「中学時代のカオルは苦しんでいた」 三笘薫の苦悩、川崎アカデミー同期が明かす秘話「ベンチメンバーに落とされて…」

川崎アカデミー時代の三笘薫(左)と瀬川ヤーシャさん【写真提供:瀬川ヤーシャ】
川崎アカデミー時代の三笘薫(左)と瀬川ヤーシャさん【写真提供:瀬川ヤーシャ】

【インタビュー前編】川崎アカデミー同期・瀬川ヤーシャさんに訊く三笘の若かりし頃

 イングランド1部ブライトンでブレイクした三笘薫は、2020年の川崎フロンターレ入りから瞬く間に成長を遂げ、現在は日本トップクラスの選手としてその名を轟かせている。そんな25歳の人物像に迫るべく、川崎アカデミー(ジュニア~ユース)で共闘した瀬川ヤーシャさん(以下、ヤーシャ)に当時のエピソードを訊いた。若き頃の三笘は一体、どんな印象を振りまいていたのだろうか。(取材・文=江藤高志)

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「僕が川崎のジュニア(U-12)に入ったのは小4の終わりのタイミングでした。通常からは1年遅れで3期目。同級生のカオルは飛び級で入ったので1期生ですね」

 かつて川崎の下部組織で得点を量産したヤーシャは、そう言って若かりし頃のエピソードを語り始めた。今でもはっきりと印象に残っているのが、はじめて挨拶したときの一コマ。三笘の言葉がすぐには信じられなかったという。

「僕が入った時にカオルは飛び級で1つ上の代でプレーしてたので、フロンタウンさぎぬまで練習した時に顔を合わせるくらいでした。それで半年とか1年後くらいですかね、最初にカオルと話した時に『タメだよ(同級生だよ)』って言ってきて信じられなかったんです。『ウソだ!』って(笑)」

 三笘が同級生だと主張したその言葉を、ヤーシャがすぐに受け入れられなかったのには理由があった。それは田中碧(現デュッセルドルフ)と初対面した際の出来事にある。

「フロンターレでの練習初日、当時はみんなと握手するという決まりがあって、アオから『こんにちわ』って挨拶されて。『俺もスペインとのハーフなんだ』って言われたんです。『同じハーフだね』って。確かに濃いんですよ、顔(笑)。昔はもっと濃くて、それで『えっそうなんだ』って信じちゃって。

それもあって仲良くなったんですけど、よく聞いたら『嘘だよ』って言われて(笑)。それをいまだに言ってるのが、うちの両親です(笑)。『あいつ嘘ついたよな(笑)』って言ってます。もちろん笑い話にしてるんですけどね。うちは父がイランで、母が日本です。

でも、当時のチームでは僕が最初のハーフなんで、みんなも興味を持ってくれたのと、ユーモアも合わせて、多分そういうジョークになったんだと思います。そんなアオとのやり取りがあってのカオルの話だったので『タメだよ』って言われても、最初は信じられなかったんです。サッカーも上手かったですしね。でもそういうことがあったので、すぐに馴染めました」

 そんな三笘の武器といえば、一級品のドリブル技術が真っ先に思い浮かぶ。もっとも、端からドリブラーだったかというとそうではない。小学校5年時の三笘はパサーだったと、ヤーシャは振り返る。

「トレーニングではまず、小さなサッカーボールでリフティングをして、それが終わったらコーンの間をドリブルで抜く練習を1時間ぐらいやるんです。カオルと岸(晃司・現エブリサ藤沢ユナイテッド)は技術では一番上手かったです。

当時のカオルはパスに特化してました。ボランチでパスを捌いていたんですよね。小6の時にはキャプテンでしたけど、いわゆるキャプテン像っていう感じではなくて、単純に一番上手かったから。でも、プレーで引っ張ってくれる存在というか、一番落ち着いてプレーできていて、安心感がある存在でした」

 当時の髙﨑康嗣監督に率いられた川崎U-12はとにかく強かった。ヤーシャ曰く「ダノンカップで優勝。小5のJA全農チビリンピックも勝っていた」というチームで三笘は主将を任されたものの「こだわりがある感じではなかった」(ヤーシャ)。

