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プロゲーマー「ウメハラ」の葛藤――eスポーツに内在する“難題”とは梅原大吾が提示する「新しい仕事」【前編】(1/2 ページ)

» 2019年02月19日 06時45分 公開
[河嶌太郎ITmedia]
phot Hadrien Picard / Red Bull Content Pool

 ゲームをスポーツ競技として捉える「eスポーツ」が盛り上がりを見せている。アジアや欧米ではプロスポーツ選手同様、eスポーツで生計を立てる「プロゲーマー」が一般的な職業として広く認知されている。2022年に中国・杭州で開催予定のアジア版オリンピックとも呼ばれる「アジア競技大会」では、正式なメダル種目になることが決定していて、オリンピックへの種目化も議論が進められているところだ。

 そのeスポーツプレイヤーの世界的第一人者が、実は日本人であることをご存じだろうか。その名は梅原大吾(37)。15歳で格闘ゲームの日本一に輝き、17歳で世界一に上りつめた。以後、20年以上にわたりトップランナーとして走り続け、「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」としてギネス記録にもなっている。だが、そんな梅原さんでも日本初のプロ格闘ゲーマーになることには、ためらいと葛藤があったと明かす。

 なぜ、日本でプロゲーマーという職業が誕生したのか。その秘話とeスポーツが抱えている「難題」について、梅原さん本人がITmediaビジネスオンラインの取材に応じた。

phot 梅原大吾(うめはら・だいご)日本初のプロゲーマー。1981年青森県生まれ。15歳で日本を制し、17歳で世界チャンピオンのタイトルを獲得。以来、格闘ゲーム界のカリスマとして、20年間にわたり世界の頂点に立ち続ける。「最も賞金を稼いでいるプロゲーマー」「最も視聴されたビデオゲームの試合」などのギネス認定も受けている。 現在、レッドブル、Twitch(アマゾン社の配信プラットフォーム)、HyperX(ハイパーエックス)、Cygamesのグローバル企業4社のスポンサード・アスリートとして世界で活躍している。著書に『世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」 勝ち続ける意志力』(小学館)、『1日ひとつだけ、強くなる。』(KADOKAWA / 中経出版)など

最初にやったのは「スーパーマリオブラザーズ」

――格闘ゲームの世界で輝かしい実績を残されてきた梅原さんですが、ゲームとの出会いはどこにあったのでしょうか。

 5、6歳の頃から家でファミコンゲームをやっていました。最初にやったゲームは「スーパーマリオブラザーズ」でしたね。それ以外には、その当時人気のロールプレイングゲームもやっていました。格闘ゲームとの初めての出会いは11歳の時で、たまたま寄ったレンタルビデオショップにカプコンの「ストリートファイターII」(以下、ストII)の筐体が置いてあり、それが初めての格ゲーとの出会いですね。そこからは家庭用ゲームよりもアーケードゲームのほうに目がいっちゃいました。

――「ストII」と言えば、格闘ゲームというジャンルを打ち立てた作品になるわけですが、初めてプレイされた頃から負けなしの強さだったのでしょうか。

 実は何事にも飲み込みが早いほうではないので、最初は全然ダメでした。自分より早く(初心者には難易度の高い必殺技である)「昇龍拳」を出せる友達もいたぐらいです(笑)。器用なタイプではなかったので、そこは気にならなかったですね。ただ、ずっと地道にプレイは続けていたので、13歳ぐらいには地元ではそこそこ勝てるようになっていました。

――何がブレークスルー(突破口)となって強くなられたのでしょうか。

 14歳の時にプレイした、「ヴァンパイア」というカプコンの別の格闘ゲームがきっかけでしたね。当時格闘ゲームはいろいろな種類があったんですけど、レベルが一番高くて強い人達が集まっているのは「ストII」だったんです。その頃は「ストII」の強い人達には敵わなかったのですが、格闘ゲームに対する考え方はシビアになったと思います。この「ストII」で培った経験を生かして「ヴァンパイア」もプレイしていたのですが、そうしたら勝ち続けられるようになったんです。

