今回は、2019年11月29日金曜日放送、チコちゃんに叱られる!「ピアノの鍵盤はなぜ白黒?・子どもの肩こりの謎 ほか」のお話。
なんでクリスマスプレゼントを靴下に入れるの?
確かに、クリスマスといてば、プレゼントは靴下の中ですね。
なぜなんだろう?
なんでクリスマスプレゼントを靴下に入れるの?
本日の1問目。
チコちゃん「ねぇねぇ岡村、この中で一番サンタさんが来てくれそうな心のキレイな大人ってだーれ?」
横山さん「これ選ばれないとキツイですね。」
ということで、横山さんが回答者に。
チコちゃん「サンタさん来たことある?」
横山さん「幼稚園時代に来てくれた記憶があります。」
横山さん「ゲームのカセットくれ言うたんすけど、ちょっと安めのトランプが入ってたんですよ。」
チコちゃん「なんでクリスマスプレゼントを靴下に入れるの?」
横山さん「なんでって言われても!」
横山さん「クリスマスプレゼントの入れ物が無かったのでとりあえずそこにあったのが靴下で、そのうちに慣習になった。」
正解にいたらず、叱られちゃいました。
松坂さんにも聞いてみます。
松坂さん「靴下を目印代わりに使っている。」
こちらも叱られちゃいました。
靴下屋さんで街頭インタビューするも、正解なし。
チコちゃんの答えは、「金貨が干してある靴下に入ったから。」
チコちゃん「部屋干しの。」
松坂さん「部屋干しの?」
金貨が干してある靴下に入ったから
サンタクロースのモデルになったのは「聖・ニコラウス」。
1700年前の4世紀の小アジアのキリスト教の司教。
サンタクロースの由来は、オランダのシントゥ・ニコラース(Sinterklaas)。
聖・ニコラウスと靴下の関係性について
「聖・ニコラウス物語」
ナレーションは、つぶやきシローさん。
昔々、小アジアの古代都市ミュラ(現在のトルコ・デムレ)にニコラウスという司教がいました。
ニコラウスは人々にキリスト教の教えを説いた優しい人物。
近くにはある貧しい生活を送る家族がいました。
その父親は3人の娘に嫁入り道具を用意してあげる事ができず、娘を人買いに売りに出そうとします。
これを聞いたニコラウスは心を痛めます。
そこで、真夜中にその家の窓にそっと近づいてコッソリと金貨を中に投げ入れました。
するとその金貨が暖炉の前で乾かしていた靴下の中に。
そして翌朝になって靴下の中に入っていた金貨を見つけた家族は大喜び。
そのおかげで、長女は無事に嫁入りする事に。
さらにニコラウスは次女や三女の時も金貨を投げ入れました。
そして、その貧乏家族は救われたのでした。
この聖・ニコラウスの伝説から、サンタクロースは、プレゼントを靴下の中にいれるようになりました。
日本でのサンタクロース
日本に初めて登場するサンタクロースは明治33年。
名前は、北国の親爺 三太九郎
挿絵をみると、トナカイではなくロバ。
クリスマスプレゼントを白い袋ではなくカゴに。
その後、徐々にサンタクロースの姿は現行の形に。
大正3年にはクリスマスプレゼントを靴下に入れようとしている姿も描かれるように。
日本中にクリスマスの文化を一気に広めるきっかけ
昭和41年から放送された海外ドラマ「奥様は魔女」。
当時はアメリカのホームドラマをお手本に。
日本でもクリスマスツリーを飾りつけたり、クリスマスプレゼントを贈ったり。
また、昭和30年代にはクリスマスケーキもシーズンになると大量生産されるように。
そして、現代のクリスマスのイメージが定着。
昭和30年頃から、クリスマスプレゼントを靴下に入れるという習慣も根付いたとのこと。
結論
というわけで、
「なんでクリスマスプレゼントを靴下に入れるの?」は、
「金貨が干してある靴下に入ったから」
でした。
塚原アナから補足
窓からではなく、煙突から金貨を落としたという説もあるとのこと。
解説してくれたのは
専修大学の道家英穂教授。
★イギリスの詩、西欧文学の思想史的研究
道家英穂(どうけ・ひでお)です。専修大学に勤めて30年近くになります。勤め始めた頃は学生と友達のような関係でしたが,今でも友達のような関係です(と私の方は思っています)。ただ最近,授業でちょっと前のことについて話すと,その出来事があった時,学生はまだ小学校に入っていなかったり,場合によっては生まれていなかったりすることがあって驚くことがあります。
文学が専門で,研究のテーマは,1「英詩研究」―ロマン派やその影響を受けた20世紀の詩人ルイ・マクニースを研究しています。2「西欧文学に・ゥ・骼生観の変遷」―長年,講義で取り上げてきたテーマですが,現在本にまとめようとしているところです。
