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「史上最悪のキャプテン」から「愛される選手」を目指して…岡山加入内定の流経大DF塚川孝輝が進化を誓う

2016.11.30

「史上最悪のキャプテン」。高校、大学で大所帯のサッカー部を率いた塚川孝輝は、そう呼ばれた。決して自分の意思で務めたわけではなかったが、周囲の期待に応える統率力を発揮できたとは言い難い。それでも逃げなかった。負けず嫌い根性を武器に、ただひたむきに上を目指し、つかみ取った「プロサッカー選手」という夢。ファジアーノ岡山で「愛される選手」になるために、塚川は泥くさく、強い気持ちで戦う。

インタビュー・文=平柳麻衣、写真=岩井規征、平柳麻衣

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■どうしたら僕が更生するか、みんなが話し合ってくれた

――中学時代はサンフレッチェ広島ジュニアユースに所属していました。
塚川 小学生の時にナショナルトレセンに入っていて結構自信があったので、セレクションを受けてサンフレッチェに入りました。

――当時は広島のトップチームに憧れていたのですか?
塚川 すごく憧れていました。でも、当時は他の人がプレーしているところを見るのが本当に嫌だったんですよ。ウズウズして、じっとしていられなくて。ジュニアユースの試合が終わった後、チームメートはそのままJリーグを見に行っていたんですけど、僕はあまり行かなかったです。

――当時憧れていた選手はいなかったのですか?
塚川 本当にプロの試合を全然見ていなかったので、誰かのようになりたいとは思っていなかったです。ただ、身近にいる人には絶対に負けたくないと思っていました。

――ジュニアユースの同期には野津田岳人(広島からアルビレックス新潟に期限付き移籍中)選手がいましたね。
塚川 野津田は小学生の時から知り合いで、今まで出会った中で一番サッカーがうまいと思いました。練習中にいつもボコボコにされていたので、すごく悔しかったです。

――中学3年間は、思い描いていたような活躍ができましたか?
塚川 中1の時にひざをケガしてしまったんです。半年くらいサッカーができない間に周りがどんどんうまくなっていって、復帰後は学年チームの試合にも出られなくなり、挫折を味わいました。

――その後は広島観音高に進学しました。
塚川 小学生の時に尊敬していた先輩が広島観音に行ったことと、広島観音の畑(喜美夫)先生がすごい人で、練習が独特だという噂を聞いて、ここでやってみたいと思って入りました。

――広島観音は練習メニューや出場メンバーを選手が決めるそうですね。
塚川 全部ではないですけど、基本的には選手が意見を出して監督の承諾をもらうという形です。出場メンバーはほぼキャプテンが決めて、交代も「このタイミングで誰を入れてください」と伝えていました。

――チーム練習が週に2日しかないと聞きました。
塚川 そうなんです。朝練は毎日あるんですけど遊び程度の練習しかしていなくて、放課後の練習はトップチーム、セカンドチームともに週2日ずつです。グラウンドが1つしかなく、野球部と半分ずつ使っていたので、全員一緒に練習することができなかったんです。

――他の高体連のチームと比べ、練習量が足りないと思うことはなかったのですか?
塚川 1日の練習がめちゃくちゃハードだったので、調度良かったです(苦笑)。「量より質」がモットーで、例えばシュート練習で3回連続で外したら頭を五厘にしなきゃいけないとか、クロス練習の時にスライディングしなかったら、屋外のバスケットゴールに向かってずっとスライディング練習をしなきゃいけないとか。プレッシャーを掛けた中で練習していました。

――高校では1年生の時から試合に出ることができたのですか?
塚川 はい。1年生の時はセンターバックで、2年生の時にはFWをやりました。チーム事情で前線にターゲットになる選手を置くことになって、背の高かった自分が抜擢されたんです。本当はボランチをやりたかったんですけど、ケガ人が出るたびにセンターバックやFWをやってしました。

――3年時にはキャプテンを務めていましたが、どのような経緯で就任したのですか?
塚川 1年生の時から試合に出ていたのが僕しかいなかったので、先輩が決めました。キャプテンになったからには覚悟を持ってやろうと思ったんですけど、「史上最悪のキャプテン」と言われるくらい、本当にひどかったです。僕が問題を起こしたせいでミーティングが開かれたことも度々あったんですよ。

