日本の巨匠・奈良原一高を知ってる? 宮沢章夫と観る強烈な写真展

写真家の構えるカメラに正対し、しかし両目を閉じて神と交信するような修道僧。あるいは、女子刑務所の扉の穴から厳しいまなざしを室内へと向ける人物。「ふつうの日常」とはかけ離れたように見えて、これらの写真はセンセーショナルというより、観る側に内省的な問いを喚起させます。『王国』という謎めいたタイトルで同シリーズを世に送り出したのは、1931年生まれの写真家、奈良原一高。この『王国』の全体像を紹介する、東京ではじつに56年ぶりの展覧会が東京国立近代美術館で開催中です。そこで今回、日常と幻想のあわいで世界の複雑さを描き出す『遊園地再生事業団』の劇作家・演出家の宮沢章夫さんと展覧会を体験。宮沢流の読み解きと、彼の研究対象でもあるサブカルチャーの視点からの解釈も交え、『王国』に足をふみいれます。

男子修道院と女子刑務所、2つの極限世界で見る「王国」

待ち合わせの東京国立近代美術館に現れた宮沢さんは、カーディガンにデニムというカジュアルな出で立ち。宮沢さんの名作エッセイ『カーディガンを着る悪党はいない』を思い出し、そのことをお伝えすると苦笑いしていました。

今回の取材にあたり、宮沢さんは事前にメールでこんなことを綴ってくれていました。

「正直、奈良原さんの写真を前にすると言葉を失います。特に、『王国』の一連の写真はすごい。どんな言葉も凡庸になってしまいそうです。それに僕は当然、写真が専門ではないので、むしろ、演劇の身体として観てしまう。でも、とても魅力的な作品です」

奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives

『王国』は、写真家・奈良原一高が、デビュー作『人間の土地』に続き1958年に発表した初期の代表的シリーズの1つ。北海道にある男子修道院と和歌山県の女子刑務所の様子をとらえた2部構成によるものです。両者は対照的ながら、いずれも外界と隔絶された場所。前者は自らの意思で一生をその敷地内で、後者は社会的な裁きを受けて長期間を塀の中で、それぞれ外界から隔絶してすごす人々が写っています。

宮沢:奈良原さんのことを初めて知ったのは、大学生の頃だったかな。単純な感想だけど、まず名前の字面がね(笑)、不思議な感じを持ったのと、やっぱり初期の代表作『王国』は強烈な印象がありました。作品作りにおいて、やはり初期衝動というのは強烈で、作家はそれを乗り越えるべく試行錯誤する面もあると思う。奈良原さんもそういうことはあったと思うんだけど、『王国』については発表以降も何度か再構成してるんですよね。それだけ思い入れのあるシリーズなのかもしれないですね。

「未知の修道院や刑務所だから恐いのではなく、僕らが考える『現世』と違うものを見る恐さがあるように思います」

今回展示されている87点は、1978年にあらためて編集された写真集『王国―沈黙の園・壁の中―』の構成をほぼ踏襲したもの。前半の「沈黙の園」では、北海道のトラピスト修道院での営みをとらえています。建物を背景に大写しした牛に始まり、カメラは生涯を神への祈りに捧げる修道僧たちの姿に迫ります。会場を歩く宮沢さんは、修道士たちが敷地内を静かに歩く様や、その足元のみをとらえた写真に惹かれたようです。

奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives

宮沢:この人たちはどういうスピードで歩いてたんだろう? っていう不思議な感覚を抱きます。ヨーロッパの映画なんかでこういうシーンを見ると、わりとスタスタ歩いている。でもこの写真を前にすると、どこか能の世界のような、ごくゆっくりとした時間の流れを感じる。いわゆる「よくこの瞬間を撮れたな」という意味での「いい写真」ってわかりやすいじゃないですか。だけど、奈良原さんの写真を観ていると、そんな浅薄さだけじゃないとあらためて思います。いい写真というより「いい時間」かな。どこか謎めいたところもあり、こちらの想像力が喚起されます。

