中世ヨーロッパの歴史の簡単に学ぶスレ | なんJ 2ch 5ch まとめ

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中世ヨーロッパの歴史の簡単に学ぶスレ

はい

まず古代の話からスタート
古代で文明が進んでたのはヨーロッパよりもイラク(メソポタミア)とかエジプトの方だった
そこから地理的に近いギリシャがヨーロッパで最初に発展を遂げた地域

キリスト教徒が異端審問とか十字軍とかで異教徒を大量殺戮した時代

>>
それは大航海時代とかルネサンスの時代の方がずっと多い
なぜなら一方的に虐殺できるということは、それだけ異教徒に対して優位であるということであり
中世にはヨーロッパの優位性はまだまだ確立してない

それで、古代ギリシャではポリスと呼ばれる都市国家が発展した
このポリスっていうのはどういうもんかというと城壁に囲まれた数キロ平方の空間に多くの人が集まって住む形態
各人の利害をうまく調整しないととても仲良く暮らしていけない
それだけ高度な文化があったということやね

そして紀元前四世紀、ギリシャ文明圏のな中でも辺境の国だったマケドニア王国が強大になって他のポリスを服従させてギリシャ全土を統一
マケドニア王アレクサンドロス三世(大王)は仮想敵国だったペルシャを一気に征服して中東にまたがる大帝国を築いた

ギリシャ帝国みたいのじゃなくてマケドニアだったのかー

アレクサンドロスが若くして亡くなると部下の将軍たちは後継者の座をめぐって互いに争い、
最終的にセレウコス朝シリア、プテレマイオス朝エジプトなどのヘレニズム諸国が成立した
ヘレニズムという言葉の元になっている「ヘラス」とはギリシャ人たちが自分の国を呼ぶときの名で、ヘレニズム諸国というのはギリシャ系の国という程度の意味

世界史ってヨーロッパ史だよね

>>
まあ西洋文明の現代における影響の大きさからそうなりがちやね

たとえばエジプトやシリアでは、被支配者層は以前から住んでるエジプト人やシリア人でも
支配者層は他所からやってきたギリシャ語を喋るギリシャ人という状態になったわけだね

さて、その頃ギリシャよりも西にあるイタリア半島では、ローマという都市国家が徐々に勢力を拡大しつつあった
イタリアも海に突きだしてるじゃん?だからギリシャとかアジアの文明が進んだ地域から影響を受けるのが早かったわけね
結局ローマがカルタゴ(この地図の紫)とかマケドニア(緑)とかプトレマイオス朝(青)とかセレウコス朝(黄色)とか諸々を倒しちゃって
古代地中海世界の覇者になる

中世はまだか

>>
中世の歴史は古代を押さえておかないとわからないからね
気長に見守ってくれ

やっぱローマってやべぇわ

やっぱローマ最強やな

ローマが支配するようになったのは地中海に面した国々だけではなかった
今のガリアと呼ばれていた今のフランスや、スペイン、イギリス(の南部のイングランド)や東欧の一部なども征服して支配下に組み入れた
ローマは最終的にこれくらいでかくなる
このときローマに征服されたフランスやイングランド、それと征服されなかったドイツなんかが中世ヨーロッパの主役になるわけだが
古代はどうだったかというとはっきりいってド田舎だった

ローマ最初こんなにちいせえのか
恐ろしい

こりゃ世界帝国ですわ

スコットランドって妙に独立維持してきた印象だけどローマにも征服されてないのな

そこをもうちょい説明すると大雑把にフランスとイギリスにはケルト人、ドイツにはゲルマン人と呼ばれる民族が住んでたわけだが
ローマ人がやって来るまで彼らはいくつも部族に分かれていて文字も持たず町らしい町もなく、
ケルト人やゲルマン人は乱暴な言い方をすればどんぐりうめえwwwってやってるのに毛が生えた程度の文明だったわけだね(ガリア人は多少マシだったが)

中世初期の食糧自給の悪さが物語るなまあ宗教のせいでもあるが

そういうところに先進的なローマ人が攻めてきた結果、ローマの文明や言語(ラテン語)が征服地では徐々に広まっていく
一方で地中海の東の方、ヘレニズム諸国があった地域ではローマ文化やラテン語は広まらなかった
なぜかというとローマ人自身も認めていたように先輩のギリシャ文明の方が先進的だったから(哲学とか)
というわけで広大なローマ帝国の西方ではローマ文化・ラテン語が、
東方ではヘレニズム文化・ギリシャ語が支配的になるという構図が出来上がる(もちろん民衆の土着の言語もあった)
ここが「中世ヨーロッパ」という世界の枠組みを作るポイントの一つ

