今回は、2022年3月18日金 チコちゃんに叱られる!「▽ニンニクの謎▽いらっしゃいませ▽数字にコンマ?」の番組内容を紹介。
なんでにんにくはスタミナの元なの?
なんでにんにくはスタミナの元なの?
本日の1つめ目の話題。
まずは、最初のゲスト紹介。
本日のゲストは、ウエンツ瑛士さんと高橋ひかるさん。
早速一問目に。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番、元気モリモリでスタミナがある大人ってだーれ?
岡村さんの指名で、高橋さんが回答者に。
話題はスタミナがつくものということでにんにくへ。
チコちゃん「なんでにんにくはスタミナの元なの?」
高橋さん「球根か。掘ってみたらかわいい形で、皮をむいていたくさいから、、、、、」
などと、いろいろ説明しているうちに、口元に正解マーク。
チコちゃん「おまけで、つまんねーヤツだな~。」
見事正解!
正解を言われてちょっと悔しいチコちゃんから漢字の問題。
問題は、千葉県の地名「ちょうし」
こちらは、3人とも書けずで叱られちゃいました。
正解は「銚子」
というわけでチコちゃんの答えは、「人間が火を使う生き物だから。」
人間が火を使う生き物だから
解説してくれたのは、日本大学の有賀豊彦名誉教授。
そもそもにんにくには弱った体を強くする働きがあるといわれています。
数千年もの間、人間の生活を支えて来た人類にとって非常に重要なスタミナ源。
古くは古代エジプトでピラミッドを建築する際、その労働者たちが食べていました。
にんにくが描かれた壁画や、
にんにく模型まで見つかっています。
このように、昔から力仕事を行う労働者たちの活力になっていたにんにく。
実はにんにくを食べるのは人間だけ。
その理由はにんにくの持つ硫黄成分。
硫黄は温泉などに含まれる、その独特のニオイのもとになっている成分。
にんにくには地中から硫黄成分を吸収して溜め込む性質があります。
通常だとにんにくは細胞の内側に硫黄成分を保留。
にんにくをカットすると硫黄成分が外に飛び出します。
にんにく内の酵素と反応する事でアリシンと呼ばれる成分に変化。
このアリシンがにんにく独特の強い匂いの素。
このニオイは動物界においてはお守り代わり。
強烈なニオイを発する事で自分たちを食べに来た天敵の動物たちを遠ざけて身を守っています。
にんにくは、害獣避けの一環として畑ににんにくを置いて忌避剤代わりに使われる事もあります。
しかしながらにんにくに、天敵が現れます。
それが、我々人間。
人間は火を使って加熱することで、アリシンを封じ込めて刺激を弱めます。
アリシンは加熱する事でスルフィドという別の成分に変化。
強い刺激が無くなって何とも良い香りに。
そしてこのスルフィドこそがにんにくがスタミナの元。
スルフィドが体内に取り込まれると血流を促進するとともに、体内の脂肪を熱に変換するように働きかけます。
これによって体温が上昇し本格的な運動をする前の準備運動をした時と同じような状態に。
さらにスルフィドは副腎という器官を刺激してアドレナリンの分泌を促します。
このアドレナリンによって筋肉内の血流が増えてより活動的に。
つまりスルフィドは体を動かす準備を整えてくれるとのこと。
また、にんにくはスルフィドのもととなる硫黄成分を他のスタミナ食材よりも豊富に含んでいます。
そこで、その効果を感じやすいという特徴も。
また、火以外にも、酢や油でもアリシンを抑えることができます。
人間だけが火を使えたことでたどり着けたこのスタミナ源。
世界中で食べられています。
そこで、世界各国のニンニク料理の紹介。
ジョージア伝統料理「シュクメルリ」
鶏肉とにんにくをいためて、牛乳や生クリームで煮込んだもの。
ご飯との相性、ばっちり!
韓国「マヌルパン」
大量の刻んだにんにくを大量の油であげて、マヨネーズなどを加えてパンにたっぷりかけて、オーブンへ。
罪悪感がすごいとSNSで話題に!
