牟田口「陛下へのお詫びに自決したい……」参謀「……」
インパール作戦が敗色濃厚となり部下の藤原岩市参謀に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待しての事とされる)。
これに対し藤原参謀は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。
誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。
今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と苦言を呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく[23]、余生をまっとうした。
人間の屑
余生まっとうし過ぎ定期
火の玉ストレート
サンキューサンボ
特攻しろ俺も後から行く→終戦後軍用機で逃亡し余生を全う
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最後の特攻なら中将も行方不明やろ
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大元の発案者や
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ほんまゴミやわ
桜花開発者とかいうクズの中のクズ
彡(゚)(゚) 「あーやらかしたーこれは切腹ものやなあ」
彡(^)(^) 「なあ参謀、陛下の前で切腹してくるわ」(これは止めてくれるやろなあ)
参謀「まあ切腹が妥当でしょうね」
彡(゚)(゚) 「…」
彡(^)(^) 「やっぱ切腹やめたンゴwww」
インパール作戦中、牟田口が要望した自動車等の補給力増強がままならないため
牟田口は現地で牛を調達し荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。
しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなく
また日本の牛とも扱い方が異なったため牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した。
戦後、インパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた。
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草
補給が困難?…せやジンギンスカン作戦や!
司令部「作戦失敗間違いなさそうやけど、あいつがあんなにやりたがってるならやらせたるか!」
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安倍ちゃんと稲田ともちんを見るに今日まで続く伝統やね(ニッコリ)
ここまで無能なのになんで出世できたんや
こいついつも余生を全うしてんな
かたや安達二十三
1944年(昭和19年)12月から続いた連合軍の包囲の輪は徐々に狭まり、1945年(昭和20年)7月ついに「9月には全滅」という判断を下し玉砕を覚悟した。
しかし9月13日、終戦の詔勅に基き第18軍はオーストラリア陸軍第6師団に降伏した。その際、安達は麾下の将兵に対し「軍は大命に基き豪州第六師団に
降伏せんとす」と命令した。降伏後には戦犯として扱われ、大部分の将兵が復員した1946年(昭和21年)1月以降もムシュ島において服役を続けた。
その後終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を述べた後自決した。
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弁護団かわいそう
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こんな人もおるんやな……
戦後ジンギスカン屋を開くとか畜生という言葉すら生温い
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それデマやぞ
せめてひっそり暮せばいいものを
終戦直後戦犯逃れのためキリスト教に改宗した将官が沢山いたそうやで
珍しい名前やから子孫が分かるのはええな
一生先祖の十字架背負って生きていくわけやし
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地元では1学年に2,3人おるレベルやぞ
メンタルが羨ましい
戦犯が戦後逃げ回って、ひょっこり帰ってきて国会議員になる国やぞ
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ひょっこり行方不明になったからセーフ
部下に火の玉ストレート食らうって相当やで
???「お前ら先に特攻しろ!俺も後から行く!」
馬鹿「おかのした」ジバクー
???「機体の調子もワイの調子もあかんからやっぱやめるわ」
こんなのにそそのかされて犬死した奴らも問題だわ
送り込んだ多くの兵隊さん達を自滅させたんだから連合国からはリスペクトされたんだろな
無能なんじゃなくてスパイだったんじゃないかと思ってしまうわ
ンーーー、改めて考えると凄いな、って思うなあ。俺はやっぱ。凄いなあと思うなあ。
第15軍の司令官を任せられるしさ、ジンギスカン作戦も作れちゃうし、ほんでー最前線に料亭もできるでしょ?
ほんでー、さらには芸者も呼んでるって?ほんでー、毎朝先勝祈願も一人でやってるって?
なかなかできないよ、そういうことは。なかなか難しいと思うよそういうことは。
そういうクリエイティブな将校はなっかなかいないと思うよ。
山口に聞かせたい言葉
かたや今村均
日本が降伏し第二次世界大戦は終結。今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。
第8方面軍司令官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言などもあり禁錮10年で判決が確定した[11]。
その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後、今村はオーストラリア軍の禁錮10年の判決により、1949年(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。
だが今村は「(未だに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると)自分だけ東京にいることはできない」として、
1950年(昭和25年)には自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。
妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。
その態度にマッカーサーは、「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、
日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。
その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責任を反省し、
軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いられた。
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こんな人もおったんやな
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逆に言えばこの人がいなければ武士道に触れられなかった可能性がぴれそん
やっぱ戦争ってダメだわ
結局インパール作戦って誰が悪いの?
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牟田口は完璧な作戦を立てたが参謀が無能だった
このことは世界的に確定している
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詳しい説明サンクス
これなら牟田口が怒るのも当然な気がする
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もはや何が目的なのかすら理解できない自演やね
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牟田口が憑依して書き込んどるのとちゃうか
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