重要文化財施設で開催された、アートフェアにはまったく見えない破天荒な試み
ここ数年、観光や地域振興と結びついたトリエンナーレや芸術祭が急増したが、美術品売買を目的とするアートフェアが一般的に知られるようになったのも近年の大きな変化だといえるだろう。イベントホールを白い仮設壁で区切り、そこに国内外の主要ギャラリーがブースを並べるのがアートフェアの標準的な風景だが、2月24日と25日に京都で開催された『ARTISTS’ FAIR KYOTO』は、そのどれとも似つかない。というより、まったくアートフェアに見えない。
『ARTISTS’ FAIR KYOTO』の会場となった京都文化博物館別館
重要文化財である京都文化博物館別館の広い吹き抜けの空間に、dot architectsの設計による鉄パイプと足場とフェンスで作った2階建ての構造物がそびえ立ち、その内外にペインティングや彫刻、インスタレーションといった出品作がびっしりと並ぶ。その風景は、まるで「アートによる歴史的建造物の不法占拠」といった趣きだ。
さらに面白いのは、参加するのがギャラリーではなく、アーティスト個人であること。約50組の作家ほぼ全員が作品前に常駐し、来場者やコレクターと作品販売のやり取りを直接行い、会場はまるで戦後の闇市のような活気に満ちている。
プレス内覧会時の会場内の様子。会期中は一時入場規制されるほどの盛況ぶりだった / Photo:前端紗季
VIPも一般人もアーティストも、みんな等しく大混乱に巻き込まれる、この破天荒なアートフェアは、どのような意図で実現に至ったのだろう? ディレクターである椿昇に話を聞いた。
椿:これまでにも京都市内ではいくつかのアートフェアがありました。それも受けて今回の企画が立ち上がったのですが、はっきり言ってアートフェアをやる気はさらさらなかったんです。
『ARTISTS’ FAIR KYOTO』でやろうとしたのは、新しいシステムを立ち上げること。ギャラリーがあり、アーティストがいて、ミュージアムがあるっていう構造は既にあるものだけど、予算減や企画内容の硬直など、日本のいたるところで限界を迎えている。
その一方、中国を中心とするアジア各国は経済力を確実に高めていて、日本の存在感はますます弱まっている。だからビットコインのような新しいシステムを作らないと、僕らはアートの世界で勝てないと思ったんですよ。
椿昇(『ARTISTS’ FAIR KYOTO』ディレクター)
「アーティストが自ら作品を売るシステムは、言ってみれば作家から顧客へのアートの産直販売(笑)」(椿)
自身も1980年代から活躍するアーティストである椿の発言には、実感が強く伴っている。椿によると、1990年代以降の日本人作家の代表作の多くが海外コレクターやアジアの巨大美術館に購入され、日本の美術館に収蔵されている数はごくわずかなのだという。
国際的なアートマーケットでは、有名美術館が大型個展を開催し、かつ作品を所蔵することで、作家と作品の知名度と市場価値は保証される。それが安心材料となって、コレクターたちは変動の少ない優良商品として現代アートを買い求めるようになる。
したがって、国内美術館に収蔵される機会に恵まれない日本人作家の作品は、自国内において市場価値が保証されにくく、なかなか収集の対象にならない。コレクターたちにとって、日本の作品は投機する商品として魅力的に映らないのだ。
椿:原因はもちろん日本の経済力の減衰であるけれど、旧態依然としたシステムの変わらなさのせいでもある。だから今回は、アーティストが自ら作品を売るシステムを採用したわけ。言ってみれば作家から顧客へのアートの産直販売(笑)。
いまやインターネットで国境を越えて直結できる時代でしょう? 日本のアートにも革命が必要なんですよ。実際、美術館の館長やキュレーターがアーティストになることは、海外では珍しくない。だったらアートフェアも自分たちでやってもいい!