宗教といえば、演劇の世界でも聖書の物語が引用されることは多いそうです。それは、クリスチャンではない宮沢さんのような方を含めてそうだとのこと。

宮沢:個人的には、ある時期まで、付き合う彼女がなぜかほぼ全員クリスチャンかそこに関係のある人だった、という不思議な縁はあるんですけど(笑)。ともあれ、演劇で宗教書の引用が行われるのは、1つには劇性を生みやすいというのがあって、だからこそ安易に使ってはだめだと思いますね。でもそこでは、普遍的で正直な言葉から喚起されるものが多いのも確か。奈良原さんもキリスト教徒ではないようだし、この作品も特定の宗教に焦点をあてたわけではないでしょう。さらに演劇で言えば、寺山修司に近い世界観も感じました。寺山の作品は詩も短歌も演劇も、ごくあたりまえの日常を揺るがすような幻想性があり、少し見方を変えると恐い側面がある。奈良原さんの写真も、単に未知の修道院や刑務所だから恐いのではなく、僕らが考える「現世」と違うものを見る恐さがあるように思います。

宮沢章夫
宮沢章夫

未知の世界の一端を覗くような好奇心もそそられますが、やがてこれらの写真からは、それだけではない何かが迫ってきます。

宮沢:修道僧はフードで顔がよく見えなかったり、そうでなくても目線はけしてこちらに向いていなかったりして、じつは彼らの表情は結局よくわからないですよね。でもだからこそ、その内面に想像力を掻き立てられるところがあります。厳しい規律のもとで暮らす彼らを前に、時間にだらしない自分が「申し訳ない」と思ったりもしつつ(苦笑)、同時にどこかで僕自身を投影しながら観るような写真でもある。

会場には、1958年に『王国』が初掲載された論壇誌『中央公論』などの資料も展示。当初は奈良原自身のテキストも添えられ、ルポルタージュとしての性格も強い作品として発表されました。しかし、2度の写真集化のなかで説明的な要素は削ぎ落とされてゆき、より抽象度を高めていったようです。また奈良原はこうした自身の写真を「パーソナルドキュメント」と呼んだそうで、彼にとって撮ることとは、自らの生を考え、とらえ直すことでもあったのでしょう。彼が『王国』を撮影したのは、美術史を学ぶ大学院生時代、20代後半でした。

同世代からの賞賛と、前世代からの批判。奈良原流「パーソナルドキュメント」が描き出した新しいリアル

後半の展示「壁の中」は、和歌山の女子刑務所を撮影した写真群です。ここでも、観る者は最初の1枚から心を強く引き付けられます。そこに写るのは、監獄のドアに開いた監視窓から、鋭い視線を送る女性。

奈良原一高『「王国」より壁の中』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より壁の中』 ©Narahara Ikko Archives

宮沢:何が印象的かって、覗き窓の上にカレンダーが貼られている点ですね。修道士とは違い、彼女たちは出所を待ちながら暮らしている。暦は1956年……僕が生まれた年だ(笑)。でもカレンダーがこちら側にあるということは、この女性は外から監獄内を覗く監視係でしょうか。でも、こう撮るには囚人側にカメラマンがいなければならず、よく考えると不自然というか、普通には撮れない視点のような気もします。

たしかにここに並ぶ女子刑務所の写真は、構図が洗練されていたり、窓際に女性誌が並べられていたりするなど、構成的な要素を強く感じるものもあります。当時、奈良原の写真は同世代の若手評論家たちに絶賛された一方、上の世代の写真家たちからは、そうしたことを含め批判的な声もあったとか。たとえばリアリズム写真を追究した土門拳は奈良原のデビュー作『人間の土地』について、「生活から遊離した抽象化はやりきれないな」と評しています。

