ニヤッとする話

ニヤッ、とする程度の笑いネタを思い出しながら書きます。

『十八史略』を読む6-隗より始めよ-(新米国語教師の昔取った杵柄52)

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隗より始めよ

 話は始皇帝暗殺から遡ること85年、戦国七雄の1つ燕国で、太子平が昭王として立った。

 父王が隣国斉に殺され、斉の傀儡となることが条件の即位であった。この時、燕は事実上の亡国状態だったのだ。

 何とか国を再興し、斉に復讐して父の仇を討ちたい。
 そのためには富国強兵である。

 人は石垣、人は城。  
 その礎となるのは優秀な人材である。

 昭王は臣下の郭隗に尋ねた。

[書き下し文]
 斉、孤(こ)の国の乱るるに因(よ)りて、襲いて燕を破る。孤、極めて燕の小にして以(もっ)て報ずるに足らざるを知る。
[現代誤訳]
 斉は私の燕国が乱れるのにつけこんで、襲って破った。私は、燕が極めて小さい国で斉に報復することができないのを知っている。

 昭王の父王である噲(かい)は宰相である子之(しし)に王位を禅譲しようとした。
 禅譲は位の高い者が低い者に位を譲ることで、中国の伝説の帝王堯がその後継者舜に禅譲を行ったと云われている。
 ところが実際には折角保持している権力を目下の者に譲ったりする聖人がそうそういる筈もなく、大抵の場合は「譲らないと殺(と)ったるぞ」と脅されて「禅譲」と称して権力を手放すのが大方の実態である。
 燕王噲の場合がどうだったかは詳らかではないが、はっきりしているのは血で血を洗う戦国時代にそんなことをしたら国が乱れるだろうことで、実際燕は大混乱に陥る。

 燕王噲を燕国民(少なくとも臣下)がどう思っていたかを表す現象がある。
 それはこの人に諡(おくりな)が無いことだ。諡は諡号(しごう)とも云い、王などの貴人が死んだときにその人の生前の人柄を偲んで付けられる名前である。

 たとえば燕王平には昭王という諡が付けられたが、これはおそらく「世の中を明るく治めた王」という意味で、名君であった証拠となる諡である。
 これがたとえば「湣(びん)」などという諡を付けられると、「この人の代は国が乱れていました」といった意味になり、たとえば後に昭王と張り合って首都を占領されてしまった斉王には湣王という諡が付けられている。

 閑話休題(しょうおうのちちおやではなしがとまってるぞ)。

 『十八史略』のこの一文を「やっぱり『十八史略』だな」と思うのは話が単純化されている点で、父王の禅譲に反対して挙兵し、斉軍を燕国に引き入れたのは他ならぬ太子平、つまり昭王なのだから、「よく云うよ」と云わざるを得ない。
 
 まあ先に進もう。

[書き下し文]
 誠に賢士(けんし)を得て国を与(とも)に共(とも)にし、以(もっ)て先王の恥を雪(すす)がんこと、孤(こ)の願いなり。
[現代誤訳]
 何とか賢明な士を得てこれと国事を共に担い、そして先王の恥を払拭しようというのが、私の願いです。

 「雪(すす)ぐ」は「きれいにする」という意味で、「恥を雪ぐ」は「雪辱」という二字熟語として残っている。

[書き下し文]
 先生、可なる者を視(しめ)せ。身之(これ)に事(つか)うるを得ん。
[現代誤訳]
 郭隗先生、これという者を教えてください。私はその人を師と仰ごうと思います。

 流石にどん底状態の傀儡政権の主だけあって腰が低い。
 この問いに対して郭隗は故事で答える。

[書き下し文]
 古(いにしえ)の君に、千金を以(もっ)て涓人(けんじん)をして千里(せんり)の馬を求めしむる者有り。
[現代誤訳]
 昔の君主で、千金を遣って内侍に命じて千里を走る名馬を求めさせた者がいました。

 涓人(けんじん)は宮廷の雑事を行う役で内侍(ないし)とも云う。古代中国では多く宦官がこの役に就いた。宦官とは去勢(刑罰として行われるときは宮刑と呼ぶ)により男性機能を喪失した人である。宮中にある女性たちは建前上は全て王の女であるから、彼女たちに手を出すという不祥事が起こらないようにこうした役柄が必要とされたのだ。中には貧困から逃れ宮廷に入るために自宮(自ら去勢を行うこと)して宦官になる者もいたという。

[書き下し文]
 死馬の骨を五百金に買いて返る。君怒る。
[現代誤訳]
 内侍は死んだ馬の骨を金500両で買って帰ってきた。君主は怒った。

 まあ、普通の反応だろう。馬は走ってナンボであり、死んだ馬は何の役にも立たない。

[書き下し文]
 涓人(けんじん)曰(いわ)く、「死馬すら且(か)つ之(これ)を買う。況(いわ)んや生ける者をや。馬今に至らん」と。
[現代誤訳]
 内侍が云った。「死んだ馬ですら大金を出してこれを買うのです。世間の人は生きた馬ならもっととんでもない大金で買うに違いない、と思うでしょう。馬はすぐに手に入りますよ。」と。

 死んだ馬で金500両だったら、生きた馬なら金5000両は出さなければ相手も売らないのではないか。
 それに内侍が持って出た金1000両のうち、500両はどこへ行ったのか。どうもこの内侍の話は怪しい。

[書き下し文]
 期年(きねん)ならずして、千里の馬至(いた)る者三。
[現代誤訳]
 期日だと思っていた年を待たないうちに千里を走る名馬が3頭も手に入った。

 金1000両で馬3頭か。
 どこの馬の骨ともわからないものに既に金500両は使っているから、残り500両で馬3頭を買わなければならない。
 多少足が出たとして1頭200両で売主は納得したことになる。
 千里の馬1頭が200両で納得するということは、売主が噂で聞いた死馬の骨の値段は20両程度ではないのか。
 では、内侍が死馬の骨に使ったと報告した500両のうち、480両は何処に行ったのか。

 賢明な皆さんはもうお分かりの事と思う。
 閑話休題(はなしをもどそう)。

[書き下し文]
 「今、王必ず士を致(いた)さんと欲(ほっ)せば、先(ま)づ隗より始めよ。況(いわ)んや隗より賢なる者、豈(あ)に千里を遠しとせんや。」と。
[現代誤訳]
 「今王様が必ず賢明な士を手に入れたいと思うのならば、まず身近な私郭隗を厚遇してください。私ごときが厚遇されていると聞けば、ましてや私より賢明な者は、千里の道も遠しとせずに駆けつけて来るでしょう。」

 「豈に~や」は反語表現であり、正式な場面(紀貫之の昔で云えば真名で書かれた日記)では「~だろうか、いや、~ではない」と訳さないとバツになってしまうが、この文章は仮名で書かれた日記のようなものだからもう少し自然な日本語に誤訳してみた。

[書き下し文]
 是(ここ)に於(お)いて昭王、隗の為(ため)に改めて宮(きゅう)を築き、之(これ)に師事(しじ)す。是(ここ)に於(お)いて士、争いて燕に趨(おもむ)く。
[現代誤訳]
 この話を聞いた昭王は郭隗のために新たに屋敷を建設し、彼を師と仰いで教えを請うた。その噂を聞いた賢明な人材は、争って燕にやってきた。

 ここに云うところの「士」こそ、名将楽毅や蘇代(合従論の蘇秦の弟)たちである。

 こうして漸く燕国の全盛時代が訪れようとしていた。

『十八史略』を読む5-隗より始めよ3-始皇帝暗殺-(新米国語教師の昔取った杵柄51)

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秦始皇帝

 紀元前227年、燕国を出発した荊軻と秦舞陽は秦の都咸陽に着いた。
 任務は秦王政の暗殺である。

 政を誘き出すための2つのエサはやはり最高であった。 
 一つは領土の割譲、もう一つは秦王政の怒りを買って燕に亡命していた樊於期将軍の首である。

 喜んだ秦王は二人の謁見を許す。
 以下は『史記』「刺客列伝」の記述による。白文を自力で書き下したものなので現代誤訳だけでなく書き下し文も少々怪しいのは容赦されたい。
 学会発表の資料、試験対策の教材などに使用するのはおやめください。

[書き下し文]
 荊軻、樊於期の頭(かしら)の函(はこ)を奉じ、而(しか)して秦舞陽、地図の匣(はこ)を奉ず。以(もっ)て次に進みて陛(へい)に至る。
 秦舞陽、色を変え振恐(しんきょう)す。郡臣(ぐんしん)これを怪しむ。
 荊軻、舞陽を顧みて笑い、前(すす)みて謝して曰わく、「北蕃蛮夷(ほくばんばんい)の鄙人(ひじん)、未(いま)だ嘗(かつ)て天子に見(まみ)えず。故に振慴(しんしゅう)す。願わくは大王少しくこれを仮借(かしゃ)し、使いを秦王の前に畢(お)わるを得しめさせよ。」ここに軻に謂いて曰わく。「舞陽の持つところの地図を取れ。」
 軻、既に図を取りて奏す。秦王図を発(ひら)く。
 図窮まりて而(しか)して匕首見ゆ。
 因りて左手にて秦王の袖を把(は)し、而(しか)して右手に匕首を持ち、これを揕(さ)す。
 未(いま)だ身に至らず。
 秦王驚きて自ら引き、而(しか)して起きて袖を絶つ。
 剣を抜くも、剣長くしてその室(さや)を操らんとするも、時に惶急して剣堅し。故に立ちて抜くべからず。
 荊軻秦王を逐う。秦王柱を環(めぐ)りて而(しか)して走る。郡臣皆愕(おどろ)きて卒(にわ)かに意を尽さざること起くれば、その度を失う。
 而(し)かも秦法は群臣の殿上に(じ)侍する者は尺寸の兵もこれを持つを得ず。諸郎の中(うち)執(ことごと)く兵皆殿下に陳し、詔に有らずんば急時に上方に召すを得ず。下兵を召すに及ばず。
 故(ゆえ)を以(もっ)て荊軻乃(すなわ)ち秦王を逐う。
 而(しか)して卒(にわ)かに惶急し、以(もっ)て軻を撃(げき)する無し。而(しか)して手を以(もっ)て共にこれを搏(う)つ。
 この時侍医の夏無且、以(もっ)てその奉ずるところの薬囊を荊軻に提(てい)するなり。
 秦王方(まさ)に柱を環(めぐ)りて走(に)ぐ。卒(にわ)かに惶急(こうきゅう)して為すところを知らず。
 左右乃((すな)わち曰(い)わく。「王よ剣を負え。」
 剣を負いて遂に抜き、以って荊軻を撃ち、その左股を断つ。荊軻廢(たお)る。
 乃(すな)ちその匕首を引きて以(もっ)て秦王に擿(な)ぐ。中(あた)らず。桐柱に中(あた)る。
 秦王復(ま)た軻を撃つ。軻、八創を被(こうむ)る。
 軻、自(おの)ずから事の就(な)らざるを知り、柱に倚(よ)りて而(しか)して笑い、箕踞(ききょ)して以(もっ)て罵(ののし)りて曰(いわ)く。「事の成らざる所以(ゆえん)の者は、生かしてこれを劫(おびや)かし、必ず約契を得て以(もっ)て太子に報ぜんと欲(ほっ)するを以(もっ)てなり。」
 是(ここ)に於(お)いて左右既に前(すす)みて軻を殺す。
 秦王、怡(よろこ)ばざるは良(しばら)く久し。

[現代誤訳]
 荊軻は樊於期(はんおき)将軍の首の入った箱を捧げ持ち、そして秦舞陽(しんぶよう)は地図の入った箱を捧げ持った。
 そして秦王の前に進み出た。

 秦舞陽は顔面蒼白となってがたがた震えていた。
 その場に居合わせた秦の群臣は秦舞陽の様子を怪しんだ。
 荊軻は秦舞陽の方を振り返って笑い、秦王の前に進み出て云った。
 「この者は北方出身の田舎者で、今まで一度も天子にお目にかかったことがありません。それでビビりあがってしまっているのです。」
「よろしければ大王様、私がこれをお借りし、秦王様にお見せしてもよろしいでしょうか。」

 秦王が荊軻に云った。「舞陽の持っている地図をお前が見せなさい。」

 荊軻は地図を取って秦王に捧げた。秦王が巻物になった地図を開いていくと、最後の方に巻き込んであった短剣が現れた。

 荊軻は剣が現れるや否や、左手で秦王の袖を掴み、右手で短剣を持って秦王を刺した。
 ところが、剣が短かったのか、身体に切っ先が届かなかった。

 秦王は驚いて身体を引き、咄嗟に立ち上がって荊軻の握っていた袖を振りほどいた。

 秦王が剣を抜こうとするのだが、剣が長すぎる。剣の鞘を持って抜こうとするのだが、動転しているのでその手が滑るし、剣は鞘に固く入っていて抜けない。

 荊軻が秦王を追いかける。秦王は柱の周りを逃げ回る。

 群臣は驚いて咄嗟に対処できないことが起ったので、呆然としている。
 しかも秦の厳しい法律では臣下で殿上に上がるものは寸鉄も持ってはならないことになっていた。
 諸臣は皆殿下に待機していて、国王の命令がなければ危急のときであっても殿上に上がってはならなかった。突然のことで秦王も命令が出せない。

 皆が手を拱いているうちも荊軻は秦王を追いかける。秦王は狼狽しているし、刀が抜けないので荊軻を撃退する術がない。それでも両手で荊軻を叩いて刺剣を防ぐ。

 このとき、侍医の夏無且(かむしょ)が持っていた薬箱を荊軻に投げた。
 これが顔に当たったのか荊軻がひるむ。

 秦王は相変わらず柱の周囲を逃げ回る。相変わらず動揺していてなすすべを知らないかのようである。

  このときようやく臣下たちが気付いて叫んだ。
 「王様、剣を背負ってください。」

 秦王はその言葉に従って剣を背負い、やっと抜いて荊軻に切りつけた。剣は荊軻の左の大腿の筋を切断し、荊軻はくずおれた。

 荊軻はもはやこれまでと短剣を秦王に投げつけた。当たらない。柱に刺さった。

 秦王はまた荊軻に切りつけた。荊軻は八か所の刀創を負った。

 荊軻は自分の企てが成らなかったのを悟り、柱に寄りかかって両足を投げ出して座り、大声で叫んだ。
 「本当はすぐにでも殺せたのだ。生かして脅して確かな約束を太子様に持って帰ろうとしたのがいけなかった。」
 やっと殿上に上がった臣下たちが荊軻にとどめを刺した。

 それからしばらく、秦王は不機嫌だった。

 「しばらく不機嫌だった」どころではない。
 翌紀元前226年、激怒した秦王は燕国を攻め、首都薊(けい)は陥落、燕王は国の東の涯である遼東に逃亡した。燕王はこのときは暗殺の首謀者である太子丹を殺して首を差し出し、ようやく赦されたが、結局4年後、遼東も攻略されて捕えられ、燕は滅亡した。

 こうして燕の乾坤一擲の大勝負は失敗に終わったのである。

 まあ燕は秦を除く戦国七雄の中で最後に滅亡したから、これは燕の滅亡と云うより秦の中国統一の完成と見た方が良いのかもしれない。
新合従策への河童の疑問

 しつこいようだが(本当にしつこい。しかも駄洒落がくだらん。)、燕の手の者になった蘇秦が主導した対斉合従策は秦の東進統一の露払いとなるのは火を見るよりも明らかであったから、当然の帰結である。

 『淮南子』には「蘇秦善(よ)く説きて而(しか)して国を亡(ほろぼ)す」と評されている。

 さあ、次は少し時代を遡って、辺境の小国だった燕がこれから上り坂になっていく昭王の時代の故事、「隗より始めよ」である。

 やっと辿り着いた。

 「前置きなげーんだよ。」「『史記』の話ばっかりじゃん。どこが『十八史略』なんだよ。」とご不満の諸兄、お待たせしました。

  

『十八史略』を読む4-隗より始めよ2-風蕭々として易水寒し-(新米国語教師の昔取った杵柄50)

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荊軻

 すみません。
 あとちょっとだけ血腥い話にお付き合い下さい。 

 蘇秦の対斉合従策が見事に当たって「鉅燕(きょえん:大きな燕)」「全燕(ぜんえん:完全な燕)」と呼ばれる全盛時代を迎えた燕国だが、その隆盛は長くは続かなかった。

 理由はお定まりの内紛である。

 燕が斉に打ち勝ったのは楽毅と云う天才将軍が与って大きな力があったが、昭王の次の国王である恵王は彼をよく思っていなかった。
 斉の宰相田単はここに眼を付け、「反間の計」巡らす。
 反間の計とは間者(スパイ)を送り込んで内紛を起こさせる計略である。
 敵国にまで伝わるくらいだから恵王の楽毅に対する悪意は相当露骨なものだったのだろう。

 この計略は見事に成功し、誅殺されることを恐れた楽毅は魏に亡命する。

 折角楽毅が奪った斉地は田単によって取り戻され、燕は元の東の辺境の国に戻ってしまう。

 秦をほったらかして(どころか燕は連衡策に戻って秦と同盟を組んだことすらあるらしい)斉との闘争に力を注いだツケはやがて払わされることになる。

 各国が斉との闘いに集中している間に十分力を蓄えた秦はいよいよ中原制覇に向けて動き出す。

 最初は趙に侵略したが、これはなかなか手ごわく、名将李牧に撃退されてしまった。
 次は秦と隣接し最も兵力の弱かった韓を攻撃し、韓は戦国七雄の中で最初に滅亡した。
 さらにまたもやお定まりの讒言によって李牧が誅殺された趙に再度侵略し、今度は首都邯鄲を落として趙幽繆王が捕虜となって趙は滅亡した。

 秦との緩衝地帯であった趙の滅亡によって燕は一気に脅威に晒されるようになる。

 秦の度々の侵攻によって危機に陥った燕は、一発逆転を狙った奇策に出る。

 秦王政の暗殺である。
 政は後の始皇帝であり、中国全土の最初の統一者であるから、これが結果的に失敗したことは云うまでもないのだが、ちょっとしたアクションドラマさながらの光景が展開する。しかもこれは史実である。

 暗殺を立案したのは燕の太子丹である。

 丹は秦王政の人質仲間であり、趙で共に生活したことがあったらしい。

 この当時は同盟の裏切りを防ぐために各国の王族の中で皇位継承順位の低い者が人質として交換されることがよくあったらしい。同盟が破れたら勿論殺される訳だから、日々を不安な気持ちで暮らさなければならない。
 成長期にある彼らの精神状態には悪影響があっただろうことは想像に難くない。

 丹はよほど王から疎んじられていたのか、斉での人質生活が終わったら次は秦の人質として12年を過ごす。
 丹にすれば政は苦難の時代を共に乗り切った同志であるから、政が自分を厚遇してくれるに違いないと思っていたらしい。

 ところが何せ政は『史記』「始皇本紀」に「秦王の人と為り、蜂準(ホウセツ)、長目、摯鳥(シチョウ)の膺(オウ)、豺の声、恩少なくして虎狼(ころう) の心あり。(現代誤訳:秦王の人となりは、鼻が高く、切れ長の目で、鳩胸、濁声、恩を感じること薄く、猛獣じみた残忍な心を持っている。)」といわれた人物である。

 冷遇されること12年、耐えられなくなった丹は政に燕国への帰国を懇願する。
 政の答え。
 「烏の頭白くして馬角を生ずれば還さん。(現代誤訳:烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返してやろう。だれが帰すもんか。ばーか、ばーか。)」

 ところが何と頭が白い烏(おそらく鵲だと思われる)が現れ、馬に角が生えた(おそらく四不像だと思われる)ので、丹は帰国することが出来た。
 それにしても秦王政、約束守るんだ…。

 いずれにせよ、燕太子丹が秦王政を深く怨んだのは間違いない。

 暗殺の刺客には荊軻(けいか)という人物に白羽の矢が立てられた。
 荊軻は元は衛の人だが、遊説家を志して諸国を巡ったものの何処でも用いられず、燕に流れ着いて土地の侠客である田光の食客として遊侠の日々を送っていた。

 「傍若無人」とは荊軻のことを評した故事成語である。

 荊軻は燕の市場で高漸離(こうぜんり)という筑(楽器)の名人と犬肉商人の3人で酒を飲むのが日課のようなものだった。
 荊軻は酔いが深まるにつれて高漸離の伴奏で高歌放吟し、しまいには感極まって慟哭し、「傍らに人無きが若(ごと)く」であった。

 誰か暗殺を成功させられるような人物はいないか。
 太子丹から相談された田光が推挙したのが荊軻だったのである。

 ここで現代の私達が唖然とするようなエピソードが挿入されている。これ以下の書き下し文は『史記』「刺客列伝」による。

 田光に相談の後、太子丹は「くれぐれも他言無用」と念を押す。
 すると田光は太子が帰るとすぐ、側近にこんな言葉を漏らす。
[書き下し文]
 是れ太子の光を疑うなり。それ行いを為して人をして疑わしむるは、節俠にあらざるなり。
[現代誤訳]
 太子が私に他言無用と念を押したのは、私を疑っているのだ。自分の言動によって人を疑わせてしまうのは、まともな侠客とはいえないのだ。

 そして、
[書き下し文]
 願わくは足下は太子に急過し、光すでに死すと言え。明らかに言わざるなり。
[現代誤訳]
 お前は今から早速太子の所に行き、田光はもう死にましたと言え。死人に口なしだ。

 そう云うや否や、田光は首を掻き切って死んでしまった。

 おいおい。もう少し命を大切にしろよ。

 そして、荊軻にとっては恩人が暗殺を成功させるために自殺してしまった訳だから、プレッシャーその1、である。

 暗殺を依頼された荊軻は、どうやったら秦王政に近寄れるか考える。

 強硬策では護衛の精兵にあっと云う間に殺されてしまうだろう。

 何か秦王が見知らぬ人物でも近くに寄らせる気になるようなエサはないか。
 
 エサは二つ考えられた。
 1つは燕が領土を割譲すること。国土の中でも最も肥沃な土地の1つである督亢(とくごう)が択ばれた。
 もう1つは秦王が欲している命。諫言によって秦王を怒らせ、一族が誅殺されてしまって燕に亡命してきた樊於期(はんおき)将軍である。

 領土は暗殺が上手く行ったら言を翻せばよいとして、命の方はどうするか。
 樊将軍は燕を頼って亡命してきた人物である。「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」と云うではないか。これは人としてどうか。太子丹はこちらのエサについては却下した。

 すると荊軻は自ら樊将軍に会いに行く。
[原文]
 願わくは将軍の首を得て、以て秦王に献ぜん。必ず喜びて臣を見(まみ)えん。
[現代誤訳]
 よろしければ将軍の首をいただいて、それを秦王に献上すると云いましょう。そうすればあなたの一族を皆殺しにした、あの憎き政の奴めは喜んで私に会うでしょう。

 樊将軍は憤然として首を掻き切って死んでしまった。

 おいおい、以下同文。
 プレッシャー2。

 太子丹は越国伝来の名剣を百金をはたいて手に入れ、これに毒を焼き入れした。
 呉越は名剣の産地として昔から有名なのである。

 この短剣を死刑囚を使って試し斬りしたところ、囚人たちはあっと云う間に死んでしまった。

 おいおい。以下同文。
 これはプレッシャーにはならないか。そんなヤワな人間じゃなさそうだし。
 「お前たちの死は無駄にはしないぞ」くらいのことは云いそうだが。

 ここに秦舞陽というゴロツキがいた。
 13歳で人を殺し、乱暴者として有名だった。
 太子丹は万一のため、彼を助手としてつけようとしたが、荊軻はこの青年の人格が当てにならないということを見抜き、別に楚人の薄索という友人を助手にしようとした。

 しかし、楚と燕は遠い。
 友人の到着を待つうちに、丹は荊軻が怖気づいたのではないかと疑い始めた。自分の疑いのせいで田光が死んでいるのに懲りない太子である。
 荊軻が丹を怒鳴りつける。死を決しているから怖いものなどないのだ。

 止むを得ない。
 荊軻は出発することにした。

 出発の日、全員が喪服姿で荊軻を易水まで送る。
 易水は黄河の支流であり、易水を過ぎるとかつての趙国、今は秦の地である。

 男たちが皆涙を流して佇む中、荊軻が別れの歌を歌う。

[書き下し文]
 風蕭々として易水寒し
 壮士ひとたび去ってまた還らず
[現代誤訳]
 吹く風寂しく流れ冷たき易水の畔
 ますらお去りて帰ることなきこの旅路

 直訳すると大したことは云っていないので激しく誤訳してみたが、やはり書き下し文で楽しむ方が良いようだ。


[書き下し文]
 士皆目を瞋(いか)らし、髪尽(ことごと)く上がり冠(かんむり)を指す。

[現代誤訳]
 その場に居合わせた人々はみな眼が吊り上がり、怒髪は冠を衝いて天に向かった。

 これが「怒髪衝天」の由来だと思う人がいるだろうが、若干表現が違う。
 怒髪衝天は趙の宰相藺相如が秦に対して璧を全うした「完璧」と同じ瞬間に出来た故事である。
 この故事も面白いのだが作文体力が尽きそうになっているのでまた今度。

