こどもと被災地 東日本大震災13年

宮城 写真でしか知らないけど 大丈夫だよ お父さん

東日本大震災が起きてからの13年という月日は、子どもが大人へと成長するほどの長さです。がれきに覆われていた沿岸の被災地も多くが新しくなりました。それぞれの土地で暮らす子どもたちを記者が訪ね、その月日をたどりました。

パパは私を抱っこできなかった

大壁英里奈(えりな)さん(12)は、4月から中学生になる。

久しぶりに会うと、思ったより背が伸びていて驚いた。158センチ。通うのはお姉ちゃんと同じ私立中で、制服はお下がりで間に合いそうだ。

いまも絵が得意で、去年夏、花を描いた作品で美術館の全国児童作品展に入選した。中学では美術部に入るつもりだという。

13年前の3月。

宮城県石巻市・牡鹿(おしか)半島の海辺の集落を津波が襲ったとき、英里奈さんはまだ生まれていなかった。母親の吏理佳(りりか)さん(54)は自宅の2階に駆け上がり、大きなおなかをかばった。水に囲まれ、ひと晩を過ごした。

数日後、ヘリコプターで市内の避難所に運ばれた。胎児が危険だと言われ、仙台市の病院へ。発災41日後、産声を上げた。

父親の勇喜(ゆうき)さん(当時49)には、抱っこをしてもらえなかった。カキ養殖の漁師で、消防団員。地震のあと、水門を閉めに行って津波にのまれた。

英里奈さんは大きくなってから、そのことを知った。

パパと一緒の写真はないの?

私(記者)が初めて英里奈さんに会ったのは、8年前。吏理佳さん、姉兄3人との計5人で、仙台市宮城野区のマンションに引っ越していた。

とても人なつこい、5歳の女の子だった。取材に通ううち、突然「パパー」と呼ばれて面食らった。かと思うと、4歳上のお兄ちゃんにも「パパ!」と抱きついている。

私の胸がギュッとなった。

絵を描くのが好きだった。ときどき、写真でしか知らない勇喜さんの顔を描く。

6歳になると、「パパ、ただいま」と言って家に入るようになったという。私には「パパはいつも一緒なの。透明だから見えない」と教えてくれた。

吏理佳さんは英里奈さんから「パパと一緒の写真はないの?」と、よく尋ねられた。あまりに聞かれるので、晴れ着姿の英里奈さんと、勇喜さんの生前の家族写真とを切り貼りして合わせたものを、つくった。

小学校の入学式の取材で訪ねたときは、その「合成写真」も壁にかかっていた。

吏理佳さんが英里奈さんに、父親がどうやって亡くなったか、ちゃんと説明したのは2年生の頃だ。

こう伝えた。「パパは偉かったんだぞ。人助けをしたんだから」

あふれるほどの愛情に包まれて

母親の吏理佳さんは韓国・済州島の出身だ。

貧しい農家で育った。人生を変えようと国際結婚の相談所に申し込み、2000年に日本へ。仙台空港のロビーで仲介業者に勇喜さんと引き合わされ、即決した。

結婚式も新婚旅行もなし。日本語とカキむきの作業を苦労して覚え、日本国籍も取得した。石巻に来て10年が過ぎ、とんでもない運命が待ち受けていた。

東北の沿岸部は、震災前から過疎が進んでいた。特に若い女性はどんどん出てゆく。だから被災地で取材をすると、外国から来て国際結婚をし、家庭やなりわいを支える女性たちがあちこちにいた。韓国、中国、フィリピン……。

吏理佳さんもその一人だった。震災を機に牡鹿半島を出た。仙台で、前よりもっともっと一生懸命に子育てをした。

ある日突然、4人の子どもの誰かがいなくなってしまわないか。心配になって、朝、寝息を確かめることが何度もあった。

「私は日本語がよくわからないから」と、子どもと一緒に勉強をした。おけいこ事をさせ、何でもそろえてあげた。

あふれるほど愛情を注いでいるのが、わかる。親戚も親しい友達もいない異郷の街。一羽だけになった親鳥が、翼を広げ精いっぱいにヒナたちを守るかのようだ。

「お母さんは、スマホもイヤホンも、言う前に買ってくれる。だからみんな『何か欲しい』って言わなくなったんです」

後から英里奈さんに、そう聞いた。

お父さんはいないけど、大丈夫

12歳になった英里奈さんに、あらためて震災のこと、お父さんのことを聞いてみた。

3年生のときだったか、学校でこんな会話があったという。

「ねえ、英里奈ってお父さんいないの?」

「そうだよ。震災で死んだんだよ」

友だち同士がやりとりを始めた。

「英里奈に聞かないであげよう。だって、かわいそうじゃん」「そうだね」

以来、お父さんのことは話さないと決めた。「お父さんがいないからかわいそう、悲しんでると、思われたくないんです」。そう話した。

「震災は生まれる前のこと。私には関係ないのに、家族には関係ある。変な感じです」

「お父さんには会えるなら会いたいけれど、代わりにお母さんがすごくて、なんでもしてくれる。だからもう大丈夫です」

英里奈さんは将来、姉2人と同じように、看護師をめざすという。

吏理佳さんは子どもたちに「自分の好きな仕事に就けばいい」と言いきかせてきた。それが、父親と同じように、他人を助けることをしようとしている。

不思議だなと、私は思った。

以前は部屋じゅうにあった勇喜さんの写真が、1枚だけになっている。吏理佳さんに聞くと、去年整理し、処分したりしまったりしたという。

「つらい、つらいと言ってきたけれど、そろそろ荷物を下ろしてもいいかなって。子どもたちは、自分のことをしっかりできて、心配しなくてよくなった。それがいま、いちばんの幸せかな」

ヒナがもうすぐ、巣から飛び立とうとしている。

取材

石橋英昭
1964年北九州市生まれ、横浜市育ち。2013年秋から仙台に駐在し、被災地の取材を続ける。3年前に移住し、東北に根をおろすことにした。朝日新聞編集委員。

撮影

福留庸友
1982年生まれ、鹿児島県出身。2014年~19年、写真記者として主に岩手、宮城、福島の被災地を取材。東京本社を経て、再び東北での取材を希望し、現在は映像報道部と兼務で仙台総局の記者。

写真提供=大壁吏理佳さん

連載 被災地で育つということ
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