なお、今回の取材に同行してくれた本展担当学芸員の増田玲さんは、こう話してくれました。

増田:戦後に登場してきた奈良原さん世代の写真家たちは、それまでにない映像感覚が特徴の1つと言われていました。それは今回、写真集の構成を展示空間化したことであらためて体感できると思います。でも土門拳さんたちの世代のリアリズム的な価値観からは、受け入れ難い部分もあったのでは。奈良原の写真と方向性はまったく違いますが、そうした構成的なアプローチの写真が戦時中にプロパガンダとして使われてしまったことへの忸怩たる想いもあったのかもしれません。

奈良原一高『「王国」より壁の中』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より壁の中』 ©Narahara Ikko Archives

宮沢さんはお話を聞きながら、「でもここには、作品と対峙することで観る側の内に出現する何かがある」と語ります。

宮沢:奈良原がこの作品を撮っていた1950年代の人々の感じ方と、今この作品を観ている僕らの感じ方に必ず違いはあるはずで、それは理解しておくべきだと考えます。さらに人それぞれ違う想像が働くものだけど、それは主観だとしても、すごく大きなものですよね。『王国』は、2つの特殊な世界に切り込んでいるけれど、これらが並ぶことによって、そこに別の効果が出現していると感じます。先ほど、この作品が当時掲載された『中央公論』の展示も見ましたが、論壇誌が当時の知的層に与える影響力って、今では想像できないくらいの強さがあったはずです。この点でも、反響の大きな仕事になったのだろうと想像します。当時はルポルタージュ的性格が強かったとのことですが、こうして観るとドキュメントというより、絵画に近い何かを感じました。それは後半、顕著になってゆきますね。

奈良原一高『「王国」より壁の中』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より壁の中』 ©Narahara Ikko Archives

奈良原が撮りたかったのは、修道院や刑務所という特異な場所のドキュメントというより、それを通して見えてくる「自分たち自身=人間」の普遍的な問題だったのでしょうか。2つの対照的な場所を同時に見せる構成も、いわばその効果を強化・増幅させる仕掛けであるようにも思えます。「パーソナルドキュメント」の「パーソナル」が指すのは特定の被写体というより、自分自身、あるいはより普遍的な「個人」なのかもしれません。

奈良原と写真の出会いは「サブカル元年」とシンクロする?

ところで、宮沢さんと言えば、近年はテレビ番組で日本の戦後サブカルチャー講義を行うなどの活動でも知られています。そうした視点からは、奈良原の写真にどんなものを見て取ることができるでしょうか?

宮沢:よく使われる「サブカル」という言葉は1991年に、雑誌の『SPA!』で生まれました。つまり、「サブカルチャー」から「サブカル」への変容ですが、単なる言葉の変化ではなく、意味も異なると僕は考えています。「サブカルチャー」の定義は人によって様々ですが、僕はそれを、1956年に生まれた概念だと考えているんです。アメリカでも、1950年代の半ばに生まれたと捉えられることは多いようですね。

1956年は、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』が1月に大ヒットし、ロックンロールという言葉が生まれ、アレン・ギンズバーグが詩集『吠える』(1956年)を出版し、ビートジェネレーションが登場する時期です。日本では、石原慎太郎の小説『太陽の季節』が『芥川賞』を受賞し、「太陽族」が登場した年。表現として一括りにはできませんが、自身の内に問いかける声に対峙し、旧来とは異なる何かを発動させる、またそれが「何かとの出会い」で始まったことは共通しています。

宮沢:「ロックンロール」は、黒人音楽と白人が出会うことで出現したという歴史がある。ギンズバーグは精神病院で出会った詩人のカール・ソロモンによって新しい詩への契機を与えられた。真面目な苦学生だった石原慎太郎にとっては、それが奔放な弟・裕次郎だったはずです。奈良原さんの作品は当然、ファインアートですが、1956年に最初の個展を開いたというのを今回知って感じたのは、たとえ無意識だったにせよ、同時代における共時性をともなった感覚があったのではないでしょうか。