[書き下し文]
 是(ここ)に於(お)いて荊軻車に就きて去り、終(つひ)に已に顧みず。[現代誤訳]
 荊軻は歌い終わると車に乗って去り、一度も振り返ることはなかった。 

 駄目だ。
 これから暗殺失敗場面を熱を入れて書くには体力を使いすぎた。
 幸い休日なので一休みしてからこの緊迫の場面を紹介したい。
 いつになったら「隗より始めよ」に辿り着くのやら。

『十八史略』を読む3-隗より始めよ1-燕という国-(新米国語教師の昔取った杵柄49)

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合従連衡ではなく連衡合従

 『十八史略』の紹介がいきなりドギツイ話になったので、もう少し思いやりのある話を紹介しよう。
 特に私自身が現在定年後の臨時採用という立場なので、「思いやり雇用」というような心温まる話にしたい。無理矢理でも。 
 ただ、その前に、この話の舞台になった中国戦国時代の燕と云う国について少し蘊蓄を披露させてほしい。

 『史記』や『漢書』を見る限り、春秋戦国時代にこの国が中原を統一する可能性は皆無に近かったような印象を受ける。
 何より資料に乏しい。あまり歴史家の興味を惹かなかったようだ。

 戦国時代当時の燕の首都は薊(けい)と云った。
 ところが、薊の位置する場所は何と、現在の中華人民共和国の首都、北京である。北京の別名は燕京、つまり、燕の都なのだ。
 戦国時代には辺境であった燕は、現在中国の中心なのだ。

 最盛期の燕は遼東半島を含む広大な領土を有する強大な国であったにも関わらず、少なくとも中原に覇を唱えるような情勢を作り上げたことはなかったらしい。

 これは燕が何故長らく辺境であったかという事情によるような気がする。

 では、なぜ燕地は辺境であったか。

 それは漢族と塞外民族との争闘の歴史を抜きにしては語れない。

 燕の地は漢民族の王朝の中心として選定されるにはあまりにも塞外民族の本拠地に近かったのだ。

 匈奴、高句麗(河童註:中韓で論争のある国だが少なくとも中原の王朝はこの国に何度も遠征しており、最後は新羅と同盟して滅亡させているのだから夷敵として認識していたことだけは確かである。)、契丹、女真、モンゴルなどの塞外民族がこの地に侵入し、ときにはこの地を首都として征服王朝を建てた。

 私は中国史に興味があって、この「中国病」は大体10年周期で寛解と増悪を繰り返しているのだが、そうした中で気づいた歴史的事実に戦慄したことがある。

 これらの塞外民族の殆どが所謂中華に同化され、あるいは歴史を激動させる勢力としてはもはや認識されないくらいに小さな勢力になっていることである。
 特に中国に征服王朝を建てた民族の中で、近代的な国民国家を造り得る時代までそのための勢力を保てたのはモンゴル民族くらいなのだ。

 これは主に文化的な同化力によるものであって、軍事力や政治力ではないことは云うまでもない。何せ自分たちを征服した民族を同化してしまうのだから。

 塞外民族の脅威がなくなって初めて燕地は漢民族国家の中心地として選定されることができたのだろう。 

閑話休題(いつになったらえんのはなしをするんだ)。

 春秋戦国時代の燕地は、現在と違い、諸民族の十字路のような土地だったに違いない。

 ただ、これを燕という単独の国と考えると、この国の民は、北方の塞外民族の脅威、中原の統一を狙う旧晋諸国(韓・魏・趙)の脅威、そして国境を接して一時期は燕を亡国に追いやった斉の脅威、同じく統一を企図して東進しようと端倪している秦の脅威、中原に覇者たらんとして北上して来ようとする南方の楚の脅威、そしてかつての失地を回復すべく、または新たに勃興して西進して来ようとする勢力(高句麗の前身)の脅威に常に晒されていた訳である。

 ここまで思考した時、なぜ蘇秦が燕の使者として合従策により戦国諸国に説得しようとしたのかピンと来た。

 連衡と合従に関して私は現在の通説とはちょっと違った認識をしている。
 それについては既にしつこいくらいに書いた。
 戦国策を読む2-「戦国策」とは-(新米国語教師の昔取った杵柄21)
 「戦国策」を読む3-合従と連衡-(新米国語教師の昔取った杵柄22)

 まず世間の通説についてまとめれば、まず中原の西方に勃興した秦という脅威に対して他の六国が共同して対抗する合従策が蘇秦の説得によって成った。それに対して張儀が各国を遊説することでこの策を切り崩し、各国が個別に秦と同盟を結ぶことでその侵略を防ぐ連衡策が成った。結局各国は秦に各個撃破されて秦の中国統一が成し遂げられた、というものであろう。

 ところが、1970年代に発掘された馬王堆遺跡から出土した「戦国縦横家書」によれば、蘇秦と張儀は活躍した時期が通説とは前後しているのだ。

 それから考えると、まず張儀の遊説によって連衡策が成立してから蘇秦の説得によって合従策が成立したと考えた方が私としてはしっくり来る。
連衡策

 つまりまず張儀の説得により連衡策が成立したが、
連衡策破綻

 これは斉を強大化させる結果に終わってしまった。
 特に斉と国境を接する隣国であり、一度は斉によって全土を占領されたことすらある燕にとってはこの状況は深刻だっただろう。
合従策

 まずは斉の脅威を除くために対秦合従策が画策される。これだけでも斉の圧迫に苦しむ燕にとっては随分助かる話である。自分たちに向かっていた斉の勢力が秦に向かうのである。
 そしてこの策は秦から最も遠い燕にとっては最も利益の多い策だったのだが、秦と距離の近い他の五国にとっては負担の多い策であった。
 したがってこの対秦合従策は短期間で破綻する。
新合従策への河童の疑問

 そしてより燕にとって利益の多い新たな合従策が考案される。対斉合従策である。

 斉を仮想敵国と位置付ける燕にとってはこちらが本命の合従策かもしれない。

 これは確かに燕に一時的な利益を齎した。
 名将楽毅率いる5か国連合軍が斉軍を撃破し、斉の全土を蹂躙し、「鉅燕(巨大な燕)」と呼ばれる全盛時代が到来する。
 しかし、対斉合従策は長期的に考えれば秦の東進と中原統一の露払いになるだろうことは外交のド素人でもわかる。

 そして、秦が各国を圧迫しつつ東進してくる過程で、燕はとんでもないことをやらかすのである。

 駄目だ。

 どうしても元々話すつもりだった「隗より始めよ」まで辿り着けない。

 ということで、次は「始皇帝暗殺」である。

『十八史略』を読む2-臥薪嘗胆-(新米国語教師の昔取った杵柄48)

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越王勾践

 さて、『十八史略』が如何に簡にして要を得ているかを示すために「臥薪嘗胆」の部分を現代誤訳しようとしたのだが、書き下し文で意外に時間を取ってしまった。
 次は現代誤訳である。

 [書き下し文]
 闔廬(こうりょ)伍員(ごうん)を挙げて、国事を謀(はか)らしむ。員(うん)字(あざな)は子胥(ししょ)、楚人(そひと)伍奢(ごしゃ)の子なり。奢(しゃ)誅(ちゅう)せられて呉(ご)に奔(はし)る。呉(ご)の兵を以(ひき)いて郢(えい)に入る。

[現代誤訳]
 呉王の闔廬(こうりょ)が伍員(ごうん)を取り立てて、国の政治を任せた。
 伍員の成人後の名前は子胥(ししょ)といい、楚の人である伍奢(ごしゃ)の子供である。伍奢が罪を得て楚王に誅殺されたので呉の国に逃げたのである。
 闔廬に重用された伍子胥は、呉の兵を率いて楚に侵攻し、楚の首都である郢(えい)を陥落させ、父を殺した楚平王の墓を暴き、その死屍を鞭打って父の敵を討った。

[書き下し文]
  呉越を伐(う)つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差(ふさ)立つ。子胥復(ま)た之(これ)に事(つか)う。夫差讎(あだ)を復せんと志す。朝夕(ちょうせき)薪中(しんちゅう)に臥(ふ)し、出入するに人をして呼ばしめていわく、「夫差、而(なんぢ)越人(えつひと)の而の父を殺せしを忘れたるか。」と。
[現代誤訳]
 呉が越に侵攻したが、そのときに呉王闔廬は負傷して死んでしまった。
 闔廬の子供の夫差(ふさ)が即位して呉王になった。伍子胥は引き続き夫差に仕えた。
 夫差は父親の仇を取りたいと考えた。朝晩薪を並べた寝台に寝て、部屋に出入りする人に云わせた。「夫差よ、お前は越の者がお前の父を殺したことを忘れたのか。」と。
[書き下し文]

 周の敬王の二十六年、夫差越を夫椒(ふしょう)に敗る。越王勾践(こうせん)、 余兵を以(ひき)いて会稽山(かいけいざん)に棲み、臣と為(な)り妻は妾(しょう)と為らんことを請う。 子胥言う、「不可なり。」と。太宰(たいさい)伯嚭(はくひ)越の賂(まいな)いを受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。 
[現代誤訳]
 周の敬王の在位26年、夫差は越軍を夫椒(ふしょう)というところで打ち破った。
 越王の勾践(こうせん)は、生き残った兵を率いて会稽山(かいけいざん)に逃げ込み、「自分は夫差の臣下に、妻は夫差の妾になるので助けてください」と云って命乞いをした。
 伍子胥は云った。「許してはなりません。殺すべきです。」
 伯嚭(はくひ)は元々は楚の出身だが亡命して呉の宰相となっていた。伯嚭は越国から賄賂を貰い、夫差王を説得して勾践を許させた。

[書き下し文]
 勾践国に反(かえ)り、胆(きも)を坐臥(ざが)に懸け、即ち胆(きも)を仰(あお)ぎ、之を嘗(な)めていわく、「女(なんぢ)会稽の恥を忘れたるか。」と。
  国政を挙げて大夫種(たいふしょう)に属(しょく)し、而(しこう)して范蠡(はんれい)と兵を治め、呉を謀(はか)るを事(こと)とす。
[現代誤訳]
 赦された勾践は越国に帰り、苦胆(にがぎも)を座席の横にぶら下げ、しょっちゅう胆を見てはこれを舐めて云った。「お前は会稽山の恥を忘れたのか。」と。
 国政のことは文種に任せ、そして自分は范蠡(はんれい)と共に兵力の増強に努め、呉に対しては恭順の意を示して警戒心を解くことに専念した。
[書き下し文]

 太宰嚭(たいさいひ)、子胥謀(はかりごと)の用いられざるを恥ぢて怨望(えんぼう)すと譖(しん)す。夫差乃(すなわ)ち子胥に属鏤(しょくる)の剣を賜(たま)う。
 子胥其(そ)の家人に告げていわく、 「必ず吾が墓に檟(か)を樹えよ。檟は材とすべきなり。 吾が目を抉(えぐ)りて、東門に懸けよ。 以て越兵の呉を滅ぼすを観ん。」と。乃ち自剄(じけい)す。
[現代誤訳]
 宰相の伯嚭(はくひ)は自分の悪事を隠すために、「伍子胥は自分の云うことが王に用いられなかったのでそれを恨んでいます。」と讒言した。
 夫差はその言葉を信じ込んで伍子胥に名剣である属鏤(しょくる)の剣を送った。(河童註:当時君主が臣下に剣を送るのは自決せよという命令である。)
 伍子胥は家族の者に云った。「必ず私の墓にヒサギの木を植えなさい。ひさぎは夫差王の棺桶の材料にするものである。私の眼球を抉って、それを都の城門のうち、越の国に向いた東の門に懸けなさい。私はその眼で東門から越兵が入ってきて呉の国を亡ぼすのを見よう。」
 そう云うと、伍子胥は首を掻き切って自決した。

[書き下し文]
 夫差その尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)をもってし、これを江に投ず。 呉人これを憐れみ、祠(し)を江上に立て、命(なづけ)て胥山(しょざん)という。
[現代誤訳]
 伍子胥の言葉を伝え聞いた夫差王は激怒して伍子胥の屍を遺族から奪い、馬の皮袋に入れ、これを長江に投げ捨てた。呉の人はこれを哀れみ、祠(ほこら)を長江の畔に建て、名付けて胥山(伍子胥の山)と呼んだ。

[書き下し文]

 越十年生聚(せいしゅう)し、十年教訓す。周の元王の四年、越呉を伐(う)つ。 呉三たび戦いて三たび北(に)ぐ。 夫差姑蘇(こそ)に上り、また成(たいらぎ)を越に請う。 范蠡(はんれい)可(き)かず。 夫差いわく、 「吾もって子胥を見る無し。」と。 幎冒(べきぼう)を為(つく)りてすなわち死す。
[現代誤訳]
 越王勾践は10年間民を増やし、財貨を集めた。さらに10年間民を教育し、軍事訓練を行った。
 そしてついに周の元王の在位4年、越は呉を攻撃した。
 呉は連戦連敗した。
 呉王夫差は姑蘇山に逃げ込み、勾践がかつて呉に対してしたように、越に対して講和を乞うた。
 しかし、越の軍事を司る范蠡はこれを認めなかった。勾践は夫差を哀れんで流罪にしようとしたが、夫差は固辞した。
 夫差が云った。「私はあの世で伍子胥に合わせる顔がない。」と。
 そして死者の顔を覆う帽子を作り、それを深く被って縊死した。

 さて、この『十八史略』の「臥薪嘗胆」、非常にコンパクトにシンプルに呉越の因縁の対決をまとめあげていて、とても分かりやすい。
 ただ、シンプル過ぎて現代誤訳するときに補う必要がある部分があった。

 例えば呉の宰相伯嚭については経歴が何も書かれていなかったのだが、これが無いと呉の人である伯嚭が外国と通じた挙句に他国の者である伍子胥を讒言によって排除したという印象を与えてしまう。
 ところが実は伯嚭も伍子胥と同じく楚からの亡命者なのである。
 伍子胥にも伯嚭にも呉の国では親戚も郷党もいなければ呉に対する愛国心もない。
 彼らの地位を保証しているのは唯一君主の信頼のみである
 つまりこれは他国の亡命者でありながら王に重用されている者同士の仁義なき権力争いであることがよく分かる。
 元々伯嚭は父や祖父が楚の権力争いに巻き込まれて死んだために旧知の伍子胥を頼って呉に亡命し、彼の引きで呉王闔廬やその子の夫差に登用されたというのだから、仁義がないのは伯嚭だけかもしれないが。

 それどころか父王闔廬は夫差に跡を継がせるのに反対しており、夫差が王になれたのは伍子胥が懸命に説得したからだという説もあるのだ。
 呉王夫差と呉宰相伯嚭、さすがは亡国の君臣である。

 一説によれば夫差には同情的だった越王勾践も伯嚭だけは赦さず、処刑して悪臣の見本として首を晒したらしい。

 こういった事情は『十八史略』のシンプルな記述ではわからないから、最初に『史記』を読んだ後で『十八史略』を読んだりすると確かにちょっと物足りないかも知れない。「えっ、あのエピソード入れないの?」というような。

 伍子胥に関する有名な故事「死屍に鞭打つ」「日暮れて途遠し」などのエピソードも取り上げられていない。これも知らないと伍子胥に単純に同情してしまいそうである。この時代の中国人は誰に限らず苛烈な人が多いのである。

 ただ、このテのエピソードは「勝てば官軍負ければ賊軍」を正当化するために入れられることも多いから、『十八史略』のシンプルな記述がむしろ潔い感じもする。


 次はもう少し血生臭くない話にしよう。

『十八史略』を読む-『十八史略』という本-(新米国語教師の昔取った杵柄47)

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臥薪嘗胆

 『十八史略』は歴史初学者のために纏められた入門書である。 
 その名の通り18の歴史書を略したものだ。今でいえば「2時間で読める中国史」という感じだろうか。
 纏めたのは南宋の曾先之(そうせんし)であるから、取り上げられている時代は三皇五帝や夏という伝説の王朝時代から南宋までということになる。
 具体的には
1.『史記』(三皇五帝-夏-殷(商)-周-春秋-戦国-秦-前漢)
2.『漢書』(前漢)
3.『後漢書』(後漢)
4.『三国志』(魏・呉・蜀)
5.『晋書』(西晋・東晋)
6.『宋書』(南北朝時代の南朝の宋)
7.『南斉書』(南北朝時代の南朝の斉)
8.『梁書』(南北朝時代の南朝の梁)
9.『陳書』(南北朝時代の南朝の陳)
10.『後魏書』(南北朝時代の北朝の魏)
11.『北斉書』(南北朝時代の北朝の斉)
12.『周書』(南北朝時代の北朝の周)
13.『隋書』(隋)
14.『南史』(南北朝時代の南朝)
15.『北史』(南北朝時代の北朝)
16.『新唐書』(唐)
17.『新五代史』(五代十国時代の五代:梁・唐・晋・漢・周)
である。

 17しかないではないか、という人もいるかもしれないが、曾先之の同時代は南宋であり、まだ『宋史』は編纂されていないので、この18番目の史書は存在しない。

 中国の正史とは滅亡してしまった前の王朝の歴史について書かれるものなのだ。これは同時代だと客観的であるべき歴史書に生きている権力者への諂いや忖度が入り込んでしまうのを防ぐためだと思われる。

 南宋は北宋の風流皇帝徽宗が息子の欽宗と共に北方の金に連行されて滅亡した後に南方に新たに建てられた王朝であるから現代の感覚からすれば『北宋史』が編まれても不思議ではないのだが、何せ王朝の血統が何よりも重視される封建時代の話だから、後継の皇帝に遠慮して誰もそんなことはしないのだ。

 したがって、正史である『宋史』がないので、『続宋中興資治通鑑』など、南宋の学者の北宋について扱ったいわば私家本の歴史書が参考にされている。

 また、これは人間の歴史に対する態度というものから来るものだろうが、現代に近くなるほど採られる事例が多くなる。
 したがって、南宋から時代の近い南北朝時代や五代十国時代の事例が妙に多いが、はっきり云ってこの辺りのゴチャゴチャした王朝は日本人には一番興味が持てないところではないだろうか。

 そして、何せ南宋までですら伝説の王朝からすれば3000年は経っている。こんな長い歴史をギュッと縮めてしまったものだから、『十八史略』は成立当初から中国人には頗る評判の悪いものだったらしい。
 清代の文献解説書である四庫全書総目提要では「蓋(けだ)し郷塾(きょうじゅく)の課蒙(かもう)の本(現代誤訳:まったくのところ田舎の子供相手の寺子屋で使う教科書のような本)」と酷評されている。

 日本人でも明治時代の作家である幸田露伴のような、漢籍に詳しい人からすると子供向けの『漫画中国の歴史』みたいなものらしい。

 しかし、何せダイジェストといっても中国歴代の4517人の事績について書いてあるらしいから、そう馬鹿にしたものでもない。
 1日10人ずつ読んでいったとしても読み終わるのに1年以上かかるのだ。もちろんこの私も全部読んだことなどない。
 それに4517人が登場するということは、4517の個性があるということだ。

 私は18歳くらいのときに司馬遷の『史記』を読破して、これは私の数少ない自慢の1つなのだが、『史記』にメインで登場する人物は100人超程度なのである。これでも人名を覚えたり個性を把握するのは相当しんどかった。
 『十八史略』に登場するのはその40倍の人物。これは凄いことである。

 そして『史記』が少々「侠気(おとこぎ)」が入り過ぎて話が長くなっている部分でも、初心者にも分かりやすいようにサラっとうまく纏めて分かりやすく伝える。

 たとえば呉越の争いなどは、『史記』では「越世家」「呉太伯世家」「伍子胥列伝」を中心にその死闘が感情移入たっぷりに描かれ、「刺客列伝」「貨殖列伝」にもその顛末で触れられなかったエピソードが登場する。

 これは確かに若い私を刮目させるに十分だったが、やはり登場人物相互の関係や当時の背景を把握するのは一読しただけでは不可能だった。
 ところが、『十八史略』だとこれが僅かこれだけの文章で把握できるのである。

 このブログは教科書の解説を意図したものではないので、書き下し文と現代誤訳だけ掲載する。


[書き下し文]
 闔廬(こうりょ)伍員(ごうん)を挙げて、国事を謀(はか)らしむ。員(うん)字(あざな)は子胥(ししょ)、楚人(そひと)伍奢(ごしゃ)の子なり。奢(しゃ)誅(ちゅう)せられて呉(ご)に奔(はし)る。呉(ご)の兵を以(ひき)いて郢(えい)に入る。

  呉越を伐(う)つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差(ふさ)立つ。子胥復(ま)た之(これ)に事(つか)う。夫差讎(あだ)を復せんと志す。朝夕(ちょうせき)薪中(しんちゅう)に臥(ふ)し、出入するに人をして呼ばしめていわく、「夫差、而(なんぢ)越人(えつひと)の而の父を殺せしを忘れたるか。」と。

 周の敬王の二十六年、夫差越を夫椒(ふしょう)に敗る。越王勾践(こうせん)、 余兵を以(ひき)いて会稽山(かいけいざん)に棲み、臣と為(な)り妻は妾(しょう)と為らんことを請う。 子胥言う、「不可なり。」と。

 太宰(たいさい)伯嚭(はくひ)越の賂(まいな)いを受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。 
 勾践国に反(かえ)り、胆(きも)を坐臥(ざが)に懸け、即ち胆(きも)を仰(あお)ぎ、之を嘗(な)めていわく、「女(なんぢ)会稽の恥を忘れたるか。」と。

  国政を挙げて大夫種(たいふしょう)に属(しょく)し、而(しこう)して范蠡(はんれい)と兵を治め、呉を謀(はか)るを事(こと)とす。

 太宰嚭(たいさいひ)、子胥謀(はかりごと)の用いられざるを恥ぢて怨望(えんぼう)すと譖(しん)す。夫差乃(すなわ)ち子胥に属鏤(しょくる)の剣を賜(たま)う。

 子胥其(そ)の家人に告げていわく、 「必ず吾が墓に檟(か)を樹えよ。檟は材とすべきなり。 吾が目を抉(えぐ)りて、東門に懸けよ。 以て越兵の呉を滅ぼすを観ん。」と。乃ち自剄(じけい)す。 夫差その尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)をもってし、これを江に投ず。 呉人これを憐れみ、祠(し)を江上に立て、命(なづけ)て胥山(しょざん)という。

 越十年生聚(せいしゅう)し、十年教訓す。周の元王の四年、越呉を伐(う)つ。 呉三たび戦いて三たび北(に)ぐ。 夫差姑蘇(こそ)に上り、また成(たいらぎ)を越に請う。 范蠡(はんれい)可(き)かず。 夫差いわく、 「吾もって子胥を見る無し。」と。 幎冒(べきぼう)を為(つく)りてすなわち死す。

 うーん、思ったより時間と労力がかかったので、現代誤訳は次回。 

『枕草子』を読む5-中納言参りたまひて3-不良語訳-(新米国語教師の昔取った杵柄46)

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 さて、「中納言」こと藤原隆家の人物像について知った後、私のこの「中納言参りたまひて」の段に関する印象は全く変わってしまった。

 これは言葉遣いから変えなければ。

 中宮定子は隆家の妹だが、天皇の后だから本来隆家は定子に対して敬語を使わなければならない。しかし相当破天荒な人物のようだからあえてタメ口の、不良少年が使いそうな言葉で訳してみよう。

[原文]
 中納言参りたまいて、御扇奉らせたまうに、「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それをはらせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまう。
 「いかやうにかある。」と問い聞こえさせたまえば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまえば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり。」と聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ。」とて笑いたまう。かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ。」と言えば、いかがはせむ。
[不良語訳]
 例の中納言がやってきちゃった。手に扇の骨を持ってる。何の用?
 「よう、妹。スゲー扇の骨見つけちゃったよ。職人に紙張らせてオメーにやるつもりなんだけど、ハンパな紙は張れねーよな。何かテキトーなのない?」
 相変わらず、ずーずーしくて、やかましい。中宮様の兄上じゃなきゃ口もききたくないんだけど。
 中宮様もわざわざ相手しなきゃいいのに「どんなの?」なんてお聞きになるから、また調子に乗って。
 「とにかくスゲーんだよ。みんな『こんなの見たことなーい! 』とかって言ってるよ。マジ、こんなの見たことねー!」
 また大声で。私の知ってる男、声が大きすぎる奴ばっかり。うるさい。
 「それなら、中納言様の持ってきた骨って、扇の骨じゃなくて、クラゲの骨なんじゃないですか。誰も見たことがないんだったら。」
 言ってやった!
 「クラゲの骨? おめーおもしれーこと言うね。それ、もらった! みんなに『これってクラゲの骨なんだぜ』って、いーおう。」
って言って、ゲラゲラ笑う声がまたうるさいこと。
 こいつの話なんて『枕草子』に書きたくないんだけど、みんなが「書いて! 書いて! 」っていうから、困ったもんだ。どういうわけかこいつ、女子に人気があるんだよね。