「京都ではオルタナティブであることが普通なんです」(金氏)
さまざまに型破りな『ARTISTS’ FAIR KYOTO』だが、とりわけ特徴的なシステムを紹介しておこう。椿は全体を統括するディレクターだが、その他に「アドバイザリーボード」という耳慣れないポジションがある。そこには金氏徹平、塩田千春、名和晃平、ヤノベケンジといった、第一線で活躍する12名の作家たちが名前を連ねている。
会場外には風変わりな石焼き芋屋の車が着けられ、アートユニット・ヨタのパフォーマンスが行われた
アドバイザリーボードのメンバーは、それぞれが20~30代前半の若手アーティストを数名ずつセレクトし、一部の例外を除いて、ともにこのフェアに出品者として参加する。つまり、ここでもアーティストによるアートフェアというアイデアが徹底されているのだ。アドバイザリーボードの一人である金氏は、小松千倫、NAZE、矢野洋輔の三人をセレクトした。
金氏:椿さんからはまだギャラリーに所属していないアーティストを選んでほしい、と言われてちょっと悩みました(笑)。でも考えてみると、関西ってギャラリーアーティストではない人のほうが多いんですよ。
東京には大小のギャラリーがひしめいていて、そこで展示をすることが「勝負」って感じですよね。だけど、京都ではオルタナティブであることが普通なんです。
みんな誰から頼まれることもなく自前で展覧会をやったり、遊びでもするみたいにプロジェクトを立ち上げている。その自由な空気があるから、実験することを恐れないし、失敗しても気にしない。結果的に、それが海外での活動展開につながっていくこともあるんです。
コンパクトで個人主義、長い歴史を持つ京都の街は、アーティストに東京とは異なる視野を与えてくれる
ここ数年、東京から地方に拠点に移すクリエイターやアーティストは多い。そこには文化庁の京都移転や、2020年の東京オリンピック開催という、大きな変化の影響があるかもしれない。だが、やはり昨年東京から京都へと生活拠点を移した私自身の体感で言うと、じっくり時間をかけて創作に向き合いたいアーティストたちにとって、京都が理想的な制作環境であることも、また大きな理由と思われる。
サテライト会場となっていた前田珈琲の店内。参加作家の作品がごく自然に展示されている
京都の街のコンパクトさが生むつきあいの親密さと、ほどよく放任し黙認してくれる個人主義。また、長い歴史を持つ京都の芸術・文化の深度は、情報とトレンドがたえまなく往き交うメガシティ東京とは異なる視野を与えてくれる。そしてそれは、作家と作品に強さと批評性をもたらす。
例えばそれは、出品者であるNAZEの作品に見てとれる。グラフィティーに代表される、ストリートで展開されてきた表現の身体感覚や環境への適応力を特徴とする彼の作品は、ジャングルジムのように入り組んだ空間のなかでいきいきと展開している。
NAZE:僕の作品のスタイルだと、きっちりしたギャラリースペースよりも、こういうフェンスで囲まれた空間のほうがやりやすい感じがあります。自分の作品越しに他の人の作品が見えるのも面白い。ドローイングやグラフィティーを描くスピード感は、「焦り」を僕の身体や感情に与えてくれて、直感が研ぎ澄まされる。それが作品に深みを加える気がします。
NAZEは、殴り合いのようなアクションを振付として提示するグループcontact Gonzoのメンバーでもあるのだが、パフォーマンスという別の領域で培われた直感力が、今回のような変化球的空間でも生きているのが面白い。関西のアーティストの層の厚さ、多ジャンル間の交流の活発さが、NAZEの作品から垣間見える。
「『ARTISTS’ FAIR KYOTO』は、はっきり言ってテロなんです」(椿)
大勢の来場者でごった返す会場ではNAZE以外にも興味を惹かれる作品がたくさんあった。もう少しだけ『ARTISTS’ FAIR KYOTO』出品作家の声を紹介していこう。
薄久保香の推薦で参加した皆藤齋は、ナルシズムをテーマにペインティグを描いている作家だ。
皆藤:私の考えるナルシズムっていうのは、悲しみやみじめなところも含めて主張していくこと。だから恥ずかしい格好をしている人も、絵のなかでは堂々としている。それと、このシリーズでは男性が画題になっていますけど、じつは自分自身と同化させて描いているところがあります。女性である私が、絵のなかでは自由に性や存在を入れ替えたり行き来できるんだ、ってイメージを大事にしているんです。
男性が排泄したり緊縛されたりするアブノーマルな描写にも目を奪われるが、その他の「虎」や「スマホ」といったモチーフとの関係のフラットさは、セクシャルな倒錯感や湿っぽさをいたずらに強調しないバランス感を作品にもたらしている。詩人の男が虎に変身してしまう小説『山月記』からの引用も、「#MeToo」が話題になる時代の、新たな性意識を反映しているのかもしれない。
皆藤の他には、たくさんの人たちにバナナについての説明・解釈を依頼し、それを設計図図のようなドローイングに再構成する堀川すなお(塩田千春 推薦)。
デジタルデータや版画のメディア的特性を逆手にとった写真・映像作品を手がける迫鉄平(高橋耕平 推薦)。
在日韓国人である自身のアイデンティティーを、伝承・習慣などを踏まえて写真化する金サジ(澤田知子 推薦)など、それぞれの方法で、既存の社会的尺度やものの見方からジャンプしようとするアーティストたちが『ARTISTS’ FAIR KYOTO』には集まっている。
椿:僕のなかで『ARTISTS’ FAIR KYOTO』は、はっきり言って「テロ」なんです。でも、テロは成功すると革命と呼ばれて、歴史的な転換点として人類に記憶される。スティーブ・ジョブズがガレージでAppleを起業したのも、巨大なIBM帝国に一人でイタズラを仕掛けたようなものでしょう? それが成功したとき、一気に世界の価値観は変わるんです。
椿:準備期間中、「マジで!?」と驚くような出来事が本当にあったんですよ。今回のスペシャルパートナーであるUBSは、スイスの巨大アートフェア『アート・バーゼル』に協賛してることでも有名ですが、これまで日本のフェアを支援したことはありませんでした。断られるのを覚悟でプレゼンに行って「新しい仕組みを作りたい!」「アートフェアをやりたいわけじゃないんだ!」と熱く訴えたら、なんとサポートしてくれることになった!
