今回は、2020年7月17日金曜日放送、チコちゃんに叱られる!「▽ラーメンのどんぶり▽ジャージ▽ストロー」の番組内容を紹介。
なんで体操着のことをジャージっていうの?
確かに昔から、体操服のことをジャージって言ってましたね。
なぜなんだろう?
なんで体操着のことをジャージっていうの?
本日の4つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、身だしなみを気にしているステキな大人ってだーれ?」
本日、まだ、最初に答えていないよしお兄さんが回答者に。
体操服からジャージの話題に。
チコちゃん「なんで体操着のことをジャージっていうの?」
よしお兄さん「ジャージさんという人物が広めたから、」
正解にいたらず、叱られちゃいました。
その後、夏木さんや岡村さんに聞いて見ても正解なし。
リモートでジャージを履いている人にインタビューしても正解なし。
チコちゃんの答えは、「ジャージー牛と同じ島で生まれたから。」
ジャージー牛と同じ島で生まれたから
解説してくれたのは、多摩美術大学の髙橋正教授。
ジャージとはジャージー島発祥の編み物生地の事。
正しい表記はジャージー(jersey)。
辞書的な説明では、柔らかく伸縮性のある厚手のメリヤス地の布の事。
このメリヤス編みの編み方を英語でjersey stitch。
日本語だと平編み、天竺編みとも呼ばれます。
この編み方で作られたものは全てジャージー。
メリヤス編みのセーターはジャージーとなります。
そしてこの編み方はイギリス海峡に浮かぶチャンネル諸島のジャージー島が発祥。
ジャージー牛の原産地としても有名。
ジャージー島では、昔、漁師が牛からとった毛で防寒用セーターを作っていたそう。
その時の編み方がこのジャージーステッチ。
つまり、最初のジャージーはジャージー牛(の毛)で作られていたとのこと。
そこからヨーロッパに徐々に広まり、やがては世界中に。
ジャージーステッチは編み物の中でも伸縮性があると共に耐久性に優れています。
そのため、トレーニングウェアにはピッタリ。
特にアメリカではトレーニングウェアそのものをジャージーと呼んでいます。
この文化が日本にも伝わった事で、体操着の事をジャージーと呼ぶようになりました。
そのうちジャージと省略されるように。
スウェットとは?
体を動かす時以外でも部屋着としても多く着られているジャージ(ジャージー)。
その他に部屋着といえば、スウェットも。
スウェットは、1920年代にアメリカのベンジャミン・ラッセルがフットボールをやっている息子のために作ったのが最初。
大学のフットボール選手だった息子。
ジャージーステッチの毛糸のシャツを着てプレー。
しかし、汗ですりむけて着心地が悪い。
そこで父親のベンジャミン・ラッセルはシャツの糸素材をコットンに変更。
さらに表側はジャージーステッチで、裏地はパイル織りで仕上げました。
これが、スウェット生地。
外側は耐久性に優れながらも、内側はパイル織りで肌触りもとてもよい。
これで汗を吸収するスェットシャツとズボンが完成
スウェット生地は英語で汗を意味するsweatが、そのままネーミングに。
では、トレーナーは?
スウェットシャツと同じ生地の上をトレーナーと呼んだりします。
実は、トレーナーは、スウェットと全く同じ生地。
このトレーナーは和製英語で、1960年代にファッションプロデューサーの石津謙介氏が命名。
アイビールックの生みの親で、ヴァンジャケットの創業者。
そして、メンズファッションの神様と呼ばれた石津謙介氏。
当時の事を息子さん(服飾評論家)の石津祥介さんに伺ってみたところ、
「スウェットシャツを直訳して「汗シャツ」ではおかしい。」
ボクシングファンだった石津謙介氏。
ボクサーのコーチをするトレーナーがスウェットの上下を着ていた事から名付けたのが由来とのこと。
石津謙介氏が日本に広めた言葉は他にもたくさんあります。
元々アメリカでアワードジャケットと呼んでいたものを「スタジアムジャンパー、スタジャン」と呼んで日本に紹介。
野球場でよく着られていたからという理由。
その他、TPOという言葉も石津謙介氏が広めた言葉。
昔の日本の学生たちはどんな時も詰襟姿が基本でした。
しかし、Time(時)、Place(所)、Occasion(場合)に合わせて服を着るという考え方を定着。
TPOに合わせて若者の服を制作したとのこと。
結論
というわけで、
「なんで体操着のことをジャージっていうの?」は、
「ジャージー牛と同じ島で生まれたから」
でした。
解説してくれたのは
多摩美術大学の髙橋正教授
髙橋 正
TAKAHASHI Tadashi
教授
1976年 粟辻博デザイン室入所
1983年 高橋正デザイン室主宰
1993年 多摩美術大学美術学部デザイン科染織デザイン専攻非常勤講師
1996年 多摩美術大学美術学部デザイン科染織デザイン専攻講師