しかし無双してたローマ帝国も3世紀くらいから内乱や経済状態の悪化や異民族の侵略などでガタが目立ってきて、
結構頑張ったものの4世紀の末には「こんなデカい国一つにしとくの無理じゃね?」って感じで
時の皇帝テオドシウスは息子に後を継がせるにあたって東西二つに領域を分けた
この時のホノリウス帝の治める「西ローマ帝国」がローマ・ラテン文明の地域で、
アルカディウス帝の治める「東ローマ帝国」はヘレニズム諸国の地域という感じ
この相違は時とともにどんどん大きくなっていって、以前はエリートならラテン語・ギリシャ語どちらも出来て当たり前だったのが
中世にはお互いに通訳を必要とするようになってしまう

あとキリスト教の話もしとこう
キリスト教は紀元1世紀のイスラエルで生まれた
もともとローマ帝国に征服されたユダヤ人っていう民族がここに住んでたんだけど
彼らのユダヤ教は唯一の神しか認めない独特な宗教だった
ユダヤ教とその分派キリスト教は、ローマの神々を決して崇めようとしない態度のせいで最初はローマ帝国から迫害されていた
しかしキリスト教はユダヤ人以外の民族にも門戸を開放したり、理論武装のためにギリシャ哲学の一部を流用するなど柔軟に立ち回った
そしてローマ帝国が弱体化して社会不安が増大する時代になると大きな勢力となって
最終的にコンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を国教に採用した
コンスタンティヌス

>>
その後の皇帝テオドシウスが国教にした、でした

現代までの禍根を残したハドリアヌス帝

さて、こっからヨーロッパが話のメインな
4世紀末、5世紀初頭あたり
西ローマ帝国にとって最大の脅威になっていたのがゲルマン人だった
ローマに征服されなかったドイツや東欧にいた金髪碧眼の「蛮族」といわれたやつらが大挙して押しかけてくるようになった
そのきっかけになったのはアジアから来た遊牧民の「フン族」がゲルマンの諸部族を圧迫したせいで
故郷を追われたゲルマン人が女子供も引き連れた数万から十万前後の単位でローマ帝国に侵入して暴れまわるという事件がいわゆる「ゲルマン民族大移動」という出来事

フン族って確か騎馬民族だよな

>>
情報が少ないので定かではないが中国の歴史書に「匈奴」と書かれている民族の末裔だと言われているね

弱体な西ローマ帝国はゲルマン人の侵入を撃退できずに滅亡していき、帝国各地はゲルマン人の王たちの支配に服することになった
スペインに西ゴート王国、イタリアに東ゴート王国、フランスにフランク王国とブルグント王国、ポルトガルにスエビ王国、チュニジアにヴァンダル王国などなど
だがこれらのゲルマン人たちは別にローマ帝国を滅ぼそうとしてやってきたわけではない
元々はもっと安全で豊かな土地を求めてやってきただけ
さらに乗り込んできたゲルマン人は一部族につきせいぜい十数万人程度で、以前からいるローマ帝国の住民は一国数百万人単位でいる
しかもゲルマン人はまともな文字も持たないような民族で、高度に発達したローマ社会を統治する能力などなかった
彼らの支配の根拠は軍事力のみ(ゲルマンが強いというよりローマが弱かった)
結果ゲルマン人の王たちは官僚や大臣にはローマ系の民族を登用するしかなく、また少しずつではあるがローマの文化を受容してゆっくりと被支配者と同化していく傾向にあった

ローマコンクリートが衰退して礎石の建物いわゆる石・レンガ造りが主流になるのはもう少し先か
しかしこうやって文化は滅んでいくんだなあ

ゲルマン王国の中で当初最も有望そうなのがなんだかんだいって一番発展していたイタリアを獲った東ゴート王国だった
東ゴート族のテオドリックという王は、493年にイタリアを支配していたゲルマン人仲間のオドアケルを倒してこの国を征服した
テオドリックは優秀な統治者で、西ローマ帝国末期の支配者たちよりもはるかに安定した政権を築いて「大王」と呼ばれた
テオドリックのコイン
しかし東ゴート王国は東ローマ帝国が西の領土を取り戻すぞーとおっぱじめた戦争のせいで 553年に滅ぼされてしまう
しかも勝者である東ローマ帝国も、この東ゴート戦争のせいで国力を消耗してしまい、新たな蛮族であるランゴバルド族が侵入してくるとイタリアを維持できなくなった
このランゴバルド族は東ゴート族ほど統制がとれておらず、内部では複数の勢力にわかれていたので東ローマ帝国を半島から完全に駆逐することもできなかった
ランゴバルド王国と東ローマ領
結果としてイタリア半島から統一的な権力は消えてしまい、この国では19世紀まで複数の国家が割拠する