 ゲームセンターの格闘ゲームの筐体って、向かい合わせに設置されていて、その向かい側の人と対戦できる仕組みになっていることが多いのです。それで相手に勝利した人が引き続きプレイを続行できるシステムになっています。つまり、強ければ強いほど100円で長時間対戦し続けられて、プレイの質を高められるというわけです。

 そうなると、私は100円で6時間以上はプレイを続けられるようになり、効率よく格闘ゲームの腕前を深められたというわけです。その後、強者達が集う「ストII」に戻ると、ここでも勝てるようになったのです。

phot 世界大会でのウメハラ(Robert Paul / Red Bull Content Pool)

15歳で日本一、17歳で世界一へ

――その後、15歳で日本一、17歳で世界一へと上りつめるわけですが、どのような道のりを歩んだのでしょうか。

 この頃になると、もはや地元では負けなしで、そこから学べるものも少なくなっていました。そこで、「あそこのゲームセンターに行くと強い人がいるらしい」という情報を雑誌で見て、そういう猛者が集まるゲームセンターに電車に乗って遠征するようになりました。やがて、そこでも勝ち続けるようになります。そこからは15歳で全国優勝をして、17歳からは世界大会でも優勝できるようになりました。

――そうなってくると、周りの目も変わってくるのではないでしょうか。

 全然そんなことはなかったですね。当時ゲームはたしなみや遊びでやるものであって、そんな真剣にやるものじゃないっていうのが暗黙の了解としてありました。学生は勉強や部活に打ち込むべきだし、社会に出たら仕事を頑張り、結婚したら家族との時間を作ってという、そういう価値観が当たり前でした。となると、やっぱり自分もそういう空気の中でゲームをやっているっていうことに結構プレッシャーを感じていましたね。

phot 世界大会で初優勝した頃(以下、世界大会以外の写真はCooperstown Entertainment, LLC.提供)

「一生打ち込んでいてはいけないもの」

――ゲームで世界一に輝いても、社会とのつながりを実感できていなかったということでしょうか。その頃の梅原さんは、自分が将来何になると思っていたのですか。

 それが全然イメージができなかったのです。だからあの当時一番求めていたのは、将来安心して打ち込めるものだったんですよね。ゲームに打ち込むこと自体は子どもの頃から好きだったのですが、でもこれは「一生打ち込んでいてはいけないものだ」っていうふうにも考えていました。

 自分の打ち込んでいるものはいつか無駄になってしまうものだと。心のどこかで、ゲームをすることが自分の一生の仕事につながればいいなとは思っていました。もちろんそこまでいかなくとも、ゲームで得た経験が自分の人生を良くしてくれるものであればどんなにいいか、そういうものに出会えたらどんなに幸せかと、10代の頃は考えていましたね。

――格闘ゲームを通じて将来の自分を探されていたということなのでしょうか。

 具体的に行動を起こしていたわけではないですけれど、願望としてはありました。両親もそういう自分の気持ちは分かってくれていたというか、親からもゲームに代わるような「打ち込めるもの」について、「こんなのどう、こんなのどう」って感じで当時言ってくれていたんですよね。でも、結局どれもピンとこなくて、格闘ゲームに対する情熱を超えるものは見つけられませんでした。結局、そのまま10代が終わってしまった感じです。

卒業、就職……周囲がプレッシャーに

――20代はどのように過ごされていたのでしょうか。

 最初はフリーターとしてアルバイトを転々としながらゲームを続けていたのですが、周りが次々と大学を卒業して社員になっている姿を見て、それがプレッシャーにもなっていきました。結局のところ、真剣に打ち込んできたものだからもったいないな、という思いがありつつも、22歳の時に一度、ゲームに積極的に取り組むのを辞めてしまいます。