宮沢章夫

『王国』に取り組むきっかけになったと言われる、奈良原のデビュー作『人間の土地』は、美術史を学んでいた大学院生時代、長崎沖の炭鉱の島(通称:軍艦島)や、桜島の火山地域で灰と共に暮らす黒神集落など、過酷な条件で暮らす人々を撮った作品ですが、その出会いと経験が、写真家・奈良原一高を誕生させたのかもしれません。なおこのデビュー作『人間の土地』は、同館の所蔵作品展『MOMATコレクション』にて同時に展示されています。

宮沢:『人間の土地』で、すでに2つの場所を並べるコンセプトを実践していますよね。所蔵作品展『MOMATコレクション』でも展示されている1970年代のニューヨークで撮影したシリーズ『ブロードウェイ』も含めて、以降の写真も今回の取材を機にいろいろ見てみました。その後、ヨーロッパやアメリカにも渡航するなかで、時期と共に作品も当然変化はし続けたでしょう。どちらかというと、洗練さや演出的な効果が、よりわかりやすくなっていく印象がありました。ただ僕はやはり、『王国』の持つあの強度にすごく惹かれるんです。

「『今日は何もない日だった』『私の人生、何にもなかった』なんて、本当はあり得ない。丁寧に辿っていけば、色んなことが見えてくる」

奈良原は幼少期に第二次世界大戦を体験しており、敗戦の際、昨日まで頻繁に飛来したB-29が急に消え、何もない空を取り戻したことに、どちらが日常で、どちらが異常なのかという奇妙な感覚に襲われた、という逸話もあります。そうした体験も彼の写真に影響を与えたのでしょうか。

宮沢:信じられないことが起こり、でも意外なほどそれもまた普通になってしまう。僕らの世代だとソビエト連邦の解体がそうでしたね。ただ奈良原さんの写真から、いわゆる政治的な匂いはまったく感じません。表現における政治性の欠如が批判された時代も、その真逆の時代もあったけれど、ブレずにこれだけ一貫している人も凄いと思う。ただそこにあるようなものを「見つめる力の強さ」、集中してものを見る強靭さは突出していると感じます。

奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives/span>

宮沢さんが戯曲やエッセイで見せる「この世界への眼差し」も、極めて特殊な才能といえるはずですが、「僕は、みんなが見ているものをすくい上げるようなやり方。だいぶ性質は違いますね」とのことでした。ただ、自分とは違うからこそ、刺激される部分は大いにあると語ります。

宮沢:たとえば、『王国』に見られるあの静謐さ。写真とは当然「静」止画だけど、賑やかさも出そうと思えば充分可能なメディアじゃないですか。けれど、奈良原さんの写真はとても静か。その中を流れる音、あるいは時間かもしれませんが、とてもゆったりしている。ある瞬間を引き延ばして世界を見つめる、そんな写真ではないでしょうか。よく「今日は何もない日だった」「私の人生は何もなかった」なんて言うことがあるけれど、本当は絶対にそんな人生も、そんな1日もないはず。1つずつ丁寧に辿っていけば色んなことが見えてくる。奈良原さんの写真は、そういう世界の存在を、1枚の写真の中に見せてくれるようでもあります。

「パーソナルでありながら、パースペクティブの大きい写真を、20代の若さで撮れたのはすごい。そうした点も僕にとって謎であり、魅力に思えることの1つです」

写真というメディアで、先行世代とは異なる表現・思考を目指した奈良原の姿勢を、宮沢さんはどう感じたのでしょうか?