 やりすぎたかな。
 「教師生命」などという言葉が胸をよぎる。
 まあいいか。

 この段は色々な人がネットに口語訳を上げているが、敬語をあまりに忠実に訳してしまうと陰湿な感じになってしまう。「神経戦」などという言葉が頭をよぎる。

 私の最初の現代誤訳がまさにそうだ。

 かといって、ここは敬意の方向をしっかり確認させたい教材なのである。

 なかなか痛し痒しだ。

 ただ、私の中では「この段ってこんなに面白かったんだ!」というものに変化した。

 そして分かってから読むと、清少納言が如何に上手く隆家の人物像を文章に反映させていることか。豪気だがちょっと軽い人物の大声で陽気に話す様子が1000年の時を経てこちらに伝わってくる。

 ところで「水母の骨」という言葉は「ありえないもの」「大変珍しいもの」の喩えとして使われる。
 日本の昔話にも、猿の生き胆を取って来るという任務に失敗した水母が龍王から骨を抜かれてふにゃふにゃになってしまうエピソードが水母に骨がない理由として登場する。
 
 骨がないのだから化石もないだろう、と考えるに違いないが、クラゲの化石は実在する。
 これについては一度書いた。
 恐竜化石が呼び起こす少年の日の疑惑(毒にも薬にもならない話83)

 なぜ骨がないのに化石が存在するかと云えば、干潟や砂浜に打ち上げられた水母はじきに溶けてしまうのだが、そのときに泥や砂に型を残すのだという。これを印象化石という。この印象化石に土砂が堆積することによって化石となるのだ。

 また、カンブリア紀の水母には骨があったという説もある。
 もしこれが本当で、『枕草子』がカンブリア紀に書かれていたとしたら、この「中納言参りたまひて」の段は存在しなかった訳だ。

 まだ人類いないって。

 おあとがよろしいようで。
 

『枕草子』を読む4-中納言参りたまひて2-藤原隆家という人-(新米国語教師の昔取った杵柄45)

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刀伊の入寇

 いつもながら冒頭の絵と内容が全く関係ないことをお詫びします。

 なるほど。

 『枕草子』に登場する「中納言」について調べてみた。
 面白い人物である。
 名前は藤原隆家(たかいえ)。清少納言が仕えていた中宮定子の兄である。
 定子は歴史上有名な藤原道長(みちなが)の姪だから、隆家は道長の甥ということになる。 

 ではどんな人かと云えば、「天下のさがな者」として有名だったという。
 「さがな者」というのは「荒くれ者」「乱暴者」という意味で、もっと悪い言葉でいえば「口やかましい者」「性悪者」「ろくでなし」という意味もある。周囲からあまり良くは思われていなかったようだ。

 しかしこれは彼が道長の政敵であったという要素を差し引いて考える必要があるかもしれない。
 父藤原道隆(みちたか:道長の兄)の引きで急速に出世した隆家は最高権力者の座を狙う道長と鋭く対立し、従者同士の乱闘で死者が出るなどのトラブルが起こる。

 そんな中、隆家の同母兄である藤原伊周(これちか)の恋人のところに花山院が通っていることが発覚する。これは実は同じ屋敷に住む恋人の姉妹の所にだったのだが、花山院は既に出家の身(法皇)である。出家が女の所に通うとはどういうことか。反発した隆家は院に矢を射かけ、矢は院の服の袖を貫く。院は後ろめたさからかこれを公にしなかったが、噂を聞きつけた道長はこれ幸いと隆家兄弟を出雲と大宰府に左遷してしまう。

 「さがな者」という評判はこの事件(後世長徳の変と呼ばれる)を受けてのことであろう。

 だが、「さがな者」も使い方で役に立つ、という出来事がやってくる。

 「刀伊の入寇」である。
 これは日本史上、大和朝廷成立以後では初めての大規模な外勢の侵入といえる。刀伊の戦力は約3000人だったらしい。
 「刀伊」はその後中国北部に征服王朝である金朝を打ち立てた女真族だといわれる。女真族はさらにその後に満州族と自称し、中国全土を支配し大清帝国を打ち立てた民族でもある。勇猛果敢を以て大陸を席捲した民族だ。

 刀伊は最初に上陸した壱岐・対馬をあっという間に蹂躙し、さらに九州北部に上陸する。
 壱岐の国司は戦死、対馬の国司は辛うじて難を逃れ、当時の大宰府に外敵の侵入を報告する。
 その時の大宰府のトップである太宰権帥(だざいごんのそち)が藤原隆家だったのだ。

 勢いに乗る刀伊は博多に侵入しようとするが、隆家率いる大宰府軍により撃退され、大陸に撤退する。この時は武士だけでなく大宰府の文官も武器を取って戦ったという。

 この戦闘の後、隆家は「やまとごころかしこくおわする人(『大鏡』)」と呼ばれるようになる。私には「やまとごころ」が何なのか分からないのでAI君にこの言葉の意味について聞いてみると、「政治家としての判断力と実行力を備えた人物」に贈られる賛辞のようだ。
 ライバルの道長も「捨てぬ者(捨て置けないもの)」と評している。

 手の付けられない乱暴者が戦争という機会を得て英雄になるというのは古今東西よくあることだが、隆家の活躍にはそれだけではない訳があったようだ。

 長徳の変では隆家が出雲に左遷されると同時に、道長にとってもう一人邪魔な存在であった伊周が大宰府に左遷されている。このとき伊周は嫌がって身を隠し、結局見つかって連行同然で任地に送られている。
 ところが、大宰府での伊周はすこぶる評判が良かったらしい。九州人と馬が合ったのだろう。九州人である私には何となく分かる気がする。

 その後、赦されて出雲から京都に戻った隆家は自ら望んで大宰府に赴任する。
 理由は持病の治療に長けた医師が九州にいたからというが、兄の大宰府からの土産話がこの希望に関係ないと考える方が不自然である。

 隆家もまた九州人たちと良好な関係を築いたらしい。歴史書である『大鏡』は次のように云う。
[原文]
 政よくし給うとて、筑紫人さながら従いまうしたりければ、
[現代誤訳]
 隆家様が善政を布かれていると評判になって、九州人はみんな敬服したので、

 こうした良好な関係があればこそ、危機に際して文武双方とも力を合わせることができたのだろう。

 皆の衆。
 不遇な時ほど自らを律して人に優しくするのじゃ。そして人の評判ほど当てにならないものはない。
 人は石垣、人は城。
 この二人の兄弟が中央での評判の通りのロクデナシだったら九州は今ごろ日本ではなかったかもしれないのだ。

 このように大きな功績を上げた隆家だが、その後特段の出世をすることはなかった。

 どころか、京都で疱瘡(天然痘)が流行した時、帰京した隆家が刀伊から貰った病原体を持ってきたという噂が流れている。

 相手(道長)が悪かった、というべきか。
 今も昔も印象操作の勝利者が権力争いの勝利者であることに変わりはない、というか。

閑話休題(まくらのそうしのはなしだった)。

 ということで(何がということなのかよく分からないが)、次回、隆家のこうした人物像を頭に入れつつもう一度「中納言参りたまひて」を鑑賞してみたい。

『枕草子』を読む3-中納言参りたまひて1-自慢話以外の何なんだろう-(新米国語教師の昔取った杵柄44)

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香炉峰の雪

 さて、そろそろ夏休みも終わり、二学期の始まりである。
 今これについて私は夏休みが終わりかけの小学生のような気分なので、多少でもモチベーションが上がるような文章を取り上げてみたい。

 それが何で『枕草子』なのか、ということなのだが、正直この随筆は言葉の壁が厚くてあまりちゃんと読んだことがないのだ。
 せいぜい序段と「ありがたきもの」「にくきもの」「うつくしきもの」 くらいか。
 仮にも国文科出身なのでもう少し読んだ章段があると思うのだが、中身をほとんど覚えていないのはやはり文章の難解さによるのだろう。
 同じ難解でも『源氏物語』などは物語だから登場人物の行動パターンや心情の変化などが読めてきて推測できるのだが、随筆はそのときそのときに「面白い」と思ったことを書き散らかすものだから、なかなか難しい。

 特に私は発達障害のケがあるから異性が苦手である。
 学が無いから賢い人が苦手である。
 礼儀を知らないから目上の人が苦手である。

 清少納言は女性で才覚があり、宮仕えをしていた人だから、この全てに当てはまっている。
 だから高校の先生の助けがなかったらこの人の云っていることがさっぱり分からなかったのだ。

 内容を覚えていて「面白い」という印象のある章段でも自分一人では決して読まなかっただろう。

 そこでチャレンジとして、もしかすると過去に読んだことがあるのかもしれないが、内容を全く覚えていない「中納言参りたまひて」(第98段。第102段としてある本もある)を取り上げたい。

[原文]
 中納言参りたまいて、御扇奉らせたまうに、「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それをはらせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまふ。
 「いかやうにかある。」と問ひ聞こえさせたまえば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまえば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり。」と聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ。」とて笑いたまう。かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ。」と言えば、いかがはせむ。

 あ、思い出した。
 「つまらん自慢話やなー」と、鼻にも引っかけなかった段だ。
 「香炉峰の雪いかならん」と同じ類の、自分の才覚をひけらかす鼻持ちならない文章だと若い私(おそらく高校生)は感じたのだろう。

 若い私のこうした感想について分かってもらうためには「香炉峰」の話からする必要があろう。
 ある雪の朝、中宮定子(清少納言が仕えていた女性)から「香炉峰の雪はどうなっているの」と謎を懸けられた清少納言は簾を掲げて庭の雪を見せる。
 唐の白居易の詩に「香炉峰の雪は簾を掲げて見る」とあるのを踏まえたやり取りである。
 「ねえねえどれくらい積もってるの?見せて見せて!」
 「じゃーん! お庭真っ白にございます。」
 といやあいいのに、と思った覚えがある。

 これもそんな類の話か、と思ったが、わざわざ教科書に取り上げられるくらいだからきっと若い私の分からなかった面白さがあるに違いない。知らんけど。
 というか、こんな気持ちのままじゃ授業ができない。

 ということで、少し詳しく掘り下げながら見てみたい。

 まず冒頭。
[原文]
 中納言参りたまいて、御扇奉らせたまうに、「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。それをはらせて参らせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、求めはべるなり。」と申したまふ。

 敬語のオンパレードか。だから宮中モノは嫌いなのだ。でも、ここを突破しないと貴族たちの話はさっぱり分からない。頑張るぞ。

 ①「中納言参りたまいて」は中納言にいきなり「参り」という謙譲語と「たまい」という尊敬語が使われている。
 尊敬語は「誰に対しての敬意か」というのが大事だから、もしかするとこの教材はそれを生徒に身に着けさせるために採られたものなのかもしれない。
 中納言は中宮定子のところに来たのだから「参り」=中納言→中宮への敬意、「たまい」=作者(清少納言)→中納言への敬意だな。  
 つまり、「中納言が参上なさって」だ。

 ②「御扇奉らせたまうに」は「御」が丁寧語、「奉ら」が謙譲語、「せ」が尊敬語、「たまう」が尊敬語だ。①と同じパターンで「奉る」と「せ」=中納言→中宮への敬意、「たまう」=作者→中納言への敬意だ。尊敬語が二つ重なる場合は大抵敬意の方向は皇族だからな。
 つまり、「(中納言が)(中宮に)御扇を献上なさって」だ。
 ③「隆家こそいみじき骨は得てはべれ。」は「はべる」が丁寧語だから、隆家がすばらしい(扇の)骨を手に入れましたぞ」というところか。
 ④「それを張らせて参らせむとするに」は「参ら」が謙譲語、2番目の「せ」が尊敬語か。扇に紙を張るのは下働きの人の仕事のはずだから尊敬語じゃないな。最初の「せ」は使役じゃないか?「参ら」と「せ」=中納言→定子への敬意で、中納言の会話文だから作者の敬意は入っていない。
 ということは、「それ(扇)を張らせて献上しようと思うのですが、」という感じだな。
 ⑤「おぼろけの紙はえ張るまじければ、」には敬語はないな。
 「え~まじ」は「~できないだろう」だから、「通り一遍の紙は張れないでしょうから、」くらいか。
 ⑥「求めはべるなり」は「はべる」が丁寧語だから、「求めるのです」か。日本語として変だな。「探しているのです」くらいか。

 よし、現代誤訳。
[現代誤訳]
 中納言が参上なさって、御扇を献上なさるのに、「隆家が素晴らしい扇の骨を手に入れましたぞ。それを張らせて献上しようと思うのですが、通り一遍の紙は張れないでしょうから、張る紙を探しているのです。

 あーっ、面倒くさい。
 多分読むほうも面倒くさいと思うので、残りは何時ものようにフィーリングで行こう。大体敬語の方向は分かったし。

 「いかやうにかある。」と問ひ聞こえさせたまえば、「すべていみじうはべり。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり。』となむ人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ。」と、言高くのたまえば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり。」と聞こゆれば、「これは隆家が言にしてむ。」とて笑いたまう。かやうのことこそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つな落としそ。」と言えば、いかがはせむ。
[現代誤訳]
 定子様が「どんな扇の骨なのですか」とお尋ねになると、中納言は「すべて素晴らしいのです。「全くまだ見たことのない骨の様子です。」と人々は申しますよ。ほんとうにこんな素晴らしい物は私も見ることがありませんでした。」と大声でおっしゃるので、私が、「さては、扇の骨ではなくて、クラゲの骨でしょう。また空言を。」と申し上げると、「面白い。これは私が云ったことにさせてもらうよ。」と云ってお笑いになる。
 このような話は決まりが悪いのですが、皆さんが「一つでも書き漏らしてはならない。」とおっしゃるので、どうしようもありません。書きました。

 はて?(大本営放送協会DHK朝ドラ「鬼に金棒」調で)

 やはり、40数年の歳月を経てもやはり、単なる自慢話にしか聞こえない。

 そんなはずはない。そんな話が教科書に載るはずがない。

 もう一度背景から考え直す必要がありそうだ。

 まずこの段に出てくる「中納言」「隆家」だが、どんな人なのか。

 この当時偉くなっている人は藤原姓が多いので「藤原隆家」でググってみると、ははーん。
 今DHKで放映中の大河ドラマ「引き気味(仮名)」で大活躍のあの人である。

 なるほど。

 これは面白くなって来たぞ。

 それにしてもネットがなかったら藤原隆家についてこれほど簡単に知ることはできなかったし、私がこの段に興味を持つこともなかっただろう。

 やはり「勝つ窓95(仮名)」と「My phone(仮名)」は俺の人生を変えたな。

 ということで、藤原隆家と『枕草子』の関係については次回。


お盆熊本小旅行11-熊本の古い街並み-(河童日本紀行652)

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祖父と父

 最後は私の旅行記・紀行文の例によってオムニバス風に取り留めもなく。

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 子飼の商店街。早朝だからまだどこも開いていない。
 昔は正月の買い物と云えばここだったが。
 亡くなった祖父も父も大晦日になると「子飼の商店街に行ってくる」と云って出かけていた。小さい頃からそれを聞いていたから、私も熊本市内にいるときは年末年始の買い物はここだった。
 ただ、言語聴覚士になってからは熊本市内自体に住んでいないから随分行っていない。市街地に住めるほど金がないしな。

 IMGP5005

 熊本城の長塀の前を走る旧式車両の市電。
 1200型(1205号)と云うらしい。
 私の生まれるちょっと前にデビューした車輛だ。

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 何でも市電開業の直後は今は散策路になっている坪井川沿いの小道を電車が走り、坪井川から水を汲む給水車もあったのだとか。
 市電はスピードがそこまで出ないから色々なもののギリギリのところを走っていることがあるが、川ギリギリというのは見たことがない。今も残っていないのが残念である。

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 洗馬橋で出会った犬。
 飼い主の方が通り過ぎるのを待って橋を撮影しようと思っていたら、ここで頑として動かなくなった。飼い主さんが一生懸命引き摺っているところである。

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 私の中では「これぞ熊本の市電」という車種。
 1060型(1063号)というらしい。
 なんと、現役では最も古い車輛らしい。
 さすが「現役では最も古い男」が「これぞ」と思うはずである。

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 明十橋の近くで見つけた狸たち。
 洗馬橋が近いからだろう。この近辺には探してみるとまだ沢山の狸がいそうだ。

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 そういえば早朝だったからかやたらと猫を見かけた。
 私の一番好きな「茶虎」の子猫である。

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 ここにも猫が。
 これは夏目漱石『吾輩は猫である』のマドンナ猫の三毛子さんである。

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 実は第五高等学校も最初は古町にて創設されたのだという。
 それを私は祖父の詩で知った。
 郷土の詩人だった祖父は非常に多くの校歌を作詞したが、それ以外にも熊本の風物を描いた詩を数多く残している。
 その一つが「古城」という詩である。
 その2番にこうある。

  見よ宝暦の時習館
  明治の洋・医両学府
  次いで五高に新しき
  時代の虹はかかりしを

 古城には江戸時代の熊本藩校時習館、明治初年の熊本洋学校、古城医学校、明治20年からは第五高等学校があった。そして古くから熊本の中等・高等教育を担ってきた大一高校(仮名)が昭和34年に移転し、古城は江戸時代から現在まで多くの若者たちの学びの場となっているのである。

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 近所の寺で見つけた仁王さん。

 仏像を見るたびに思うのだが、どうして仏像と云うのは気高い顔をしたものが多いのだろう。彫った人の顔とは全然違ったりするし、彼の周囲にモデルがいたとも思えない。にもかかわらず、彫られた仏像は明らかに仏性を宿している。人間の中の気高いものが彫刻を通して発現してくるのだろうか。

 もっともこの仁王さんは彫った人の顔そのままという感じの親しみやすい顔であるが。

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 もう1人。
 石彫でこれを作るのは大変だっただろう。それだけでも仏の業という感じがしないでもない。

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 近くの神社には馬もいた。
 写真が下手で伝わらないが、なかなか凛々しい像だった。

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 新町から熊本駅まではいい風情の道が続く。

 今はあちこちで「チャカ(仮名)」という名前のレンタル自転車が借りられるから、これに乗ってこの周辺を回ってみたらどうだろうか。

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 今回はちらっと通り過ぎただけだが、唐人町や細工町などにも昔からの家が残っていて楽しい。

 熊本の旧市街は地震で随分被害を受けたようだが、10年近い歳月を経て漸く元に戻った感がある。

 熊本人の保守性も古い良いものを残すという方向で発揮されれば、この素晴らしい街並みがこれからも人々の眼を楽しませるに違いない。

 最後に、全然関係ないのだが、私にとっては大ニュース。

 自転車を熊本駅まで置きに行ってから家に帰り、汗だくだったので垂玉温泉に行ったのだが、素晴らしい温泉に生まれ変わっていた。お勧めです。というのは「大」の付かないちょっと耳よりのニュースである。

 大ニュースはその後、帰ろうとしたとき。車の前を走っていくものがあったのだ。


 
 動いている猪(ウリ坊)を撮影したのは初めてのことである。大ニュース終わり。
(このシリーズ了)


お盆熊本小旅行10-新町停留場-(河童日本紀行651)

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新町停留場

 さて、この小旅行の真の目的地である新町停留場にやってきた(今思いついたんだけどね)。

IMGP5052

 私はこの電停の存在を知った時から是非一度写真を撮りたいと思っていたのだが、慌ただしい日常に紛れて延び延びになっていたのだ。

 この電停はそれだけ取れば特にこれといった特徴もないのだが、

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 電停のある新町交差点周囲の風景が本当に素晴らしいのだ。

 写真が下手なので今一つ伝わらないのが残念だが、古い民家に隣接し、また反対側には熊本で最古に属する書店がある(残念ながら書店としては既に閉店してしまったが)。

 実に風情のある街である。

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 電車はこの交差点に上熊本方面からやってきて、

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 この交差点で左折して、

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この停車場に停まり、

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そして去ってゆく。

 この、昭和4年(1929)から続いている光景も素晴らしいが、またそのときに電車と石畳の線路が立てる音が何とも云えない風情である。古語で云えば「いみじうをかし」か。

 私が電停に行ったときにはちょうど写真に写っている旧式の車両が来たところだった。
 トイレに行ったついでに明八橋と明十橋周辺をウロチョロしなければ待ち構えてじっくり撮れたのに、残念である。
 ちなみにこの車両は5000型(5014号)と云って、元々は福岡は西日本鉄道(西鉄)で走っていた車輛だそうだ。

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 その後も何台か電車を撮ってみたが、やはりこの電停には旧式車両がよく似合う。

 この停車場の辛島町側の次の電停は先ほど通ってきた洗馬橋だが、上熊本側は蔚山町である。
 熊本県民以外の人のために読み仮名を振ると、「うるさんまち」という。
 北海道の地名のように何か日本語以外の由来ではないかという印象を受けると思うが、まさにその通りで、これは韓国語由来の地名である。

 熊本では「清正公(せいしょうこう)」の名で親しまれている加藤清正は、豊臣秀吉の命により朝鮮時代の韓国に出兵したが、蔚山(ウルサン)という土地で中韓連合軍に包囲されて籠城し、大変な苦労をした。
 この蔚山と清正時代のこの電停周辺の地形が似ており、彷彿とさせたことからこの場所を蔚山と名付けたと云われている。(諸説あり)

 かつては蔚山町という行政区分が存在したのだが、町名変更によって現在では新町の一部になっている。

 大抵の外来語は日本人に話されているうちに日本訛になっていくもので、例えばこの「ウルサン」も漢字を日本語読みして「イサン」になっても不思議ではなかったのだが、原語がほとんどそのままに残されているのは珍しい。

 閑話休題(はなしさかのぼりすぎ)。

 この小旅行での最大の目的は果たした(まだいうか)。

 後は周辺の街を軽く見て回って熊本駅に行こう。



 

お盆熊本小旅行9-明八橋・明十橋-(河童日本紀行650)

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噴火寸前

 大一高校(仮名)の正門前に設置されている古町医学校と熊本洋学校の石碑を読んでいるとき、「何時もの奴」がやってきた。
 そう。父から受け継いだ「急な〇意」である。
 日本の近代化についての思考はどこかに行ってしまい、頭の中を占めるのは「トイレどこ?」という切迫した観念である。

  どこかに美しいトイレはないか
  公衆でも男女別になっていて
  女が男の小用の場面に出くわさず
  男も女も安心して用が足せる


  どこかに美しいトイレはないか
  和式ではなく洋式で
  座る前にウェットティッシュで便座が拭けて
  事後にはやさしいさざめきでお尻が洗える


  どこかに美しい人と水の力はないか
  同じトイレをともに使うエチケット
  蓋を閉めてから流し 流し忘れがなく  鋭い水の力で 残りなく流せる

  清潔なトイレ

 茨木のり子先生ごめんなさい。

 とにかく頭の中はトイレ一色になって自転車を漕ぐ。
 熊本駅には間違いなく公衆トイレがあるが、ここからだと自転車で10分くらいかかる。
 しかも、ここがよく満杯なのだ。
 これまでも何回か電車を降りてから使おうとしたことがあるのだが、ラッシュ時にはまず使えない。
 今から脂汗を流しながら必死で自転車を漕いで行った挙句に満室だったら、絶望のあまりヤッてしまうかもしれない。
IMGP5032

 そのとき、古い橋の袂にこれまたそれに似つかわしい古い公衆トイレがあるのに気付いた(写真は自粛)。

 ドアを開けると、げっ、和式である。
 だが、背に腹は代えられない。
 私は昭和初期に日本を訪れた西洋人宜しく〇〇(自粛)になって〇〇〇〇〇(自粛)。
 
 助かったー!