 その後は、雀荘で麻雀のプロを目指しながら働いていました。普通の社会生活には自信がありませんでしたから、格闘ゲームでの経験が少しでも生かせそうな勝負事がいいかなと思ったわけです。3年間ぐらいは下積みとして働いて、4年目からは麻雀の世界でも勝てるようになっていきました。でも、そこから半年ぐらいで麻雀を辞めてしまったんです。

――なぜ辞めてしまったのでしょうか。

 約3年の下積み時代、自分は負けても、「いつか勝ってやるぞ」っていう気持ちで耐えて打ち込めたのです。でも、自分がいざ勝つ側にまわってみると、相手が精神的に追い詰められていったりとか、自分を恨んだりするっていうことに、僕は耐えられなかったんですよね。そういうのを目の当たりにして、「自分は勝負事には向いてないんじゃないか」と気付かされたわけです。自分が負けることには3年間は耐えられましたけど、勝ち始めて人から恨まれることには半年しかもたなかったというわけですね。

――なるほど。そのあとは何をしていたのでしょうか。

 麻雀の世界から足を洗ったのが26歳の時。ロクな社会経験がありませんでしたから、そこで僕が一から働けるところなんて限られていました。とにかく「人生の貴重な時間を無計画に使ったな」という反省と後悔の念でいっぱいでした。それからは飲食店で働いたりもしたんですが、プロゲーマーになるまでの最後の1年間は介護の仕事をしていました。

――なぜ介護に行き着いたのでしょうか。

 その頃はもう「競争の世界ってろくなことがないな」って思ってしまっていて、始めるのにそれほどハードルの高くない仕事で、特別な資格も要らなくて、何より「競争と無縁の仕事がいいな」と考え始めたんですね。疲れてしまっていたんだと思います。

 その中から介護を選んだ理由には、親が二人とも医療関係で働いていたからというのがありました。なじみがあるというか、なんとなく身近に感じていた仕事でしたし、何かしら仕事はしなくてはいけなかったですからね。周りを見たら、介護士としての選択肢があったという感じです。じゃあ介護をやってみようかなって、すっと始めたんですが、これはかなり合っていました。当時の自分にとっては精神的にかなりストレスフリーでもありました。

phot プロ格闘ゲームプレイヤー、通称「2D神」のマゴ選手(左)と談笑するウメハラ(Jason Halayko / Red Bull Content Pool)

「下の世話」までやって分かったこと

――介護の仕事ではどのようなことをしていたのでしょうか。

 高齢者の食事から下の世話まで全部ですね。食事も自分では食べられない人が多いですから、仕事は身の回りのこと全般にわたります。

 認知症の人たちが多かったですから、そのお世話も大変だったんですけど、一番良かったのは「この人の役に立っている」っていう実感が持ちやすかったことですね。麻雀の逆です。

 極端な言い方をすると、麻雀は人の不幸が自分の仕事になるわけです。敗者がいて自分が勝者になるわけですから。仕事って理屈では誰かの役に立っていると頭で分かってはいても、目の前に感謝してくれる人がいない仕事って結構あると思うんですよ。そうなるとどこかで人の役に立っているはずなのに、「本当に役に立ってんのかな?」とふと思ったりして、自信が持てなくなることもあると思うんです。その点、介護の仕事は相手から直接、感謝が伝わってくる。本当にうれしかったですね。もし、プロゲーマーになっていなければ今でも続けていたんじゃないかと思います。

――介護の仕事をする一方で、梅原さんは格ゲーを本格的に再開されました。何がきっかけだったのでしょうか。

 当時、「ストリートファイターIV」という新しいゲームがゲームセンターに登場して、友達に誘われて試しにやってみたんです。その「試しに」というのも、相当時間がかかってようやく決めたという経緯がありましたが。その頃はもう何年もゲームセンターに通わなくなっていたのですが、ブランクがあるはずなのにやってみたら思いのほか勝ててしまって……。この時初めて、「ああ、この部分で自分は特別なんだな」という感情が芽生えたんですね。

