今回は、2021年9月17日金 チコちゃんに叱られる!「▽くちびるの秘密▽トランプの枚数▽お茶わんの謎」の番組内容を紹介。
なんでご飯を入れる器をお茶碗っていうの?
確かにごはんを入れるのに、なぜ茶碗?
なんでご飯を入れる器をお茶碗っていうの?
本日の最後の話題。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、ご飯をたくさんおかわりする健康的な大人ってだーれ?」
この問題は、池松さんが回答者に。
視聴者の方から寄せられた質問。
チコちゃん「なんでご飯を入れる器をお茶碗っていうの?」
池松さん「食べ終わった最後にお水やお茶を入れてお茶漬けにしたから。」といった趣旨の回答。
正解に至らず、叱られちゃいました。
岡村さんに聞いてみると、、
岡村さん「お茶を飲むお茶碗に入る分だけ食べられるようにご飯の量が決まっていたから。」という趣旨の回答。
こちらも正解に至らず。
チコちゃんの答えは、「焼き物の器はどんなものでも「お茶碗」と呼ばれていたから」
焼き物の器はどんなものでも「お茶碗」と呼ばれていたから
解説してくれたのは、静嘉堂文庫美術館の河野元昭館長。
茶碗というのは元々はお茶を飲む器としてお茶と一緒に中国から伝わったもの。
古くは平安時代の文献に既にお茶に関する記述があります。
日本人とお茶(茶碗)の関係性は1000年以上も続いています。
ところが昔のお茶は今とは違う存在。
鎌倉時代に書かれた「喫茶養生記」にはお茶=病気に効く薬という記述。
当時のお茶は今のように一般的な飲み物では無く身分の高い人だけが薬として口にできる高級品。
という事はお茶を入れる為の茶碗もそのほとんどが中国から輸入された高価な品物。
その後はお茶の国内生産がすすみます。
室町時代以降は徐々に薬としてではなく現代と同じく日常的な飲み物として普及。
「一服一銭」と呼ばれる道端で一銭でお茶をうる商売があったり。
かの有名な茶人の千利休が活躍したりとお茶文化は広がりを見せ、
身分に関係なくお茶を飲むように変化。
そしてこの頃になると茶碗には2つの意味が存在するようになります。
お茶の器、そして焼き物全般と2種類の意味で使われるように。
当時の文献には、現在でいう所の香炉や燭台、花瓶、鉢など全て茶碗という表記。
日本人にとって茶碗がとても身近なものであると同時に、お茶が思い入れの強いものだったので焼き物全体を茶碗と呼んでいたのでは?とのこと。
また、江戸時代以降は日本の焼き物技術が高まった事で大量生産が出来るように。
値段もお手頃になった影響も大きかったよう。
それまではご飯の器と言えばもっぱら木の器に入れられていました。
焼き物の器にご飯を入れるのが普及したのは江戸時代以降。
このような変化が起こったのは「ご飯のこびり付きやすさ」も関係しているよう。
木のお椀に比べて焼き物の器は表面が滑らかでこびりつきにくい性質。
焼き物の普及と共に人々は焼き物の器にご飯を盛るようになったのではないか?と推測。
そんな流れからご飯を入れる器も茶碗と呼ぶ文化が生まれました。
最後に静嘉堂文庫美術館が誇る「世界一の茶碗」という逸品「曜変天目」というお茶を飲むための椀の映像。
完全な状態では世界では3椀しか残っていないとされる国宝。
かつては徳川将軍家が所有したものでその特徴は内側の斑点。
鮮やかな色合いは偶然の産物だそうで、その希少性から大正時代に行われた取引では現在の価格にして数十億の値が付いたそう。
現在でも多くの陶芸家がその色合いの再現・復元に私財をなげうっているそうですが、それでもここまでの色合いを出すのは至難の業とのこと。
結論
というわけで、
「なんでご飯を入れる器をお茶碗っていうの?」は、
「焼き物の器はどんなものでも「お茶碗」と呼ばれていたから」
でした。
塚原アナから補足
木のお椀の中でも漆塗りのお椀は表面が滑らかでご飯がこびり付きにくいので、現在でもご飯を入れる器として用いられているとのこと。
解説してくれたのは
静嘉堂文庫美術館の河野元昭館長
河野 元昭(こうの もとあき、1943年7月20日 – )は、日本の美術史学者。静嘉堂文庫美術館館長。東京大学名誉教授。美術専門誌『国華』前主幹。秋田県立近代美術館名誉館長。元学校法人二本松学院京都美術工芸大学学長。