IMGP5031

 急に心の余裕を取り戻して周囲を見渡す。

 この橋は明八橋というらしい。
 どうも見覚えがある。以前来たことがないか。

 古いブログのアーカイブを調べてみると、間違いない。既にこの橋についてのレポートを作成している。もう10年以上前の記事である。

熊本市時間旅行10-熊本駅まで-(河童日本紀行140)

 最近はこうやって「過去の自分に教えられる」ということが頻繁にある。高齢者の認知特徴かもしれない。

IMG_5948
 

 明八橋は明治8年(1875)に架けられたことに由来するネーミングだそうだ。
 この橋は日本橋や皇居の二重橋を架けたことで有名な橋本勘五郎が建造したと云われている。

IMG_5943

 当時の写真を見てみると、橋の袂に湧水があるようだが、今回見てみても見当たらない。

 そういえば熊本地震のときにこの橋も欄干が倒れるなどの被害を受けたと聞いた。その関係で水が干上がってしまったのだろうか。

 熊本市のHPには親水施設を紹介したページで掲げられた地図にはこの場所があるが、説明書きにはない。もしかすると欄干などと一緒に被害を受けて復旧していないのかもしれない。

IMGP5067

 明八橋の途中に立つと、明十橋が見える。
 明十橋も明八橋と同じく建造年に由来する橋名である。

 150年近く前に架けられた石橋を自動車が通過していくというのもなかなか驚異的な風景である。

 なんと、よく見ると、私が自動車で通勤するときに通るルートではないか。
 今初めて気が付いた。私は明十橋を通って通勤しているのだ。
 私は11年前のブログで「この橋は自動車道路の一部として日常の交通に使われているのがすごい。」と書いているが、何のことはない。私が日常的に使っていたのだ。
「こぎゃんありますもんなー(熊本方言で「この人はこんな(困った)人だからねー」という意味)。」

IMG_5933

 明十橋もまた橋本勘五郎の建造ということだ。

 ということで予定にはなかった名人石工所縁の二つの橋の観光は終わり。
 次は本来先に行くはずだった新町停留場である。



お盆熊本小旅行8.-熊本洋学校-(河童日本紀行649)

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河童バンド 

   熊本洋学校は古城医学校と同じく明治初年に御雇い外国人を指導者に据えて官立として作られた学校である。

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 大一高校(仮名)の正門前に記念碑がある。
 
   指導者の名はジェーンズといった。
 
 設立の目的は日本の近代化を担う人材の育成である。
 
 当時近代化と云えば西欧化と同義であるから、近代化についての最新の情報を得ようと思えば英語ができなければならない。したがって洋学校の主な使命は英語教育である。

  この学校でどんな教育が行われていたかについては、もう10年以上前に詳しく書いたことがある。
 熊本市時間旅行1-私は誰ここはどこ-(河童日本紀行131)

  これは当時この学校で学んでいた学生の回想である。

[下村孝太郎回想]
 洋学校において第一に学びしはウェブスターの「スペリング・ブック」なりき。余初めて先生に就てこれを学ぶ。最初の日a.b.c.d.e.f.の六字を学び三四日して之を卒え、次にba=ベー、be=ビー、bi=バイの章に移れり。余は先生の教の侭にba=ベーと唱うる事は為せども、何故にbとaを、合すれば、ベーという音を発するかを知らず。唯むやみに勉強して之を暗記したり。翌日教場に於て先生生徒を一列に立たしめ之を暗唱せしむ。先生先ずべーと呼べば始めの者ba=べーと答う。若し先生の問を受けて始めのベーを唱えざる者あらば先生直ちに「ネッキスト」と呼び、次のもの之に答う。その答え正しければ後者其席次を前者の上に進む。其速かに答うる能わざるもの及び忘れて答うる能はざるものも又此の例に倣うて其席次を貶せらる。漸く進みて二シラブルの処に至れば一日に四十文字の暗記を課せらる。日々大に苦みたり。然るに先生一日余が次席以下の者を分割し去り、進歩の望みなしとて、之に退校を命じたり。余は為めに戦慄し之より益々励み一字も忘るることなく、其順序さえも暗記することを勉めたり。
[現代誤訳]
 熊本洋学校で最初に学んだ教科書はウェブスターの「つづり方読本」だった。私はジェーンズ先生に付いて初めてこの教科書を習った。最初の日はaからfの六字を学び三四日でこれを終わり、次にbに母音が付いた綴りの発音の章に移った。私は先生の真似をしてbaの綴りをべーと発音することはできたが、何故aとbを合わせればべーと発音するのかは分からなかった。ただむやみに勉強してこれを暗記した。翌日教室で先生は生徒を一列に立たせてこれを暗唱させた。先生がまずべーと言うと、最初の者が「べー。baはべー。」と答える。もし先生の質問を受けて最初の者が答えられないと、先生はただちに「次!」と言い、次の者が質問に答える。その答えが正しければ、正解した者が席次を答えられなかった者より上位に進める。すぐに答えられなかった者や、忘れて答えられなかった者はこのルールによって席次を下げられる。だんだん進んで2音節のところまでくると、一日に40文字の暗記を義務付けられる。毎日とても苦しかった。ところがある日、先生は私の次の席次以下の者をクラスから分け、「進歩の見込みなし」として退学を命じた。私は震え上がってますます勉強し、一字も忘れることなく、どこに何があるかさえ暗記するために努力した。

 「なぜそうするのか」ということを教えずに暗記させ、できなければ切り捨て、という今から見れば凄まじい教育である。

 私は高校時代にこういう教育を受けたおそらく最後の世代ではないかと思う。

 というのは、私は先生たちから所謂シラバスの説明を受けた記憶がないし、授業の始めに「今日の授業はこういうことをする」という概略を説明された記憶がないからだ。

 また、こうした授業の習熟度を測る試験の成績は1番から最下位まですべてが校内に掲示されていた。
 明治から100年以上経っていたからいきなり退学というわけではないが、いきなり最下位の順位を公表される生徒の心中を惻隠するに、現在においてもやはり怵惕するしかない。

 それでも大抵の生徒は厳しい修業を続けているうちに、「これはこういう意図でされているのではないか」と悟っていく。
 私は国・社・理に関してはそれができた。
 だが、英語や、特に数学に関しては、先生の意図が分からないままに授業を受け続け、やがて「お客さん」になっていった。
 私が高校時代を過ごした1970年代に所謂「進学校」に進んだ生徒は多かれ少なかれそうした経験をしたのではないだろうか。

 意図・目的に関する説明は特にその科目・教科が苦手な生徒・学生に対してはとても大事なことなのだが、教師も人間だからついそれを怠ってしまうことがある。
 しかし、ジェーンズは明治時代の人だから仕方がないとしても、現代の私達は決して怠ってはいけない作業だと思う。苦手な生徒・学生にしたら、「何でこんなことしなければならないんだ」という気持ちを常に抱えているのだから。

 それにしても私の場合は実に半端な得手不得手である。
 せめて国・数・英が得意だったら国公立の受験に有利だったろうし、国・英・社とか、数・英・理が得意だったら私立文系や私立理系の受験に有利だったろうに。

 ここでキーポイントになるのは英語なのだが、これについてはまた今度(といいつつ忘れちまうんだよな)。
 私の生涯の後悔点はこれかもしれない。

 閑話休題(そろそろほんだいにもどらないとどくしゃがねてしまうぞ)。

   ジェーンズの教え子たちは当時10~15歳くらいなのだが、熊本市の花岡山で「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す(現代誤訳:最終的にキリスト教を日本に広め、無知な大衆を導こう。)」という、「奉教趣意書」を誓約し、それが元で熊本洋学校は閉鎖されてしまう。

 今から見ればこの学生たちは相当の「困ったちゃん」である。
 ある意味閉校は当然と思えなくもない。

 「熊本バンド」と云われたこの集団はこの後熊本を離れて上洛し、ガラパゴス英学校(仮名:後のガラパゴス大学)に大量転入する。
 そしてジェーンズの厳しい淘汰教育により鍛えられたバンドメンバーは県外でもその能力を遺憾なく発揮した。

 徳富蘇峰などはその後も再び「困ったちゃん」ぶりを発揮してストライキ騒動を起こして退学してしまうが、海老名弾正や下村孝太郎・加藤勇次郎・横井時雄のようにガラ大の中心メンバーになったり、辻豊吉や浮田和民・松尾敬吾のように他校の教師として活躍したり、金森通倫や亀山昇のような宗教家になったりと、その後の日本の近代化に大いに貢献することになる。

 その影響力を考えれば、熊本バンドがいなければ今日のガラ大の隆盛はなかったと云っても過言ではない。

 それにしても古城医学校については隈本大学医学部のご先祖様であるという記述があちこちで見られるにも関わらず、熊本洋学校が隈大文学部のそれであるという記述は一切見られない。
 実は両校は似たような設立と閉校の経過を辿っているのだが。
 医学校については「袖振り合うも他生の縁」、洋学校については「縁なき衆生は度し難し」という訳か。

 この辺り、有名人や功績者は他家の人でもいつの間にか取り込まれ、何かやらかした人はいつの間にかいなかったことにされる所謂家系図と似ているのかもしれない。

熊本お盆小旅行7-古城医学校-(河童日本紀行648)

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マンスフェルト

 洗馬橋電停から「大一高校(仮名) 」に向かっていくとそこが古町である。
 何せ「古い町」と書くくらいだから熊本でも最古の街並みなのだろう。
 もちろん城下町である。
 大一の構内からは熊本城の姿を見ることが出来る。
 細川藩の家老屋敷などがあったそうだ。


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 正門近くには医学校跡であることを示す記念碑がある。
 古城医学校。
 阿蘭陀の医師マンスフェルトを指導者とした熊本最古の西洋医学の医師養成校である。

 ここは私達熊本の医療人にとっての聖地である。

 と、大見得を切ったが、熊本の医療人の大部分がこの医学校を知らないだろう。

 というのは、この学校は明治4年(1871)に創立されたものの、明治7年(1874)に国費の打ち切り、さらに明治8年(1875)には県費も打ち切りとなり、民間の有志によって細々と運営された。その間の名称が「北岡仮病院教場」であるのが象徴的である「仮」の学校なのだ。そして明治24年には閉鎖される。

 さらに県は明治9年(1876)に新たに別の県立医学校を開校しているから、古城医学校が熊本の医学教育の中心であったのはごく短期間なのだ。

 明治初年に熊本にあった学校にはこうした運命を辿ったものが多い。

 有名なのは「県立熊本中学」である。

 「え、肥後高校(仮名)になって今でもあるじゃん?」と大半の人が思うだろう。
 だが、肥後高校は県立熊本中学の後嗣であって、県立熊本中学とは縁も所縁もないのである。
 何を言いだすんだこいつは、と思った人のために簡単に説明する。

 県立熊本中学は前身の千葉中学校として明治9年(1876)に創設される。明治10年(1877)に西南戦争で焼失するが、明治12年には熊本中学として再建される。これは県立師範学校に併設されたから、まごうことなき県立中学である。
 ところが、この県立熊本中学は明治21年(1888)突然廃校となる。
 これは当時県議会の多数派を占めていた国権派(紫溟会)が県予算の成立を拒否したからで、兵糧攻めに遭った県立熊本中学は廃校に追い込まれたのである。生徒は全員退学となったらしい。
 これに先立つ明治12年(1879)、国権派は既に自分たちの理念に基づいた私立の中学校を設立していた。同心学舎である。
 明治34年(1901)、既に実質的には県立扱いだった同心学舎は名実ともに県立中学となる。これが現在の「同心学舎高校(仮名)」である。
 明治33年(1900)に設立された第二同心学舎はその後県立熊本中学と改称する。これが現在の「肥後高校(仮名)」である。
 「肥後高校は県立熊本中学の後嗣であるが、県立熊本中学と何の関係もない、というのはそういう意味である。
 最初の県立熊本中学が潰されたのはここに通う生徒に民権派の子弟が多かったかららしい。

 国権派と民権派の争いは実は幕末に遡る。
 藩校時習館に拠る主流派である学校党(守旧派)と横井小楠などの実学党(改革派)である。
 明治維新によって熊本の県政の主流をなしたのは最初実学党であり、明治初年に設立された学校は実学党系列のものが多い。これは維新革命に際して実学党が与って力があったからであろう。
 しかし、何せラフカディオ・ハーンから「九州は、古くから日本の最も保守的な地方であり、その中心である熊本市は保守的な気分の横溢したところである。」と云われた県民性であるから、時間の経過とともに守旧派が息を吹き返す。
 もちろん単線的につながる訳ではないのだが、学校党→国権派、実学党→民権派という形で思潮が受け継がれていった先に実学党系列の学校への冷遇があったのは間違いない。

 これには明治政府の財政的な苦衷も関係していたらしいが。

 碑文やネットの情報では古町医学校を隈本大学(仮名)医学部の前身として紹介しているものが多いが、こうした経緯を考えれば少々無理がある。
 古城医学校は日本細菌学の父で1000円札にもなった北里柴三郎、日本産婦人科学の始祖浜田玄達、日本公衆衛生学の父緒方正規など錚々たる面々を輩出しているから、ここからの水を我が田に引きたくなるのは人情として分からなくもないところではあるが。

 正確に記せば、

 古城医学校は明治4年(1871)官立的な学校として創始されたが、短期間での公費の引き揚げにあって民間の努力により北岡仮病院教場として存続した後、明治24年(1891)に廃校となった。後を引き継いだ組織は存在しない。

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 古城医学校と同じ敷地内にあった熊本洋学校もほとんど同じ経緯を辿るのだが、これについては次回。

熊本お盆小旅行6-洗馬橋異聞-(河童日本紀行647)

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洗馬橋異聞

 隈本大学(仮名)にある五高記念館を外側だけ、あるいは周辺にある銅像・石碑だけ見学した私は、そこから自転車で20分ほどの距離にある洗馬橋電停付近までやってきた。

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 熊本では洗馬橋といえば狸である。

  これは「あんたがたどこさ」という童謡(手毬歌)に由来している。
[原文]
 あんたがたどこさ♪ 肥後さ♪ 肥後どこさ♪ 熊本さ♪ 熊本どこさ♪ 洗馬さ♪
 船場山には狸がおってさ♪ それを猟師が鉄砲で打ってさ♪
 煮てさ♪ 焼いてさ♪ 喰ってさ♪ それを木の葉でちょっとかぶせ♪

 おそらくこの歌詞によるものが最もポピュラーに歌われていると思うのだが、別バージョンもあるらしい。
 それは「狸」が「蝦」になっているものだ。
 つまり、「船場山」から後が、

 船場川には蝦がおってさ♪ それを漁師が網さで採ってさ♪

となる。

 さらに、「それを木の葉でちょっとかぶせ」ではなく、「うまさのさっさっさー」になるバージョンがある。

ということは、ポピュラーと一番違うバージョンは

 船場川には蝦がおってさ♪ それを漁師が網さで採ってさ♪
 煮てさ♪ 焼いてさ♪ 喰ってさ♪ うまさのさっさっさー♪

となるわけである。(情報源は主にWikipedia。)

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 洗馬橋の親柱(欄干の両側の柱)は辛島町側は写真の通り狸の宝珠なのだが、古町側は蝦の宝珠である。

洗馬橋

 ご覧の通り。(当日撮りそこなったので写真はWikipedia。)
 これは蝦バージョンを意識して万一(何の万一か分からないが)に備えているものと思われる。

 ただ、私はこの付近に来るたびに不思議に思うことがある。
 それは狸か蝦か、という話ではなくて、船場山とは何処だろうか、という疑問である。

 この近辺にはどう考えても「山」と云えるような大きな隆起はないのである。

 ここから今は「大一高校(仮名)」になっている丘陵まで登っていくにはちょっとした坂道で、私のような年寄りには自転車で行くにはかなり応えるかも知れないが、高校生たちはこの程度の坂はスイスイ登っていくだろう。

 また、この坂道を通らないとすると、ここから新町まで行くのに何のアップダウンもない。ごく平坦な道である。
 逆に辛島町に行くにも何の上がり下がりもない。真っ平な道である。

 もしかすると蝦バージョンは私のような疑問に応えて出現したもののような気もする。

 Wikipediaには非常に魅力的な説が提起されている。
 それは、この童謡は肥後人と武蔵人(埼玉人)のやり取りだとする説である。
 つまりこの童謡は戊辰戦争で東上してきた肥後の兵隊と、武蔵の子供のやり取りで、ここに登場する「せんばやま」は熊本の「船場山」ではなく埼玉は川越の「千羽山」だというのだ。

 確かに歌の中のやり取りを熊本人同士のものだとすると、最初のやり取りの「あんたがたどこさ」「肥後さ」という部分は不自然である。熊本人でない人が「あんたがたどこさ」と聞いたからこそ「肥後さ」と答えたと考える方が自然だ。

 また、この歌は熊本方言ではない。関東方言である。熊本方言には「~さ」という終助詞で終わる言い方は存在しない。現在では東京方言の影響でこうした言葉遣いをする若者も普通に存在するが。

 ただ、この説の弱点は文献的裏付けがないことで、肥後藩の兵隊が川越まで行ったという記録がないのだ。
 したがって説としてはとても面白いのだが、Colleda!という決定打ではない。

 そうこうしているうちに「船場山は実在した!」という情報が熊本人に発掘された。
 なんでも加藤清正が熊本城を築城した際、内堀として掘削された坪井川の土を川沿いに積み上げ、その土塁を「船場山」と呼んだのだという。

 本当か? そんなところに狸が棲み着くだろうか。
 しかも市街地で発砲しちゃってるし。あぶねー猟師である。

 何だかどちらの説も我田に水を引くごとき感じがしないでもない。
 兎に角、たかがわらべ歌なのだからあまり感情的にならないようにお願いしますよ。

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 何はともあれこの辺りには趣向を凝らした狸の置物があちこちに存在する。

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 そして洗馬橋電停に電車が到着すると「あんたがたどこさ」の曲が流れる仕組みだ。

 発祥がどこでも歌の舞台が熊本であることは間違いないのだし、ここは素直に「狸の街」を楽しめばいいのではないかと思う。(私が一番こだわっている気もするが。)

熊本お盆小旅行5-小泉八雲と五高-(河童日本紀行646)

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小泉八湖

 隈大(仮名)のキャンパス内には夏目漱石の他にもう一人、国民的な文学者と第五高等学校の関係を示すモニュメントがある。

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 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)である。
 なぜ左を向いているかといえば、幼少の頃失明した右眼を嫌い、写真に写らないようにしていたということだ。


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 この人のことを知らない人のために碑文を紹介しておこう。

[碑文]
 ハーンは明治24年(1891)11月から約3年間旧制五高教師を務めた。この間長男一雄が誕生し、日本に関する最初の著書『知られぬ日本の面影』が出版された。ここ五高を舞台にした作品には『九州の学生とともに』『柔術』『石仏』などがある。
 ハーン没後百年祭を記念して製作されたこのレリーフは多くの方々からのご好意によって実現したものであり、ここに末永くハーンを顕彰するものである。
 石碑の英文は『極東の将来』と題して明治27年1月に行ったハーン講演の結語の一部で、「日本の将来は無益な贅沢、華美を捨て、質実、簡素、善良を愛する九州魂、熊本魂の維持如何にかかっている」と刻まれている。
ハーン・レリーフ設立実行委員会
平成16年(2004)9月25日

 「知らない人のために」と書いたが、これはハーンについて自明の人のための文章のような気がするので、この人について簡単に紹介する。

 小泉八雲、本名ラフカディオ・ハーンは、明治時代に雇われ外国人として来日したギリシャ人だが、日本をこよなく愛し、日本女性と結婚し、日本の土となった人である。日本国籍を取得してから小泉八雲と名乗った。

 最初の赴任地は1891年島根県の松江であり、島根師範学校で英語を教えた。
 ここで日本人女性と結婚してから1891年熊本にやってくる。
 熊本にいたのは3年ほどで、神戸で一年ほど記者職をした後、東帝大の英文科の講師になって死の一年前までその職に留まり、晩稲大学(仮名)の講師在職中に亡くなる。

 ハーンの業績は日本における初期の英語教育への貢献もさることながら、日本を題材にした創作活動によって日本を世界に紹介したという部分が大きい。

 数ある作品の中でも有名なのは『耳なし芳一』の話であり、私は一度これを翻案して学生たちに語り聞かせたことがある。
 耳なし芳一-住職はどこへ-(笑えない夜のために24)

 熊本に題材を採ったものとしては『停車場にて』があり、これも一度紹介したことがあるが、ハーン在熊当時の熊本市や熊本人の雰囲気が窺い知れる貴重なレポートでもある。
 熊本市時間旅行6-小泉八雲旧居-(河童日本紀行136)

 二番煎じを飲んでもらうのも気の毒なのでここでは別にやはり熊本に題材を採った『九州の学生たちとともに』を紹介しよう。
 これもまたあの便利な「青空文庫」で読んでもらうことが出来る。

 この話にはハーンと学生たちの対話や課題に対しての学生たちの作文などが多く収録されているので、熊本人や五高の学生の考えていたことが具に理解できる。

 冒頭ではまず九州人および熊本人の一般的特徴が述べられる。

 「九州は、古くから日本の最も保守的な地方であり、その中心である熊本市は保守的な気分の横溢したところである。」
 「熊本人は他のところでは大方は忘れられた行為の伝統に固執しており、また話し方や行動の、ある独特の開放感によって特徴づけられているとも言われている。」
 「ここ熊本はまた、加藤清正公の堅固な城の威光の下に国を思う意識、つまり国への忠誠心や愛国の精神は首都東京よりもはるかに強いとさえ言われている。熊本はこれらを自負し、その伝統を誇りともしている。事実、他に自慢するものはないのだが。」

 令和の熊本人について書いた文章のようにすら見える。書いている私も間違いなくこうした気質を持っている。
 何だか必死で良い所を探しているようにも見えるし、褒めようとしても言葉の端々に-特に引用の最後の一文など-嫌悪感が滲み出ている感じもある。

 また、街の様子についても、

 「熊本の町はだだっ広く点在しており、また単調で雑然としている。」

と、どう考えても良く思っていない。

 ハーンは大好きな出雲から熊本に来てかなりがっかりしたらしい。熊本は当時九州の中心地だから(何気なく書いているが他の九州人は絶対認めないだろうな。でもハーンもこの文章の中でそう書いている。)、八雲の好きな「古い日本」は急速に失われつつあった。友達に向けて「嫌い」とさえ言っている。

 この後は学生たちが書いた作文や学生たちの対話が紹介されている。
 当時の学生たちの生の声なので、なかなか面白い。

 私が印象に残ったのはギリシャ神話について学んでいるときのある学生の発言である。

 アメデートスという王に自分が死なない代わりに両親を死なせろと神が要求した時、彼の妻がその要求に従って死んだという話について、次のように発言した。

 「なぜ西洋人はこの話を美談と考えるのでしょうか? 私たちには理解できません。それには私たちを憤慨させるものがたくさんあります。というのは、この話を聞くと、自分たちの両親のことを思わないではいられないからです。明治維新以来、しばらく多くの困難がありました。しばしば両親たちは飢えていました。けれども、子どもたちにはいつも十分な食べ物がありました。時として彼らは生活するためのお金にも事欠きました。なのに、私たちは教育を受けています。要するに、私たちが教育を受けることは両親に費用を掛けることです。私たちを育てるのに大変な苦労と困難とがあったにもかかわらず、親たちはあらんかぎりの愛情を注いで育ててくれました。愚かだった子ども時分には両親に至らぬ心配をかけたこともあります。このため、私たちは両親らに決して十分に報いてはいないと思っています。このような訳で私たちはアドメートスのような話は好きになれません。」

 親子の関係とお互いに対する考え方が現代の熊本人と極めて似通っているのに驚く。
 今でも親子関係について水を向けると、非常に多くの生徒・学生が、反抗期を抜け出してからだが、この明治の学生と同じような発言をする。
 多くの親が自分が犠牲になってでも子供に高い教育を受けさせようとするのも同様である。

 このレポートの中でハーンは秋月胤永(あきづきかずひさ)という同僚教師について次のように述べている。

「本校の老齢の漢文の先生は生徒の誰からも尊敬されている。若者に対する影響力はすこぶる大きい。彼の一言で怒りの爆発を鎮めることが出来る。また微笑めば気高いものへと気持ちを向けさせることができる。というのは、彼は、青年たちが理想としている、かつての剛毅、誠実、高潔といったすべてのもの―「古き良き日本の魂」―を体現しているからである。」
「封建制度がその存亡を掛けて最後の戦いを挑んだとき、彼は藩主の命を受け、恐るべき戦に参戦したが、この戦には藩士たちの夫人や小さい子どもすら加わっていた。しかし旧来の勇気と刀のみをもってしては戦争の新しい戦法には太刀打ちできなかった。会津藩の兵は破れた。彼は戦争を指揮した一人だったので国事犯として終身禁固の囚われ人となった。」
「しかし、勝者である官軍・新政府は秋月氏を評価した。彼が名誉を賭けて戦った当の相手である政府は、新しい世代の若者たちを教育してくれるように彼に要請した。老先生は若手の先生たちから西洋の科学や言語を習った。しかし、彼は、中国の賢人たちの永遠の英知―忠義、名誉それに人間を形成するすべてのもの―を教えている。」

 秋月胤永、本名悌次郎(ていじろう)。こういう人を「ラスト・サムライ」というのだろう。
 同名の映画が米国人によって製作されてそれを見に行ったとき、心の底からがっかりしたことがあったが。

 没年から計算するとこのとき62歳。なんと、現在の私と同じ年齢ではないか。
 私も漢文を教えているが、到底こんな人格ではない。

 尻尾を巻いて逃げるしかない。

 ということで、五高記念館からさようなら。

 次回は洗馬橋付近のレポートである。  

熊本お盆小旅行4-夏目漱石と五高-(河童日本紀行645)

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夏目枕流

 隈本大学(仮名)キャンパスの中にはあちらこちらに第五高等学校の痕跡が残っている。

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  この、「漱石」と書かれた銅像もその一つである。
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 銅像の隣には記念碑がある。

[碑文]
 それ教育は建国の基礎にして、師弟の和熟は育英の大本なり。
明治30年10月10日 教授 夏目金之助
[現代誤訳]
 そもそも教育は建国の基礎であり、師弟が仲良く親しみ合うことは教育の根本である。

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 また、句碑も建てられている。
 正岡子規に宛てて送ったものらしい。