 麻雀の時も物になるまで3年かかりましたから、特別向いているとは感じませんでした。介護も同様で、やりがいを感じてはいたのですが、自分がこの仕事に特別向いているかと言えば、失敗続きだったこともあり、そうは思えませんでした。30歳になる手前にして初めて、ゲームに対して感謝の気持ちが芽生えたんです。そこからは短期間で「EVO」という米国の大会でも優勝し、それをきっかけにスポンサー契約の依頼も受けました。これを受ければ、名実共にプロゲーマーになれるわけです。でも、その話は断りました。

――なぜ断ってしまったんでしょう。

 「ストII」と出会った11歳の時から数えて15年間、ゲームと麻雀でずっと勝負の世界で真剣に生きてきたわけですが、結局生活の糧に何一つならなかったという後悔の念がありました。麻雀の世界で自分は勝負事に向いてないと痛感していましたし、そういうプロの勝負の世界に戻ることになるので、「どうせ無理だろう」と考えたんですね。せっかく介護という社会人として誇れる仕事も覚え、慣れてきた矢先でしたし。

phot 格闘ゲームの祭典「EVO Japan」にて(Jason Halayko / Red Bull Content Pool)

「俺はあの時挑戦したんだ」

――とはいえ半年ほど悩まれた結果、プロの道に進まれることになります。

 何十年か先に自分が今の生活を続けていて、何不自由なく暮らしていたとしても、ここで引き受けておかなければきっと後悔が残ると考え始めたんです。やはり格闘ゲーム以上に自分の個性が発揮できる得意なものはないと思っていましたので、ここで勝負しなかったことは、あとで必ず引きずるだろうなと。だったら、勝負の世界に戻るのは大変だけれど、「俺はあの時挑戦したんだ」っていう後悔がなくなる選択をしようと思って、それで決断しましたね。

 今思えばですが、同じ勝負事でも麻雀の世界では精神的に耐えられず、一方ゲームの勝負には耐えられた背景には、根本的な「熱意の差」があったのだと思います。

――こうして日本初の格闘プロゲーマーになられたわけですが、それからはどのように毎日を過ごされているのでしょうか。

 ずっと上り調子でこれたと思いますし、将来に対する不安というのも今のところはないです。生活としては、朝起きて、大体昼過ぎぐらいから練習場所に行きます。これはeスポーツ団体が提供してくれているもので、その団体に所属する選手がそこに集まってきます。サッカーで言えば、強豪クラブチーム内で有力選手と日々切磋琢磨しながら練習している感じですね。相手もトップレベルのプロですから、集中してやるとかなり疲れます。

 そこで1日平均6時間ぐらいは練習して、家に帰ったら家庭用ゲーム機でその日気になった部分を反省して、コンピュータ相手に試行錯誤をしている感じです。トータルの実働では、大体8時間ぐらいというところですかね。

――これからは22年の杭州アジア大会でメダル種目化され、オリンピックでも競技化するかもしれません。これからの目標やビジョンをどのように持たれていますか。

 実はプレイヤーとしての目標というのはもうとっくにないんですよ。それこそ15歳で全国大会で勝ったのをきっかけに格闘ゲーム業界で一番有名になって、17歳の時には世界大会があってテレビでも取り上げられましたから、17歳から一番知名度のある格闘ゲーマーであり続けている自覚はあります。

 それからちょうど20年がたつんですが、確かに昔は全国大会で勝ちたいとか、世界一になりたいとか、いろんな目標がありました。でもそういう時期はとっくに過ぎていて、いま自分で大事にしていることは、早いスピードで変化し続けているこの業界で、できるだけ長くプレイヤーとして残っていたいという一心ですね。プレイヤーでなくとも指導者的な立ち位置とか、この業界で自分ができることはあるとは思う反面、今はまだそこは考えていないです。

 今はあくまでプレイヤーとして続けたいですね。プレイヤーとしての目標は正直うまくいきすぎてしまったので、今では30代の終わりまで変わらずトップに居続けられることを考えています。

phot 対戦相手と握手するウメハラ(Jason Halayko / Red Bull Content Pool)
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