砂上の国家 満洲のスパイ戦 - プレミアムA:朝日新聞デジタル
砂上の国家 満洲のスパイ戦

 1932年、中国・東北部に建国された「満州国」。独立国家とは名ばかりで、その実態は日本陸軍の部隊、関東軍にあやつられた傀儡(かいらい)国家だった。1945年、ソ連に攻め込まれ、日本の敗北とともに13年余りで姿を消す。 この企画は、1960年代初めにアメリカ人歴史家、故アルビン・クックス博士のインタビューに応じた関東軍の元将校ら36人の証言録音(計178時間)に基づくものです。音源を所蔵する南カリフォルニア大学東アジア図書館の協力を得ました。

満洲地図

2分24秒

満州のスパイ戦

 鉄道の線路爆破という謀略によって、中国東北部の満州に新たな国家をつくった日本。だが、それはまさに「砂上の楼閣」だった。関東軍の特務機関のスパイたちが、北のソ連と諜報(ちょうほう)戦を繰り広げていく。

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筒抜けだった情報

5分06秒

チョークのささやき

 兵士や軍需物資を運ぶ鉄道の貨車に、チョークで謎の目印がつけられていく。誰の仕業なのか。関東軍の動きは、ソ連に筒抜けだった。仲間と見込んでいた協力者も、実は……。

いずれただでいただきます

死体の懐を探って

二重スパイの策略

5分20秒

仕掛けられた罠(わな)

 関東軍の特務機関はハルビンのソ連総領事館に内通者をつくることに成功した。だが、その情報があまりにも生々しすぎる。偽情報が混ざっているとみて、参考情報にとどめていたのだが……。

作戦課は信用しちゃったんです

北進か南進か

消えた女性兵

4分06秒

「いつ侵攻」読み切れず

 1945年8月、ついにソ連の大兵力が満州に攻め込んできた。関東軍は朝鮮との国境地帯に下がり、開拓民らは置き去りにされた。侵攻が近い、という情報はあった。だが、大本営が下した判断は……。

 日本の傀儡(かいらい)国家を舞台にしたスパイ戦は、そこに以前から暮らす人々の多くを味方にできないまま、ソ連に後れをとり続けた。現場の情報を軽んじ、大局的な視野を持たないまま総力戦に突き進んだ日本。戦況が悪化すると、満州国は本土を守る「防波堤」とされ、こうした情報を知らされなかった多くの人たちを巻き添えにして滅亡した。

【動画】満州のスパイ戦 謀略の傀儡国家

1946年の送還時、葫芦島で待機する日本居留民

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傀儡国家、せめぎ合う日ソの諜報戦

 1800年代後半、欧米の国々がアジア、アフリカを植民地にしていくなか、ロシアは南に勢力をのばし、中国、そして朝鮮半島の支配をうかがっていた。日本もまた、これら欧米列強に肩を並べようと、中国大陸を狙い、特にロシアとの対立を深めていく。 日本は1905年、ロシアとの日露戦争に勝ち、中国進出の足がかりを築いた。1910年には韓国を併合し、朝鮮半島を植民地とした。 その後に起きた第1次世界大戦は、戦車や飛行機など、新たな兵器が使われ、最前線の兵士だけでなく、国民全体を巻き込む総力戦となった。ヨーロッパが主な戦場だったが、石油や鉄鉱石などの天然資源に乏しい日本は、危機感を強めた。ロシアでは、社会主義革命でソビエト連邦が生まれ、日本の新たな脅威となった。ソ連と接する中国東北部の満州。そこは「日本の生命線」なのだと、進出を訴える世論が、軍部を中心に高まっていった。 今から90年前、1931年9月18日、中国東北部の柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破された。駐屯する日本陸軍の部隊、関東軍は「中国側のしわざだ」と軍事行動を始め、やがて満州全土を占領した。しかし、この事件は日本側のでっちあげだった。関東軍は翌1932年、清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を担ぎ出し、新たな国家「満州国」をつくった。 謀略で生まれ、日本が思うままにあやつった傀儡(かいらい)国家。その足元で暗躍していたのは、関東軍の特務機関が動かすスパイたちだった。ソ連もまた、満州に情報の網を張り巡らせ、激しい諜報(ちょうほう)戦を繰り広げていくことになる。

