハッキリ分かっていないというのもすごいことだなぁと思います。
たらればさん:1000年以上経っていて、京都も何度も戦乱が起きて、戦国時代が長く続くわけなので。そして貴族は没落してしまう。そうなるとお墓って残りづらいですよね。人の命の儚さと、「それでも繋いでゆくこと」の偉大さを実感します。
なので、むしろ、ひとり、ふたりでも残っていること自体がすごいことだなって思ったほうがいいんじゃないかなと思います。
肉体はまったく残らないけど、作品や名前、為した仕事は残って語り継がれてゆくんだなあとも思います。