1998年 多摩美術大学美術学部生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻助教授
2003年 多摩美術大学美術学部生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻教授
主な受賞歴
1976年 卒業制作にて毎日新聞社賞金賞受賞(全日本染織展)
1991年 松屋銀座デザインフォーラム’91にて銀賞受賞
主な活動歴・所属団体等
1994年 日本テキスタイルデザイン協会
2004年 社団法人日本クラフトデザイン協会
2004年 日本テキスタイルカウンシル
研究テーマ
室内空間やモノの表層デザインと色彩計画が主題であり、それらと深く関わる建築領域についても研究。
(大学HPより)
多摩美術大学(たまびじゅつだいがく、英語: Tama Art University)は、東京都世田谷区上野毛三丁目15番34号に本部を置く日本の私立大学である。1953年に設置された。大学の略称は多摩美(たまび)、TAU。
多摩美術大学(たまびじゅつだいがく、英語: Tama Art University)は、東京都世田谷区上野毛三丁目15番34号に本部を置く日本の私立大学である。1953年に設置された。大学の略称は多摩美(たまび)、TAU。
沿革[14]
1935年 多摩帝国美術学校を現在の東京都世田谷区上野毛に創設する。[15][16]
1937年 財団法人設立。女子部が創立され、女子の入学が許可。
1947年 専門学校令による専門学校に昇格、多摩造形芸術専門学校(美術部・建築部・工芸部)と改称
1950年 多摩美術短期大学(絵画科・彫刻科・造形図案科)を設置。
1951年 学校法人に組織変更。
1953年 多摩美術大学(学長:井上忻治)を設置。
1954年 多摩芸術学園映画科・演劇科 (学園長:逸見梅栄)を設置。
1956年 多摩芸術学園に舞台美術科、脚本科、演出科専攻を増設。
1956年 多摩芸術学園に写真科を増設。
1964年 大学院(絵画学科・デザイン学科・芸術学科)を設置。
1969年 芸術学科と建築科の設置が認可。学園紛争により全学封鎖。八王子校地に本館、学生寮が完成。
1973年 多摩美術大学文様研究所開設を設置。
1973年 多摩芸術学園にデザイン科を新設。
1973年 専修学校 多摩芸術学園(絵画科増設、6学科体制)
1985年 長野県豊科町(現・安曇野市)と多摩美術大学クラフトデザイン研究会の提携によりあづみ野ガラス工房を創立。
1989年 美術学部二部(絵画学科・デザイン学科・芸術学科:映像コース、演劇コース)を開講。
1998年 情報デザイン学科を開講。
1999年 二部を改め造形表現学部(造形学科・デザイン学科・映像演劇学科)開講。
2000年 多摩美術大学美術館を多摩センターに移転し新規開設。
2001年 大学院(博士課程後期)を開設。
2002年 生涯学習センターを設置。
2005年 芸術人類学研究所を開設。
2006年 バナナ テキスタル プロジェクトが、文部科学省現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)に選定された後、地球環境問題とデザイン教育を連携させた授業を展開している。
2008年 2007年9月、文部科学省の大学院教育改革支援プログラムに、本学の「異文化相互批評が可能にする高度人材育成」の取り組みが採択され、この年から、「大学院教育改革支援プログラム異文化相互批評が可能にする高度人材育成」CO-CORE国際講評会を開催している。(東京、ヘルシンキ、北京)
2010年 3331Arts Chiyoda (東京都千代田区)内にアキバタマビ21(ギャラリー)を開設する。
2012年 多摩美術大学院美術研究科芸術学専攻身体表現研究領域開設。
2014年 統合デザイン学科と演劇舞踊デザイン学科を開設する。造形表現学部の学生募集を停止。
2015年 建畠晢が学長に就任。アートテークが完成。奈良古美術セミナーハウスの建て替え工事完成。創立80周年記念式典を開催。シンシナティ大学(米国)と国際協定を結ぶ。
2016年 富士山麓セミナーハウスの建て替え工事完成。美術学部全学科で推薦入学試験を実施。
2018年 大学院美術研究科博士前期課程(修士課程)にデザイン専攻統合デザイン領域、演劇舞踊専攻を設置。アートアーカイヴセンター設置。
2020年 日本初の「デザイン経営」[17]人材育成のための講座 TCL-多摩美術大学クリエイティブリーダーシップ プログラムを開講。[18][19][20]
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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