アシュラムの生活では、「インドの若者の宗教観」というものを知ることができました。
ある女の子は、
「レリジョンというよりは、スピリチュアルだ。」
と言っていましたが、いやいや、なんのなんの。それはオシャレ雑誌に
「スピリチュアルしてるワタシ、ステキ💓」
みたいに書かれそうな、また、インドに来た西洋人がよく使う、ナニカのエクスキューズ(言い訳)に近いフレーズの受け売りです。そんな浅いコピペなど無くても、ヒンドゥスタン人である彼らの中にしっかりヒンドゥー教が深く根付いている事を感じました。それは誇りにすべきです。
とはいえ、その信仰心が淡くなりつつあるのも事実で、デリーの50代のインド人ヨガ友さんの話によると、ヨガクラスの最初と最後に唱えるマントラを彼女の世代は誦じていたそうですが、アシュラムで出会った若者達は、存在は知っていても殆ど覚えておらず、このコースで覚えて帰って行きました。
でもそれは、私が学生時代に、
「般若心経くらいは覚えなくちゃナア」
と、思った感覚と似ています。それは、ホトケサマがどうのこうのというより、おそらく仏教の信仰心が深かった祖母のことが大好きだったからでしょう。
日本人は、敗戦して独自文化に自信を失ったこと、その空間に入ってきた新興宗教とその信者たちのオシの強さへの嫌悪、その一つが犯した恐ろしい事件のせいで、宗教や信仰を語り合うことを敬遠しがちです。
でもどうだろう。その禍いを避ける為の敬遠は、
「なぜ人は生きるのか?」
「死とは」
「神さまって本当にいるの?」
と言った、純粋な子どもが思春期に差し掛かる頃にもつ問いに、真摯に応えられない大人を増やしてしまった。ペットでも、近親者でも、子どもが初めて身近な「死」に出会った時。周りの大人は、「天国」とか、「輪廻」とか、そうした宗教からくる言葉や宗教知識を持たずしてどうやって子どもの問いや悲しみに応えるのだろう?
曖昧に
「お空にいくのよ。」
では、子どもは辛辣な更なる問いかけをするか、それはまだ良い方で、そこから大人が逃げたら、彼らはそれを問うことを諦めてしまうでしょう。
責める気は毛頭ないけど、少なくとも、私の親はそれには曖昧にしか応えることができませんでした。私が十代の頃は、生きながら生まれる苦しい問いかけに、宗教に頼るのはいけないことだと思っていたので、本を読み漁ったり、映画や美術、音楽の中にその問いかけをしていました。
学生時代に父が亡くなったころから、宗教や信仰に対する敬遠がほぐれ、その後結婚し、夫の転勤について行くようになり、駐在するあらゆる国の人々が、日本人よりはるかにそれぞれの信仰を大切にしていることを知ります。
今は、宗教を学問として勉強し、いろんな国に宗教に基づく考え方を知り、信頼し合う友人たちと宗教や哲学や歴史、また文化、芸術、または普段の生活、例えばお掃除などの家事に結びつけて語り合い、深め合う時間は有意義で、すごく楽しい。もちろん無知で恥ずかしながら…の部分はたくさんあるけど、ティーチャーズ・トレーニング・コースをうけながら、私は、そうした追求や語らいが好きなのだと心から思いました。
神学や哲学は難しいけど、これからも少しずつ深めて行きたいテーマです。
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