 漱石のこの俳句もまた前回紹介した「易水流れ」と同じく、「私は今こんなところにいるが、志は天下を動かすほどに大きいのだ」という気持ちの現れているものだ。

 漱石は明治29年(1896)、英語の教授として五高に赴任する。
 漱石は東帝大(仮名)卒業後、東京高等師範学校、松山中学でそれぞれ教鞭を執るも、それぞれ1年間で辞職して熊本にやって来る。漱石の生涯の宿痾である「神経衰弱」がこの頃悪化していたらしい。
 漱石は熊本で5年間を過ごしているから、比較的安定した精神状態だったようだ。

 ただ、5年間で6回転居しているから、落ち着かない部分もあったのだろう。

漱石転居

 図は転居先一覧であるが、五高よりかなり離れた熊本の旧市街を転々としていることが分かる。
 赴任直後に住んだ家は①のすぐ近くだったらしいが痕跡もない。
 その後、

①中央区下通光琳寺
②中央区坪井2丁目(合羽町)
③中央区新屋敷町(大江村)
④中央区川井淵町
⑤中央区内坪井町
⑥中央区北千反畑町
の順に転居していったらしい。

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 このうち5番目の住居は現在夏目漱石記念館になっている。残念ながらこの日は朝が早かったのとお盆だったので中には入れていない。

 五高での漱石はどんな先生だったのだろうか。
 それを窺い知ることができるのは赴任2年目に行われた五高の創立記念式典での漱石の祝辞である。これは天水町の峠の茶屋に掲げられている。

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[原文]
 本日本校創業の記念日に当たり、我等もいささか所感を述べ、併せて諸子に告げ、以て今日の祝詞とせむ。 それ、教育は建国の基礎にして、師弟の和熟は育英の大本たり。師の弟子を遇すること路人の如く、弟子の師を見ること秦越の如くんば、教育全く絶えて国家の元気沮喪せむ。諸子笈(きゅう)を負いて斯校に遊ぶ。必ず〇
に校舎を以て吾が家となすの覚悟あるべきなり。〇然らすぞ。放逸喧擾妄に校紀を繚乱せば我其の心と学校との間白雲千里なるを見る而已。それ天人一体自他無別と云えり。斯くならでは学校の隆盛は期しがたきぞかし。されば、此の記念日も往きし昔の忘形見にぞ。一日歓楽を尽くすも、蓋し此の校を光大にぞ聖恩に報い奉らんとて也。況や今日は国家汲々の時なり。濫費の日に多きは内憂なり。強国の隙を窺うは外患なり。思うて茲に至れば寝食も安からぬことなり。殊に意志薄弱の徒は人の色を見て秤り利の多少を聞きて貪る。恰も浮草の如し。豈に〇歎の限りならずや。諸子能く此に眼を着け規則遵奉、校友相和し、務め学び勉めば唯本校の面目なるのもならず、我が国家の幸福なり。諸子今学生たりと雖も、其の一挙一動は即国家の全局に影響するなり。佐久間象山歳四十にして斯〇の天下に関する事を知るといえり。象山の人傑にして始めて然るにあらず。中等の人士も然り。下等の匹夫匹婦も又然り。則って学校一致の観念なきは其の校全体の破綻にして、亦国家教育の凌夷なり。懼れて戒めざるべけんや。是を祝規とす。諸子これを諒せよ。
明治三十年十月十日
第五高等学校教員総代 教授夏目金之助 
[現代誤訳]
 本日わが第五高等学校創業の記念日にあたり、私たち教師もすこし考えを述べ、あわせて君たちに告げ、それを本日の祝いの言葉としたい。
 そもそも、教育は国家を成り立たせる基本であって、先生と生徒の良い関係は教育の大本である。 先生の生徒への態度が行きずりの人に対するもののようで、生徒の先生を見る目が遠い国の人をみるようであれば、教育は大失敗して国家の元気はすっかりなくなってしまうだろう。
 君たちは遠く故郷を離れて五高で勉学している。だから、五高の校舎が自分の家であるというくらいの覚悟が必要である。
 残念ながらそうではない。遊びまわったり喧嘩騒ぎを起こしたりしてみだりに校則を破るのであれば、自分の心と学校の間は果てしなく遠いことになる。そうではなく、学校と心を一つにしなければ、学校が盛り上がることはないだろう。本日の創立記念日は過去の栄光の賜物である。この一日を盛大に祝うのも、五高の栄光を築き聖恩に報いようとするからである。
 ましてや現在は国家が困難な時期である。無駄遣いが多いのは国の内憂である。強敵が日本を狙っているのは国の外患である。このことを思えば本来ならば夜も寝られないところである。
 特に志の低い輩は他人の顔色を伺って利益の多少だけを考えてそれを貪る。まるで浮草のようだ。情けない話ではないか。
 君たちは校則を遵守し、 校友と協力し、勉学に励んでほしい。そうすれば我が五高のためになるだけでなく、国家にとっても幸福なことだろう。
 君たちは学生ではあるが、君たちの言動の全てが国家に影響を与えるのだ。 
 佐久間象山は年齢40にして天下のことを知っているといわれた。象山のような偉人だからできたことではない。志があれば、平凡な人間にでもできることなのだ。
 そのような学校全体の一致した観念がなければ、学校全体が破綻し、ひいては国家が侵略に遭うことであろう。
 以上を祝いの言葉とする。諸君に是非しっかり考えていただきたい。

 隈大キャンパスにある石碑の「それ、教育は建国の基礎にして、師弟の和熟は育英の大本たり。」という碑文はここから採られているのが分かる。

 それにしても、およそ祝辞とは思えないような厳しい言葉が並んでいる。

 一言にすれば「酒飲んで騒いでばかりいずに勉強しろ!」である。

 漱石は旧制高校のバンカラ気風があまり好きではなかったのかもしれない。
 
 また、大正15年(1926年)の五高vs七高の野球の応援を巡る乱闘騒ぎなどを見てみると、折角の漱石の苦言もあまり効果はなかったようだ。

 ただ、漱石は熊本時代に想を取った小説「草枕」「二百十日」「三四郎」などを残しているから、元々メランコリックな性格の漱石にしては比較的楽しい日々だったのかもしれない。


熊本お盆小旅行3-武夫原頭に草萌えて→易水流れ-(河童日本紀行643)

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ああ大成寮

 やはり旧五高の校舎は良かった。
 私はその周辺をもう少しウロウロしてみることにした。

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 「武夫原頭に草萌えて」と書いてある石碑を発見。
 これは第五高等学校の校歌だったと思う。

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 また弊衣破帽の学生のレリーフが。

 ところがこの歌、校歌ではないのだ。

 元々日本の高等教育学校で校歌がある学校と云うのはあまりないらしく、例えば大学では元農学校だった北帝大(仮名)だけで、残りの大学には「学生歌」あっても校歌はないらしい。

 そして旧制高校においてもその学校の歌として有名なものは校歌ではなく多くはその高校に設置されていた学生寮の歌である寮歌だということだ。

 したがって前述の私の「武夫原頭に草萌えて」は「校歌だったと思う」というのは事実誤認であって、この歌は五高の寮歌なのである。

 そして前回書いたように予科・本科だけでなく工専・薬専・医専も併設していた大所帯である五高には学生寮も一つではなく、かつ「肥後の鍬形」と云われる県民性のためか、歌われる寮歌も一つではなく、

「それ北韓の」(全寮寮歌 明治39年)作詞:吾妻耕一「易水流れ」(南寮寮歌 明治39年)「野に歓楽の」(全寮寮歌 明治42年)「ボルガの水に」(寮歌 大正10年)作詞:松村基樹 作曲:田村虎蔵「春玲瓏の」(寮歌 大正11年)作詞:小川久雄 作曲:紙恭輔「柏葉春の」(寮歌 大正12年)作詞:大島大 作曲:山田耕作「嗚呼金鏡の」(寮歌 大正13年)作詞:安永成一 作曲:帆足孝文「憧憬湛ふ」(第35回記念寮歌 大正14年)作詞:光武文男 作曲:緒方正弘「椿花咲く」(寮歌 昭和5年)作詞:中井正文 作曲:金堀伸夫「興亡の民族」(寮歌 昭和15年)作詞:後藤松男 作曲:緒方久雄「流星い逝き」(寮歌 昭和16年)作詞:細川清春 作曲:江下博彦

と云うように実に多種多様な寮歌が歌われており、その中で「武夫原頭に草萌えて」が最もよく歌われていた寮歌であった、というのが実態らしい。

 私は正直「武夫原頭」の歌詞を見ても血沸き肉躍る感興が湧いてこないので、これらの寮歌の中で一番自分の中でグッと来るものを紹介したい。

[原文]
 易水流れ

 易水流れ寒うして 曠原草は枯れはてぬ 見よや龍南龍は臥(ふ)し 鉄腕撫(ぶ)する健児あり

 西海月の清(す)むところ 武夫原頭に書を抱いて 鳴かず飛ばずにここ暫(しば)し 鼓空(こくう)の翼養わん

 仰がば蘇峯(そほう)ふさば画津(えず) 我眼に見じな濁と汚と歌わば人を醒ますべく 泣かば熱涙(ねつるい)色も濃く

 羽色そろわぬ大鵬(おおとり)の 胸の思いにたぐえつつ 青春夢も幸(さち)はあり 通うもゆかし告天歌(こうてんか)

[現代誤訳]
 秦始皇を暗殺しようとした壮士荊軻が皆に別れを告げた易水の畔は流れと共に吹く風は寒く、荒れ野の草は枯れ果てている。
 見てみるがよい。ここ五高に進学してきた龍の子供たちは龍田山の麓の白川の流れに臥し、自らの鉄腕を撫でながら天に駆け上る機会を窺っている。
 有明海の空に輝く月の光が澄んでいるこの熊本の地で、黒髪の学舎で3年間学問に没頭しつつ、空に飛び立つ日のために翼を鍛えよう。
 仰ぎ見れば目に入るのは雄大な阿蘇の五岳、地上を見れば清流滔々たる江津湖と嘉瀬川、眼に映すまい、濁世と汚辱と、それがあってこそ我々は歌えば人を覚醒させ、泣けば鬼神をも心を動かしめるのだ。
 まだ羽根生えそろわぬ雛鳥時代の大人物と、胸に抱いた思いを通わせ、青春の夢を共有する幸せを噛みしめ、学び舎に通うのも嬉し恥ずかし。雲雀の声のように天まで届け私達の歌。

 この歌は作詞作曲者不詳のようである。

 まず、五高に進学してきた作詞者は、そこが余りにも田舎であるために吃驚したらしい。何せ「風蕭々として易水寒し。壮士一度去って還らず」という、『史記』荊軻列伝を想起したのだから。あるいはこの人独特のユーモアかもしれないが。「あんまり田舎で吃驚したよ。」というような。これは都会から当時の熊本に来た人の共通する感想だったかもしれない。

 次に作詞者は五高で学ぶ自分たちを臥龍に喩えている。「臥龍」というのは不遇の環境でじっと機会を待っている大人物のことである。歴史上の人物では中国三国時代蜀の諸葛孔明がこう呼ばれた。「鉄腕を撫す」も同じような意味で、本当は揮うべき能力があるのにその機会を与えられず、腕を摩りながら活躍の機会を待っている状態だ。

 さらに「3年鳴かず飛ばず」という故事を引っ張り出す。

 これは『史記』の「楚世家」に元ネタがあった話で、高校生には模試などで『十八史略』中のエピソードとして登場して来る話だ。
 楚の荘王は自らの即位直後に政変に巻き込まれたため、「諫言したら殺すぞ。」と家臣たちに宣言して遊び惚けること3年に及んだ。
 そこに忠臣が語りかけた。この忠臣が誰だったかについては諸説あるようである。

[書き下し文]
 鳥有りて阜(おか)に在り。三年蜚(と)ばず鳴かず。是れ何の鳥ぞや、と。
[現代誤訳]
 鳥が丘にとまっている。この三年のこと飛びもしないし鳴きもしない。これは一体どんな鳥でありましょうか。(ええかげんにしなはれ。)

 王が答えて云った。

[書き下し文]
 三年蜚(と)ばず、蜚(と)ばば将(まさ)に天を衝(つ)かんとす。三年鳴かず、鳴かば将に人を驚かさんとす、と。
[現代誤訳]
 三年飛ばないのは機会を伺っているのだ。飛べば一気に天の果てまで行くだろう。三年鳴かないのも機会を伺っているのだ。鳴けば皆が吃驚するだろう。(あとちょっとだけまっとってくれ。)

 寮歌の作詞者は単に故事成語を思い出させるだけでなく、原文にない「鼓空」という言葉を使っている。つまり、一旦飛び立ったら天空を太鼓の音のように震わせる強い大きな翼を養っているのだと。

 私の勝手なバイアスかもしれないが、作詞者は熊本の人ではないような気がする。
 都会から汽車に乗って春日駅(熊本駅)に降り立ち、乗合馬車で黒髪まで来た時の大きなショックがこの歌を創作する強いモチベーションになったのではないか。まさに知らんけど。

 「あいつ、一高落ちて五高行っちゃったらしいよ」とか、「あいつ、三高駄目やったんやて。熊本に都落ちらしいで」という同級生の声が聞こえてきそうである。違ってたらごめんなさい。

 「不本意入学」という、私自身が何度も経験した言葉が脳裏をよぎる。

 私が誤解に基づいて勝手に変な感情移入をしているだけかもしれない。だが、何となくそんな気がしてならない。

 作詞者はその後東帝大(仮名)に合格したのだろうか。
 ストームで酒ばっかり飲んで歌ってばっかりいたら花の都に戻れないぞ。

 頑張れ、受験生。
 って、100年以上前の話だからとっくに勝負は付いているが。

 
 





熊本お盆小旅行2-五高記念館-(河童日本紀行642)

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バンカラ中学生

 連休が始まってから3日後、私は停めてある自転車を熊本駅まで返すため、立田口駅に降り立った。

 この駅までの交通手段は勿論電車である。私は自宅近くの駅から熊本駅まで通勤定期を持っているのだ。

 通勤定期

 最近は本当に便利な世の中で、この定期は「スゴイカ(仮名)」というカードに入っていて、このカードで「酷鉄(仮名)」の列車に乗れるだけでなく、市バスや市電にも乗ることができ、また現金をチャージすると支払いのカードにもなるのである。

 駅の駐輪場を見渡すと、私の自転車が3日前に置いたままの場所にある。
 もしかすると邪魔になってどこかに整理されてしまうのではないか、と一抹の不安があったのだが、大丈夫である。

 熊本駅までサイクリング開始。

 3日前に経験した通り、この区間で全く寄り道をしなければ大体30分くらいの行程である。

 だが、今日は10連休の3日目、特に何か用事がある訳ではないので、途中で何か面白いものでもあれば寄り道をすることにする。

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 時間は6:00をちょっと過ぎたところ。朝日が白川の川面を照らして綺麗である。

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 走り始めてから気付いたのだが、白川沿いには散歩道が整備してあって、自転車もそこを通れるようになっている。
 そしてアップダウンもほとんどない。
 私のような足の弱い老人でもへっちゃらの素晴らしいサイクリングロードである。

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 しばらく行くと「隈本大学(仮名)」の赤レンガの正門に到着。この門は旧制五高の頃からのものだという。
 私は以前から隈大にある「五高記念館」に興味があり、行きたいと思っていた。
 まだ早朝であるから開館していないだろうが、外観だけでも見てみたいと思い、門をくぐる。

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 五高記念館に到着。

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 中には入れないが、説明板を読めば五高について簡単に分かる。

[碑文]
 明治政府は、新しい国家の中心となる人材を育成するため、学校制度の充実に努めた。1886(明治19)年、「中学校令」を公布し、全国を五区の学区に分け、各学区に高等中学校の設置を決定した。第五学区となった九州では熊本、福岡、長崎が誘致を競った末、1887(明治20)年4月に熊本に設置することが決定した。早速、8月に生徒募集が開始され、同年11月14日には第1回の入学式が行われ、熊本城内の仮校舎で授業が始まった。
 学校の建設が当地で始まったのは1888(明治21)年2月のことであり、明治期の高等教育の場としてふさわしい煉瓦造、2階建の本館は、1889(明治22)年8月に完成した。土地取得と建築におよそ10万円を要したが、その費用は、地方税と旧藩主細川家や地元有志からの寄付で賄われた。
 1890年(明治23)年10月10日、「第1回開校紀念式」が開催された。席上、設計者の一人である久留正道により「第五高等中学校新築落成報告」が読み上げられ、正式に敷地、建物は第五高等中学校に引き渡された。爾来10月10日は第五高等学校の開校紀念日として全学をあげて祝うこととなった。
 1894年(明治27)年、新たに「高等学校令」が公布され第五高等中学校は第五高等学校と改称された。以来、1950根(昭和25)年、学制改革によって旧制の高等学校が廃止されるまで63年の歴史を刻んだ。
 第五高等学校の校風は、第三代校長嘉納治五郎をはじめ気鋭の教授陣と闊達な才能あふれる生徒たちによって育まれた。教授秋月胤永によって示された「剛毅木訥」の精神は龍南健児と称された五高生たちの精神的支柱となり、卒業生は政官界、経済界、学術界や文化文芸など幅広い分野で活躍し、明治以来の日本を支える有為の人材となった。
 建物は、1969(昭和44)年に化学実験場、表門とともに重要文化財に指定され今日に至っている。

 第五高等学校はその名の通り全国で五番目の高等学校である。

 これは現在の高等学校とは違う。

 現在の学制が6.3.3.4制と呼ばれるのに対して、戦前の学制は6.5.3.3制と呼ばれる。
 つまり、小学校が6年、中等学校が5年(実業学校は3年)、高等学校が3年、大学が3年である。

 高等学校(高等中学校)は発足当初一高(東京)、二高(大阪)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)の5つ、後に六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)を加えた。これら8つの高等学校は学校名に番号がついているため「ナンバースクール」と呼ばれたが、この碑文にもある通り誘致合戦がようやく過熱し、地元に新設される高等学校にナンバーを付けるために地域間が激しく争うようになった。
 たとえば六高設立の際には国会での議員の乱闘騒ぎまであったという。
 そのため九番目の高等学校以降は学校名に地名を付けることが普通となり、これらは「ネームスクール」と呼ばれた。

 戦前は発足当初4年制、後に6年制となった小学校だけが義務教育であったから、殆どの国民が小学校卒、後に新設された高等小学校卒でその学歴を終えた。
 中等学校への進学者は1930年代でも10%に満たないから、ここから更に高等学校就中ナンバースクールに進学するのは学齢人口の1%にも満たない極少数である。
 しかも女子の場合は全国に2つしかない(東京と奈良)高等師範学校以外の高等教育は存在しない。

 よく誤解されるのは、それだけ進学者が少なければ受験が楽だったのではないか、ということだ。
 確かに中等学校から先の進学者は今と比較にならないほど少ないが、同時に進学先もまた定員がごく少ないので、受験競争は熾烈を極めたのである。

 そして保護者の経済状態が子供の学力に大きな影響を与えていたのも現在と同じである。

 それと、入学可能な学校を求めて自分の故郷以外にある学校を受験する者が相当数存在したのも現在と同じである。

 現在と違う点は飛び級受験が認められていたことで、中学4年で受験して難関に合格する猛者もいた。
 私の父は肥後中学(仮名)出身だが、飛び級受験に失敗して薬専(後述)に入学している。

 就学年齢はといえば、小学校は現在と同じ6年制、中学が現在より2年多い5年制だから、現在の高校生より2歳上である。つまり16.17歳で入学して卒業するときは19.20歳ということになる。
 年齢から云えば現在の大学の教養部に当たる。

 調べてみて、戦前中等野球と呼ばれた甲子園大会で活躍していた選手の年齢は、といえば、12.13歳~16.17歳だったのか、と思い当たって、ちょっと驚く。
 実業学校は3年制(甲子園大会が中止中の昭和18年入学者から4年制)なので最終学年が15.16歳。この年齢の1歳差は大きい。「中京商業不滅の三連覇」など、戦前後半の甲子園では実業学校の活躍が目立つが、随分不利な条件で闘っていないか。というのは要らない心配で、野球をやりたい人は一旦高等小学校(2年制)を経由して中学や実業に入る人が多かったそうである。とすると、中学に直接入学した人と高等小学校を経て実業に入学した人は最終学年では同年齢である。どころか、高等小学校経由で中学に入れば最終学年では18.19歳なのだ。

 沢村栄治や楠本保、嶋清一など、戦前の有名選手の経歴を調べてみると、大抵高等小学校を経由して野球部のある学校に進学している。だから卒業時には現在の高校生と同じ年齢になっているわけだ。

 ただ、野球のためにわざわざ2年間学歴を足すわけだから、よほど裕福な家に生まれるか、野球の才能を買ってくれるスポンサーが必要である。

 閑話休題(こうとうがっこうのはなしだった)。

 五高が現在の高校と違う点は、大学を目指す予科・本科の他に、併設の専門学校を持っていた点で、工学専門学校・薬学専門学校・医学専門学校があった。それぞれ工専・薬専・医専と呼ばれた。

 面白いのは医専が創立当時長崎に開設されたことで、これは後に長崎医大に発展する。県を超えて別キャンパスを持っていたわけだ。

 では、どんな人たちが学んでいたか、というと、この碑文にもあるように「龍南健児」と呼ばれた。

IMGP5114

 隈大キャンパスには「龍南健児の像」が建っている。
 「旧制高校生3点セット」である破帽・弊衣・下駄履きである。これに腰に手拭いをぶら下げていたら4点セットということになる。

 旧制高校生を象徴するものとして「バンカラ」という言葉がある。
 バンカラは「ハイカラ」のパロディであり、対義語である。

 ハイカラとは西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、事物などを表す日本語の単語(Wikipediaによる)。明治30年代くらいから流行語となり、簡単に云えば「オシャレ」という意味で使われていた。「ハイカラ」は「high collar」が語源で、背広の襟丈が高いファッションをいう。

 ということは「バンカラ」とはお洒落に反発してお洒落でない格好や行動様式を取る人のことで、その代表が旧制高校生である。「バン」は「野蛮」の「バン」である。
 バンカラの人は弊衣破帽下駄履きの3点セットに身を包み、行動様式も野蛮である。
 たとえば旧制高校の校歌や寮歌は一流の文学者が作詞した由緒正しいものであるが、これを蛮声を張り上げて我鳴り散らして歌うのが作法であった。

 このバンカラ学生が具体的にはどういう人たちであったかは、北杜夫『どくとるマンボウ青春記』という随筆を読んでもらえばよく分かる。北杜夫は歌人斎藤茂吉の息子で精神科医でもある芥川賞受賞作家である。
 北杜夫の随筆といえば『どくとるマンボウ航海記』が一世を風靡したが、私にはこの『青春記』の方が面白かった。たしか5回以上読んで文庫本がボロボロになってしまった。
 この、旧制高校のバンカラ的世界に中学生だった私はどれほど憧れたか知れない。

 ただし、これは先に述べたように旧制高校に進学できるような裕福な階級の成績優秀な人がそれを行うから世間もこれを黙認するのである。所謂「若気の至り」と捉えてもらえるわけだ。
 だから、同じことを私のような貧乏人の小せがれで頭もパッとしないような人物が行えば忽ちにして巡査がサーベルをガチャガチャさせながら飛んでくるのである。所謂「あいつは何時かやると思っていた」という奴である。

 このバンカラ同士の小競り合いは九州では熊本の五高と鹿児島の七高の間で甚だしく、特に野球の対抗戦のときの殆ど暴動に近いような衝突は流石にこれに寛容な両県市民を怒らせ、遂には騎馬巡査(今でいう機動隊)が出動する事態と相成った。

 これについては一度書いたことがある。
 連休鹿児島欲張り旅行6-五校vs七校-(河童日本紀行168)

 こうした独特の文化を守り続けた高等学校であるが、戦後の学制改革であっさり廃止されてしまったのは、エリートにあるまじきこうした愚行の数々をやはり世間の人は苦々しく思っていたからかもしれない。廃止の理由の一つが「高校生は勉強しないから」というものだったらしい。

 ただ、旧制高校生は1950年には絶滅してしまったのだが、芸術の中にはバンカラは長く生き残ることになった。

 下駄を鳴らして奴が来る♪ 腰に手拭いぶらさげて♪ 学生服に沁み込んだ♪ 男の臭いがやってくる♪

で始まるかまやつひろしの「我が良き友よ」にはバンカラそのものの男が登場する。この歌は1975年の歌だから旧制高校の廃止から実に25年の年月を経て復活した旧制高校的世界である。その後歌の世界にバンカラらしきものが登場した覚えはない。

 私が子供の時分の漫画の中にもよくバンカラが登場した。私の知る限りでは1998年に連載が終了したちばてつや『のたり松太郎』あたりが彼らの登場する最後の漫画ではないかと思う。

 熊本では同心学舎高校(仮名)にこうしたバンカラ気風がかなり最近、といっても40年くらい前までは残っていたような気がする。

 ただ、バンカラの中にはジェンダーや絶対的上下関係などの封建的なものがかなりの部分含まれているから、「古き良き」と単純に賛美できるものではないことは断っておく。バンカラ憧れ世代の私ですら当時の彼らの言動を今見ると相当不快な気持ちになる部分がある。