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日本側の優位、確定したはずだったが

 中国東北部のほぼ真ん中にあるハルビンは、「極東のパリ」と呼ばれる。目抜き通りにヨーロッパ風の建築が立ち並ぶ街並みは、ロシアが1800年代末、この地につくった中東鉄道(東清鉄道)の拠点として開発された。 物資や兵力の輸送を支える鉄道は、欧米列強が大陸に植民地を築く際の重要なインフラだった。1905年、ロシアとの日露戦争にからくも勝った日本は、中東鉄道のうち長春より南側の路線を得て、中国大陸への進出の足がかりとした。その後、この地域は日本の傀儡(かいらい)国家・満州国となった。関東軍の特務機関が鉄道従業員を不当に逮捕したり、業務を妨害したりしたこともあり、1935年には、さらに残りの路線も満州国へ売却された。これで鉄道利権に絡む中国東北部の勢力争いは、日本側の優位が確定したはずだった。 ソ連の鉄道社員らはハルビンを去る準備を始めた。特務機関員として、鉄道従業員の雇用にあたった入村松一(にゅうむら・ひさかず)は、彼らに声をかけた。 「『ソ連にとっては、満州の一番大事な骨じゃないかと。それを置いて帰るのは完全なあなたの敗北ですね』と。『残念でしょう』とね」 競争に敗れた側に対して嫌みな言い方だ。だが、意外な答えが返ってくる。 「ノーノーってね。『いずれただでいただきますから』とか。『遅かれ早かれ、ただでいただきます』と」 いずれこの鉄道をソ連軍が奪い返すだろうと、彼らは自信を持っていたのだ。複数のロシア人が同じように答えたという。なぜ彼らは強気だったのか。 親ソ連か、反ソ連かは別として、実は満州国のロシア系住民は約7万人にのぼる。 「ソ連側は7万人のスパイを持っとったと言うことができる。日本軍は向こうには1人も持ってなかった」 網の目のように各地に暮らす7万人が、ソ連当局の味方になりうるという現実に、特務機関は直面したのだ。買収後の中東鉄道に雇われたロシア系従業員は、約1500人もいたという。 「その中に約200人くらいのそういうスパイがいましたけどね」 彼らはソ連の目となり、関東軍の動きを監視した。いくら見張っていても、貨車にはチョークで輸送品目を示す記号が付けられた。 ニワトリ、兵隊、自動車、食糧……。積み荷の品目を示す、こちらには読み取れないような印がチョークで付けられ、そして、広大な沿線のどこかで読み取られていた。 「この新京の南の方から日本の軍隊を輸送する列車でどんどん輸送されるでしょ。その列車が箱一つ一つにチョークで、この車両の中には何が入ってるという印が。ソ連のスパイが付けるんですよ」 「だから、ソ連軍は、ソ連側は日本軍がどれだけ来てるか、何を運んで来てるかということはほとんど知っておったと思います」 買収のとき、鉄道の従業員の多くを入れ替えた。入村は仲間と見込むロシア人の協力を受け、スパイを防ぐための身元調査に力を尽くしたはずだった。だが、仲間と信じ込んでいたそのロシア人まで、実はスパイだった。 「戦争が終わった時に向こうのスパイだということがはっきりわかった。その人は私と10年間兄弟のような仲になった。…一緒にもう、本当に親しく暮らした。…私の仲が良い友達だったのにわからなかった」 情報漏れを防げないまま、関東軍はソ連に対する戦略を練り続けることになる。

