今回は、2021年4月9日金 チコちゃんに叱られる!「▽イルカのジャンプの謎▽フランスパン秘話▽名刺とは?」の番組内容を紹介。
名刺ってなんで名を刺すって書くの?
たしかに「刺す」って書きますね。
不在の時に、どこかに挟んで刺していた?
名刺ってなんで名を刺すって書くの?
本日の最後、4つめ目の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、ビジネスマナーをわきまえているステキな大人ってだーれ?」
今回、まだ先発していない足立梨花さんが回答者に。
社会人のマナーで、初対面の人にどうするかなどの話題で、名刺の話に。
福原アナが、名刺の漢字をフリップに。
チコちゃん「なんで、名刺って名を刺すって書くの?」
足立さん昔は自分の名前を名乗りながら敵を刺していたからという回答。
正解に至らず、叱られちゃいました。
岡村さんにも聞いてみると、足立さんと同様、昔は名乗ってから相手と戦っていたらという同じような答え。
チコちゃんの答えは、「「刺す」が「書く」という意味だったから。」
「刺す」が「書く」という意味だったから
解説してくれたのは、新潟大学の関尾史郎名誉教授。
日本は世界で最も名刺を使う国。
日本国内で使用されている名刺の数は1日およそ3000万枚、
年間の消費量は100億枚。
そんな名刺大国ニッポン。
名刺は元々「訪問先が不在だった時に名前を書いた木を扉に刺して帰っていたから」なんて由来が語られることも多いそう。
ネット情報では自分の名前を書いた竹や木の札を不在時に戸口に刺して帰った事が名刺の由来と書かれていたり。
しかし、関尾先生は、はっきりと否定。
実は、名刺の歴史は実はかなり古く、実は2000年以上前に中国で誕生。
そしてその頃の呼び名というのが「刺(し)」。
古代中国の文献には、「上司に腹を立てて刺(し)(=名刺)を投げ捨てて職を捨てた」という記述。
さらにこの頃の名刺は紙では無く木の札。
3世紀ごろの中国のお墓からも発掘されています。
木の板には名前・本籍地・挨拶文などが書かれていました。
そんな木の名刺を何枚か持ち歩いて人と会った時に渡していました。
そして古代中国でこの「刺」という漢字には「書く」「書かれたもの」という意味があったそう。
3世紀ごろの中国の辞典である「釈名」には「刺」という字に、書くという意味が。
つまり、名前を書いたものという意味で名刺。
そして10世紀ごろには名刺の素材が紙へ変化。
そして、江戸時代になると日本に名刺文化が伝来。
最初の頃は訪問先が不在の際に和紙に墨で名前を書いたものを置いたのが始まり。
江戸時代後期に使われていた名刺には名前・職業といった情報が記載。
これが幕末になる頃には名刺交換が活発に行われるようになりました。
ペリー来航による開国から外交使節団が名刺を持って各国の要人らと名刺交換をする機会が増加。
遣欧使節団では外国向けに漢字表記・外国語表記も
自分の名前と家紋などが書かれていたり、
色とりどりのデザインが施されていたり。
さらに明治時代に時代が進むと国賓や外国の外交官を接待する社交場で名刺は必須アイテムに。
名刺交換の文化が日本に広まる事に。
現代のアイディア名刺3種
マスク型名刺
渡した相手にマスクを使ってもらう事で宣伝効果も。
飛行機のペーパークラフト付き名刺
切り取り線に沿って切って組立てると紙の飛行機が完成
クッキー名刺
クッキーに印刷されている食べられる名刺。
この会社は、名刺アプリを開発しているそうで、アプリで写真にとれば、名刺情報は保存。
そのため、実物は必要でなく、食べてOKとのこと。
結論
というわけで、
「名刺ってなんで名を刺すって書くの?」は、
「「刺す」が「書く」という意味だったから」
でした。
解説してくれたのは
解説は新潟大学の関尾史郎名誉教授。
所属新潟大学 人文社会科学系 フェロー
J-GLOBAL ID200901094779543296
魏晋南北朝時代を中心とした中国古代史と,敦煌吐魯番学を専攻しています.一次史料・出土史料の分析を手がかりとして,地域社会や基層社会の実態を解明したいと思っています.また東アジアという大きな広がりのなかで,さまざまな交流についても思いをめぐらせています.