ガリアと呼ばれた現在のフランスはどうだったか
そもそもここにはケルト人の一種であるガリア人が住んでいたのをローマが征服して帝国に組み入れたわけだが
ガリア人は時間がたつにつれてローマ人と徐々に同化していき「ガロ・ローマ人」と呼ばれる人々に変わっていった
特にフランスの中でもイタリアに近い南部ほどローマ化が著しく、相対的に北部ではそうでもないという状態
ガリアにまず定着したゲルマン人は西ゴート族で、フランス南部を中心にスペインまで王国を広げた
次に北東のベルギーあたりからフランク族が侵入してくる
フランク族の王クロヴィスは非常に狡猾な一代の梟雄というべき人物で、ガリアに割拠していた他の勢力を次々に征服していった
彼が築いたフランク王国が中世前半のヨーロッパ史の主役
クロヴィスとの決戦に敗れた西ゴート王国はスペインに遷都してその地で生き延びる
クロヴィス
クロヴィスの征服活動

フランク族って元々フランスにいたんじゃないのか
ゲルマン人といい、ヨーロッパってやっぱそういうもんなんだな

>>
そもそもローマの外にいた頃からフランク族自体いろんな部族の出身者が寄り集まったごたまぜ民族っぽい

イングランドでは、そもそもここはローマ帝国の中心地から離れているせいであまりローマの文明は根付いていなかった
409年に余裕のなくなったローマはこの島を放棄して軍隊は引き揚げてしまう
現地の住民たちはブリトン人と呼ばれるケルト系の人々だったが、ローマ軍がいなくなるとスコットランドにいたピクト人やドイツ北部から海を渡ってくるゲルマン人の侵略に苦しんだ
結局イングランドはゲルマン人の一派サクソン族やアングル族の王国が複数乱立するようになるが、ここでは大陸と違って被支配者層のブリトン人が支配者層のゲルマン人に同化していった
イングランドという地名はアングル人の地という意味だし、アングル族とサクソン族を合わせてイギリス人は今日でもアングロサクソンと呼ばれたりする
一方でウェールズやコーンウォールなどの辺境にはブリトン人が生き残った
600年ころのイングランド

中世はまだか

>>
一応広い定義だと西ローマ帝国滅亡以降が中世だからもう入ってるぞ
まあ騎士もいなければ教会も大した力もなくて蛮族まみれだから一般的な中世のイメージとは程遠いけどな

「ゲルマン人がローマの文明を受け入れた」というのは何を根拠にそう言えるのか?という疑問があるかもしれない
一番わかりやすいのは宗教
末期のローマ帝国は既にキリスト教化して久しかった
ゲルマン人はゴート族のようにローマ侵入前からキリスト教徒だったものもいたが、彼らはアリウス派という宗派で(西)ローマ人はカトリックだったから仲が悪かった
フランク族は自然崇拝だった
こいつらも最終的にはみんなカトリックを受け入れるようになる
カトリックはローマにいる教皇を頂点とするヒエラルキーで結びついた教会が、国を超えた組織として存在していて各地を結びつける
中世ヨーロッパは民族が違っても宗教が同じならまあいいやの精神があるのだ

なんでローマの発明品とか知識が断絶したの?

>>
このスレを読めばある程度わかるように書くつもり
まあ話してるようにギリシャとは一度断絶してるけど、ローマとはそこまで断絶してないよ

スペインの西ゴート王国は711年まで続いたが、モロッコからやってきたイスラーム勢力に攻撃されてあっという間に滅亡した
この時の生き残りが辺境にアストゥリアス王国を築いてそこからレコンキスタという数百年掛かりの戦いでイスラームから国土を「再征服」していく
このイスラームという宗教は西暦610年にムハンマドというアラブ人がアラビア半島で唱え始めた一神教で、キリスト教の弟のようなものだが宗教と政権が始めから一体化しているのが特徴だった
イスラーム勢力は落ち目の東ローマ帝国からエジプト・シリア・北アフリカを奪って瞬く間に勢力を広げていった
中世のイスラームが高度な文明を持っていたことは良く知られているけど、彼らも初めは「ゲルマンよりはマシ」程度の野蛮人と東ローマやペルシアという先進国からは見なされていた
それがシリアとエジプトのヘレニズム地域を得たことでギリシャの文明の影響を受けて西ヨーロッパより一足先に発展していく

>>
イスラム教はユダヤ教からの枝分かれと聞いたが本当?

>>
枝分かれっていうか強く影響を受けているのは間違いないよ
キリスト教の影響もある

さて、クロヴィスが建国したフランク王国
伝説の祖先の名前からメロヴィング王朝と呼ばれるこの王家は相続法が独特だった
他の東西ゴートなどのゲルマン人の王国と違って、息子たちに平等に国土を分け与える分割相続だったのである
という訳で511年にクロヴィスが死ぬと四人の息子たちが平等に王国を支配するようになって国土は分裂した
なぜこういう制度を取っていたかというと、元々ゲルマン人にとって財産といえば家畜で土地と違って後からでも増やせるからとか
長子相続制がなく王の子供は平等に権利を持っていたからとかいろいろ言われている
このようにローマ文化に染まった他のゲルマン人よりも相対的にゲルマン色が濃く残っている、
しかしドイツやイングランドよりのゲルマン人よりはローマ的というのが北仏を中心基盤にするフランク王国の特徴だった
テウデリク、キルデヘルト、クロドメール、クロタールという四人の息子が統治するようになったフランク王国

