プロレスリング・ノア創業者、三沢光晴さん(享年46)が試合中のアクシデントで亡くなってから15年が経過した。2009年6月13日の広島大会で三沢さんの最後の相手となった齋藤彰俊は、今年3月にゼロワンの世界ヘビー級王者を獲得。19日のノア後楽園大会で前王者のクリス・ヴァイスとV3戦を行う。キャリア初のシングル王座を戴冠した齋藤が明かした三沢さんに誓った約束とは――。

 ――三沢さんが亡くなって15年が経過した

 齋藤 6月13日だけじゃなく、(三沢さんを思って)毎朝手を合わせてます。今年はメモリアル興行ではないですけど、特別にやらないことこそが三沢さんが団体の中で生きていることなのかなと感じています。

 ――2000年10月からノアに参戦し始めた

 齋藤 1998年に新日本プロレスをやめて名古屋でバーを開いたんです。その後、ノアが旗揚げして、三沢さんが名古屋の東海ラジオに来られたんです。直接お話したいなと思って自分から会いに行きました。

 ――初対面を果たした

 齋藤「ノアでやりたいです」と伝えたら「10月に査定マッチ組むか」と。わずか1、2分の出来事でしたけど、会った瞬間「この人の下でやってみたい」って思ったんです。その後電話で「新日本でいくらもらったの?」って聞かれたので答えたら「別に無理に来てもらわなくても構わない」と言われたんです。でも「お金はいいんです。ノアに出たいんです」と伝えた。入団した時に「僕がノアのウイルスになります」って言ったんです。三沢さんはハハって笑ったぐらいでしたけど。

 ――06年にノアと専属契約を結んだ

 齋藤 ある日、三沢さんに「(ノアに)なくてはならない存在になったから」っていうふうには言われたんですよ。必要とされてると感じてうれしかった。三沢さんに「飲んでみたい」って言われて数回、一緒にお酒を飲みに行きましたね。

三沢さん(左)を攻める齋藤彰俊(2007年11月)
三沢さん(左)を攻める齋藤彰俊(2007年11月)

 ――三沢さんの最後の試合で対戦した

 齋藤 あの日の記憶は全部鮮明に覚えてます。24時間以内なら蘇生する可能性があったので、試合後三沢さんの病室でずっと祈ってました。朝になって、仲田(龍=当時統括本部長)さんに「奥さまが来られるし、試合もあるんだからもうホテルに帰りなさい」って言われたので、歩いて帰ってる途中の川で自分に問いかけたんです。「プロレスをやめるべきなのだろうか」と。でもその時に「自分がみんなの前からいなくなったら、ご遺族やファンの方々はどこに怒りをぶつけるんだ」って思ったんです。だったらみんなの前に出て、全てを受け止めよう。それが三沢さんと自分の約束です。

 ――今もリングに立ち約束を守っている

 齋藤 いまだにSNSとかで「人殺し」とか送られてくるんですけど「大変申し訳ありません。ただプロレスをやめろと言われても、自分の中で誓ったやらなければいけないことがあるので、それだけはお許しください」って全部返信してます。

 ――三沢さんの命日を前にシングル王座を初戴冠した

 齋藤 このベルトを巻いた日が自分のキャリア33年3か月目の3月31日。この前、潮崎豪とGHCヘビー級王座と合わせて選手権をしたのが3回目なんですよ。気がついたら全部3がそろっていて。自分が意図してるわけではないですけど、三沢さんの3なんだろうなと思ってます。

 ――今後について

 齋藤 今までは自分の答えを追い求めて戦ってきたんですけど、こうして3がそろったりして何か答え合わせの時期に入ったのかなと思ってます。だから今このベルトの価値がどうなるのかとかを考えてます。今度はクリス・ヴァイスとも対戦しますが、試合がどうなるかわかりません。でも戦いの中で答え合わせをしていきたいですね。

【三沢さん最後の試合】2009年6月13日の広島県立総合体育館小アリーナ。三沢さんは潮崎豪とタッグを組み、GHCタッグ王者の齋藤彰俊、故バイソン・スミスさん組に挑戦した。白熱した試合が続いた27分過ぎ、齋藤にバックドロップで投げ飛ばされた三沢さんの動きが止まった。その場で心肺蘇生措置が行われたが、心肺停止状態で広島大学病院に救急搬送。そのまま帰らぬ人となった。翌日に広島県警中央署は死因を「頚髄離断」と発表した。