中央アジア(ウズベキスタンなど)の国民食「プロフ」
お肉や野菜と共に、にんにくを丸ごといれてお米をいれて炊飯。
一種の炊き込みご飯。
にんにくは食べるときに皮をむいて一緒に食べます。
などなど、世界各国でにんにくは食べられています。
結論
というわけで、
「なんでにんにくはスタミナの元なの?」は、
「人間が火を使う生き物だから」
でした。
最後に、先生から「にんにくには硫黄成分が非常に濃く含まれるので食べる過ぎるとお腹を壊す可能性もあるので食べ過ぎには要注意」とのこと。
解説してくれたのは
解説は日本大学の有賀豊彦名誉教授
有賀 豊彦(ありが とよひこ、1941年 – )は、日本の生理学者。学位は医学博士(日本大学・1974年)。株式会社健康家族顧問、日本大学名誉教授、一般社団法人日本血栓止血学会功労会員。
日本大学医学部助手、ヴァンダービルト大学研究員、日本大学医学部助教授、日本大学農獣医学部教授、日本大学生物資源科学部教授などを歴任した。
長野県出身の生理学者である。大蒜に関する研究では第一人者として知られ[1]、抗血小板作用を持つメチルアリルトリスルフィドを世界で初めて発見したことでも知られている[1][2]。日本大学やヴァンダービルト大学で勤務し[1][3]、後進の育成に努めた。
来歴
生い立ち
1941年(昭和16年)、長野県にて生まれた[4]。太平洋戦争終結後、同名の学校法人により設置・運営される日本大学に進学し[1]、農獣医学部の農芸化学科にて学んだ[1][† 1]。1964年(昭和39年)に日本大学を卒業した[1]。それに伴い、農学士の称号を取得した[† 2]。
生理学者として
1969年(昭和44年)、母校である日本大学に採用され[1]、医学部の助手として着任した[1]。医学部においては、生理学教室に所属していた[1]。その傍ら「Studies on biliary plasminogen activator — a new extraction method for bilokinase」[5]と題した博士論文を執筆していた。その結果、日本大学より医学博士の学位が授与された[5][6][† 3]。その後、アメリカ合衆国に渡り、1981年(昭和56年)から1982年(昭和57年)にかけてヴァンダービルト大学で研究員を務めた[1]。ヴァンダービルト大学においては、病理学研究室に所属していた[1]。日本に帰国後、1984年(昭和59年)に日本大学の医学部にて助教授に昇任した[1]。1990年(平成2年)、日本大学の農獣医学部に異動し[1]、教授に昇任した[1]。その後、農獣医学部が生物資源科学部に改組されることになり、1996年(平成8年)4月より生物資源科学部の教授を務めた[1]。日本大学を退職すると、2012年(平成24年)に名誉教授の称号が授与された[3]。また、健康家族では顧問を務めた[7]。
研究
専門は生理学である。1980年(昭和55年)よりニンニクの研究に取り組んでいた[1][2]。当時、ニンニクに血小板抑圧制作用があることは知られていたものの[2]、どの成分による作用なのかは不明であった[2]ニンニクニンニクの精油に含まれている16種の成分を分離し[2]、血小板抑圧制作用を持つ物質を見出す研究に取り組んだ[2]。その結果、抗血小板作用を持つメチルアリルトリスルフィドを発見し[1][2]、1981年(昭和56年)の『ランセット』誌上にて発表した[8][9]。この研究成果は、1987年(昭和62年)に開催された日本農芸化学会の大会においてもシンポジウムで取り上げられ[9]、学界で広く認められるところとなった[9]。もともと日本におけるニンニクの研究は、スコルジニンを発見した小湊潔とアリチアミンを発見した藤原元典らが嚆矢となり[9]、1980年代においては岩井和夫、川岸舜郎、西村弘行が中心となっていた[9]。メチルアリルトリスルフィドの発見により、有賀もその一角を占めるようになった[9]。のちに岩井と川岸が引退し[9]、西村が玉葱の研究に転じると[9]、有賀が日本のニンニクの研究の第一人者と目されるに至った[9]。さらに、ニンニクによる抗癌作用についての研究にも取り組んでいた[1]。
