「がんばれない人はしんどい」からの脱却 本質問う、信仰と社会運動

有料記事メディア・公共

進行・構成 金沢ひかり
[PR]

Re:Ron連載「あちらこちらに社会運動」第2回【おしゃべり編】

 社会運動は実は多様で、日常を通じてできるものもある――。

 この連載を通して、そんなメッセージを発していきたいという社会学者の富永京子さん。「移動」をめぐる社会運動について考察した第1回をさらに深めるため、巡礼ツーリズムを研究する民俗学者・門田岳久さんとの対談に臨みました。

 巡礼ツーリズムを「それなりの宗教的経験」と位置づける門田さん。社会運動との向き合い方にも通じるところがあるようです。

【動画】富永京子さん、門田岳久さん対談=上田幸一撮影

 【富永】『巡礼ツーリズムの民族誌――消費される宗教経験』で描かれている「それなりの宗教的経験」という概念を興味深く感じました。

 社会運動においては、人々の関心度合いやコミットメントが二分化して論じられやすい。やっているか、やっていないかが「ガチ勢」か「全く無関心か」みたいな語りをされがちです。門田さんのこの著書にある「浅いわけでもないけど、深みにはまらない」という感覚は、「そこそこ社会運動をしたい」層に訴えかけるものがあるのではないかと感じています。

 【門田】私が研究した、「ツーリズムの形で行われる巡礼」に参加している人へは、「バスや車で楽をしているんじゃないか」という批判が常にありました。

 ただ、ご本人たちが「本気でやっていない」と思っているかというと、実は全くそういうわけではないんです。そこには、ご本人なりの信仰心なり目標なりがあります。一方で、よく聞く言い回しとしては「もっと本気でやっている人に申し訳ない」。

 【富永】社会運動でも、あるあるな言い回しですね。

 【門田】自分なりに本気でやっているのに、「本気でやっている人に申し訳ない」と思う、そういうような自己表象があります。他方、「ガチ勢」に見られたくない欲求も、やはり感じます。

「そこまででは…」と「信者」の区別

 ――どういうことでしょうか。

 【門田】趣味のかいわいで「信者」という言葉を使われますよね。そこには「他に様々な選択肢がある中で、そこだけを見ている」という、ある種「視野狭窄(きょうさく)」的なニュアンスを持ちますよね。巡礼では、自分なりに本気でやりつつも、「そこまで強い信仰があるわけではない」とおっしゃる方が多い。

 私はそこに、「自分がそうなりたいわけではない」という、自分と「信者」とを区別するような雰囲気を感じます。

 その区別の上で大切なのが「引き返す可能性」を残すことです。

 「宗教的行動なり社会運動なりをしていても、日常の仕事や家庭があり、それが大事。そこに引き返す必要が自分にはある」と。

 【富永】「ガチな人に申し訳ない」と、「これ以上ガチになっていいのだろうか」という二面は、社会運動論ではChris BobelやCaroline McCalmanという人の研究などで論じられています。

 「よりやっている人が偉い」と感じられがちな社会運動と、宗教のメカニズムというのは、はたからみたときに「しんどい」と感じさせてしまう一因なのではないでしょうか。

 【門田】一方で、そのようなある種の強いイメージがあるからこそ、ライト層が形成されているという面はありますよね。

 【富永】そこで私がいま悩んでいる「移動」とからめて、もう少し話を深めてみたいのです。「深みにはまらない宗教的体験」を考える上で、移動はどのような役割を果たしているのでしょうか。

日常に引き返すための「枠」

 【門田】イベントそのものも、イベントに対する抗議運動も、終わりがありますよね。同じように巡礼にも必ず終わりがきます。例えば、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへの徒歩巡礼は大体5週間で達成できるとされています。

 ツーリズムも運動も、聖地巡礼も、ある意味で「枠」があるんです。枠というのは文化人類学者の箭内匡さんの言い方ですが、ツーリズムや旅というのは、始まりと終わりという枠を持つことによって、ある部分まで行くと、日常に引き返すんですよね。

 「いま私は巡礼者です/活動家です」となっていても、移動を経てそれが終われば、日常の役割に戻っていく。その枠を設定するイベント性というのは、「ガチにならない人」にも参加を保障するような安心感があるかもしれません。

 ただ、宗教的な面で見れば聖地巡礼って終わりがないものでもありますね。例えばお遍路は、繰り返しやればやるほど功徳を積むものとされる。そのような価値観がある中で、宗教的な行動はライフワークにもなります。

 【富永】この著書では、移動における「楽さ」と「疲れ」のような話にも触れています。「疲れ度」のようなものが、巡礼体験に及ぼす影響はあるでしょうか。

 【門田】身体的な苦痛は、信仰行為として非常に重要な要素だということは以前から言われています。「精神的な鍛錬」が、身体的な苦痛によって導き出されるという考えはあります。例えばイエス・キリストの受難や、空海の苦行を追体験するなどです。

 それらをするとき、車やバス、タクシーで巡礼をするのはだめだろうという考え方もあります。スペインの巡礼地に行くと、徒歩もしくはロバに乗る移動でなければ、ちゃんと巡礼の証しをもらえません。

 一方、日本の宗教はある意味寛容なので、「あなたはバス移動だから巡礼者とは言いません」みたいなことにはなりません。ただ、その場合は代替的なものを求めます。身体的な苦行はできないけれど、お経をしっかり覚えるとか、朝の勤行をがんばるとかです。

 年齢や体力によって、苦行は相対的なものになります。本人の目標を達成したら、それは巡礼者だとなります。

 【富永】社会運動では代替的なものを求めるのではなく、むしろ「がんばり競争」になってしまうところはありますよね。コミットメントの深さがアクティビストとしての正しさとして解釈されやすいという点は先行研究でも指摘されていたりする。

 例えば、私が研究したG8サミット(現G7サミット)への抗議行動の一つで、40キロのデモを遂行した事例があります。ある資料には、「私たちは40キロ歩き抜いた」という一文があったんです。

 歩き抜くことはデモの本来の機能ではありませんが、そのがんばりで「活動家として認められる」となるのは、デモを途中で抜けがちで後ろめたく思っている私も実はちょっとわかる。ただ、運動する人の中にも「がんばりをほめてしまうと、がんばれない人たちはしんどい」と言う人もいます。もともといろんな事情からがんばれない社会的弱者の人の権利を守る、というところから多くの社会運動ってスタートしているので。

 ――「がんばり」が持つ意味とはなんでしょうか。

 【門田】東南アジアに多い上…

この記事は有料記事です。残り3351文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【秋トクキャンペーン】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら

この記事を書いた人
金沢ひかり
デジタル企画報道部
専門・関心分野
若者、社会福祉、ウェブ
Re:Ron

Re:Ron

対話を通じて「論」を深め合う。論考やインタビューなど様々な言葉を通して世界を広げる。そんな場をRe:Ronはめざします。[もっと見る]