あなたへ
さっきまで、此処にいたのにね
あの子を駅まで送り届けて、家へと帰って来た私は、
無意識に小さく呟きました。
つい先程まで、あの子が使っていたマグカップを見つめてみれば、
ほんの少し前に、
此処で聞こえた笑い声が聞こえた気がして、小さく微笑んで。
帰っちゃったね
あなたに手を合わせながら掛けた声は、
静まり返った部屋の中にやけに響いて、
賑やかな時間は、
既に過去の出来事となっていることを静かに私に知らせました。
ひとりで食事を摂ることなど、とっくに慣れた筈だったのに、
此処から出発する時に、
あの子に持たせた料理の残りを晩ごはんとして食べた時間には、
無意識に、ほんの少し前まで聞こえていたあの子の声を探しました。
就寝前には、
あなた以外におやすみを言う相手のいない夜が、
まだ慣れぬ時間であるかのように、
思わず小さな声で、おやすみを繰り返して。
時計を見ては、
昨日の今頃は、あの子と一緒に笑っていたな
昨日の今頃は、一緒にコーヒーを飲んでいたなって、
24時間前の記憶を反芻しては僅かに微笑みながらも、
胸の奥に聞こえたのは、
笑みとは裏腹の隠し切れない本当の声でした。
此処に帰って来た時用に置いてある着替えを畳んで、
あの子の部屋の箪笥に仕舞う時は、
あの子が此処から巣立ったことを改めて実感しました。
そっか。
あの子と一緒に暮らす日は、もう終わってしまったんだなって、
小さく呟いた自分の声は、
私が思っていたよりもずっと、本当は寂しがっていることを私に気付かせました。
胸の奥にギュッと押しつぶされそうな痛みを感じながらも、
これからのあの子の成長が楽しみだねって、
寂しがる自分に声を掛けてみれば、
やっぱり私は、笑顔になってしまうのだと、
胸の痛みと喜びとを同時に感じたのでした。
少し前の時間を振り返っては、
ギュッと胸の奥が掴まれるようだった感覚も、
日に日に小さな痛みへと変わっていき、
やがて、傷口が治癒するかのように、
いつの間にか、痛みはすっかりと治まっていきました。
これは、ゴールデンウィークが終わり、
あの子が帰った後の私が感じた気持ちでした。
我が子が巣立った後、初めての里帰りの後には、
こんな気持ちがするんだなって、
そこに感じるもの全てを、大切に受け止めてきました。
これら全ては、
あの子が巣立った後の気持ちとはまた違う、初めて感じた気持ち。
あの気持ちを反芻すれば、
ほんの少しだけ、涙が込み上げてきそうなのに、
あの子の成長が、やっぱり嬉しくて。
涙の代わりに溢れるのは、笑みなのです。
手を伸ばして、
もう一度だけ触れてみたくなるような、
素敵な一瞬一瞬を過ごすことが出来たからこそ、
あの気持ちを感じることが出来たとも言えるのでしょう。
私の胸の中には、また新たな素敵な思い出が蓄積されて、
それを振り返る時間の中に、新たな胸の奥の痛みを知りました。
素敵な時間と胸の奥の痛み。
その両方ともが、私の大切な宝物なのです。
あなたと2人で感じてみたかった、
あの気持ちが色褪せてしまわぬように、
今日は、初めて感じた気持ちを大切に振り返りました。