四人の王たちは実力が拮抗している時は大きく争うことはなく、共同して軍事行動を起こしてブルグント王国を征服したりしている
テウデリクはチューリンゲン王国を征服してかつてのローマ帝国の領土の外に乗り出してもいる
しかし弟の一人が亡くなると、その幼い息子たちを殺してしまって領土を分け合ったりと抜け目ない
そうこうしているしているうちにクロタールだけが生き残り晩年にはただ一人の王となったが
561年に彼がなくなると王国はまたもや複数の4人の息子たちに分割された
この中でネウストリアとアウストラシアが重要な地域になってくる

息子の一人は早死してしまったのでアウストラシア王シギベルト、ネウストリア王キルペリク、ブルグント王グントラムという三人の王が誕生した
ネウストリア王キルペリクは「(キリスト教徒を迫害した古代の王の)ネロとヘロデを合わせたような人物」と歴史書に書かれる暴君で、西ゴート王国からもらった妃を愛人と結婚するために殺害してしまう
フランク族はキリスト教に改宗したといっても中身はまだまだ「蛮族」で、このように荒っぽく有力者は公然と邪魔な身内を殺しもすれば複数の愛妾を抱えているのが普通だった
一方でキルペリクはローマ人の文芸を愛しラテン語で詩を作ってい得意になったり、キリスト教の教義問題に関心を示したり新しいアルファベットを考案したりしている
このような蛮族性とローマ性の同居がこの時代の特徴だった

みてるぞー

アウストラシア王シギベルトの妃のブルンヒルドはキルペリクに殺された西ゴートの姫の姉妹だった
この女傑ブルンヒルドが姉妹の復讐を要求したことからアウストラシアとネウストリアの内戦が始まる
戦の得意なシギベルトがネウストリアを制圧してその王位を奪おうとしたまさにその瞬間に、ネウストリアの刺客がシギベルトを暗殺した
ブルンヒルドは捕らえられたが、キルペリクの息子の一人を籠絡して脱出すると幼い息子の摂政としてアウストラシアを統治してネウストリアと戦う
その後キルペリクも恐らくはアウストラシアの刺客によって暗殺され、愛人のフレデグントがネウストリアを治めた
フランク王国は二人の王妃が争う時代になった

ファルシのルシが

>>
フランク王国の時代はそんなノリの名前がいっぱい出でてくるな
古代ゲルマンって感じでカッコいいんだけど、ファンタジー小説みたい

ブルンヒルドはフランク王国よりもローマの文明の影響を強く受けた西ゴート王国の出身であり、アウストラシアにもローマ的な集権的な統治制度を打ち立てようとした
しかしフランク貴族は王家に強大な権力を持たせることを望まず、ブルンヒルドは国を追われてしまう
最終的にこの争いで生き残ったのはブルンヒルドとシギベルトの息子たちではなく、キルペリクの息子クロタール二世だった
ブルグントとアウストラシアを併合したクロタール二世は高齢になっていたブルンヒルドを捕らえると、情け容赦なく八つ裂きにして彼女を処刑したという

蛮族側の王がうっかりローマ文化とかに染まると軟弱者あつかいされそう
日本でいう今川義元的な

>>
蛮族の中にもローマ積極需要派と民族主義的な蛮族路線維持派がいて対立してたみたいね

613年にフランク王国を単独で支配することになったクロタール二世だが、長い間分裂状態が当たり前になっていた各地の分王国は独立傾向が強くなっていた
特にアウストラシアではメッツ司教アルヌルフと大ピピンという有力者がいて独自の王を戴きたいとクロタール二世に要求した
クロタール二世自身がそのような在地の有力者の支持を得て勝ち残れた人だったので、これに応えて幼少の息子のダゴベルトを王として派遣して大ピピンは宮宰(宰相)となった
クロタール二世時代に発せられたパリ勅令はその土地に大きな領地を持つ人物が官職に就くことを定めたもので、
アルヌルフやピピンのような豪族が台頭してくる時代の始まりを告げていた

クロタール二世の子のダゴベルトは父がなくなると他の後継者を排除して単独の王となることに成功して安定的な政権を築いた
しかしダゴベルトの後の時代になると、短命な王や家臣の操り人形に過ぎない王が続き、メロヴィング王朝の王たちは歴史の主役ではなくなっていく
代わって主役になるのは宮宰と呼ばれる宰相たちだった
ダゴベルトの死後、大ピピンの子グリモアルドは自分の息子をアウストラシアの王にしようしてクーデターを起こす
しかし他の貴族たちはグリモアルドに味方せずこの王朝乗っ取りは失敗して彼は殺された
しかし大ピピンの娘とメッツ司教アルヌルフの娘との間に生まれた中ピピンの子孫がこの野望を継承して王朝交代を果たすことになる

ここまでの流れを整理しておくと
古代ギリシャすごい!