ゼミのテーマは3年次が「イギリスのクリスマス」―クリスマスの起源は真冬にあって春の到来を願う古代のお祭りにあり,あとからイエス・キリストの誕生日とされた,といった歴史を学んだ上で,ディケンズの『クリスマス・キャロル』をとりあげ,この作品に歴史的背景がどう反映されているかについて考察します。4年次は「『ピーター・パン』とその背景」―作者ジョン・バリの兄デイヴィッドは13歳で死んだため大人になることがなかったが,それが永遠の少年であるピーター・パンの姿に投影されている,などの背景を調べつつ,原作を読むことでディズニーの絵本やアニメとは違った世界を探ります。
本学で学ぶみなさんには知的好奇心を大切にして欲しいと思います。
(大学HPより)
専修大学(せんしゅうだいがく、英語: Senshu University)は、東京都千代田区神田神保町3-8に本部を置く日本の私立大学である。1923年に設置された。大学の略称は専修(せんしゅう)、専大(せんだい)。
専修大学は1880年9月16日に開校した専修学校(現在の専修学校とは異なる)を前身とし、1922年に大学令に基づく大学となった私立大学である。五大法律学校の一校としても知られた。
専修大学の母体は、1875年に日本人の官費留学生によってアメリカ合衆国で結成された「日本法律会社」にまでさかのぼる[1]。当時、明治政府は近代国家の建設を目標に、西欧の先進的な文化を導入するため、積極的に海外留学政策を推し進めており、創立者たちもアメリカへ留学した人物であった。1879年日本法律会社に所属していた相馬永胤と目賀田種太郎は、東京市京橋区(現東京都中央区)に法律事務所を開設、そこへほぼ同時期に帰国した田尻稲次郎と駒井重格が加わり、アメリカ留学時に構想していた高等教育機関の設立へと動き出す[1]。この構想に賛同した福澤諭吉は、まず慶應義塾内に教育機関を開設するように促した。こうして、1879年12月に開設されたのが慶應義塾夜間法律科である。また、同じくこの構想に賛同した箕作秋坪は、自分の私塾である三汊塾へ法律経済科を設置して、相馬らに教授を任せた[1]。一方、日本法律会社は、東京大学法学部の卒業生らを加え、東京法学会へと発展し、東京攻法館という教育組織を結成していた[2]。慶應義塾や三汊塾の一部としてでは、自分たちの求める高等教育機関として不十分であると感じた相馬[2]らは、本格的に独立した高等教育機関を設立することを模索した。その結果、明治生命本館として使用されていた明治会堂を借り受けられることとなり、慶應義塾夜間法律科と三汊塾法律経済科、東京攻法館を統合し、専修学校を設置することにした[2]。これらの教育機関における実績をもとに、相馬ら8名は、1880年8月7日、東京府へ開校届出を提出し、日本初の本格的な私立法律経済学校として認可された[2]。その後、明治会堂の完成が遅延したが、福澤の好意で、簿記講習所を仮校舎として使用することとなり、簿記講習所で開校式が執り行われた[3][2]。当時、法律学を本格的に教える教育機関は、東京大学法学部や司法省法学校など極少数であり、東京大学法学部が英語、司法省法学校が仏語で教授していたのに対し、専修学校法律科は日本語で英米法を教授する唯一の本格的法律学校として多くの学生を集めた。明治会堂跡地(現在の東京都中央区銀座3丁目)には、専修大学発祥の碑が設けられている。一方、日本で初めて「経済科」(現在の経済学部)を設置した。日本最初の経済学に関する独立した高等教育機関であり、経済学を組織的に教授する方針をとったことになる。また専門教育課程において経済学を日本語で教授した最初でもある。このように、伝統的に経済学部と法学部が看板学部となっている。
現在では7学部18学科・6大学院研究科を抱える、社会科学・人文科学(ネットワーク情報学部のみ文理融合の方針となっている[4])の総合大学へと発展した。
大学本部及び法学部生が通う神田キャンパスは、古くから東京都の中心地である千代田区の神田神保町に位置する。皇居や北の丸公園、靖国神社付近に立地しており、神田五大学とともに学生街を形成している。戦後に入ると郊外へとキャンパスを広げ、神田・生田の2キャンパス体制となる。
(Wikipediaより)
今回も最後まで読んでくれてありがとう。
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