 同心学舎に残る応援団の弊衣破帽は今女子生徒に受け継がれているらしい。如何にも男女共生を目指す現代の高校生らしい。

 「稚気愛すべき」範囲でバンカラが青年たちの中に生き残って欲しいものだ。

 ちなみに冒頭の絵は私が中学時代にしていたファッションである。

 祖父の師範学校時代の制帽を真似て改造し、当時は革鞄が学校指定だったのに、古風な布の肩掛けカバンで通学していた。当時はプラスチック製のカラーをすることが義務で、これがよく割れた。「カラー」と云われても何のことか分からない人は参考にしてほしい。

 帽子の鍔を長くのばしたり、短ランにしたり、カラーをしなかったり、革鞄をペチャンコにしていた学友はこっぴどく怒られていたのに、私は御咎めなしだった。

 先生たちの中に「バンカラの格好はよし」「ハイカラな改造はご法度」という基準があったとしか思えない。







熊本お盆小旅行-地震と衝動により小旅行決定-(河童日本紀行641)

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エレベーターの中で

 それは全く偶然に始まった小旅行だった。

 話は3日ほど前に遡る。
 夏休みの長期休暇を前にして、私は休み明けに困らないよう、その準備に追われていた。

 定時ちょっと過ぎて、どうにか帰れるかな、と思っていた矢先、スマホが今まで聞いたことのないような不気味な警戒音を立て始めた。
 これがどんなに無気味な音であるか、熊本地震や東日本大震災、能登半島地震などを経験された方なら分かっていただけるだろう。

 しばらくすると建物がガタガタ揺れ始めた。 結構強い地震である。震度4くらいか。
 私は熊本地震の前震も本震も眠りかぶっていた(「半分眠っていた」の熊本方言)から、ちゃんと意識があるときにこんな大きな揺れを感じるのは久しぶりである。

 後で報道で知ったのだがこれは南海トラフ地震の前触れかも知れないということであった。

 私はすぐに妻に連絡を取った。妻は普通勤務中には電話を取らないのだが、このときはすぐに出た。
 お互いの無事を確認し合った直後、妻がこういった。

 「電車に影響が出るからしばらく帰れんね。」

 そうか、これだけ大きな揺れだから、この後は沿線の安全確認があるに違いない。それはおそらく1時間はかかるだろう。つまり電車の運行の再開は1時間後くらいということだ。今日は電車で来ているので足がない。
 仕方がないので駅から職場までの交通手段である自転車で取り敢えず駅まで行くしかない。
 そこで運転の再開を待つのが一番早く帰れる方法だろう。

 エレベーターで下まで降りようとして乗ってから気付いた。今余震が起こったらエレベーターが自動停止して閉じ込められるだろう。急に不安に襲われて「俺って相変わらず馬鹿だなあ」と自分を責めたが、幸い何事もなく地上に降り立った。

 自転車にまたがって帰途に就く。
 私は今年から新しい職場にいるのだが、働き始めて今までずっと腰痛に悩まされている。
 特に5月の連休の頃には寝返りを打っても激痛がしてヒイヒイ言っていた。
 病院に行ってみると脊柱管狭窄症の疑いということで、MRIを撮ることになり、撮った。

 病状の説明のとき、Dr.は「全然大したことないよ。大丈夫。」と云った。私の僻みかもしれないが、少しガッカリした感じだった。きっと脊柱管狭窄症が重症で手術を想定していたに違いない。

 Dr.は説明を終わろうとして、確認のためMRIを一瞥した瞬間、「おっ? 折れとる!」と叫んだ。

 脊柱は素人の私でもわかる。第3腰椎(L3)に白い影が出来ている。圧迫骨折である。

 しばらくはコルセットをしていたが、自転車に短時間乗るくらいなら支障ないくらいに痛みも和らいできたのだ。

 職場の正門を出て駅の方に曲がろうとした瞬間、急に気が変わった。
 私は小さい頃からこういう衝動性を持っているのだ。
 この特性のために今までの人生で交通事故をはじめ数々のトラブルに見舞われてきた。一番酷いのは忘れ物である。これは強い自己嫌悪を感じる程だ。
 私の人生の時間の半分近くが忘れ物を取りに行く時間と失くしたものを探す時間である。
 軽い?注意欠如多動性障害(ADHD)があるのかもしれない。勿論私はDr.ではないので診断するわけにはいかないが。

 「自転車で帰ってみよう…」

 私は方向転換して、自宅に向けてペダルを踏み始めた。

 だが、やはり無理だった。
 30分ほど漕いだ時、無気味な鈍痛が下半身全体を包み始めた。
 「どうしよう。これは家まで持ちそうにない…」と思ったとき、電車が最寄りの駅まで走ってきて停車した。
 私は咄嗟に駅の駐輪場に自転車を止め、電車に向かって突進した。
 突進した、と云っても、脊柱管狭窄症を疑われたくらいに身体が痛いので、傍から見たらヨタヨタゆっくり歩いていたに違いない。

 間に合った。
 電車はそれから10分ほど駅に停車していたが、しばらくすると発車した。
 「私は賭けに勝ったのだ!」という満足感が私を包んだ。

 だが、よく考えてみたら、自転車は途中の駅にあるのだから、仕事が再開した時の通勤では駅から職場までの交通手段がない。
 これはもう一度自分が乗って自転車を職場近くの駅に返しに行かなければならない。

 ただ、勿論「めんどくせー」という気持はあるものの、これは私の体力からすれば丁度良い小旅行かもしれない。
 というのは、職場から自宅に向けて自転車を走らせた沿線がなかなかいい雰囲気だったからだ。

 ということで(何がということなのかよくわからないが)、立田口駅から熊本駅までの小旅行が決定したのである。

「土佐日記」を読む3-哀悼と諧謔と、そして卑猥-(新米国語教師の昔取った杵柄43)

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河納治五郎

 結局のところ紀貫之が『土佐日記』において女性を装っているのは、実際にあった面白い話を皆に知ってもらいたいのだが、それが酔狂だったり卑猥だったり駄洒落だったりするために実名にする訳にいかなかったという事情からだということが、全文を読んでみて分かった。
 つまり、「面白い話が沢山あるんだよ。でも、これ、ぜーんぶ嘘。だって僕、男なのに女ってことになってるでしょ?」という訳だ。

 ただ、一つだけ、そうした韜晦を使用せずに描写されている部分が全文に散りばめられている。
 土佐で死んでしまった子供のことである。
 この話は日記が始まって程ない時に出てくる。

[原文]
 二七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに京にて生れたりし女子ここにて俄(にわ)かにうせにしかば、この頃の出立いそぎを見れど何事もえ言わず。京へ帰るに女子のなきのみぞ悲しび恋うる。ある人々もえ堪えず。この間にある人のかきて出せる歌、
  都へと思うもものの悲しきはかえらぬ人のあればなりけり
また、ある時には、
  あるものと忘れつつなおなき人をいづらと問うぞ悲しかりける
[現代誤訳]
 12月27日、大津から浦戸を目指して船出する。そうこうするうちに京都で生まれた女の子が急に死んでしまったので、この間の忙しさに紛れさせようとするのだが、思い出すと何も言えなくなってしまう。せっかく京都に帰るのに女の子がいないのだけが悲しくていとおしい。一緒にいる人々も耐えられないと悲しんでいる。ここである人が書いて皆に見せる歌。

  都に帰れるのだと思っても悲しい気持ちしかしないのは一緒に帰らない人がいるからなのだ。

また、ある時には、

  あの子がいなくなったことに慣れていなくて「あの子はどこにいる?」とつい家人に聞いてしまうのが悲しいことだなあ。

 この後、鮎の口にチューをする話が挟まれ、

[原文]
 十一日(略)また、昔の人を思い出でていづれの時にか忘るる。今日はまして母の悲しがらるる事は、くだりし時の人の数足らねば、ふるき歌に「数はたらでぞかえるべらなる」ということを思い出でて人のよめる、

  世の中におもいあれども子を恋うる思いにまさる思いなきかな

と言いつつなむ。

[現代誤訳]
 1月11日、また、子供のことを思い出して、一体何時になったら忘れられるのか。今日は特に母親が悲しがっていることは甚だしく、土佐に下った時と家族の数が一つ足りないので、古い歌に「家族が死んで元の家族の数に足りなくて帰ることだなあ」というのがあったのを思い出して人が歌うには、

   この人の世にいろいろな思いがあるけれども親が子をいとおしく思う思いにまさる思いは無いだろうなあ
などと、歌って過ごす。

 そしてそれから数日後に女性が裾の中のものを海神に見せる話が挟まれ、

[原文]
 四日、(略)この泊の浜にはくさぐさの麗しき貝石など多かり。かかればただ昔の人をのみ恋いつつ船なる人の詠める、

  よする浪うちも寄せなむわが恋うる人わすれ貝おりて拾わむ

と言えれば、ある人堪えずして船の心やりによめる、

  わすれ貝ひろいしもせじ白玉を恋うるをだにもかたみと思はむ

となむ言える。女児のためには親をさなくなりぬべし。玉ならずもありけむをと人いわむや。されども死にし子顏よかりきというやうもあり。

[現代誤訳]
 2月4日、この港の砂浜にはいろいろな美しい貝や石などが多い。そうなのでただ亡き子だけを想いつつ船にいる人が詠んだ歌、

  寄せる波よ、もっと打ち寄せてくれれないか。そうしたら私が思う人を忘れるための忘れ貝を浜に降りて拾おう。

と云ったので、ある人が「それは違うだろう」と、堪えられなくなって船旅の憂さ晴らしにかこつけて詠んだ歌、

 忘れ貝を決して拾ったりしないようにしよう。白珠のように美しかったあの子へのいとおしさくらいしかあの子の形見はないのだから。

と云った。女児のために親は子供じみた気持ちになったのに違いない。「珠みたいに美しくはなかっただろうに」と人は云うだろう。しかし、死んだ子はやはり美しい顔をしていたような気がする。

 この後に歌が下手な人を馬鹿にする話があって、
 船酔いに苦しんでいる人のことを船頭がなんとも思っていないという、殆ど私の昔の実体験のような話があって、
 船酔いをしているその人も歌が下手だ、という話があって、

[原文]
 八日、(略)かくのぼる人々のなかに京よりくだりし時に、皆人子どもなかりき。至れりし国にてぞ子生める者どもありあえる。みな人船のとまる所に子を抱きつつおりのりす。これを見て昔の子の母かなしきに堪えずして、

  なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくてくるが悲しさ

と言いてぞ泣きける。父もこれを聞きていかがあらむ。

[現代誤訳]
 2月8日、このように帰京する人々が京都から土佐に下った時に、誰も子供がいなかった。行った国で子供を生んだ人たちがいるのだ。この人たちは皆船が泊まる所で子供を抱きかかえて乗り降りする。これを見て死んだ子の母親は悲しさに耐えられずに、

  なかった子を連れて帰る人がいるのに、あった子がなくなって帰る私の身の悲しさよ。

と言って泣いてしまった。子供の父親もこれを聞いてどう思っただろうか。  

 このように哀惜の合間に諧謔や猥褻が挟まれているのを見て不謹慎であると顰蹙する勿かれ。
 これが「愛別離苦」の只中に居る者の精神病理なのだ。

 私は神も仏も信じないのだが、周囲に仏教徒が多かったので私の死生観にはそれが随分影響しているように思う。
 葬式や法事などで聞く僧侶の説教にもそれなりに心を動かすものがある。

 ただ、一定の年齢になるまでさっぱり分からなかったのが「生老病死」という言葉である。
 これは仏教において人間の苦しみに当たるものだ。
 老・病・死は流石に若い私にも分かった。これは確かに苦しいだろう。しかし、生きている、生きてゆくのが、なぜ苦しいのか。これが分からなかった。
 特に若い頃の私は何度も「ここで死にたくない」という経験をしたが、「生きているのが苦しい」「生きていくのが苦しい」と思ったことはなかった。
 失恋も何度かしたが、悲しかったり憎かったりはしても、生きていること自体に苦しみを感じる程の苦痛ではなかった。

 ところが、好きだ、とか惚れている、とかいった関係とは違う、お互いに愛している人と別れなければならないことがあった。
 具体的には家族との死別である。(本当は別にもあるのだが、妻が読むといけないのでそういうことにしておく)。
 これは本当に苦しかった。自分の腕がちぎれて持って行かれるのではないか、心臓を抉り出されて放り投げられるのではないか、という心持がした。

 ああ、これが「生きているのが苦しい」という状態か。はじめて分かった。
 そしてそのときにある言葉を知った。というより、今までは気にも留めなかった言葉だったのだろう。それが「愛別離苦」である。意味は「愛する人と別れる苦しさ」だ。

 どれほど愛し合っていても、必ず別れはやってくる。嫌いになって別れるのではない。人には運命の決めた寿命と云うものがあるからだ。
 どれほど幸運な人間でも、生きている限りは必ず愛する人との別れを経験する。

 その中でも苦しいのは子に先立たれることだろう。
 仏教では「逆縁」という。
 「方丈記」の中に自分が餓死してでも子供を何とか助けようとする親の姿が描かれている話は既にした。

 未来へと続いていくはずの志、もっと有り体に云えばDNA。
 その連続性・無限性を信じることで、多くの人は何時の日か自分の肉体が消滅してしまうことに辛うじて耐えているのだ。
 それが眼前で断ち切られてしまうことによる断腸の想いこそが逆縁の正体である。

 多くの人はそうした無念と悲哀と苦衷の中に長時間浸っている気力も体力も持ち合わせていない。
 だから、大して悲しんでもいない人が眉を顰めるような場にそぐわない言動によって一時的にそこから逃れようとする。
 この、繰り返し繰り返し襲ってくる辛い感情の合間に挟まれるランナーズハイにも似た躁的状態が「土佐日記」で紀貫之が見せている猥雑な感情表現なのである。

 それでも大抵の人はだいたい30日もあればこの状態から脱する。脱しなくても感情の反復の間隔が空いて月1回くらいになってくる。

 紀貫之の帰宅は出発から55日目であった。おそらく子の四十九日を済ませてから出立しただろうから、100日以上経っていることが考えられる。

 荒れ果てた自宅の庭を眺めながらも思い出すのは我が子のことである。

[原文]

  生まれしも帰らぬものを我が宿に小松のあるを見るがかなしさ

とぞ言える。なお飽かずやあらむ、またかくなむ、

  見し人の松の千歳にみましかば遠くかなしき別れせましや

忘れがたくくちをしきこと多かれどえつくさず。

[現代誤訳]

  生まれたのに帰らない子がいるのに、私の家には若菜摘みの日に子供が引いて遊んだ小松が枯れずに残っているのを見るのは辛いものだ。

これでも気が済まなかったのだろうか。また、このようにも。

  亡くなった子があの松を千年見るほどに長生きするのだったら、遠い土佐で悲しい別れをしないで済んだのに。

  最後はやはり諧謔である。

[原文]
 とまれかくまれ疾(と)くやりてむ。
[現代誤訳]
 何はともあれこんな下らない日記は早く破り捨てなければ。

 やっぱりこの人(紀貫之)、元々ちょっと変な人なのかもしれない。


 

「土佐日記」を読む2-正月十三日-(新米国語教師の昔取った杵柄42)

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渋河栄一

 取り敢えず「土佐日記」全文をつらつらと読むことにして読み流していくと、「あっ!」という個所を発見した。

 なるほど、これもまた女性目線で書いたものでないと公表できないだろうな、という部分である。

[原文]
 十三日の暁にいささか小雨ふる。しばしありて止みぬ。男女これかれ、ゆあみなどせむとてあたりのよろしき所におりて行く。海を見やれば、
 雲もみな浪とぞ見ゆる海士もがないづれか海と問いて知るべく
となむ歌よめる。さて十日あまりなれば月おもしろし。船に乗り始めし日より船には紅こくよききぬ着ず。それは海の神に怖ぢてといひて、
[現代誤訳]
 13日の夜明けに少しばかり雨が降った。しばらくして止んだ。男女数人で湯浴みでもしようかと云って船から周囲の適当なところに降りて行った。海を見やって、

 天気が良くないので雲も波も区別がつかない。海女でもいてくれないか。どちらが空でどちらが波なのかと聞いて知ることが出来るように。

と歌を詠んだ。さて、今夜は「小望月(十日あまりの月)」なので月に風情がある。
 ところで、船に乗り始めたときから人々は舟では紅が濃くて綺麗な服は着ないようにしている。それは海の神に遠慮してのことだと云っている。

 赤と云う色と海神の祟りは何か昔から関係があるのだろうか。

 何か小川未明の童話「赤い蝋燭と人魚」を思わせる。
 この童話のあらすじを知らない人のためにあらあらすじくらいを紹介すると、人間にさんざん尽くしたあげくに人買いに売られて行く人魚が、最後に真っ赤に塗った蝋燭を残していき、その蝋燭のために海が荒れ狂って遂に一村を滅ぼしてしまうという話なのだ。

 私はこの童話を小学生のみぎり最初に読んだとき、人魚が可哀想という気持ちより、人魚のお陰で金儲けが出来たくせに人魚を売ってしまった老夫婦(例によって40歳過ぎくらい)が報いが怖くて震えているのを見て「ザマー見ろ!」と快哉を叫んだのを今でも覚えている。

 人を「也利賀伊佐久朱(万葉仮名。嘘。)」して恥じない人々に禍いあれ! 河童神社のお告げじゃ!

 閑話休題(たいがいにしとかないとこういうひとたちはじかくがないからほんきでおこるぞ)。

 この後の部分は物の本(論文)によれば昔から難解で知られた部分だそうだ。

[原文]
 何の蘆蔭(あしかげ)にことづけてほやのつまのいずしすしあわびをぞ心にもあらぬはぎにあげて見せける。

 一流の学者さんにすら難解なものを私が解釈などできないから現代誤訳は省略するが、難解と云うよりは字義どおりに訳してしまうと公表できなくなってしまう気がする。

 どうしても気になる人は古語辞典を引き引き自分で訳してほしい。
 口語訳もいくつかネットに上がっているが、公表可能にするために省略しすぎたり付加しすぎたりした文字通りの「誤訳」という気がする。

 ひとことで言えば、これは男性の体験としては描きにくいような気がする。女性同士のロッカー室での会話、という感じのノリに持って行かないといけなかったのではないか。

 この部分をどう訳すべきか参考にするために日がな「土佐日記」に関する論文を読んでみたが、この日記そのものが虚構であったり他の男性の日記のパロディであると考える人が、学会で長年研究してきた人にも結構いるようである。中にはこの中に出てくる子供の死すら他の人の体験から引っ張ってきたという説もあるのに驚いた。

 私はこの1月13日の記事を読んで、むしろ「土佐日記」は全てが事実を基にしていること、それだからこそ事実が生起した場所を替え、登場する人名を替え、作者の性別を替えて「これは虚構ですよ」と表明する必要があったのではないかという印象を持った。

 これは冒頭の皆がへべれけになってしまった部分を実名で描けないのと同じ理由である。

 「ニヤッとする話」という題でブログを10年以上やってみて痛感するのだが、「笑える話」を人に紹介するのは難しい。本当に面白い話は公表できないものが殆どだからだ。何十年経っても思い出せば笑いがこみ上げてきて仕方がなくなるような話に限って、それはごく親しい人としか共有できない性質のものだ。人間の一方の半身に関わる話などは全くそうである。

 紀貫之はこの旅で面白かったことや思い出にしたかったことが多くあったのだろう。

 子どもが死んでしまって、放っておけば自分の気分がどんどん沈んでいくような状況だったからこそ、なおのこと、笑えたことや感心したこと、特に大好きで得意な歌で、その旅を一杯に埋めたかったに違いない。

 このような心理状態を精神分析学派の心理学者であるクラインは「躁的防衛」と呼んだ。生きていたら悲しいことの多い人間にとってはごく普通の心理機制である。
 若い人の葬式は別にして、天寿を全うした人の葬式の雰囲気が妙に明るかったりするのはこの心理による(のかもしれない)。

 面白かった体験を共有したい。そのことで自分の心も癒したい。しかし、そのままでは公表できない。
 それを可能にしたのが、女装するという方法だったのではないだろうか。

「土佐日記」を読む1-馬のはなむけ-(新米国語教師の昔取った杵柄41)

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ドサ日記

 さて、これまた『方丈記』と同じく若い頃読んでどうしても面白いと思えなかった古典文学について語らなければならない(別に義務じゃないけどね)。

 「土佐日記」である。
 そもそも冒頭の一文から意味が分からない。

[原文]
 男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。
[現代誤訳]
 男が書くという日記と云うものを、女もしてみようと思ってするのだ。

 何が云いたいのだろう。
 平安時代には「蜻蛉日記」や「更級日記」、「紫式部日記」など、女性の書いた日記などゴマンとある。なぜわざわざ男性である紀貫之が女性を装って書く必要があるのか。

 私の通っていた「超男子校(仮名)」の古典の先生は実に分かりやすく、おかげで私は古文が好きになったのだが、この点についてはゴニョゴニョと口を濁して何か云っていたが、その内容を私は覚えていない。
 覚えていないということは納得のいく説明ではなかったのだろう。

 現在の知識と経験でもう一度考えてみる。
 これは「土佐日記」が仮名で書かれていることと関係がありそうな気がする。

 そもそも「かな」はなぜ「仮名」と呼ばれるのか。これは私がよく韜晦のために使う「(仮名)(かめい)」とは違う。「仮の文字」「本当ではない文字」という意味である。

 私の専門である医学には「仮性球麻痺」という用語があって、これは「球麻痺のような症状を示す麻痺」という意味である。「球」とは延髄のことであって、「球麻痺」は延髄が損傷して発話や嚥下などに障害の出る麻痺のことをいう。そして仮性球麻痺は皮質延髄路という上位神経が両側性に損傷して球麻痺と似た症状が出るものをいうのだ。つまりこの場合の「仮」は「似て非なるもの」という意味を持っている。仮性球麻痺は「偽性球麻痺」とも呼ばれる。ここまで来るともう「偽物の」という意味が発生してくる。

 閑話休題(さいしょからはなしをそらすんじゃない)。

 「本当ではない文字」があるということは、「本当の文字」があるはずである。
 仮の文字に対してこちらは真の文字だから、「真名」と呼ばれる。「まな」と読む。
 当時「真名」と呼ばれた文字こそ、中国から韓国を経て伝わってきた漢字である。

 つまり、漢字が真名であり、かなが仮名であったわけだ。

 漢字は漢文を書く文字である。
 当時の宮廷で用いられた書類などを見てみると、全て漢字で書かれた漢文である。これは日本人が書いたものであるから日本風の中国語である。あるいは下手な人が書いたものは中国風の日本語というか。中国語を装った日本語と云うか。
 とにかく本場の中国語ではないが、当時の中国人に(もしかすると今の中国人でも)見せれば相手にも大体通じる程度には中国語である。これは漢字という文字の持つ特徴であって、少々文法が可笑しくても文字の持つ意味によって文意の相当部分が伝わるのである。
 
 古代の日本の政治体制は中国(当時は宋)を手本としていたから、公式の文書もまた中国語を手本にしていたわけだ。
 そして政治を担っていたのは男性だったから、漢文は男性が書くものだった。ということは男性の使う文字は漢字=真名だった訳である。

 これに対してかな=仮名は相聞歌(男女の愛の歌)などの私的な領域で使われていた。

 そして非常に多く残されている仮名で書いた和歌や文章は主に女性が書いたものである。

 つまり日本の文字の問題はジェンダーの問題であって、漢字=真名=公的=男性⇔かな=仮名=私的=女性という図式があったわけである。

 では日記はどうかといえば、朝廷での出来事を記した公的な日記は男性により漢字で書かれ、日常の市井の出来事を記した私的な日記は女性により仮名で書かれていた、という図式が成立する。

 では男性であり官吏である紀貫之がなぜ仮名で日記を書く必要があるのか、といえば、これは推測するほかないのだが、日記の中に私的な内容を書きたかったからだと思われる。

 それなら、「わたくしのことどもをかきつづらむと思ひて仮名にて日記するなり。」と云えばいいだけの話で、なぜわざわざ女性に仮託して書く必要があるのか、やはり分からない。

 多くの論者はこれをジェンダーによる社会的圧力に求めているが、「男は仮名を使ってはいけない」というそれほど強い圧力があったのだろうか。あるいは「男の沽券に関わる」とでも思ったのか。それだったら女性のふりはしないだろうに。

 と、得心が行かないままに全文をつらつらと眺めると、(青空文庫は本当に便利である)、ああ、これか、と思い至った。
 この日記はそれほど長くない文章の中に、非常に多くの和歌が詠まれているのである。
 「歌物語」ならぬ「歌日記」と呼んでもよいくらいだ。

 考えてみれば、紀貫之は同時代の最も優れた歌人の一人なのだ。
 何せかの「和歌の教科書」と云われる『古今和歌集』の選者なのだ。
 『百人一首』にも勿論歌がある。

[原文]
 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
[現代誤訳]
 人のことは、さあ、どうでしょう、心も分かりませんが、昔馴染みのこの場所の梅の花は変わらずに気持ちの良い香りで迎えてくれますね。