ギリシャの次は古代ローマすごい!

ローマ帝国弱体化でゲルマン蛮族祭り

ローマと同化していく蛮族たちの中ではメロヴィング朝フランク王国が一番強そう

王族で争ってたらいつの間にか豪族たちの力が増してきた!←いまここ

ここらへんでローマ時代からどのように社会が変化したかまとめてみよう
・西ヨーロッパはギリシャ文化と断絶した
これはローマ帝国が東西に分裂して東との交渉が少なくなっていったから
哲学や科学などのギリシャの知識が西ヨーロッパから失われた
・地中海・都市の重要性が低下した
ローマは元々都市国家から始まった国で、都市こそが政治・経済・文化の中心地だった。この傾向は地中海とイタリアに近づくほど強くなる
しかしゲルマン人の王国がいくつも並び立ったことと地中海がイスラームと東ローマ帝国という二つの勢力に分断されたせいで
遠距離との交易が安全に行えなくなったせいで都市の経済力は低下した

・中央集権から地方分権へ
ローマ帝国では官僚制が発達していて権力が支配者に一元的に集中していた。
フランク王国でも官僚にはローマ系の民族が登用されたが、その規模は小さくそもそも国王の権力の浸透具合は地域によってバラバラで中央集権的な統治は行えなかった
この時代王はどうやって税金を集めているかというと領地を王が宮廷ごと移動してそこで歓待をうけて税を現地で消費し、しばらくたったらまた別の地方へ行くというやり方
さらにメロヴィング朝の後半になると豪族の力が増して、地方の権力は中央から独立していく傾向がより強まる

一方でローマ時代から変わらないものもあった
それはキリスト教と教会の権威、ラテン語の力
キリスト教は自然発生的に生まれたものではなく元から人為的に発生した組織化された宗教で、各地の主要都市には司教という人がいてその地域の民衆を宗教的に導く役割を持っている
それがローマ帝国の末期に帝国政府が行政・防衛の機能を果たせなくなると、その土地の司教が都市行政や時には襲来した蛮族との交渉を行うようになった
蛮族の王国ができてからもそれは続いていて、ゲルマン人とローマ人の同化が進んでいくとゲルマン系の名前を持った人が司教になったりしている
司教などの役職は世俗の利権でもあったから、有力者に乗っ取られるようになったわけだ
ローマ帝国の公用語だったラテン語は、中世になるとだんだん方言化していって現代のフランス語やイタリア語、スペイン語、ポルトガル語などの先祖に分化していく
これらの地域に信州してきたゲルマン人たちには独自の言語があったが、支配者層の話していた言葉に合わせてゲルマン語は消えていったわけだ
そして書き言葉、教会や行政で使われる言語としてはラテン語がそのまま生き残り、中世ヨーロッパ世界では文書を書くときや別々の国に生まれた人間(上流階級に限るが)が会話をするときにはラテン語が使われた
今でも生物の学名にはラテン語で名づけられるけど、それもこの言語が学問の言葉として生き残っている名残

東ローマ帝国や神聖ローマ帝国はどんな気持ちでローマ帝国を名乗ってんの?

>>
東ローマ帝国は首都が変わっただけでそのままローマ帝国、西ローマ帝国が滅んでからは唯一のローマ帝国
という気持ちで本人たちはやっているが客観的に見るとローマ人じゃなくてギリシャ人の国化してるし西ヨーロッパの諸国とも違う独特の国家体制なんで「ビザンツ帝国」と歴史学的には呼ばれている
神聖ローマ帝国の話はこれからかな
現代人が「ローマ帝国」と聞くと一世紀とか二世紀とかの帝国を思い浮かべるかもしれないが
中世人にとっては4世紀の初めに帝国を再統一してキリスト教を公認したコンスタンティヌス”大帝”の帝国こそが理想のローマ帝国像なんでそこまで大きな矛盾はない

ラテン語って20世紀前半くらいまで欧州の基礎科目だったらしいな

650年ころのメロヴィング家の王たちが力を失っていった頃のフランス(ガリア)と周辺の地図
ピンク色のアウストラシアと紫のネウストリアにフランク王国は分かれている
ネウストリアはローマ帝国も進出しなかったドイツ(ゲルマニア)にも勢力を伸ばしていっている
周辺にはスペインの西ゴート王国、イタリアのランゴバルド王国、東にはハンガリーのあたりにアヴァール人(灰色)というアジア系の遊牧民が現れて脅威になっていた
イングランドはアングロサクソンの諸王国が成立して代表的な国を数えて七王国時代という頃
7世紀頃にはローマ人とフランク人の同化が進み区別も徐々に失われていってて、外からはみんなフランク人と呼ばれるようになっていく
つまりローマの高度な文明の名残が本格的になくなっていった時代でもある
ぶっちゃけこの辺が中世の文明的な最底辺だと思ってそう間違いではないと思う