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ノモンハン事件、情報を生かし切れず

 広大な草原が広がる満州国の西部、モンゴルとの国境地帯。1939年5月から9月にかけ、ここを流れるハルハ河沿岸の国境線をめぐり、関東軍・満州国軍と、ソ連・モンゴル連合軍がぶつかった。ノモンハン事件だ。 日本が初めて体験する本格的な近代戦だった。 ソ連は戦車部隊に加え、こちらの10倍を超す砲弾を撃ち込んでくる。日本の兵士らは、火炎瓶攻撃と夜襲で対抗した。日露戦争以来、日本軍は銃剣を手に、敵の寝込みを襲って突撃する夜襲を得意とした。だが、ノモンハンでは、夜襲部隊から少し離れて行動する、総勢65人の奇妙な部隊があった。その中には、満州国で暮らすモンゴル人やロシア人もいた。この紛争で初めて創設された、戦場情報隊だった。 草原で強烈な臭いを放つ死体が、彼らにとって宝の山だった。死んだ敵兵の懐を探り、地図や書類を抜き取る。敵の見張り番を拉致しては尋問にかける。情報の入手が任務だった。 「だからとにかく1人でも、死体でもいいし、俘虜(ふりょ)でもいいし、とにかく敵の兵隊を捕まえなければ敵情がわからないんでね」 戦場で外国人の協力者と一緒に行動するため、敵兵と間違われる危険があることも、隊長を務めた特務機関の入村松一(にゅうむら・ひさかず)は心得ていた。味方の司令部などには近づかないよう、用心していたという。 「非常に特殊なものですから。あんまりそばへ行くと敵と間違えられて殺されてしまうんですよ。味方に」 7月2日未明、味方の夜襲部隊が敵と出くわし、戦闘の末、敵は11人が戦死した。情報隊は死体から地図や陣中日記、軍隊手帳などを入手した。さらに、敵の軍曹を捕虜にして尋問し、所属や部隊の行動を聞き出した。 「尋問しましてこの付近にいる軍隊は、ハルハ河のこちら側にいるのは蒙古軍じゃなくて全部ソ連軍だということがわかった。それまでは主力は蒙古軍で一部がロシア軍だと思っとったんですね。これによって敵は相当強大だということ、初めてわかったんです」 現場では、敵の部隊の所属も作戦の意図もわからない。だからこそ、戦場情報隊のような役割が欠かせないのだと、入村は語る。 ノモンハン事件は、関東軍が東京の参謀本部の制止を振り切って広げた紛争で、すべてが行き当たりばったりだった。 「こういう場合にどうやって情報を取るかということを考えれば、戦場情報隊より他に方法がなかった」 大局的な情勢が見えないなか、最前線で敵側から役に立つ情報を得た入村たちの働きは高く評価された。一方、敵の兵力を常に過小評価し、場当たり的な作戦と精神主義でことにあたる参謀らの姿勢は改まらなかった。関東軍はこの後、周到に総攻撃を準備したソ連軍から壊滅的な被害を受けることになる。

