Re:Ron連載「あちらこちらに社会運動」第1回【おもし論文編】
さて、第1回だから、自己紹介でもしておくか。
「富永京子といいます。賃金が低いとか気候温暖化とか、いわゆる社会的政治的課題をね、デモとか署名とかで訴えたりね、そういう活動、社会運動っていうんですけど。それを研究してます」。そんなふうにいつも言っているが、別に社会運動ってデモとか署名だけじゃない。
そもそも、社会を変えるということは、もっと多様だ。
例えばあまりに職場の待遇が悪い場合、話を聞いてくれそうな政治家に陳情するのもいいが、サボって抗議の意を示すとか、給与明細をSNSにアップするとか、同業他社に移ることをほのめかすとか、さまざまな方法が考えられる。
日本の社会運動参加率はめちゃくちゃ低い。実際、社会運動を知らないし見たことがない人も多いだろう。そのせいか、政治的なことを日常生活の中で言おうとしようものなら「意識高い」「偏っている」などと言われがちで、やっている当人も、真面目にかかわらないといけない、知識がなければ関わってはいけない、と思いがちな部分もある。
しかし、上に書いた通り、実は社会運動は多様であるし、遊び半分でできるようなもの、日常を通じてできるものもある。こうしなければならない、と思いがちだが、実は創造的でクリエーティブな営みでもある。
じつは、社会科学の諸領域は、さまざまな活動を「社会運動」として検証してきた。
かつ、社会科学のフレームを通せば、社会運動はテレビやネットで見るような縁遠いものでは決してなく、私たちの生活が実は社会運動とその成果にあふれていることもわかる。
本連載は、社会運動を題材とした興味深い論文の紹介(「おもし論文」編)と、社会運動を研究の一部とするさまざまな研究者との対話(「おしゃべり」編)を通じて、社会運動をより身近で、よりクリエーティブな営みとして捉えよう、という試みである。
子ども連れで変化した「移動」
前置きで熱くなりすぎたふしがあるが、今回のテーマは誰しも行う「移動」。米テキサス州立大学の准教授Alex Karnerの「交通正義」にまつわる論文を通じて、移動をめぐる社会運動を考えてみたい。
【今回の論文】Alex Karnerによる、交通正義の総括的論文
Karner A., et al. 2020, “From Transportation Equity to Transportation Justice: Within, Through, and Beyond the State,” Journal of Planning Literature 35(4)
子どもが生まれ、そこそこ成長してからというもの、移動に一苦労することが増えた。ベビーカーに乗せていた頃は混雑する道を避けるようにしていた。ベビーカーは卒業したものの、小さい子どもにとって長距離を歩くことは結構厳しくなる。自動車にも自転車にも乗れない私は、ある程度距離のある移動は誰かに頼むか「GO」や「S.RIDE」といったサービスで即タクシーを呼べるようスタンバイするのがお約束になっている。海外出張に子どもを帯同する際も、ビジネスクラスではなくエコノミーで移動するようになった。その方が周囲にお子さんを連れた乗客の人々も多く、嫌な顔をされないだろうという予想からである。
こんな話をしていたら、ママ友兼研究仲間から「むしろ、迷惑とか面倒臭いとか思わないで、子連れで公共交通機関にどんどん乗って行かないと、子どもの存在が『迷惑』って言われて、親子連れが『子連れ様』って見なされる状況も変わらないですよ」と言われてしまった。
社会運動の研究者として、その理屈は痛いほどわかる。例えば日本の障害者運動などは、常に公共交通機関において、自らの姿を可視化させる活動を繰り返してきた。近年であれば、JR東日本に対して訴えを行った車椅子ユーザーの伊是名夏子さん、航空会社ピーチに搭乗を断られたことに異議を訴えた電動車椅子ユーザーの林君潔さんといった方々の活動は記憶に新しい。実際にこうした声が支持を集め、航空会社が対応を再検討したり、2024年度には障害者への合理的配慮が民間事業者にも義務化されたりしたわけで、まさに社会運動の成果と言えるだろう。
いかなる集団も不利益を被らない「交通正義」
私のママ友の発言や、上述した障害者運動が示す通り、本来「交通」は誰しも平等に享受するべきインフラの一つである。
このような社会運動は、しばしば「交通正義(Transportation Justice)」という概念と共に語られる。交通正義の総括的論文を書いたKarnerらいわく、「交通正義とは有意義で尊厳ある生活を送るために必要な機会へのアクセス不足によって、いかなる人や集団も不利益を被ることのない規範的な状態を指す」と定義する。とりわけ有色人種、低所得者、障害者、高齢者、若者といった人々は、例えば自動車の保有率も低く、選択できる交通手段も限られている。また住むことのできる地域も良い環境とは言えず、騒音などの環境負荷にさらされやすい点で、交通をめぐる不公正の影響を被りがちだ、とKarnerらは続ける。
これはその通りで、私は自動車こそ運転できないものの、アプリですぐタクシーを呼ぶことができるのは、都市に住んでおりお金があるからだろう。例えば私にそれほど金銭的に余裕がなく、スマートフォンの操作に不慣れな高齢者だったら。あるいは、タクシーが滅多に走っていないような地域だったら、たちまち「詰む」。交通の不公正は、ある属性の人々に詰みやすい状況を押し付けていると言える。
McLaffertyとP…
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- 【視点】
冨永先生は優しく誠実な研究者だ。 「個人として合理性や必然性があるなかで、タクシーを使う」ことに、誰かにぶつくさ言われてまともに受け止めるとは!普通はまともに答える気さえしまい。 職業人としてさえ、仕事と関連するならそのような場合に少な
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