今回は、2022年8月19日金 チコちゃんに叱られる! 拡大版SP▽海水浴の謎▽自由研究▽なぜファンになる 初回放送日: 2022年8月19日の番組内容を紹介。
なんで夏に海水浴に行くの?
なんで夏に海水浴に行くの?
今回は、夏の拡大版「ロストサマー! 去年の夏はオリンピック見てたけど、その前の夏は何してたっけ!?スペシャル!」
本日の最初の話題。
まずは、ゲスト紹介。
本日のゲストは、染谷将太さん、小池栄子さん、金子大地さんと、岡村さんも含め、大河ドラマ俳優スペシャル!
本日は、番組中にスタジオ内のセットの一部が変わるという間違い探しもあり。
早速問題へ。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で夏の海が似合うステキな大人ってだーれ?」
岡村さんの指名で、染谷将太さんが回答者に。
海から海水浴の話題に。
チコちゃん「なんで夏に海水浴に行くの?」
染谷さん「昔、塩は貴重だったので、塩分補給。」といった趣旨の回答。
正解に至らずられちゃいました。
チコちゃんの答えは、「じゅんさんが頑張ったから。」
じゅんさんが頑張ったから
解説してくれたのは、日本大学理工学部の畔柳昭雄さん。
夏に海水浴に行く習慣を広めたのは幕末から明治にかけて活躍した医師・松本順(良順)。
軍医という立場ながら庶民が病気にならないように尽力した人物。
病気にならない事を第一に考える健康法を提唱。
牛乳は体に良いや、力をつけるなら肉など。
これらは、今でも広く普及している基本的な健康知識を広めた人。
海水浴も健康法の一種。
海水浴は18世紀頃ヨーロッパで広まった健康法。
海に入ると波の影響で全身に刺激が加わり血行をよくします。
また、海水に含まれるミネラルは皮膚病や貧血によいということで、日本においても海水浴を支持する医師たちが多く提唱。
そこで、松本は、海水浴に適した海水浴場を探します。
NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場「稲村じゅーん」
松本順役は、村上淳さん。
場所は、明治17年頃の大磯海岸。
大磯は波の強さがほど良く、北側に山があるので冷たい風が吹き込まず、海水の塩分濃度は高い海岸。
大磯海岸に海水浴の場所にと、決めた松本順。
旅館・百足屋の主人(宮代謙吉:村上純)に相談。
また、町の人々に協力を呼びかけて海水浴で町おこしをと精力的に活動。
その活動が実って明治18年には遂に大磯海水浴場がオープン。
しかし、大磯海岸に人はあまり訪れず。
当時、大磯へは横浜から人力車で40kmの道のりを行かなくてはいけないという場所。
アクセスが悪く、交通の便でかなり不利。
松本は、海水浴についてまず宣伝するために明治19年に海水浴ガイド「海水浴法概説」を記述。
また、精力的にビラ配りで宣伝。
しかし、海水浴文化は根付かず。
しかし、大きな転換が!