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二重スパイの「インスピレーション情報」

 ソ連とのスパイ戦を指揮するハルビン特務機関は、ノモンハン事件の前から、ソ連総領事館に内通者を極秘につくっていた。 「ハルビン特務機関がハルビンにあったソ連総領事館の中に、非常ないいスパイを入れておった」「1人です。…領事か、副領事かその辺の上位官吏。それでね、その情報というのは、確か1938年の初めごろから、報告され始めたと記憶してますがね」 東京で報告を受けていた日本陸軍の元参謀本部ロシア班長は語る。ハルビンにあるソ連総領事館の内通者から、こと細かに送られてくるモスクワとの間の通信内容は「ハルビン機関特別諜報(ちょうほう)」、略称「ハ特諜(とくちょう)」と名付けられた。 そのあまりの生々しさを、モスクワに駐在した経験もある元班長は気味悪く感じた。おそらく偽情報が混ざっていると判断し、ハルビン特務機関、関東軍情報課、参謀本部ロシア班の他には絶対に外部へ出さず、参考情報としてのみ扱うよう指示した。 だが、ノモンハン事件が起こると、文書担当の幹部の勝手な判断で、この「ハ特諜」が関東軍の作戦課にも流れてしまった。 「作戦課参謀にすれば、内容が電報の形式になってるでしょ。だからこれは本当に、こちらが向こうの電報をキャッチしてその暗号を解いて報告してきたものだというふうに、作戦課は信用しちゃったんですよ」 作戦課は「ハ特諜」を重視して計略を練った。だが、実はこれ、二重スパイが発する「インスピレーション情報」と呼ばれるものだった。本当に肝心な局面で、相手がぱっと信じてしまうような、事実と正反対の情報が混ぜられていた。 ソ連の独裁者スターリンは、関東軍が独走の末に拡大させたノモンハン事件を日本をたたく絶好の機会とみた。1939年6月初めごろから、前線部隊の要求を上回る大量の武器弾薬を送り込んだ。8月20日をめどに、大規模な総攻撃がひそかに準備されていた。だが、「ハ特諜」には、前線への物資輸送が難しいとする訴えが記されていた。 インスピレーション情報だった。現地の第6軍の高級参謀だった浜田寿栄雄(すえお)らは、敵は物資の輸送がうまくいっていないと、信じ込んでしまった。 「大きな情報は特務機関が管理しておりましたね。『補給が困難になる模様だ』とか、何とかかんとかって言う」 さらに、ソ連軍が越冬の準備を始めたという情報も入った。日本軍は相手からの大規模な攻撃は当面ないと判断した。 だが、20日早朝、ソ連軍は突如、総攻撃を始めた。前線の関東軍は壊滅的な損害を受けた。 スターリンは背後の敵・日本をたたく一方、ヨーロッパで正面の敵のはずだったドイツと不可侵条約を結び、ポーランドを分け合う策略を進めた。 欧米の研究者らは近年、結局、ノモンハン事件が1939年9月1日の第2次世界大戦の勃発につながったと指摘している。ユーラシア大陸の反対側から、関東軍はそうとは知らないまま、世界史の歯車を回してしまった。