宮沢:僕が関わる演劇の世界もそうだし、おそらく写真も含めて、多くの表現は「文学」からいかに遠ざかるか? が1960年代からの大きな課題だったと思うんです。ものを作ることにこだわる人間にとっては、たとえば「近代」のような分厚い力にどうしたって引っ張られるところがあって、文学という芸術もそうした力の1つだったでしょう。ただ、「演劇=戯曲」ではないように、写真にしかできないことが必ずある。たとえば僕は今日、本来「音」を伝えられないはずの写真から、音すらも聴こえてきそうだったり、そういった感覚がありました。でも、そこで僕がちょっと引っかかったのは、なぜ『王国』の発表に際して、カミュの小説の引用をしちゃったのか、ということです。

奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives
奈良原一高『「王国」より沈黙の園』 ©Narahara Ikko Archives

宮沢さんが指摘したのは、今回の展示冒頭でも壁に記された、アルベール・カミュの中篇小説集『追放と王国』(1957)からの一節。同書内の一篇「ヨナ」の結びにある以下のテキストを、奈良原は作品発表当時にも引用しています。

「その中央にヨナは実に細かい文字で、やっと判読出来る一語を書き残していた。が、その言葉は、Solitaire(孤独)と読んだらいいのか、Solidaire(連帯)と読んだらいいのか、分からなかった」

宮沢:やっぱり、この一連の写真をまとめるにあたって、奈良原さん自身が喚起された言葉だったんでしょうか。孤独と連帯か……1950年代は運動体としての美術や文学が盛んだった時代という印象があります。あるいは政治運動もそうですね。そのなかで「個」はどう存在すべきか? といった問いのなかで生まれた写真でもあるとも読める。

それでは最後に、今の若い世代に対して、何か鑑賞のアドバイスなどあるでしょうか?

宮沢:うーん、難しいですね……。ただ、こういうことは言えるかもしれません。奈良原さんの写真は、世界観のパースペクティブが大きい。これは小説でも演劇でもそうだけど、ごく身近な、狭い世界に作品を収めるだけではどうかと思うし、じゃあ政治的な内容なら「でかい話」になるかといえば、それだけでもない。その点、奈良原さんがこういったパーソナルでありながら、パースペクティブの大きい写真を、しかも20代の若さで撮れたのはすごい。そうした点も僕にとって謎であり、魅力に思えることの1つです。

宮沢章夫

今回、展示作品を前に「喚起」という言葉がたびたび宮沢さんから聞かれたのも印象的でした。たしかに「何かを喚起させる写真」というのは、奈良原作品の根底に流れる力のように感じます。冒頭に紹介した宮沢さんからのメールは、以下のように結ばれていました。

「現代の芸術というか、表現は、すべてにおいて、共通した課題を抱えていますね。それを越えようと、さまざまな分野の人が表現について考えている。いろいろな方法でそれを考えているし、考え方、というか考える方法も様々です」

この言葉は、あたかも奈良原がかつて語った「写真家は撮る事によってかんがえてゆきます」というフレーズに呼応するかのようです。表現について考えるすべての人に、ぜひ訪れてみてほしい展覧会です。

イベント情報
『奈良原一高 王国』

2014年11月18日(火)~2015年3月1日(日)
会場:東京都 竹橋 東京国立近代美術館2F ギャラリー4
時間:10:00~17:00(金曜は20:00まで、入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜(1月12日は開館)、12月28日~2015年1月1日、1月13日
料金:一般430円 大学生130円
※高校生以下および18歳未満、65歳以上、キャンパスメンバーズ、MOMATパスポートをお持ちの方、障害者手帳などをご提示の方とその付添者1名は無料
※2015年1月2日、1月4日、2月1日、3月1日は無料観覧日

書籍情報
『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』

2014年10月10日(金)発売
編著者:宮沢章夫、NHK『ニッポン戦後サブカルチャー史』制作班
価格:1,944円(税込)
発行:NHK出版

プロフィール
宮沢章夫 (みやざわ あきお)

1956年、静岡県生まれ。劇作家・演出家・作家。「遊園地再生事業団」主宰。1980年代半ばに竹中直人、いとうせいこうらとともに「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を結成。作・演出を手がける。1990年「遊園地再生事業団」の活動を開始し、1993年『ヒネミ』で『岸田國士戯曲賞』、2010年『時間のかかる読書』で『伊藤整文学賞評論部門』を受賞。主な著書に『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文藝春秋)、『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(新潮社)、『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜ライブラリー)などがある。



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