7世紀の後半には大ピピンとメッツ司教アルヌルフの孫の中ピピンがアウストラシアの宮宰
一方でネウストリアには最後のローマ系官僚というべきエブロインが宮宰として集権的な国家を築く挑戦を行っていた
エブロインは非貴族層から台頭した人物で、その土地に領地を持つ豪族がその場所と関係する王国の官職を得ることを阻止して中央の権力を維持しようとしていた
しかしエブロインはアウストラシアとの戦いに勝利したものの、暗殺されてしまい彼の計画は頓挫した
中ピピンはエブロインの後継者たちを破ってネウストリアとアウストラシア両方の宮宰となり、フランク王国の事実上の単独支配者となる
だが中ピピンが714年になくなると各地で一斉に反乱が起きてフランク王国は再び混乱した

この混乱状態を収拾したのが中ピピンの私生児、つまり正式な跡継ぎではなかったカール・マルテルである
マルテルというのは鉄槌を意味するあだ名だと言われているが、戦争に強くて脳筋なのが特徴
ひたすらライバルたちをボコりまくって国を統一した
戦争するお金が無くなると教会から土地を取りあげてそれを元手にまた戦争した
7世紀の初めにスペインの西ゴート王国がイスラーム勢力に滅ぼされると、フランク王国の南部のアキテーヌ地方にもイスラームの軍勢が侵入してきた
現地の支配者アキテーヌ公ウードはマルテルと対立していたが、イスラームに対抗するために和睦し同盟を結んだ
732年のトゥール・ポワティエ間でイスラーム勢力とフランク軍の決戦があり、この戦いに勝利したマルテルは「キリスト教世界を守った男」として後世英雄になった
しかし実態は同じキリスト教徒にも戦争を吹っ掛けまくって教会の権威を無視する人物であり、事実マルテルはウードが死ぬとまたアキテーヌ地方を攻撃している
マルテルが南部に戦争をふっけまくったため、フランスの中ではイタリアに近く先進的な都市文化が残っていた南仏は衰退した
カール・マルテル

おー懐かしいな
東ローマ帝国最後の皇帝がロムルス=アウグストゥルスってのだけは覚えてる

>>
それは西ローマ帝国や

ドイツとオーストリアの関係教えろよ

>>
オーストリアはドイツの一部でドイツ人とオーストリア人は本来同じ民族だけど
ハンガリーとかドイツ民族以外の住民を大量に抱えてるハプスブルク家の領地だったから統一国家を作るときにハブられた
中世よりずっと後の話やね

カール・マルテルの子が小ピピンである
彼はもはやお飾りでしかなかったメロヴィング家(クロヴィスの子孫)の王を廃して
自ら国王となりカロリング朝フランク王国の初めての王となった人物である
カロリングというのは「カールの一族」という意味で小ピピンの父の名に由来している
カロリング朝初代国王の小ピピン
そもそもメロヴィング朝フランク王国では王は「(長男でも弟でも嫡出・非嫡出でも問わないが)王の息子」であるという血統原理で選ばれていた
しかし王の子ではない小ピピンにはそこで新たな権威が必要だった
そこで接近したのがローマ教皇である

ここでローマ教皇について簡単に説明しておこう
ローマ教皇というのはローマ市の司教のことである
「十二使徒の頭」だった聖ぺトロが初代のローマ司教であることから、「うちは他の司教よりも圧倒的に偉い」という特別なプライドを持っている
ざっくりいうとこの論理を認めるか否かがカトリックと
東ローマ帝国の国教である正教会という二つの宗派の分かれ道で
時間とともに両者の相違は大きくなっていって元々は一つだった教会は分裂していくことになる

そんなローマ教皇だが彼もローマ皇帝の家来である変わりはない
前にも書いたがイタリアはランゴバルド王国領と東ローマ帝国領に二分されていて、後者の一部はローマ教皇が管理していた
そのランゴバルド王は領土を広げようと東ローマ領を度々侵略してた
ランゴバルドと東ローマ帝国領
危機を感じる教皇は度々東ローマ皇帝に救援要請を送っていたが、イスラームを初め多方面に敵を抱える帝国には本国から離れたイタリアに軍を増派する余裕はなかった
しかもこの時期東ローマ帝国の教会とローマ教皇=カトリックとは教義上でも対立していた
そこで教皇は東ローマではなく手近なフランク王国を頼ることに決める

頼られたフランク王国の宮宰小ピピンはイタリアに攻め込むと、ランゴバルドから奪った領地を教皇に「返却」した
これが「ピピンの寄進」と言われる出来事で
この時からローマ教皇は中部イタリアに広大な領土を持つ世俗の君主と宗教のトップという二足のわらじを履くようになる
教皇に恩を売った小ピピンはこんな質問を送った
「名前だけの王と、王の権利を行使するものとどちらが王に相応しいのか?」
教皇はこう答えた
「権利を行使するものこそが王にふさわしい」
こうして751年、小ピピンはメロヴィング朝の王を修道院に押し込めて、聖職者のマインツ司教ボニファティウスから塗油の儀式を受けて即位した
王という地位とカトリック教会が強固に結び付いた瞬間だった