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日本の北進を見送らせたソ連の作戦

 1941年6月初め、重大な情報がドイツのベルリンからもたらされた。ヒトラーがドイツ駐在大使の大島浩に、近くソ連へ攻め込む考えを打ち明けたという。その衝撃を、日本の大本営陸軍部で戦争指導班長だった種村佐孝(すけたか)は語る。 「6月の6日という日は非常に世界史的に見ても我々は記憶の新たな日なんです。それはこの大島さんがヒトラーと直接会って、そして近く、独ソ間に戦があるということをヒトラーが大島に話したんです。そのことが東京へ電報で来たんです」 この2年前、ドイツとソ連は、お互いに相手国へ攻め込まない不可侵条約を結んでいた。だが、しょせんは敵同士だった。西ヨーロッパ戦線で優位に立っていたドイツが先手を打った。6月22日未明、330万人のドイツ軍がソ連へなだれ込み、一気にモスクワへと迫った。 満州でソ連と向き合っていた関東軍。その作戦主任参謀だった武居清太郎は、大きな波が自分たちにも押し寄せるのを感じた。 当時、資源を確保するために、日本はインドシナ半島など南方へ出るべきだという南進論が、海軍を中心に強かった。それをはねのけて北進する、つまりドイツの動きにあわせてソ連へ攻め込むには、通常の装備だった関東軍を、臨戦態勢にする必要があった。「もう大騒ぎになって、これは今度。南進か北進かという論争が始まったわけですな」 ドイツによるソ連侵攻の約1カ月後、満州への兵力の移動が始まった。80万人におよぶ兵士をソ連侵攻の狙いを隠して集めるため、見かけ上は演習ということにした。関東軍特種(とくしゅ)演習、略して関特演(かんとくえん)と呼んだ。 ソ連に対する作戦を担った関東軍参謀の水町勝城(かつき)は、準備に追われた当時を振り返る。「7月2日の御前会議によって、ソ連に対しては準備態勢を取ってるという。…どうなっても応じられるような状態っていう態勢なんですね」 ナチス幹部らは大島大使に、ドイツ軍は7週間でウラル山脈に達し、独ソ戦は終わるだろうと豪語した。戦況を眺め、極東を守るソ連の兵力がほぼ半減したら、開戦が決断される見通しだった。枝に実った柿が熟して落ちるのを待つ。そんな作戦だった。 だが、予想したほどにシベリアの兵力は減らず、8月9日、陸軍はソ連に対する開戦を見送った。 武居は振り返る。「8月9日、…昭和16年度における北方開拓企図を断念し、南方に専念する方針を採択したと」 実は、ここにもソ連の巧みな作戦があった。兵力を極東からヨーロッパ戦線へと送る列車は、深夜にだけ運行した。一方、兵士らの訓練の一部はシベリアへ来てするなど、極東の兵力がさほど減っていないように見せかけていた。 後に「20世紀最大のスパイ」と呼ばれる人物が、東京にいた。リヒャルト・ゾルゲ。ドイツの新聞特派員を名乗っていたが、ソ連のスパイだった。日本がソ連との戦争を見送ったという情報が、政権の中枢に食い込んでいたゾルゲらによってモスクワへ送られた。日本が北進をあきらめたことはソ連に筒抜けだった。スターリンはシベリアの兵力を引きはがし、1941年10月から本格化したドイツとのモスクワ攻防戦に投入した。ソ連軍はモスクワの手前でドイツ軍を押し返し、これがヨーロッパ戦線の転換点となった。 「これはもう新国策はゾルゲ事件であれだろ? あれでもうはっきり筒抜けになっとったでしょ?」「しかし今になって考えてみりゃあ、やっぱりやっといた方がいいと思うんですよ」 日本は第2次大戦の行方を左右した情報戦に敗れた。関東軍の作戦主任参謀だった武居は、ソ連との戦いを見送ったことを悔しがっていた。

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満州の役割、本土決戦の防波堤に

 1941年夏にソ連への侵攻を見送った後も、満州に動員された兵力の多くはとどまり、訓練を重ねた。関東軍参謀の水町勝城(かつき)は、兵力の充実ぶりを誇った。 「42年から43年にかけてのこの1年間というものは、関東軍の力としてはおそらく、日本陸軍の歴史上最高度に行った唯一の時期じゃないかと思います」 南進を選んだ末に外交で行き詰まった日本は、米英に宣戦を布告した。開戦直後は勝利を重ね、東南アジアから西太平洋にまたがる広大な勢力圏を築いた。しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失う大打撃を受けると、戦況は暗転した。43年後半から、関東軍の主力は次々と南方へ引き抜かれていった。44年7月には、サイパン島の守備隊が全滅し、米軍は日本の本土を空爆する拠点を得た。 この頃、満州では、北から介入されないよう、国境付近でソ連とトラブルを起こすことは厳しく禁じられた。日本の北方、すなわち満州を静かに保っておくこと、北方静謐(せいひつ)確保が、盛んに指摘されたと、関東軍作戦主任参謀だった草地貞吾(ていご)は振り返る。 「北方静謐確保というのが、昭和19年の後半ごろから昭和20年にかけての関東軍に対する一番大きな注意事項であったわけです。大本営から何かと言えば、静謐確保、静謐確保というところのご注意が…」 シベリアへ攻め入る想定でつくられていたソ連に対する作戦計画は、防衛を前提としたものに全面的に改められた。当初、関東軍としては満州国全体を守る発想だったが、東京の首脳陣が本土決戦を唱え始めると、最優先で守るべきは国体、すなわち天皇中心の国家だと、優先順位が変わっていった。 満州を本土決戦のとりで、つまり決戦の一大拠点とするべく、関東軍の主力は、満州南部の朝鮮に近い一帯に立てこもり、持久戦をする計画が練られた。開拓民や一般市民は、戦いが始まれば置き去りにされるという事実を知らされなかった。 「あとは敵の攻撃を遅らし、そして満州というか大陸の一角に橋頭堡(きょうとうほ)みたいなものを持って持久をして、そして日本全土の大東亜戦争の遂行を有利にするというような考え方に変わっていった」 ヨーロッパでドイツとソ連の戦いが最終局面を迎えた1945年初めから、満州北部の国境線がざわめき始めた。ソ連が日本を敵とみなし始めた様子を、関東軍の情報担当課長だった浅田三郎は振り返る。「2月ごろですかね。ハバロフスク放送が公然と、ハルビンの、満州の悪口を言い出したんですよ」 シベリア鉄道の輸送状況を望遠鏡で見張っていた監視隊から、西からの兵力輸送が急激に増えたと草地らは報告を受けた。 「鉄道なんかは全部こうして見てたわけです。それによって、どんどんどんどんいろんなものが輸送されるのが分かっておりました」 一方、満州北部にいたゲリラ戦部隊の露木甚造(つゆき・じんぞう)は、奇妙なことに気付いた。ソ連の国境監視所から、女性兵士の姿が消えたのだ。 「19年の2月ごろに監視兵に女兵が随分出とったんです。女の兵隊さんが。ソ軍に女の兵隊大分いますから。それが確か…5月の末、末ごろから女兵が全部、監視兵が男に、男の兵隊っておかしいけど、男に代わったっちゅう情報も入っとる」 1945年5月にドイツが降伏すると、極東の地で、ソ連の留守番部隊は後ろへ下がった。代わってドイツ軍の主力を攻略した精鋭部隊が極東へ送られ、進撃の準備を進めていた。6年間に及んだ第2次大戦で、最後の戦いが間近にせまっていた。