学術団体としては、日本農芸化学会[1][3][7]、日本血栓止血学会[1][3][7]、日本生理学会[1][3][7]、日本香辛料研究会[1][3][7]、日本栄養・食糧学会[7]、生物資源研究会[7]、などに所属していた[1][3][7]。日本農芸化学会[1][3]、日本生理学会[1][3][7]、および、日本栄養・食糧学会においては[7]、それぞれ評議員を務めていた[1][3][7]。日本香辛料研究会においては、役員を務めていた[1][3][7]。生物資源研究会においては、理事を務めていた[7]。日本血栓止血学会からは、功労会員の称号を授与されている[1][3][7][10]。
(Wikipediaより)
日本大学(にほんだいがく、英語: Nihon University)は、東京都千代田区九段南四丁目8番24号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は日大(にちだい)。
大学全体
東京都千代田区九段南に所在する日本大学会館。
日本大学は日本最大の規模を有する[1]私立総合大学である。2018年3月現在での卒業生総数1,167,309人[2]や、2019年5月1日時点での学生数74,616人[3]も日本の大学全体で第1位である[4]。2019年6月時点での社長の出身大学者数20,741人[5]も日本の大学全体で第1位(※上場企業に限定した場合は第5位)[6]である。
「常に世界的な視野をもち、教育の発展及び人類社会への貢献」を教育目標としている。山田顕義を学祖とし、創立関係者は宮崎道三郎と金子堅太郎を含む法律学者11名である[7]。
前身たる日本法律学校を設立するにあたって、山田はその立場から、先の創立者との協議の上で「日本の古法旧制を明かにして、更に新しく生れる諸法典を研究するため、日本の法学を修める学校を設立する」ことを取りまとめた。すなわち、彼は大日本帝国憲法が発布された近代国家の創成期において、「国法」を専修する法律学校の設立が急務であると考え、直ちにその設立事業に取り掛かった。そして1889年(明治22年)10月4日、東京府から設立許可を得て、日本大学法学部の前身である日本法律学校が誕生した。また、山田は同学設立後も文部省に対して「特別認可学校」とするよう要請し、同学の運営財政面において尽力した。このように日本法律学校の設立事業と、学校設立時に彼が示した開学理念および思想は、その後の法学部のみならず、近代日本の発展に大きく寄与したことは周知であり、「近代法の祖」と称される由縁である。その彼を日本大学は学祖と位置づけている。
教育・研究活動を始め医療から生涯学習等、近代社会を目標に様々な活動を行っている。単科大学のようにそれぞれ独立したキャンパスをもち、図書館は全学部のキャンパスに置かれている。体育大会といったイベントを大学主催で実施しており、広範な学問領域を包含する国内屈指の総合大学としてのスケールメリットを学術研究の推進力と成果に結実させるために体系的な学術研究戦略を立案し、全国各地に附属校も設け学部連携研究推進シンポジウムを積極的に開催するなど、研究・教育内容の拡充・発展に取り組んでいる[8]。16学部87学科・短期大学部5学科・通信教育部4学部・大学院20研究科・5付属病院・11高等学校・6中学校・小学校・幼稚園等を設置し、医学部、歯学部、薬学部、獣医学部の6年制4学部である[9]。医学教育の面では日本で最も早くOSCEを導入した[10]。
1903年(明治36年)に日本大学と改称。1920年(大正9年)に大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。マスコミ・芸能界、法曹界、政界、官界、財界、学界、土木・建築界、医師、技術者、アスリートなどの分野に多様な人材を輩出している。
建学の精神(校訓・理念・学是)
日本大学では1914年に4ヶ条からなる「建学ノ趣旨及綱領」が制定され[11]、それが戦後(1949年)の改定により「目的および使命」と形を変え、さらに創立70周年を迎えた1959年の再改定によって現在の姿となった[12]。 また、2007年6月1日に教育理念として「自主創造」を選定した[12]。
(Wikipediaより)
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