秋田県出身。近世美術が専門で、琳派研究の第一人者。「饒舌館長」のペンネームで精力的に文筆活動を行っている。
略歴
1967年3月 東京大学文学部美術史学科卒業
1970年3月 東京大学大学院人文科学研究科美術史学専門課程博士課程中退
1970年4月 東海大学教養学部専任講師
1971年10月 東京国立文化財研究所文部技官
1979年9月 名古屋大学文学部助教授
1985年4月 東京大学文学部助教授
1992年4月 東京大学文学部教授
1995年4月 東京大学大学院人文社会系研究科教授
2006年3月 定年退職
2006年4月 秋田県立近代美術館館長
2006年6月 東京大学名誉教授
2014年4月 学校法人二本松学院京都美術工芸大学学長
2015年10月 静嘉堂文庫美術館館長
(Wikipediaより)
静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)は、東京都世田谷区岡本二丁目23番1号にある専門図書館及び美術館。日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵する。事業主体は公益財団法人静嘉堂。同財団は三菱財閥の第2代総帥岩崎弥之助・第4代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足した。「静嘉堂」は弥之助の堂号である。
数多くの貴重な古典籍と古美術品を収蔵しており、内外の古典籍を研究者向けに公開する私立の専門図書館であると同時に、併設する静嘉堂文庫美術館を通じて収蔵品を般公開している。
静嘉堂文庫は、岩崎弥之助が1892年(明治25年)、神田駿河台(東京都千代田区)の自邸内に創設した文庫「静嘉堂」を起源としている。静嘉堂の名は『詩経』大雅、既酔編にある「籩豆(へんとう)静嘉」という句(祖先の霊前への供物が美しく整うという意味)から採られた弥之助の堂号(書斎号)に由来する[1]。弥之助は兄で三菱創設者である岩崎弥太郎に従って実業界に入る以前、漢学を学んだ経験があった。恩師である重野安繹(成斎)の研究を援助する目的から古典籍の収集を始め、和漢の古書や古美術品の収集を熱心に行った。1907年には清の集書家、陸心源の「皕宋楼」旧蔵書4万数千冊を購入し、宋・元の版本多数を含む貴重なコレクションが文庫にもたらされた。
翌1908年の弥之助死後、その子岩崎小弥太は、父の遺志を受け継ぎ、文庫を拡充し、1911年には岩崎家の高輪別邸(東京都港区、現・開東閣)に移転。さらに1924年には世田谷区岡本にある弥之助の墓の隣接地に桜井小太郎の設計で静嘉堂文庫を建て、広く研究者への公開を開始した。1940年に小弥太は財団法人静嘉堂を創立し、蔵書や文庫の施設など一切を財団に寄付して、岩崎家の家産から切り離した。
太平洋戦争後、財政難に陥るが、1953年に同じく三菱系の私立図書館である東洋文庫(創設者は岩崎弥太郎の子で、三菱第3代総帥の岩崎久弥)とともに、国立国会図書館の支部図書館となって、資料の公開を継続することができた。これは、文庫の資料と施設を所有する財団法人が国立国会図書館と契約を結んで図書館部門を国会図書館の支部図書館としてその傘下に組み入れ、図書と施設は財団の所有に残したまま、財団の図書館業務の人的部分を国会図書館に委託するというものである。
その後、静嘉堂文庫は三菱グループの援助を受けて1970年に国立国会図書館の傘下から離れ、再び三菱グループ経営の私立図書館となった。1977年からは付属の展示室を設けて文庫の収蔵する美術品の公開を開始し[注釈 1]、1992年には創設100周年を記念して建設された新館に恒久的な美術館を開館した[注釈 2]。
静嘉堂文庫美術館の展示ギャラリーは、2022年に東京都千代田区丸の内の明治生命館に移転の予定である。移転するのは展示ギャラリーのみで、美術品の保管、静嘉堂文庫(書庫)の業務、および庭園の管理は引き続き従来の世田谷区岡本で行われる。この移転は美術館の開館30周年ならびに三菱創業150年(2020年)の記念事業の一環として行われるものである[5]。
(Wikipediaより)
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