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スターリン、開戦準備を前倒し

 1945年5月8日のドイツ降伏後も、ソ連はシベリア鉄道をフル稼働させ、兵力を極東へ送り続けた。関東軍の情報担当課長だった浅田三郎は、ソ連が攻め込んでくることは避けられないとみた。問題はそれがいつか、だった。 「ダイヤグラムを組んでみたんですね。そして、それをやってみると、だいたい…これ、参謀本部と共同でやってみて、色々やってみると『だいたい9月ごろ、8月ごろに第一線が終わる』と。『兵隊たちがそろう』と。『それから後、兵隊輸送が2、3カ月続く』と。それでそうすれば、だいたいが10月ないし11月と」 冬になれば、ソ連軍といえど極寒のシベリアで軍事行動は難しくなる。7月に大本営が下した判断は「8月から9月にも厳重な警戒は必要だ」としながら、「年内にソ連が攻めてくる可能性は少ない」というものだった。時間を稼ぎたいという日本の願いが、予測を後ろへ後ろへと遅らせた。 同じ頃、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が戦後処理を話し合う、ポツダム会談が開かれていた。その席でスターリンは、アメリカのトルーマン大統領から、「尋常ならざる破壊力をもつ新兵器」ができたと耳打ちされる。スターリンはこれが、アメリカにいるスパイが知らせてきた原子爆弾だと気付いた。 5カ月前のヤルタ会談で、スターリンは南樺太や千島列島の領有などと引き換えに、日本への参戦を米英両国の首脳と密約していた。だが、両国は一転してソ連抜きで日本との戦争を終わらせようとしていた。ソ連も約束の分け前を取る――。日本が降伏する前に宣戦を布告するべく、スターリンは開戦準備を前倒しさせた。 広島に原爆が落とされた2日後の1945年8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告。150万人を超す兵力が満州国へ攻め入った。国境要塞(ようさい)の守備隊や、敵を攪乱(かくらん)するゲリラ戦のために残った少数の部隊などを除き、関東軍の主力は朝鮮との国境地帯へ下がった。 開拓民や一般市民は取り残され、ソ連軍の攻撃にさらされた。翌年春までに、日本の軍人と民間人を合わせ、推計24万人あまりが満州で命を落とした。

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