1952年に日本が占領を脱した後も、日米安保条約に基づき、米軍は全国に駐留し続けた。米軍機の墜落事故や、米兵による犯罪。基地と住民とのあつれきは、本土でも沖縄でも生じていた。
1950年代や復帰前後、大幅に縮小されたのは本土の基地であり、一部は沖縄に移された。米国が、日本復帰直前の沖縄を本土で縮小する基地の「収容場所」と位置づけていたことを示す米公文書も見つかっている。さらに、復帰に伴う目玉とされた那覇空港返還で、米軍の部隊が日本側の求めによって沖縄・嘉手納に移されるなど、沖縄の負担軽減の名のもと沖縄の中での移転が繰り返されている。
この50年で沖縄でも基地返還が進められてきたが、それでもなお国土面積の約0.6%の沖縄県に、米軍専用施設の約70%が集中している。その面積、約1万8千ヘクタールは東京23区のうち13区を覆うほどの広さになる。その状況は「基地のなかに沖縄がある」とまで言われる。
街のなかにあり「世界一危険」といわれる普天間飛行場が、今のような離着陸が激しい基地になったのは、日本復帰以降のことだ。本土から部隊が移転したうえ、沖縄県内の基地返還で、県内で部隊が移されたり、機能が追加されたりしてきた。
そうしてできた普天間飛行場を、同じ県内に移すのが、辺野古移設計画だ。1995年に米兵による少女暴行事件が起き、普天間を返還すると決めた日米が県内移設を条件とした。日米は負担軽減の象徴と位置づけるが、沖縄では少なくない人たちが負担は減らないと考えている。復帰から50年を迎えたいま、1人当たりの基地負担の割合を試算すると、沖縄は本土の約200倍にもなる。復帰をはさみ、都心部を中心に本土で基地が次々と消え、一部は沖縄に移った。そこには多くの人たちの視界から基地を見えなくさせることで、本土でも広がっていた基地への反発を抑える狙いがあった。その結果、基地問題はその後、全国の問題として考えられなくなった。沖縄では当時も今も、同じように基地への反発はあるが、その声は届かない。変わらぬ沖縄の負担、ではなく、押しつけられた負担――。そうした視点が「沖縄の基地問題」を考えるためには欠かせない。私たちはそう考えている。
かつて米軍基地は、全国で身近にあった。
当時と今の写真を比べると
国営ひたち海浜公園・茨城
代々木公園・東京
味の素スタジアム・東京
JR立川駅北口の市街地・東京
光が丘・東京
皇子山総合運動公園・滋賀
神戸大学・兵庫
雁の巣レクリエーションセンター・福岡
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1971年
2021年
水戸射爆場/国営ひたち海浜公園・茨城
旧米軍水戸補助飛行場(左)。爆撃訓練が行われる「水戸射爆場」とも呼ばれ、爆弾の誤投下や流れ弾で住民の死傷事件が多発した。1973年に返還。国営ひたち海浜公園(右)や商業施設などが造られている。
1964年
2019年
ワシントンハイツ/代々木公園・東京
もともと日本軍の練兵場で、戦後接収されて米軍住宅地区「ワシントンハイツ」(左)が造られた。1964年の東京五輪を機に返還され、選手村として使われた後、67年に代々木公園(右)になった。
1969年
2022年
関東村住宅地区/味の素スタジアム・東京
米軍の補助飛行場の隣接地に、1964年の東京五輪に伴い全額日本側の負担で代々木から米軍住宅が移され「関東村住宅地区」(左)となった。74年に返還され、現在は味の素スタジアム(右)や東京外語大となっている。
1964年
2022年
立川飛行場/JR立川駅北口の市街地・東京
米軍立川基地(左)は極東の重要拠点で、拡張計画に対する住民運動・砂川闘争の舞台となった。一部が陸自に移管され、1977年全面返還。東側はモノレールが通る市街地(右)に、西側は昭和記念公園に変わった。
1968年
1989年
グラントハイツ/光が丘・東京
戦前の成増飛行場が接収され、米軍住宅「グラントハイツ」(左)として使われた。1973年までに全面返還。1.8平方キロもの広大な跡地は「光が丘」(右)と名づけられ、団地や公園、公共施設などが整備された。
1958年
2022年
キャンプ大津A地区/皇子山総合運動公園・滋賀
大津市には米軍が12年間駐留した。1958年に返還されたキャンプ大津A地区(左)はその後皇子山総合運動公園(右)となり、米軍住宅地区は皇子が丘公園として市民の憩いの場になっている。
1957年
2022年
六甲ハイツ/神戸大学・兵庫
神戸大学六甲台第2キャンパス(右)は、米軍将校住宅「六甲ハイツ」(左)の跡地にある。米軍が山林を切り開いた土地で、1958年の返還後に神戸大が取得。各地に分散していたキャンパスをここに集約した。
1965年
2022年
雁ノ巣空軍施設/雁の巣レクリエーションセンター
競技施設が整う雁の巣レクリエーションセンター(右)には、米空軍のブレディ飛行場(左)があった。隣接するキャンプ博多(現・海の中道海浜公園周辺)とともに「雁ノ巣空軍施設」とされ、1977年までに返還された。
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本土では占領が終わった後も18万人以上の米軍が駐留していた。本土で住民の反発が強まる中、米軍統治下の沖縄に部隊が移されていった。
本土の米軍基地は返還や自衛隊への転換で6分の1ほどに。一方、沖縄では本土復帰後も多くの基地が残された
ほぼ現在の配置が固定化。沖縄に米軍専用施設の7割以上が集中