――何をしたのですか?
塚川 当時は本当に“ガキ”だったので、嫌なことあったらすぐ態度に出してしまっていました。例えば、FWをやるようになったら点を取ることの楽しさを知って、センターバックをやるのがすごく嫌になってしまったんです。FWは点を取るだけで周りからキャーキャー騒がれるし(笑)、FWとしてそこそこ結果を出していたのに、何でセンターバックをやらなきゃいけないんだよと思って。それで、ハーフコートで紅白戦をやった時に、自分のところに来たボールを全部ピッチの外に蹴り上げたんです。翌朝、監督に呼び出されて「キャプテンを辞めろ」と言われ、みんながミーティングで僕のことについて話し合いました。

――塚川選手もそのミーティングに参加したのですか?
塚川 はい。他にも、試合中にイライラして相手を蹴ってしまったこともありましたし、監督が審判をやっている練習試合で退場処分になって、「お前帰っていいよ」と言われたこともありました。その度に、どうしたら僕が更生するかについて、みんなが話し合ってくれました。本当にダメでしたね。全然キャプテンらしさはなかったです。

――それでも自分からキャプテンを辞めようとは思わなかったのですか?
塚川 正直何度も思いました。でも、やっぱり途中で投げ出すのは嫌だったので、ダメなりに最後まで続けました。

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■3年では終われない。「もっと変わらないとダメ」

――高校卒業後は広島を離れ、流通経済大に進学しました。
塚川 流経大に来たばかりの時は、絶対に試合に出られないと思いました。当時の流経大は河本明人(ヴァンフォーレ甲府)さんや椎名(伸志/松本山雅FCからカターレ富山に期限付き移籍中)さん、中村慶太(V・ファーレン長崎)さんなど、次元が違うくらいうまい人ばかりで。だから4年生になって試合に出られればいいと思ったんですけど、実際は1年生の後期リーグから試合に出してもらうことができて、「このまま頑張ればプロになれるかな」と思った矢先……大きな挫折を味わいました。

――何があったのですか?
塚川 大学2年の時、ミーティング中に居眠りしてしまったんです。前日の試合で失点に絡んでしまったことを引きずって、夜なかなか眠れなかった上に、その日が食事当番で、朝5時半に起きたんです。いつも試合の翌日はリカバリーメニューだけなので何とかなるだろうと思っていたら、いきなりミーティングが始まって、中野(雄二)監督の話を聞いているうちにだんだん意識が遠のいてしまって……。監督に「塚川!」と名前を呼ばれた瞬間、「終わった」と思いました。

――その後、監督は何と?
塚川 「帰れ」と言われたんですけど、ここで帰ったら終わりだと思って何回も謝りに行って、練習には参加させてもらえました。でもすぐにケガをしてしまい、トップチームからIリーグ(編集部注:インディペンデンスリーグ。出場機会に恵まれない選手に公式戦の出場機会を提供するためのサテライトリーグ)に出るチームに落とされました。

――そこからどのようにしてトップチームに復帰したのですか?
塚川 当時、自分以外にもケガをしている先輩がいたんですけど、自分のせいでみんな一斉にIリーグチームに落とされたんです。山岸(祐也/ザスパクサツ群馬)さんもその中にいて、一緒に「たつのこ山」の階段を1週間走って、夏の総理大臣杯の前にトップチームに復帰させてもらいました。でも、Iリーグに落ちたことは自分にとって本当にいい経験になりました。その頃、上級生の多いトップチームの中でプレーしていて、怒られてばかりでサッカーが全然楽しくなかったんです。Iリーグでは同期が多くて、改めてトップチームでプレーさせてもらえるありがたみが分かりましたし、もう一回頑張ろうと思うことができました。

――それ以降、問題を起こしてしまうことはなくなったのですか?
塚川 3年生の時はなかったんですけど、4年になってから監督に「練習に来るな」と3、4回は言われました。理由はキャプテンとしての仕事ができていなかったり、試合での出来が悪かったりなどです。ある時、流経大ドラゴンズとの紅白戦での失点シーンについて監督に怒られたんですけど、僕は「悪くない」と思って、それが態度に出てしまったんです。また「帰れ」と監督に言われて、その時は「絶対帰ってやる」と思ったんですけど、スタッフに「ここで帰ったら本当に終わるぞ」と止められて、我に返りました。

――今シーズン、坊主頭にしていたのは……。
塚川 その時です(苦笑)。監督から「お前が変わればチームも変わるんだ」と言われて、目に見える部分で何かを変えたくて、友達に頼んで五厘に刈ってもらいました。

――流経大に入って、サッカーだけでなく人間性の面での成長を感じますか?
塚川 はい。流経大を卒業したら今後どこに行っても大丈夫だと思うぐらい、すごく良い環境です。でも、中野監督からは「(プロ生活が)3年で終わる」とよく言われます。もっと変わらないとダメですね。