 この歌は元々恋歌として歌われたらしいが、1000年の時を経ると「人」=「貴女」だったのが「人」=「この世にある人」という形で抽象化して現代の我々の心にも刺さる普遍性を持つようになっている。
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。」という唐代の詩人劉希夷(りゅうきい)の詩に通じる不朽の名歌である。

 これはただの日記ではなく「歌日記」にしたくなるのも分かる。

 和歌を漢字で書く訳には行かない。
 もちろん『万葉集』の昔には和歌も漢字で書いていた(所謂万葉仮名)。
 しかしこれは読むのですら相当面倒くさい。ましてや書くとなると。

 たとえばこれはやはり『百人一首』にも採られているある名歌である。
[万葉仮名による表記]
 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

 見ているだけで面倒くさいので全て平仮名にすると、

[仮名による表記]
 はるすぎて なつきたるらし しろたえの ころもほしたり あまのかぐやま

 全てが仮名表記と云うのも実に面倒くさい。アルファベットやハングルなどはこの状態なのだ。英国人や韓国人は何と辛抱強い人たちであろうか。
 ここはやはり日本文化の精髄である漢字かな交じり文としたい。
[漢字かな交じり文]
 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

 『百人一首』のやつは細部が少しだけ違うが、ああ、持統天皇のこれか、と分かっていただけたと思う。

 閑話休題(またはなしがそれちまった)。

 ただ、歌を日記に入れたいだけならば、「おりにふれて作りたる歌どもを書かむがためにこそ仮名にて日記すれ」と表明しておけばよいだけで、何故女性を装う必要があるのか、やはり根拠が弱い気がする。

 どうもモヤモヤするが、取り敢えず冒頭の部分を訳してみる。

[原文]
 それの年のしわすの二十日あまり一日の、戌の時に、門出す。そのよし、いささかものに書きつく。 
 ある人県の四年五年果てて、例のことども皆し終えて、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく比べつる人々なむわかれ難く思いて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜更けぬ。
 二十二日に、和泉国までと平らかに願立つ。藤原のときざね船路なれど馬のはなむけす。上中下ながら醉い過ぎていと怪しく潮海のほとりにてあざれ合えり。
[現代誤訳]
 承平4年の12月21日の戌の時に出発した。その時の事情をほんの少し書きつける。
 ある人が、土佐の国の国司の4、5年の任期が終わって、引継ぎなども全部終えて、公文書なども取り交わして、住んでいた館から出て、船に乗るべきところに向かう。あれやこれやの知っている人知らない人もみんな見送りをする。長年付き合ってきた人々は別れがたく思って、一日中いろいろと世話をしつつ、大声で騒いでいるうちに夜が更けてしまった。
 22日に、中継地の和泉国まで無事に着けるように願掛けをする。藤原時実が「馬で行く友の送別会」をしてくれる。まあ、船旅なんだけどね。上役も中間管理職も部下も、みんな酔っぱらい過ぎて、たいそうだらしなく腐った魚みたいにデロンデロンになってふざけ合っている。海の近くだから塩が利いていて腐らないはずなんだけどな。

 ああ、これか。
 女装の理由が分かった。

 送別会も見送りも公務なのである。だが、長年の交際の中で皆情が湧いてしまって、上から下まで親友同士やギャング集団(河童註:10歳前後の独特のルールに支配される同性集団)のように飲み過ぎてへべれけになって悪ふざけをしてしまっているのだ。今ならネットチクリちゃんやシブタレさん(©白戸三平)が大活躍である。
 これが男性の日記に漢字で書かれてしまっては公の記録になってしまう。
 それでは暴露や密告と同じだ。

 「枕草子」の「にくきもの」にも、男が酔って醜態を晒す様が描写されているが、これは立場の違う女性が面白おかしく書いているから洒落になるのであり、同僚である男がこんな描写をしたら「こやつ身分の高かくせにこげなことばしてましたばい(なぜか熊本弁)」という暴露や密告になってしまう。
 そうなるとお互い様の暴露合戦・密告合戦で泥仕合開始である。

 だから女装したのだ。
 女性が私的に目撃したことを仮名で書いた、ということにすれば、これに目くじらを立てて「誰だ、公務中にこんな見苦しいことをしたのはあっ!?」という男性もいないだろう。現代の眼からすれば決して良いこととは云えないのだが、「まあ女性のすることだから」というお目こぼしもあっただろうし。

 紀貫之もこの乱痴気騒ぎを楽しんだはずだし、それどころか、もしかすると煽りたてていたかもしれない。
 おそらく彼は最初はこうした醜態を記録に残すつもりはなかったに違いない。ところが、それが余りに面白く、また後で懐かしく思い出したいと思ったのだ。おそらく書き始めたのは宿酔いが治まって船出した船の中なのではないか。もっともすぐに今度は船酔いをしたと思うが。

 文体も言葉の壁でなかなか現代人には伝わりにくいが、おふざけ満載だ。
 最後の「潮海のほとりにてあざれ合えり」など意味が分かれば秀逸である。「あざる」というのは「ふざける」という意味の他に「魚が腐る」という意味もあって、ぐでんぐでんに酔っぱらった男たちをデロンデロンに腐った魚に喩えているのだ。

 冒頭の文章以外にも、漢文で書いてしまったら冗談にならない部分があるに違いない。

 とりあえず全文読んでからまた報告したい。

「方丈記」を読む(新米国語教師の昔取った杵柄40)

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鴨長江

 さて、「徒然草」「枕草子」と来たら「方丈記」に触れない訳にはいくまい。
 何せこの3つの随筆は「日本三大随筆」に数えられているからだ。
 だが、どうにも気が重い。
 私はまだ18歳くらいの頃にこの3つの随筆を読んだのだ。
 そして、前2者は言葉の壁さえ突き崩せば面白いと思えた。しかし、この「方丈記」だけは、書いてあることの意味が分かってなお、面白いと思えなかったのだ。

[原文]
  行く河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
[現代誤訳]
 川の流れはとどまることをしらず、しかも水は常に新たである。よどみに浮かぶ水の泡は、できては消え、できては消えして、長くそこにあるということがない。世の中の人やその住まいも、またこんなものである。

  冒頭のこの文章は何も見なくても空で云えるほど人口に膾炙しているが、平家物語の冒頭の

[原文]
 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)を表す。奢(おご)れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛(たけ)き者も遂にはほろびぬ、偏(ひと)えに風の前の塵(ちり)におなじ。
[現代誤訳]
 祇園精舎の鐘の音は、全てのものは無常であるという響きがある。沙羅双樹の花の色はどんなに栄えているものでも必ず衰えるという真理を示している。権勢を振るった人もそれは一時の事で、ただ春の夜の夢のようなものだ。勢いの盛んな者も結局は滅びてしまう。全くのところ風に吹かれて飛んで行ってしまう塵のようなものだ。

 という一節と同じく、覚えてはいるし、それは「無常」を表すものだ、ということも分かっているのだが、それを骨身に染みて感じる能力は62歳になってもまだ私は持ち合わせていない。

 だから私にとっての『方丈記』は、卒論にするために読んだ夏目漱石『草枕』と同じく「読み飛ばし」にするものであって、決して正面からこれと向き合ったことはなかった。

 しかし、生徒に教えるのに生徒と同じく冒頭の部分しか読まないという訳にはいかない。
 昔であれば本屋で何がしかのお金を出して『方丈記』の文庫本か何か買わなければいけなかったので到底これを全部読もうなどと思わなかったに違いない。
 だが、現在には『青空文庫』という便利なものがあり、原文はおろか佐藤春夫の名訳で口語訳までタダで読めるのだ。
 つらつらと眺めるに、それほど長い文章ではない。これならば原文でも一時間もかからずに読んでしまえそうである。
 ちょうど連休に入ったが妻は仕事と云う徒然なる一日の午前中、私はこのおそらくはつまらないであろう随筆と向き合うことにした。

 有名な冒頭を通り過ぎた後、まだ暫し鴨長明の葬式の時に坊さんから聞かされるような死生観を我慢して読んでいくと、話が当時京都を襲った災難の話になっていった。

 まず1177年に起こった安元の大火(太郎焼亡)の記事。

[原文]
 すべて都のうち、三分が二に及べりとぞ。男女死ぬるもの数千人、馬牛のたぐい辺際を知らず。
[口語訳]
 被害は京の都城のうち2/3に及んだということだ。死者は男女合わせて数1000人、家畜の類はどれくらいか際限を知らない。

という大変な災害だったのだが、火事に遭った人々の様子の描写がリアルである。

[原文]
 あるいは煙にむせびてたうれ伏し、あるいは炎にまぐれてたちまちに死しぬ。あるいは又わずかに身一つからくして遁(のが)れたれども、資財を取り出ずるに及ばず。七珍万宝、さながら灰燼となりにき。そのついえいくそばくぞ。
[口語訳]
 ある人々は煙に巻かれて倒れ伏し、ある人々は炎に焼かれて即死した。ある人々はまた身一つで辛うじて火から逃れたけれども、炎に包まれた家から財産を取り出すことはできなかった。営々と貯めた宝はそのまま灰燼と化してしまった。その被害はどれほどであろうか。計り知れない。

 見ていなかったらできない描写である。

 これは随筆ではない、京都の災害のルポルタージュなのだ、と思い始めた。

 次は治承の辻風(竜巻)の記事である。

 これまた突風の様子がリアルに描かれる。人的被害も少なくなかったようだ。

 次の福原遷都の話は飛ばして、次は1181年の養和の飢饉である。

[原文]
 二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるいは春夏日でり、あるいは秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとく実らず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬収むるぞめきはなし。
[現代誤訳]
 養和になってから二年の間、世の中に飢饉が起こって、とんでもないことが起こった。春と夏には旱魃、秋と冬には台風、洪水など、よくないことが次々と起こって、五穀が全く実らなかった。春に耕して夏には植えたけれども、秋に収穫して冬に租税として納めるなどと云うことも全くなくなってしまった。

 長明はこの後の洛中の人々の悲惨な有様を描写するのだが、今も昔も変わらない都会の弱点について鋭く指摘している。

[原文]
 京のならいなに事につけても、みなもとは田舎をこそたのめるに、絶えてのぼるものなければ、さのみやはみさおも作りあえむ。
[現代誤訳]
 京都と云う所は元々何事においてもその供給源として田舎に依存しているから、田舎の生産が途絶すれば、それらの物資が上がってくることもないので、味噌すらも作ることができなくなったのだ。

 こうして飢餓に陥った人々を長明は「小水の魚」に喩えている。
 要は水たまりのような少ない水に沢山の魚が群がった訳だ。

 金持ちだった人もどうにか財宝を米に替えようとするのだが、こうなれば米が「宝」であるから人々はそんなものには見向きもしない。こうして金持ちが財産を失ってあっという間に路上生活を始め、そして路傍で餓死していく。
 さらに栄養不足の人々を感染症が襲う。
 あちらこちらに餓死者・病死者の死体が転がり、それが埋葬もされずに腐敗してゆく。都中に死臭が漂う。
 もはやこの世の地獄が出現したのだ。

 私はこの描写を見て若い頃からの友人の著書である講談社新書『北朝鮮難民』で描かれていた彼の地の人々の惨状を思い出した。これは1990年代中盤に起こった「苦難の行軍」と呼ばれる飢饉である。同族である南の韓国が既に飽食の時代に入りつつあった時代のことだ。

 閑話休題(いつかきっと)。

 そんな中でも愛情と人間性を失わない人々の描写が涙を誘う。

[原文]
 さりがたき女男など持ちたるものは、その思いまさりて、心ざし深きはかならずさきだちて死ぬ。そのゆゑは、我が身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたわしく思ふかたに、たまたま乞い得たる物を、まづゆずるによりてなり。されば父子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちて死にける。また母が命つきて臥(ふ)せるをもしらずして、いとけなき子のその乳房に吸いつきつつ、ふせるなどもありけり。
[現代誤訳]
 愛している異性がいる者は、その愛情が強くて想いが深い者が必ず先に餓死した。それは何故かと云うと、自分のことをさておいて、男でも女でも、愛している者に、たまたま手に入れた食物をまず食べさせるからである。だから親子である者は決まって親が先に餓死した。また、母親の命が尽きて倒れているのを知らずに、まだ幼い子供はその乳房に吸い付きつつそのまま餓死するということもあった。

 芥川龍之介の小説『羅生門』は明らかにこの飢饉を時代背景としている。
 飢え死にしないために不道徳な行為に手を染める登場人物たちの心理状態はなかなか現代の私達には理解できない部分も大きい。
 私達は本当の意味での飢餓を経験したことがないからだ。
 私などは妻から「食糧難になったらあんたはきっと私を喰うね。」と云われているが。

 しかし、こんな人々もいたのだということを知ることができただけでもこの随筆を手に取った甲斐があったというものだ。
 また、長明の筆致も「世は無常なのに身内に執着をして…」などというものでは決してない。深い同情と感動が感じられる部分である。

 京都は仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)法印という僧が洛中の死者を二か月だけ調査したところ、その数42300余だったという。長明は、

[原文]
 いわむやその前後に死ぬるもの多く、河原、白河、にしの京、もろもろの辺地などを加えていわば際限もあるべからず。
[現代誤訳]
 云うまでもなくこの二か月間の前後に死んだ者も多く、河原町・白河町・西京など、あちこちの洛外の土地も加えて考えるならば死者数は際限がないだろう。

と、まとめている。

 わざと飛ばしたのだが、長明はこの飢饉の原因を失政による部分もあると考えていたようだ。

 それが1180年の福原遷都である。
 飢饉の描写をその直後に持ってきていることからそれが推測できる。

 福原遷都とは、当時の政権の長だった平清盛が京都から大輪田泊(おおわだのとまり:現在の神戸港)の近くの福原に都を遷した出来事である。

 現代人の私などは内陸の京都より港湾都市の神戸に都があった方が貿易が盛んになって良いのではないかなどと思ってしまうのだが、当時の人はそうは思わなかったらしい。
 既に以仁王(もちひとおう)の挙兵事件があり、源平合戦が始まろうとしていたから尚更かもしれない。

 長明にとっても遷都は、

[原文]
 いと思いの外なりし事なり。
[現代誤訳]
 たいそう意外なことであった。

[原文]
 異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれえあえるさま、ことわりにも過ぎたり。
[現代誤訳]
 大した理由もなく都が遷されてよいはずもないので、これを世の中の人が深刻に憂い合っている様子は、至極当然のことである。

 と批判している。

 それでも官僚として出世したい人たちは遷都に従わざるを得ずに家を解体して船で福原へと運び、移転の費用がない者や平家に批判的な人たちは京都に残り、

[原文]
 ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲の想いをなせり。
[現代誤訳]
 旧都は既に荒れてしまって、新都はいまだ出来ていない。世の中の人は皆風に流される浮雲のように落ち着かない気持ちになった。

 という有様であった。

 結局この遷都は、
[原文]
 これは世の乱るる瑞相(ずいそう)とか聞きおけるもしるく、日を経つつ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれえついに虚しからざりければ、おなじ年の冬、なおこの京に帰り給いにき。
[現代誤訳]
 これは世の中が乱れる兆候と聞いていた通り、日を経るにつれて世の中が浮足立ち、人心が乱れ、人々の不穏な気持ちも無視できなくなったので、同じ年の冬、天皇は京都にお帰りになった。

 という結末を迎えた。

 既に源頼朝が挙兵し、遷都どころではなくなったのかもしれない。

 災害の話を長明は、
[原文]
 すなわち人皆あぢきなきことを述べて、いささか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いい出づる人だになし。
[現代誤訳]
 こんな次から次へと襲う災難に、人々は皆栄達や蓄財の虚しいことを語り合って、すこしだけ心の濁りも薄らいだと見えたのに、災害から月日が重なり歳月が経ってしまうと、もう誰もそんなことを云わなくなった。

 と、総括している。

 鴨長明は私利私欲を嫌い批判する人だが、意外なことに災害のときのそうした人々の振る舞いを描写していない。むしろ自分より愛する者を優先した結果命を落とした人々に深い同情を示し、その人々の様子に字数を割いている。
 そして当時の権力者である平清盛に対しては実名は出さないものの辛辣な批判を浴びせている。

 鴨長明の『方丈記』は、権力に阿り世に阿る現代の多くの報道関係者には書けないような一級品のルポルタージュであることに気付いた。(もちろん私の友達のA君のような尊敬できるジャーナリストもいるが。)
 『ルポ 絶望の都』である。
 現代にもこんな世捨て人のような反骨のジャーナリストが現れてくれないだろうか。

 ここから先の話は、長明の自分の隠遁生活が如何に素晴らしいか、という自慢話が続き、齢62歳になってもなお俗欲から離れられない私には面白いとは思えない話なので、一応読了したことだけを報告しておく。

 もう少し時間が経って、自分の生命の有限性が痛感されるようになったとき、この部分は理解できるようになるのではないかと思っている。

「枕草子」を読む2-にくきもの-(新米国語教師の昔取った杵柄39)

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我鍋に綴蓋

 「枕草子」は随筆であるから、作者である清少納言のその場その場で感じたことが書かれている。
 基本的にそれは趣があったり美しかったりものが多いのは、彼女の仕えた中宮定子が不幸な生涯を送った反動であるという人が多い。
 いわば、「光と影」の「影」を書かなかった、というような。
 しかし、全段をつらつらと眺めるに、人間のしょうもない部分に触れたものも沢山ある。
 その中でも、当時の人々の何とも云えない人間臭さを感じることをできるのが第28段「にくきもの」である。 
 ただし、専門家によれば、当時の「にくし」という形容詞に現代語の「憎い」のような強い憎悪の気持ちは籠められていないという。
 私はこの段を紹介するに当たって、この「にくし」を何という言葉に訳そうか随分(10分くらい。私は大袈裟なのだ)考えた。そして思いついたのが「あーあ。」である。これはかなりしっくり来ると思うのでしっかり鑑賞していただきたい。
 では、開始である。

[原文]
 にくきもの いそぐ事あるをりにきてながごとするまらうど。あなづりやすき人ならば、「後に」とてもやりつべけれど、さすがに心はづかしき人、いとにくくむつかし。
[現代誤訳]
 あーあ。急いでいるときに来ていつまでもしゃべっている人。ぞんざいにしていい人ならば「後でね」と云えるのに、流石にエラい人にはそういうわけにもいかないし。あーあ。やだなあ。

[原文]
 すずりに髪の入りてすられたる。また、墨の中に、石のきしきしときしみ鳴りたる。
[現代誤訳]
 あーあ。硯の中に髪の毛が入って墨と一緒にすられちゃった。あーあ。硯の中に小石が入ってキーキー音が鳴っている。

 当時、女性の髪は床につくほど長かったから、硯で擦られた髪の毛は抜けた奴ではなく、生きて生えている髪の毛の先に違いない。「痛っ!」と思ったから発覚したのだろう。

 この後、急に病気になった人がいて医者を呼びに行くと捉まらず、あちこち探し回ってやっと来てもらったのだが当時の殆ど唯一の治療法である祈祷を始めた途端に半分寝被って(熊本方言です)むにゃむにゃやっている。あーあ。

 あんまり話題にしたくもないような人がへらへら笑いながら火鉢や炭櫃で手を炙ったり、暑いときは人のうちに来ているのにパタパタ扇子であちこち煽いで、だらしない着こなしでいる。これでもこの人身分高いんだよね。あーあ。

[原文]
 また、酒のみてあめき、口をさぐり、ひげあるものはそれをなで、さかづきこと人にとらするほどのけしき、いみじうにくしとみゆ。また、「のめ」というなるべし、身ぶるひいし、かしらふり、口わきをさへひきたれて、わらわべの「こう殿にまゐりて」などうたうやうにする、それはしも、まことによき人のし給いしを見しかば、心づきなしとおもうなり。
[現代誤訳]
 また、酒を飲んで喚き、口を拭い、髭のある人はそれを撫で、盃を他の人に突きつけて飲酒を強要する様子は、あーあ、と思ってしまう。また、「俺の酒が飲めねえのか」ときっと云い、身震いし、頭を振り、口元を歪めて、子供が歌う「国府殿に参りて」を歌うようにするというような完全に酔漢しかしないようなことを本当に身分の高い方がなさるのをみるとげっそり来る。あーあ。

[原文]
 物うらやみし、身のうへなげき、人のうへいひ、つゆちりのこともゆかしがり、きかまほしうして、いいしらせぬをば怨じ、そしり、また、わづかに聞きえたることをば、我もとよりしりたることのやうに、こと人にもかたりしらぶるもいとにくし。
[現代誤訳]
 他人を羨み、自分の身の上を嘆き、他人の身の上の噂話をし、露や塵くらいのことも知りたがり、聞きたがって、云わないと怒り、けなし、また、わずかに聞き及んだことを、自分が元から知っていることのように他人にも知ったかぶりをして話している。あーあ、本当にもう。

[原文]
 物きかむと思ふほどに泣くちご。からすのあつまりてとびちがひ、さめき鳴きたる。
[現代誤訳]
 何かを真剣に聞こうとする途端に大声で泣く子供。烏が集まって飛び交い、ギャーギャー大声で鳴いている。あーあ。

 ここからはどうやら清少納言の恋人の話らしい。あーあ、の連続である。

[原文]
 しのびてくる人見しりてほゆる犬。あながちなる所にかくしふせたる人の、いびきしたる。また、しのびくる所に、長烏帽子して、さすがに人に見えじとまどい入るほどに、物につきさわりて、そよろといわせたる。伊豫簾などかけたるにうちかづきて、さらさらと鳴らしたるも、いとにくし。帽額の簾は、まして、こはじのうちおかるるおといとしるし。それも、やをらひきあげて入るは、さらに鳴らず。遣戸をあらくたてあくるもいとあやし。すこしもたぐるやうにしてあくるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子などもごほめかしうほとめくこそしるけれ。
[現代誤訳]
 人目を忍んで来てくれる人を知っていて吠える犬。あーあ。
 見つからない所に隠れさせている人が、そこで寝てしまっていびきをかいている。あーあ。
 また、こっそり来ているのに目立つ長烏帽子をかぶって、やはり人には見えないようにと急いで入ったのに、物にぶち当たってガターンと云わせている。あーあ。
 簾を上げるのにガサガサ音を立てるのも、あーあ、本当にもうっ。
 額隠しの簾も、簾の芯も、何に触っても大きな音を立てる。あーあ。
 すっとそのまま上げて入れば少しの音もしないのに。あーあ。
 遣戸を荒く開けて音を立てるのも大層不調法だ。あーあ。
 ちょっと手繰るようにして開ければ音などしないのに。あーあ。
 障子なども下手に開けるとガラガラ音を立てるのよ。あーあ。

 繊細な少納言の恋人にしては相当ガサツな人らしい。こういう人には「忍ぶ恋」は似合わない。

 この人はこの少し後にも「あーあ。」というようなことをしている。

[原文]
 わがしる人にてある人の、はやう見し女のことほめいい出でなどするも、程へたることなれど、なおにくし。まして、さしあたりたらんこそおもいやらるれ。されど、なかなかさしもあらぬなどもありかし。
[現代誤訳]
 私の好きな人が、元カノのことを褒め始めたりしたのも、もう時間が経っていることだけれど、それでも、あーあ。
 まして、まだそれほど時間が経っていない話だったらもうげっそり。でも、そんなことは流石にしないでほしいし、しないよね。

 これもよく見ると恋人のことを云っているのではないか。

 オンボロ車で外出するのでその音が噂になっている。あーあ。
 自分のことばっかりしゃべってこっちの話は聞いてくれない。あーあ。

 というか、前半の礼儀知らずや酔漢もこの人の描写ではないかと勘繰ってしまう。

 この二人、長続きしたのだろうか。

 それ以外には、
 子供連れできたので可愛がったり物をやったりしたらずっと来るようになって居座っている人。あーあ。
 会いたくないから狸寝入りしているのに無理やり起こそうとする侍女。あーあ。
 自分もよく知らないくせに新人にやたらと教えたがるまだ経験の浅い人。あーあ。
 くしゃみしてまじないをする人。あーあ。
 人の家に来ていて大きなくしゃみをする人。あーあ。
 犬が声を合わせてオーン、オーンと遠吠えをする。あーあ。気持ち悪い。不吉。

[原文]
 あけて出で入る所たてぬ人、いとにくし。
[現代誤訳]
 開けて出入るところで音を立てない人。あーあ。本当に。

 って、あんた、恋人がやたらと音を立てるって云って怒っていたよね。

 だいたい「あーあ。」で済むことだと思うのだが、ネットに口語訳を上げている人は結構「ムカつく」「しゃくに障る」などと憎悪℃を上げているようだ。
 不寛容な現代社会らしい。

 ただ、わざと飛ばしていたものが2つあって、これは私も「にくし」ではなく、「怨む」「忌む」というレベルの憎悪℃である。

[原文]
 ねぶたしとおもいてふしたるに、蚊のほそごゑにわびしげに名のりて、顔のほどにとびありく。羽風さえその身のほどにあるこそいとにくけれ。
[現代誤訳]
 眠たいと思って寝ているのに、蚊がプーンと音をさせて、顔の辺りを飛び歩く。羽根の起こす風さえその身体相応に吹くのは「いとにくけれ」。