宗教の話も簡単にしとこう
まずキリスト教はローマ帝国の国教だった、ここが重要なポイント
つまりキリスト教が広まった地域≒東西ローマ帝国の領土だった地域
アフリカとか中東、スペイン・ポルトガルはイスラーム勢力が制圧してからそちらが主流派になったが、キリスト教とが消えたわけではない
それとイギリスではゲルマン人の宗教が支配的になってキリスト教は一旦消えた
東ローマ帝国では皇帝が宗教にも強い影響力を持っていてこちらが東方正教会という宗派
西ローマ帝国はすぐに滅んだから、西ヨーロッパではローマ教皇が宗教を主導することになってこちらがカトリック

そしてローマ帝国の領域を超えてキリスト教が広まった国としてアイルランドがあった
アイルランドはケルト系の部族が割拠する地だったが、5世紀頃にキリスト教の修道士たちが渡って布教した
アイルランドはヨーロッパの辺境にあって大陸やブリテン島が混乱している間も平穏な時代を過ごしたので、ケルト系キリスト教とも言われる独特の宗教が育った
この国では多くの修道院ができ宗教的に重要な人物が多く現れる
イングランドのゲルマン(アングロサクソン)人やスコットランドのピクト人といった異教徒にも、アイルランド人がキリスト教を広めている

一方西ローマ帝国滅亡後、ローマ教皇は最初のうちは大した力を持っていなかった
「ピピンの寄進」までは領土もないし、宗教的にも大した力はない
なぜなら西ゴート王国、東ゴート王国とその後継になったランゴバルド王国などの蛮族の国家の王たちは、
ローマ人たちとは別の宗派であるアリウス派のキリスト教を信じていたからだ
6世紀の終わりに「大教皇」と呼ばれるグレゴリウス一世が現れて
これらアリウス派の諸国をカトリックに改宗させることに成功した
さらにグレゴリウス一世はイングランドにも宣教師を送り込んでカトリックを広めた
結果としてイングランドではカトリックとケルト系キリスト教の布教競争のような様相を呈する
最終的にはカトリックが勝利してケルト系キリスト教はカトリックに取り込まれていく

なぜローマ帝国に侵入した蛮族はキリスト教(のカトリック)を受け入れ
さらにローマ帝国の支配を受けなかった地方にキリスト教が広まっていくのか?
それは侵入してきたゲルマン人たちは少数で、人口の圧倒的多数を占めるローマ系住民に宗教を合わせた方が統治する上で都合がよかったから
そしてキリスト教の教会や修道院はローマ時代の学問・文化を保存している唯一の機関となっていったため、
それらを知らなかった地方の支配者にとっては先進的で魅力的なものに映ることがしばしばあったから
もちろん反発を受けることもあって、たとえば小ピピンに塗油を行ったマインツ司教ボニファティウスは
フランク王国の支配が及ばないドイツに布教を行って「ゲルマン人の使徒」と呼ばれたが
最後はオランダに布教しにいった先で異教徒に襲撃されて命を落とした
彼はイングランド出身で、聖人にもなっている
カロリング王朝の時代はアイルランドやイングランドからの影響が宗教・学問的には大きい

司教の娘とか孫とか出てきたけどカトリックの聖職者に子供がいても良かったの?

>>
この頃は教会も聖職者も無茶苦茶で聖職者でも妻帯してたりその地位が金で売り買いされるのが普通になっていた
中世の前期は教会よりも世俗権力の方が力が強い
あと何百年かするとそういうの良くないって改革運動が始まり教会の力も強くなる

中世ヨーロッパには生まれたくないね
薔薇の名前とか見てるとその時代の陰鬱さが見て取れる

中世の特徴は自力救済なんだよ
自分で解決できることは自分でどうにかしてね、っていうのが基本
簡単に言えばモノを盗まれた!とか身内が殺された!とかでも現代だったら
犯人を警察に捕まえてもらい然るべき裁判で量刑して国から裁きを受けさせてもらうのが解決だけど
中世だったら自分で盗まれたもの(の被害に相当する財産)取り戻した!とか自分で仇を討った!とかで解決していい
それで相手方からさらなる訴訟がなければ事件は終了

だから地縁血縁もない社会から孤立した人物はたとえ殺しても訴えてくる身内がいない、と見なされてしまうので法的な保証はないも同然だった
そういう意味では小さな殺し程度じゃ動かないというのは合ってる
でもそんな社会だからこそ身内の権利侵害にとても敏感なのも中世
自力救済も別に等価である必要なくて身内が殺されたから相手と交渉して慰謝料もらったとかでもいい