――中野監督はサッカーの技術だけでなく、人間性も考慮して試合に出るメンバーを選んでいるそうですね。
塚川 前までは監督の指示や指摘に納得できないと、すぐに態度に出してしまっていました(苦笑)。でも今シーズン、僕の将来のことを考えてチーム事情とは別にサイドバックで起用してくれました。岡山で3バックの一角として使われる可能性があるからだそうです。本当に感謝しないといけないですし、今は「やってやろう」と強く思っています。

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■「気持ちで走れるタイプ」。泥くさいプレーで岡山の力になりたい


 
――来シーズンから岡山に加入します。プロ入りを決意するにあたって、相談した人はいますか?
塚川 父に一番相談しました。小学生の時から高校まで、いつも試合後に父と1時間くらいサッカーの話をしていたんです。当時はそれがすごく嫌だったんですけど、やっぱり一番信頼できて、一番僕のことを理解してくれているのは父だなと思います。あとは流経大の先輩の(江坂)任(現大宮アルディージャ)さんや(鈴木)翔登(現ロアッソ熊本)さんにも相談して、後押しされました。

――岡山のサッカーに対してどんな印象を持っていますか?
塚川 練習参加した時に初めて岡山の試合を見たんですけど、前から積極的にプレスを掛けてボールを奪って、攻撃する時はしっかりとボールを回して、アグレッシブですごく良いサッカーをするなと思いました。それに観客の数も多いですし、練習場の芝もすごくきれいで、長澤(徹)監督やスカウトの方の信頼関係も厚くて、良いクラブだなと感じています。

――高校時代は「FWの楽しさを知ってしまった」とおっしゃっていましたが、今一番やりたいポジションは?
塚川 僕が一番活躍できるのはボランチだと思っています。ボランチは運動量を求められますけど、狙い通りにボールを取れた時や、味方を助けにいって「サンキュー」と言われた時がすごくうれしくて、苦しくてもチームのために頑張ろうと思えるんです。

――運動量には自信がありますか?
塚川 あまりないんですけど、「気持ちで走れるタイプ」だと思っています。昔から、気持ちに左右されやすいんです。

――「気持ち」と言えば、流経大の先輩である鈴木翔登選手は「キモチくん」と呼ばれ、熱いプレーヤーとして名を馳せていましたね。
塚川 翔登さんは本当にすごいですし、大きく影響を受けました。翔登さんが作ってくれた「気持ち会」というグループがあるんです。メンバーは翔登さん、今津(佑太)、渡邉新太と僕の4人。サッカーのうまさではなく、気持ちの強さで翔登さんに選抜されたメンバーです。たまにご飯を食べに行ったり、悩みごとがあった時にLINEのグループに投げ掛けると、翔登さんが返事をくれます。

――最近は何か相談をしましたか?
塚川 流経大のキャプテンに就任した時は翔登さんに個人的に相談しました。あまりうまくいっていない時期だったので、「つらいです」と言ったら、「逆境はお前が成長できるチャンスだ」と言ってくれて。考え方がすごくポジティブなんです。「お前が今、突きつけられている課題をクリアしたら成長できる。試されている時だから食らいつけ、負けるな」って。本当に熱いですし、尊敬しています。

――最後に、来シーズンから岡山でどんな選手になりたいですか?
塚川 みんなから愛される選手になりたいです。プロに入ったからといっていきなり技術が上がることはないので、見ている人を熱くさせるような泥くさいプレーを心掛けて、岡山の力になれるように頑張りたいです。

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 インタビューを終えると、塚川は乱れた椅子を整理してから部屋を出た。身の回りの環境を整えることは、高校時代の恩師の教えだ。

「『神様はちゃんと見ているんだぞ』と教えてもらったんです。落ちているゴミを拾うか、拾わないかとか。小さなことでも良い行いをすれば、その成果はきっと出る」

「史上最悪のキャプテン」の、真面目で気配り上手な一面を垣間見た。それはサッカーにも通用する。「サッカーの神様はきっと見ている」。塚川はそう信じている。そんな彼ならプロの舞台に立っても、誰よりもハードワークし、誰よりもチームメート、そして応援してくれる人の気持ちを背負って戦うことができるはずだ。

クラシコ

By 平柳麻衣

静岡を拠点に活動するフリーライター。清水エスパルスを中心に、高校・大学サッカーまで幅広く取材。

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