研究キーワード 10
トゥルファン出土文書
長沙走馬楼呉簡
河西地域
喪葬用文物
地方行政システム
地域社会
出土史料
魏晋・〈五胡十六国〉時代史
中国古代史
東アジア史
研究分野
人文・社会 / アジア史、アフリカ史 / 中国古代史
経歴
2018年4月 – 現在新潟大学 人文社会科学系 フェロー
2016年4月 – 現在新潟大学 名誉教授
2016年4月 – 2018年3月新潟大学 人文社会・教育科学系 フェロー
2009年4月 – 2016年3月新潟大学 現代社会文化研究科 教授
2014年2月 – 2016年1月新潟大学 現代社会文化研究科 科長
学歴
1976年4月 – 1980年3月上智大学 大学院文学研究科 博士課程史学専攻
1974年4月 – 1976年3月上智大学 大学院文学研究科 修士課程史学専攻
1969年4月 – 1974年3月上智大学 文学部 史学科
(HPより)
新潟大学(にいがただいがく、英語: Niigata University)は、新潟県新潟市西区五十嵐2の町8050番地に本部を置く日本の国立大学である。1949年に設置された。大学の略称は新大(しんだい)または潟大(がただい)。
大学全体
新潟大学は、旧制大学からの流れをくむ旧官立大学の一つである。特に、医学部は旧六医科大学の一角たる新潟医科大学を直接の起源に持つ。一期校である。平成28年度(2016年度)国立大学法人運営交付金の額は160億4138万円[1]で、全国立大学86校中15位である。
旧制新潟医科大学、旧制新潟高等学校などを主な母体として1949年に開学した。
2019年時点、10学部・5研究科・1別科と脳研究所や災害復興科学センター等の研究機関を擁する、本州日本海側において最大規模の総合大学である。2018年5月1日時点での学生数は12,368人。発足当初は県内にキャンパスが点在していたが、統合移転により新潟市郊外西部にある広大な五十嵐キャンパスと、市中心部に構える旧制新潟医科大学以来の医歯系学部が集まる旭町キャンパスに集約された。その他他に、旭町キャンパスに隣接する西大畑地区(旧制新潟高等学校跡地)に教育学部附属学校(小学校、中学校、特別支援学校)が置かれている。新潟駅の南に社会人学生向けの授業や生涯学習向けの講座等を目的としたキャンパス「CLLIC」が置かれていたが、サテライトキャンパスとしての機能性の充実を図り、利便性を更に向上させるため、CLLICと同じ新潟駅南口にあるプラーカ1の2階に、「ときめいと」を2009年9月に移転オープンさせた。
略称は前述の通り「新大」(しんだい)が用いられる。ただし、「しんだい」の呼称は他の地域の大学を指す場合もある(詳しくは「大学の略称」参照)。
理念・目標
「高志(こし)の大地に育まれた敬虔質実の伝統と世界に開かれた海港都市の進取の精神に基づいて、自律と創生を全学の理念とし、教育と研究を通じて地域や世界の着実な発展に貢献することを全学の目的とする。」
教育および研究
現在では、医学部・歯学部を除く全学部の学生が五十嵐キャンパスで1-2年次は主に教養教育を、3年次以降は専門教育を受ける。医学部・歯学部の学生は1年次は五十嵐キャンパスで教養教育を受けるが、2年次以降は旭町キャンパスに移り専門教育を受けることになる。
文系学部は、学制改革で旧制新潟高等学校が廃止された後、その校地と教官陣を再編して作られた人文学部が起源である。その後、大学紛争が収束した昭和50年代に文部省(現・文部科学省)の地方大学充実政策の一環として人文・法・経済の三学部に分けられた。そのため、この三学部は以前は同じ建物に同居しており、お互いの学部の講義を聴講する機会も多く、同窓会も一緒である。
(Wikipediaより)
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