明治19年に発表された東京・京都間の新たな鉄道ルートの計画。
これを知った松本順は初代内閣総理大臣の伊藤博文(黒瀬純)に直談判。
東海道線の延長で大磯に新駅を造れないかと相談。
当初の計画では大磯は新駅候補ではありませんでした。
松本「大磯は良い場所です。閣下がそこに別荘を建てれば良いのでは?」
と説得。
そして、明治20年7月11日は大磯駅開業。
アクセスがよくなり、大磯の海水浴場には大賑わい。
さらに海水浴場の近くに療養施設を兼ねた旅館・祷龍館を建設。
旅館が賑わっている風景を三代目歌川国貞に頼んで浮世絵にして宣伝。
メディア戦略を展開。
さらに、大磯と海水浴を題材にした「名大磯湯場対面」という恋物語を描いた歌舞伎の演目を有名脚本家に依頼。
当時の人気役者に演じてもらいました。
さらに物語にちなんだまんじゅうを大磯で名物として販売。
そのまんじゅうを手土産に政財界の要人たちに別荘建設を持ちかける営業活動も。
結果、大隈重信、山縣有朋、原敬、吉田茂など後の総理たち8人が大磯に別荘を建設。
大磯は「明治政財界の奥座敷」と形容されるまでに。
そして、大磯は今や高級リゾート地と認識されるように。
これをきっかけにして海水浴場が全国各地に造られるよう。
海水浴といえば夏のレジャーという文化が庶民にも定着しました。
結論
というわけで、
「なんで夏に海水浴に行くの?」は、
「じゅんさんが頑張ったから」
でした。
補足
松本順以外にも当時の西洋医学を学んだ医師たちが尽力して同時期に兵庫・愛知・三重などにも海水浴場が造られました。この中で「海水浴場」と名付けたのは松本順が最初だったとのこと。
解説してくれたのは
日本大学理工学部の畔柳昭雄さん。
特任教授
クロヤナギ アキオ
畔柳 昭雄
学歴
日本大学1976理工学部建築学科卒業
日本大学1981理工学研究科建築学専攻博士後期修了
学位
工学修士日本大学
工学博士日本大学
研究分野
社会基盤(土木・建築・防災)建築環境、建築設備
社会基盤(土木・建築・防災)建築計画、都市計画
環境・農学環境影響評価
(大学HPより)
日本大学(にほんだいがく、英語: Nihon University)は、東京都千代田区九段南四丁目8番24号に本部を置く日本の私立大学である。1920年に設置された。大学の略称は日大(にちだい)。全ての学部・大学院研究科が単科大学のようにそれぞれ独立したキャンパスを持つ。
概説
大学全体
日本大学は日本最大の規模を有する[1]私立総合大学である。2018年3月現在での卒業生総数1,167,309人[2]や、2019年5月1日時点での学生数74,616人[3]も日本の大学全体で第1位である[4]。2019年6月時点での社長の出身大学者数20,741人[5]も日本の大学全体で第1位(※上場企業に限定した場合は第5位)[5]である。
「常に世界的な視野をもち、教育の発展及び人類社会への貢献」を教育目標としている。山田顕義を学祖とし、創立関係者は宮崎道三郎と金子堅太郎を含む法律学者11名である[6]。
前身たる日本法律学校を設立するにあたって、山田はその立場から、先の創立者との協議の上で「日本の古法旧制を明かにして、更に新しく生れる諸法典を研究するため、日本の法学を修める学校を設立する」ことを取りまとめた。すなわち、彼は大日本帝国憲法が発布された近代国家の創成期において、「国法」を専修する法律学校の設立が急務であると考え、直ちにその設立事業に取り掛かった。そして1889年(明治22年)10月4日、東京府から設立許可を得て、日本大学法学部の前身である日本法律学校が誕生した。また、山田は同学設立後も文部省に対して「特別認可学校」とするよう要請し、同学の運営財政面において尽力した。このように日本法律学校の設立事業と、学校設立時に彼が示した開学理念および思想は、その後の法学部のみならず、近代日本の発展に大きく寄与したことは周知であり、「近代法の祖」と称される由縁である。その彼を日本大学は学祖と位置づけている。
教育・研究活動を始め医療から生涯学習等、近代社会を目標に様々な活動を行っている。単科大学のようにそれぞれ独立したキャンパスをもち、図書館は全学部のキャンパスに置かれている。体育大会といったイベントを大学主催で実施しており、広範な学問領域を包含する国内屈指の総合大学としてのスケールメリットを学術研究の推進力と成果に結実させるために体系的な学術研究戦略を立案し、全国各地に附属校も設け学部連携研究推進シンポジウムを積極的に開催するなど、研究・教育内容の拡充・発展に取り組んでいる[7]。16学部87学科・短期大学部5学科・通信教育部4学部・大学院20研究科・5付属病院・11高等学校・6中学校・小学校・幼稚園等を設置し、医学部、歯学部、薬学部、獣医学部の6年制4学部がある[8]。医学教育の面では日本で最も早くOSCEを導入した[9]。
1903年(明治36年)に日本大学と改称。1920年(大正9年)に大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。マスコミ・芸能界、法曹界、政界、官界、財界、学界、土木・建築界、医師、技術者、アスリートなどの分野に多様な人材を輩出している。
(Wikipediaより)
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