パサーからドリブラーへ、こだわりが出始めた中学生時代

川崎アカデミー時代のエピソードを語ってくれた瀬川さん【写真:江藤高志】
川崎アカデミー時代のエピソードを語ってくれた瀬川さん【写真:江藤高志】

 三笘にドリブルを勧めたのは、当時川崎U-12を率いていた髙﨑だった。パスではすでに局面を変えることができていた三笘に、ドリブルで相手を剥がし局面を変えてほしいと、指導したという。三笘自身はドリブルを好んでおり、全体練習が終わったあとにチームメイトを捕まえて、1対1を繰り返していた。

「カオルはドリブルが本当に好きでしたね。全体練習が終わって、遊びで1対1。とにかくドリブルで勝負するのが好きで、当時から島崎(竜・元USLニューイングランド・レボリューション2)や隼(長谷川隼・現カマタマーレ讃岐)を相手にずっとやってました。怪我明けでやるなって言われてもやってましたね。今考えるとあれが良い練習になってたんだと思います」

 そう話すヤーシャは、三笘にドリブルへのこだわりが出てきたのは中学時代だと見ている。

「その当時は後藤さん(静臣・現川崎スクール・普及部マネージャー)が見ていて、よりドリブルに対してこだわるようになったんです。ただフィジカルの差で、半歩ずらせるけど追い付かれたりして。だから中学時代のカオルはちょっと苦しんでいた時期だったと思います」

 体格面での成長の差による壁にぶつかりつつも、それを乗り越えてユースへと昇格した三笘は、高校時代にも困難な時期を過ごしている。

「高2の時に一度ベンチメンバーに落とされています。ピッチ外ではおっとりしてるんですが、あの性格なんで、ピッチ上で上手く行かない時に熱くなるんですよね。『くそっ!!』てなるととにかく視野が狭くなってしまって。だから、パスを出せるのに抜けるまで仕掛けてそれで止められて……という悪循環に陥ることがありました。

悪い言い方をすると自己満。半歩ずらしてパスを出せるんですけど、わざと相手を食い付かせて切り返してかわす。それで、結果的にゲームを壊すようなことになるんですよね。そういう時期があって、ベンチメンバーに落とされた時期がありました。でも、当時からドリブルにはこだわっていて、抜き切るっていうところがカオルにとっては大事だったんだと思います。ちなみにたまに出てくるパスは、ピタリと足もとに来てました。そのあたりの精度は高かったです」

「筋トレをすると身体が重くなる…」アカデミー時代の身体つきはほっそり

 高校時代からトップの合宿に参加していた三笘の当時の写真を見ると身体つきはほっそりしている。それが大学在学中に筋力トレーニングの知識を得るのだが、アカデミー時代はどうだったのだろうか。

「ユースの時は、日曜日に試合があると月曜日がオフで、火曜日がフィジカルの日になります。メニューが12種目くらいありました。2人1組になって12種目全部やって終わり。ベンチプレス、スクワット、腕立て伏せ……あらゆるメニューをやっていました。その当時の僕らには筋トレをすると身体が重くなるっていう認識があってカオルも同じでした。用意されたメニュー以上のことはあまりやっていなかったですね。体幹トレーニングはやっていたかな。とにかく筋肉を付けすぎると重くなって良くないというイメージがありました。でもその後、知識を増やしたんだと思います。カオルは勉強もできるので」

 川崎のアカデミー時代、毎日のように三笘と切磋琢磨していたヤーシャ。のちにプレミアリーグでブレイクを遂げることになる同級生の人物像は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いていた。

(文中敬称略)

[プロフィール]
瀬川ヤーシャ/1997年8月16日テヘラン生まれ。3歳頃日本に。川崎U-10を皮切りにU-18まで在籍。同級生の三笘薫や、一学年上の板倉滉、一学年下の田中碧などとともにアカデミーで育つ。名古屋経済大学を卒業した後、現在は双子の弟と事業を立ち上げて活動中。

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(江藤高志 / Takashi Eto)

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江藤高志

えとう・たかし/大分県出身。サッカーライター特異地の中津市に生まれ育つ。1999年のコパ・アメリカ、パラグアイ大会観戦を機にサッカーライターに転身。当時、大分トリニータを率いていた石崎信弘氏の新天地である川崎フロンターレの取材を2001年のシーズン途中から開始した。その後、04年にJ’s GOALの川崎担当記者に就任。15年からはフロンターレ専門Webマガジンの『川崎フットボールアディクト』を開設し、編集長として運営を続けている。

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