768年、小ピピンの死後二人の息子がその王国を分けあった
カールとカールマンの兄弟である
このカールが「帝国」を復活させて「大帝」と呼ばれ、フランス語ではシャルルマーニュと呼ばれる人物
この頃にはフランク王国は西ヨーロッパ随一の圧倒的な強国に成長していた
フランク王国がどのように拡大してきたかを表した地図
ランゴバルド王デシデリウスはカールマンと同盟してカールと戦おうとしたが
カールマンは不審な死を遂げて兄のカールが全フランクを一人で支配することになった

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シャルルマーニュてあれか、ワインの語源になっとるんか
はえーフランク王国すごいんやなぁ

これは面白い

カールの生涯は戦いの連続だった
王位についてからほぼ毎年のようにどこかへ遠征に出掛け、自ら指揮を取った戦闘で負けたことはほとんどなかった
ランゴバルド王国もカールが攻めてくるとほとんど何もできずに774年に征服された
カールの戦争の目的は一言で言えば「キリスト教世界を守り、また広げること」だった
ランゴバルド以外にもスペインのイスラーム勢力、ハンガリーの遊牧民アヴァール人、バイエルン公国などと戦っている
特にドイツ北部のザクセン人との戦いは数十年に及び
強固に部族制社会が根付いていてキリスト教を受け入れようとしなかった彼らも最終的にはカールによって改宗させられた
カール大帝の時代にドイツのほぼ全域がフランク王国に征服され、キリスト教を受け入れヨーロッパ世界の「仲間入り」を果たしたのである
青がカール以前の、オレンジがカールが新しく征服した領域
黄色はカールに服従している地域

戦争に明け暮れたカールだが文化面での業績も大きかった
7世紀頃からローマが残した文化が消え始め西ヨーロッパは知的に低迷していたが、カールはヨーロッパ各地から学者を集めてラテン語文献の筆写や学習を盛んに行わせた
カールの最大のブレイン、アルクインはイングランド人だし、スコットランドやイタリアから来たもの、ゴート族出身の者もいた
この時に写本が量産されたお陰で消失を免れた古代のラテン語文献も存在する
現代のアルファベットの小文字もこの時に作られた読みやすい「カロリング小文字」がベースになっている
学校を作って身分の上下を問わず子供に教育を授けるという試みも行っている
この文化の復興運動をカロリング・ルネサンスという

こうしてローマ教皇の管轄するカトリック、キリスト教の領域とカールのフランク王国の範囲はほとんど一致せんかの勢いだった

一方でこの頃ローマ教皇と東ローマ皇帝の中はますます疎遠になっていたし、ローマ市の政情も不安定で時の教皇レオ三世は強力な後ろ楯を欲していた

西暦800年の東ローマ皇帝はエイレーネ、史上初の女帝だった

皇帝は本来男しかなれないはずなのにである

このような背景があって教皇はローマを訪れていたカールを皇帝にしてしまう

カールの戴冠

これは西ヨーロッパの東ローマ帝国からの独立宣言のようなものだった

カールはローマ皇帝になったわけだが、完全に手放しでそれを喜んで楽観的に捉えているわけではなかった

まず東ローマ帝国との軍事衝突を引き起こす可能性がある
東ローマ皇帝って地中海の東部地域だけを治めてたんじゃないの?と思うかもしれないが、

名目上はかつて西ローマ帝国があった領域は西の皇帝の消滅後は東ローマ皇帝の統治するところということになっていたのである(実権は全く及ばなかったが)

さらに教皇の手によって戴冠されたということは自分の地位が教皇の下に立つということになりかねない

結局東ローマ帝国には帝国の一部を治める皇帝ということで妥協してもらい

さらに自分の後継者には自らの存命中にカール自身の手で共同皇帝に任命するという手順で教皇の介入から逃れようとした

ローマがその巨大な領土と経済圏でもって強大であったことは否定しないけど
ローマが滅亡して、先端科学が欧州から失われた
というのは色々語弊があるような気がしてならない

しかしこの帝国はカールの晩年には暗雲が立ち込めていた
カール大帝はドイツ北部のザクセン地方を征服したが、その結果としてゲルマン人の中でも北方の人種、ノース人やノルマン人、デーン人などと呼ばれる人々と領域を接することになった

いわゆるヴァイキングである

カールの生存中フランク王国に大規模なヴァイキングが襲来することはなかったが
イングランドでは本格的な攻勢が始まっていて間もなく大陸も彼らに襲われることになる

さらに後継者の悩みもあった

カール大帝には複数の男子がいたが、父よりも長生きしたのはルイ(ドイツ語でルートヴィヒ)ただ一人だった

ルイは「敬虔帝」と呼ばれる信仰心の篤い男だったが、カールほどの覇気はなかった
このルイの時代に復活したロー
マ帝国(フランク帝国とも呼ばれる)は早くも崩壊への道をたどり始める

干し肉ってどう作ってたの?

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干し肉というくらいだからやっぱり干して作ってたんじゃないかな

塩漬け肉もよくあった

どちらも水で戻して食うようなものだったらしくあまりうまくはなさそう

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