たぶんその理由は、「儲かりそうだから」とかじゃなくて、アイデアの奇抜さに共感してくれたからです。それこそ、最初にFacebookに投資した誰かのようなマインドでね。こういう風に、新しい時代が動き始めるんですよ。
椿は、2001年に開催された最初の『横浜トリエンナーレ』で、海沿いにそびえるインターコンチネンタルホテルの側面にバルーン製の巨大なバッタを止まらせるというプロジェクトを実行したことで知られるが、彼の作品にはつねに日常や社会をアートの手段で転覆させるテロリズム的姿勢が貫かれている。そしてそれは、今回の『ARTISTS’ FAIR KYOTO』でも健在であるようだ。内覧会が始まる前、椿は筆者にこう打ち明けてくれた。
椿:言ってみればこの展示空間は巨大な一つのインスタレーションなんです。だから最高の希望としては、出品されている作品も構造物も全部含めて、5億円で一人のメガコレクターに買ってほしい。そうしたら「一人を除いて誰も買えなかったアートフェア」という伝説が生まれる(笑)。
もしそれが実現したら鳥肌が立つでしょう? 本来アートって、太古から続くアミニズムや人類が持つ本能や暴力性に結びついた呪術的なものなんです。マネーにとらわれた現代社会やアートシーンで、そのマネーのシステムを利用してひっくり返し、アート本来の力を回復するっていうのはアーティストとしての自分のテーマでもあるし、『ARTISTS’ FAIR KYOTO』にかけた願いでもあります。アートはね、エマージングでアンリミテッドでデンジャラスなものなんですよ!
メイン会場の京都文化博物館別館と、BLOWBALL(綿毛の意味)と呼ばれる京都市内の複数箇所で行われるサテライトイベントで構成された今回の『ARTISTS’ FAIR KYOTO』。椿によると、次回の開催もすでに決定済みとのことだ。
好奇心を優先して生きるアーティストたちが主導する催しゆえ、今回の破天荒さが次回もキープされるのか、あるいはもっと別のかたちに突然変異していくのかは未知数だ。だが、京都を騒がせるアートの「事件」がしばらく続くのは間違いない。来年の開催を期待して待ちたい。
- イベント情報
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- 『ARTISTS' FAIR KYOTO』
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2018年2月24日(土)、2月25日(日)
会場:京都府 烏丸御池 京都文化博物館 別館
時間:10:00~18:00
料金:1,000円
- プロフィール
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- 椿昇 (つばき のぼる)
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京都市立芸術大学美術専攻科修了。1989年のアゲインストネーチャーに「Fresh gasoline」を出品、展覧会のタイトルを生む。1993年のベネチア・ビエンナーレに出品。2001年の横浜トリエンナーレでは、巨大なバッタのバルーン《インセクト・ワールド-飛蝗(バッタ)》を発表。2003年、水戸芸術館にて9.11以後の世界をテーマに「国連少年展」。2009年、京都国立近代美術館で個展「椿昇 2004-2009:GOLD/WHITE/BLACK」を、2012年、霧島アートの森(鹿児島)にて「椿昇展“PREHISTORIC_PH”」を開催。2013年瀬戸内芸術祭「醤+坂手プロジェクト」ディレクター。青森トリエンナーレ2017ディレクター。
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