[原文]
 蚤もいとにくし。衣のしたにをどりありきてもたぐるやうにする。
[現代誤訳]
 ノミも「いとにくし」。着物の下をピョンピョン跳ね歩く。

 この2つは敢えて「殺したいほど憎らしい」と訳したい。
 

「枕草子」を読む1-ありがたきもの-(新米国語教師の昔取った杵柄38)

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瀬少納言

 「徒然草」ばかり取り上げて「枕草子」のことを忘れていた。

 ちと失礼な云い方をすれば、「徒然草」が中高年男性の云いたい放題だとすると、「枕草子」は女性の云いたい放題である。 「中高年」かどうかと云えば、「枕草子」の執筆は清少納言の30歳前後から始まっているようだから、40歳で「媼」の当時としてはやはりそうであろう。

 ただ、序段の「春はあけぼの」などはそういった感じのしない格調高い章段なので、ここは現代人が見ても「あるある」と頷きたくなる「ありがたきもの(第72段)」を取り上げよう。

 「ありがたきもの」などと聞くと古文初学者は「ああ、感謝すべきもの、か。何だか全ての人に感謝感謝というような『ありがたいお話』なんだろうな。」と、日曜の早朝から放送されているラジオ番組のような内容を連想して「読むのやーめ」ということになるかもしれない。
 したがって早めに言葉の壁を取り除いておこう。
 古語での「ありがたし」は「滅多にない」という意味である。ここから「滅多にない好意に感謝する」という「ありがたい」「ありがとう」という意味に変化していったと思われる。
 したがって「ありがたきもの」は「滅多にないもの」と訳するのが適当である。

 では、どんなものが「ありがたきもの」なのだろうか。

[原文]
 ありがたきもの、舅に褒めらるる婿。
[現代誤訳]
 滅多にないもの。岳父に褒められる婿殿。

 私は今妻の実家に寄生して「マスオさん状態」だが、岳父は私のちょっとした行為に対してすぐ「ありがとう」と感謝の言葉を口にする。大したことをしていないのに心苦しいくらいである。ただ、確かに褒められたことはない。あるある。

[原文]
 また、姑に思わるる嫁の君。
[現代誤訳]
 また、姑に可愛がられるお嫁さん。

 これは女性の方がよく分かっていると思うので敢えて触れない。

[原文]
 毛のよく抜くる銀の毛抜き。
[現代誤訳]
 毛のよく抜ける銀の毛抜き。

 これは激しく同意である。銀製の毛抜きなど使ったことがないが。
 ただ、銀に限らず、鉄製でもよく抜ける毛抜きに出遭うことは大変珍しい。10本買って1本もないだろう。
 だいたい最初から毛が上手く掴めないか、もしくは掴んだ毛が切れてしまうかして抜けない。
 一度「関の包丁職人が打った」という触れ込みの毛抜きを安くない値段で買って使ったことがあったが、3日くらいで噛み合わせがおかしくなり、ツルツル滑って全く抜けなくなった。通常の物より嚙合わせるときに重くて力が要るだけだった。

 そして、「ありがたきもの、何処かへ行かぬ毛抜き。」と云う一節も付け加えたい。毛抜きとビニール傘は普通なくなるものである。

 ちなみに私には耳毛を抜く習癖がある。お年寄りなどで耳毛が長く伸びている人などを見るとゾッとするからだ。自分が思っている風に他人から思われたくない。
 ところが上の娘によるとこの婿殿も耳毛を抜く習癖があるという。したがって私と同様「毛の抜けぬ毛抜き」問題と「どこかに行ってしまう毛抜き」問題に悩まされているに違いない。
 あるある。

[原文]
 主そしらぬ従者。
[現代誤訳]
 雇い主を貶さない雇われ人。

 これも雇用被雇用の関係が続く限り読んだ人が永久に共感し続ける一節なのかもしれない。
 ただ、自分から水を向けてさんざん悪口を煽った後で「あやつらあげなこと云うてましたばい(なぜか熊本弁)。」などと上に報告する生まれついてのシブタレ(©白戸三平)もいるから同志友人諸君は注意されたし。
 あるある。

[原文]
 つゆの癖なき。
[現代誤訳]
 露ほどの癖もない人。

 この部分は正直何を言っているのか分からず指導書を見たのだが、下に「人」が省略されているのだ。平安時代の文章はこれだから難しい。
 これは「ありがたきもの」というより「あらぬもの」だろう。癖のない人間などいるはずがない。
 あるある。

[原文]
 かたち、心、ありさますぐれ、世に経るほど、いささかのきずなき。
[現代誤訳]
 容姿、心、そして態度が優れていて、年を取っていっても、少しの欠点も見せない人。

 人と深い付き合いを一切しなければこういう自分を演出することは可能のような気もする。が、外見だけでもそんなに素晴らしい人だったら仲良くなりたいという人がどんどん増えていって結局ボロが出るか。
 あるある。

[原文]
 同じ所に住む人の、かたみに恥じかわし、いささかの隙なく用意したりと思うが、ついに見えぬこそかたけれ。
[現代誤訳]
 職場や住居が同じ人で、互いに気を遣って、少しの隙もない心構えだと思う人でも、遂にボロが見えないということは難しい。

 やはり距離が近くなればなるほど欠点が見えてくるものだ。
 あるある。

[原文]
 物語、集など書き写すに、本に墨つけぬ。よき草子などは、いみじう心して書けど、必ずこそ汚げになるめれ。
[現代誤訳]
 物語や歌集などを人から借りて書き写すときに、本に少しの墨もつけないこと。価値のある本などはたいそう用心して書くのだが、そういう本に限って必ずと云っていいほど汚してしまうようだ。

 一度図書館から借りた本が紛失してしまい、部屋のあちこちを探していたら洗濯機の中から出てきたことがあった。いつの間にか服と一緒に洗濯してしまったのだ。
 係の人に謝罪して許してもらったが、結構高い本だった。個人の責任に五月蠅い今なら弁償させられるところだろう。
 個人から借りたものはあまり傷まないが、公共の物は急速に傷んでいく。これも不思議である。
 あるある。

[原文]
 男女をばいわじ、女どちも、契り深くて語らう人の、末までなかよき人かたし。
[現代誤訳]
 男と女の仲は云うまでもないが、女同士でも、関係が深くて親しく付き合っている人で、ずっと後まで仲がいい人というのはなかなか居ないものだ。

 婿舅、嫁姑に限らず、人間同士が仲良くやっていくのは難しい。

 「万のことは頼むべからず」という兼好法師の想いはこの女性にもあったようだ。

 ところでこの段の合いの手はずっと「あるある」だったが、よく考えてみれば「ありがたきもの」なので「あるある」は変である。「ないない」だと合いの手にならないし。「ありがたし、ありがたし」か。何だか私の生まれる一年前に流行った歌謡曲のようである。上手い合いの手を考えて入れてください。

 ちなみにこの段は後世の人も面白いと思ったらしく、いくつもパロディがある。

 たとえば「犬枕」(意味は「偽枕草子」)の「うれしきもの」
[原文]
 人知れぬ情け。謎立て解きたる。町買いの掘り出し。思う方よりの文。あつらえ物のよく出で来たる。月夜に金拾いたる。
[現代誤訳]
 思いがけなく異性から好かれていたとき。なぞなぞが解けたとき。たまたま掘り出し物を買えたとき。好きな人からの手紙。着物を作らせたらいい出来だったとき。月夜に金を拾ったとき。

 ほかにも「尤之双紙(もっとものそうし)」(題名そのものが「枕」の偏を取ったパロディになっている)の「こわきものの品々」。

[原文]
 神鳴り。地震。山伏の祈り。くちなわ。蛇のすむという淵。いため革。生煮えなる煎海鼠(いりこ)。ゆですぎたる蛸。名さえ強飯(こわいい)。虎。狼。讒者。
[現代誤訳]
 雷。地震。修験者の祈り。蛇。蛇の棲むという川の淵。武具の革。生煮えの干海鼠(ほしなまこ)。茹ですぎた蛸。名前さえ強飯というのだからおこわは云うまでもない。虎。狼。讒言(ざんげん:上役に同僚や部下の悪口を云うこと)する人。

 何だか「怖き」と「強き(固い)」を掛けているようで怖いものと固いものが混在している。
 神鳴り、地震、山伏の祈り、くちなわ、蛇のすむという淵、虎、狼、讒者は「怖きもの」、いため革、煎海鼠、ゆですぎたる蛸、強飯は「強きもの」として挙げてあるようだ。

 パロディが成立するためにはその元となったものの知名度・認知度が高いことが前提条件となる。「みんなが知っている」というものでなければパロディにしても誰も面白くないからだ。

 そう考えると「枕草子」が如何に日本人に愛されてきたかが分かる。




河童簡単韓国料理27-さっぱりポッサム進化形-(いやしんぼ117)

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ポッサム

 この文章は元々5年前に書いたものだが、当時食べていたポッサムよりもっと美味しいものを現在の私は食べているので是非紹介したい。さっぱりポッサム進化形である。

 ポッサムという韓国語はもともと「風呂敷で包む」という意味である。

 この料理はその名の通り茹で豚をいろいろなものと共にチマサンチュやエゴマの葉に包んで食べるものである。
 平壌あたりが発祥のポッサムキムチという名称のキムチもあるが、これもやはり松の実や栗や塩辛を白菜で包んで漬けたものである。

 いずれも抜群に美味しい。
 だから私の中では「ポッサム」と聞くとイコール「美味い」という連想である。

 ただ、この韓国語には隠された別の意味もある。

南大門で拉致される

 それについてはかつて自分が南大門で客引きに拉致された経験と絡めて書いたことがある。

88以前の韓国旅行記を記憶遺産に4-南大門でつかまえて-(河童亜細亜紀行4)

 当時私はこう書いた。

 そういえば、韓国にはかつて「ポッサム」という風習があった。朝鮮王朝時代、未亡人は国法で再婚を禁じられていたが、「ポッサム」された場合にはその限りではない。「ポッサム」というのは人の頭の上から袋をかぶせて拉致することである。この手続きを経ると未亡人は自分からなびいたのではなく無理強いされた、ということになり、再婚が認められる。

 つまり、ポッサムには「拉致」という意味もあるのだ。

 なんでも朝鮮時代には男をポッサムする風習もあったという。これは未婚の娘の運勢を占って再婚の相が出ると、未婚の男を道端からポッサムしてきて一夜を共にさせ、娘が初婚でも実質的に再婚にしてしまうというものだ。ポッサムされた男は一夜の快楽の代償として口封じのために殺されたというから、恐ろしい「ポッサム」である。

 未亡人の「ポッサム」がどこか人間らしい感じがするのに対して、こちらは迷信に基づいたエゴしか感じない。

 閑話休題(はなしをゆでぶたにもどせば)。

 他の韓国料理と同様、一見無造作に見えて実は手がかかっているのは、ポッサムも同様である。
 あっさりさっぱりに見えて、単に豚を茹でたものではなくて、ひと手間二手間かかっている。

 ただ、元々肉食民族でない日本人はこのポッサムに対してどうしても「豚臭さ」、ひいては「獣臭さ」を感じてしまう人がいるらしい。
 上の娘などはそうである。
 私は基本的には大丈夫なのだが、やはり「ん?」と感じてしまうときがあった。

 そこでヒントになったのが「セウジョッ」である。つまりアミのソースだ。
 これは韓国のコンビニなどで売られているものには普通に付いている。
 つまり、韓国人にも「豚臭さ」「獣臭さ」が嫌いな人が結構いる、ということではないだろうか。
 そしてこれを軽減または解消するために海の幸を利用しているのだ。

 これをとことん追求したのがWell肉桂流「魚介五人衆ポッサム」である。

 では、レシピである。

[材料]
1.豚モモブロック。豚バラブロックでもよいが、そろそろ脂っこいものが苦手になってきた諸氏には腿がお勧めである。
2.大蒜、生姜、深葱、玉葱。
3.進化形ではここにオイスターソース、鮑オイスターソース、セウソース(蝦ソース)、イカナゴソース、イワシソースをティースプーン1杯ずつ入れる。
 これはいずれも韓国食材店や食品スーパーでそう苦労せずに手に入る。
3.水、舐醤(テンジャン)または味噌、水飴、日本酒、赤酒、塩胡椒。

[製法]
1.豚モモを2.と一緒に3で茹でる。圧力鍋を使えば時間が短縮できる。
2.冷えたら切る。
3.季節によってはこれを電子レンジで温めた方が美味い。


 キムチ、サムジャン(野菜を食べるための付け味噌)などと一緒に葉っぱで巻いて食べる。葉っぱはチマサンチュ、エゴマの葉、白菜、大葉など。
 韓国で売っているポッサムにはセウジョッ(蝦の塩辛)を原材料にしているソースが付いているが、これは初期調理の段階で魚介類がたっぷりと隠し味になっているので、不要だと思う。

 暑い夏にぴったりのWell肉桂流ポッサム進化形、是非ご賞味あれ。


古文書の3つの壁(新米国語教師の昔取った杵柄37)

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 草書体

 次の文章は「ディスカバー柳川19-柳川古文書館-(河童日本紀行59)」という題で2012年に紀行文として発表したものである。

 私は2024年現在高校生相手に古文を教えているが、古文読解の一助となればと考え、再掲する。

 三宮神社(仮名)を出た私は、柳川古文書館(実名)に向かった。

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 現在古文書館では「立花家と家臣団」という企画展が行われている。

 私が行ったときは第1期の「立花家を支えた家臣たち」8月28日(火)~10月25日(木)が行われていた。このブログの立花家についての記述はほとんどこの企画展を見ての付け焼刃の知識による。
 意外に(といっては失礼だが)入場者が多く、特に若い女性の姿が目立った。 

 第2期「立花家、近世大名への道のり」は11月28日(水)~平成25年2月6日(水)の期間で展示が行われるようだ。楽しみである。
 写真撮影禁止なのが残念だったが、古い紙などはカメラのストロボやフラッシュの光で劣化するそうだから、仕方がない。

 古文書は本当はとても面白い内容なのだが、そこに行き着くまでに3つの壁が立ちはだかっている。 

 まず、「変体仮名」の存在である。たとえば、花札の絵の赤い幟には「あのよろし」と書いてあると多くの人が思っていると思うが、実はあれは「あかよろし」と書いてあるのである。「の」に見えるのは「可」の草書から変化した「か」の変体仮名なのだ。私たちは通常は「加」の草書から変化した「か」という仮名を用いている(つまり私たちのスキーマに「可」からの変体仮名がない)ので、とっさに認識できない。
 さらに漢字も草書(崩し字)である。 筆順を知っていればある程度は元の字が推測できるのだが、まったく推測不能なものはこれも覚える以外にない。

 古文書に興味を持った人100人のうち99人がこの段階で壁に当たり、去っていく。私もその一人である。

 実際、私が古文書館の図書室(ここは蔵書がとても充実していて、古銭収集家のバイブル『三貨図彙』を発見して読むことができる至福の時を過ごした)で読書していたとき、ある人が古文書を持ち込んできて、学芸員の人に調べてもらったのだが、これが学芸員の人にも読めない代物だった。資料を閲覧に来ていたその道の達人のような人もそれを見るが、読めない。なんでも持ち込んだ人の話では「篆刻の先生に聞いたが読めない部分があるから読んでもらおうと思って来た」とのこと。プロにすら読めないのである。いわんや素人をや。

 第二の壁は古文の壁である。

 生の古文書が活字に変えてあったとしても、今度は意味を取らなければならない。古語と言っても、時代によって意味が違う。時代が遡るほど現在の意味と遠い語があるから、これも古語辞典と首っ引きになる。 語の意味を調べているうちに前に読んだ部分を忘れてしまう。

 私はとりあえず国文科を出ているから、この段階までくればどうにか意味はわかる。が、到底「楽しい」と思えるところまではいかない。辞書を読んでいるのか文章を読んでいるのか分からなくなる。受験勉強以外で、少なくとも趣味でやりたい作業ではない。

 第三の壁は時代の壁である。

 その文書に書いてあることは分かっても、当時の人のものの感じ方考え方、生活の背景などがわからないから、表面上の意味しか分からない。

 たとえば、 「〇〇氏ハ切支丹也」という文は「〇〇氏はクリスチャンだった」と訳せるが、戦国時代にクリスチャンであることと、江戸時代にクリスチャンであることの意味はまったく違う。前者は南蛮文化に触れて最新の思想を身に着ける意味があるだろうし、真ん中は禁令を犯して信仰を守り続けるという意味があるだろう。 

 この三つの壁を見事に超えて古文書館に集っている人々のことを羨ましく思いつつ、古文書館を後にした私であった。 

「捜神記」を読む-連理の枝-(新米国語教師の昔取った杵柄36)

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比翼の鳥

 次の文章は2013年に旅行記として書いた文章だが、大部分が「捜神記」という怪異物語の解説であり、漢文学習者の参考になりそうなので再掲する。

 長崎県諫早市の轟峡で甘くて美味しい水を汲んだ私たち夫婦である。

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 「森林の創造の神が育んだ不思議スポット!!」という写真入りの看板がある。 
 「相思相愛の木」と「子宝の木」である。
 前者に祈れば男女が相思相愛になれ、後者に祈れば子宝に恵まれるという。

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 「相思相愛の木」は「連理の枝」ともよばれている(というかこちらは分からない人がいるので「相思相愛の木」とわかりやすくしたのだろう)。 
 「連理の枝」は唐の詩人白居易の詩「長恨歌」の一節であり、古来から中国人のみならず日本人にも愛されてきたフレーズである。

[原文]
 在天願作比翼鳥   
 在地願爲連理枝    
[書き下し文] 
  天に在りては 願わくば 比翼の鳥と作(な)り
  地に在りては 願わくば 連理の枝と為(な)らん

 これは世界三大美女の一人楊貴妃が、安禄山の乱に巻き込まれて(というか乱の原因の1つが楊貴妃だったのだが)死ぬときに夫の玄宗へと託けた言葉である。

[現代誤訳]
 私は今陛下にお会いすることもかなわず死んでいきますが、どうかあの初めて契った夜に私たちが語り合った言葉をお忘れにならないでください。
 私たちが死んで天に召されたら、翼を連ねて飛ぶ二羽の鳥となりましょう。死んで草木に生まれ変わったら、違う木から生えても互いに絡み合う二つの枝になりましょう。
 生まれ変わって、また生まれ変わっても、ずっとずっと夫婦でいましょう。

 ここから、「比翼連理」といえば仲の良い夫婦の喩えとなった。

 「連理の枝」については「長恨歌」で有名だが、実は「捜神記」という怪異物語が初出である。

[原文]
 捜神記 巻十一 相思樹
 宋康王舍人韓憑娶妻何氏。美、康王奪之。憑怨、王囚之、論為城旦。妻密遺憑書、繆其辞曰、其雨淫淫、河大水深、日出当心。既而王得其書。以示左右、左右莫解其意。臣蘇賀対曰、其雨淫淫、言愁且思也。河大水深、不得往来也。日出当心、心有死志也。俄而憑乃自殺。其妻乃陰腐其衣、王与之登台、妻遂自投台。左右攬之、衣不中手而死。遺書于帯曰、王利其生、妾利其死。願以屍骨賜憑合葬。王怒弗聴。使里人埋之、冢相望也。王曰、爾夫婦相愛不已。若能使冢合、則吾弗阻也。宿昔之間、便有大梓木、生于二冢之端。旬日而大盈抱。屈体相就、根交于下、枝錯于上。又有鴛鴦雌雄各一。恒栖樹上、晨夕不去、交頸悲鳴、音声感人。宋人哀之、遂号其木曰相思樹。相思之名、起于此也。南人謂、此禽即韓憑夫婦之精魂。今睢陽有韓憑城、其歌謡至今猶存。
[書き下し文]
 宋の康王の舎人韓憑(かんぴょう)、娶(めと)りて何氏(かし)を妻とす。
 美なれば、康王これを奪う。憑怨めば、王これを捕え、論じて城旦(じょうたん)となす。
 妻密かに憑に書をやり、その辞をいつわりていわく、
「その雨淫淫(いんいん)として、河(かわ)大にして水深く、日出(い)でて心に当たる」と。
 既にして王その書を得たり。もって左右に示すも、左右その意を解するなし。臣の蘇賀(そが)答えていわく「『其の雨淫淫として』とは、愁(うれ)いかつ思うをいうなり。『河大にして水深く』とは、往来するを得ざるなり。『日出でて心に当たる』とは、心に死の志あるなり」と。
 俄(にわか)にして憑すなわち自殺す。
 その妻すなわち密かにその衣を腐(くた)す。王これと台に登るに、妻ついに自ら台より投ず。左右これを捕らんとするも、衣手に当たらずして死す。
 書を帯に遺(のこ)していわく、
「王はその生を利とし、妾(わらわ)はその死を利とす。願ねがわくは屍骨(しこつ)をもって憑に賜(たまい)て合葬(がっそう)せんことを」と。
 王怒りて聴かず。里人をしてこれを埋め、塚相望ましむるなり。
 王いわく「汝夫婦、相愛して止まず。もし能く塚をして合せしむれば、すなわち吾阻(はば)まざるなり」と。
 宿昔(しゅくせき)の間、すなわち大梓木(だいしぼく)の、二塚(にちょう)の端に生ずるあり。旬日(しゅんじつ)にして、大きさ抱(ほう)に盈(はら)みつ。体を屈して相付(あいつ)き、根は下に交わり、枝は上に交わる。
 また鴛鴦(おしどり)の雌雄おのおの一あり。恒(つね)に樹上に棲み、晨夕(しんせき)去らず、頸を交わして悲しみ鳴けば、音声(おんじょう)人を感ぜしむ。
 宋人これを哀れみて、遂にその木を号して「相思樹(そうしじゅ)」という。「相思」の名、ここに起こるなり。
 南人いう、「この鳥すなわち韓憑夫婦の精魂なり」と。
 今睢陽(すいよう)に韓憑の城あり、その歌謡今に至るもなお存す。
[現代誤訳]
 宋の暴君康王(こうおう)の下っ端の家来の韓憑(かんぴょう)が何氏(かし)という女と結婚した。ところが、人目を惹く美女だったので、康王がこれを奪った。韓憑がこれを恨んだので、王は韓憑を捕えて強制労働をさせた。
 韓憑の妻は
「雨ばかり降って、河が増水して深いのですが、陽光は私の心を照らしております」
という暗号めいた手紙を密かに夫宛てに送った。
 ところが、康王はこの手紙を手に入れてしまった。家来たちにこの手紙を見せたが、誰も解読することができなかった。一人大臣の蘇賀(そが)が解読できた。
 「『貴男とお会いすることができない哀しみ苦しみに沈んでおりましたが、よい方法を思いつきました。お互い死ねば来世でお会いできるのです。』という意味です。」
 韓憑は自殺した。
 韓憑の妻は、自分の服を薬品でこっそり腐食させておいた。王が彼女と高台に登った時、彼女は高台から飛び降りた。家来たちがこれを捕まえようとしたが、服がちぎれてしまってつかめなかった。こうして韓憑の妻は死んだ。
 韓憑の妻は帯の中に遺言を残していた。 
「王様は私が生きておそばにいることをお望みでしょうが、私は死んで夫と会えた方がよいのです。 私を哀れとお思いならば、夫と共に私の骨を葬ってください。」
 王は怒ってしまい、遺言の通りにしなかった。それどころか、夫婦の墓をすぐそばに別々に作った。
 「お前たち夫婦はお互いに愛し合ってるんだろう。その愛の力で2つの墓が一緒になれるものならなってみろ。私は邪魔立てしない(河童註:邪魔しとるやんけ)。」
 すると、一晩のうちに両方の墓のそれぞれから2本の梓の木が生えてきた。10日もたたないうちに大きくなり、この2本の木は根が絡み合い枝が絡み合って一つになった。
 しかも、オシドリの夫婦がこの樹上に棲みつき、朝夕悲しげに鳴いたが、その声は人の心を震わせるものであった。
 宋の人はこの夫婦を憐れんで、その木に「相思樹」と名付けた。「相思相愛」という言葉はこれが起源である。
 華南には「オシドリは韓憑夫婦の生まれ変わりだ」という言い伝えがある。
 今睢陽(すいよう:現在の河南省)というところに韓憑夫婦の住んだ街があり、夫婦に題材を採った歌謡がいまも残っている。

 いい話である。
 「比翼の鳥」の方にはこんなロマンティックな伝説はなく、一説にはこの2羽は片方は右側、片方は左側にしか目がないため、安全に飛ぶためには2羽で飛ばざるを得ないのだとか。「二人合わせて半人前」の私たち夫婦のようだ。ちょっと悲しい。

 閑話休題。
 妻に、
「行ってみる?」とお伺いを立てると、
「せっかくだから行ってみようか。2kmだし。」
ということで、「連理の枝」を見に行くことにした。
 ところが、しばらく行くとこんな看板が。

IMG_0685

 何のことはない。山道を2km歩かなければならないのだ。
 それは「仲良くなりたい」というだけで険しい山道を歩けるくらいだもの、「連理の枝」のご利益がなくても相思相愛になるに違いない。
 だいいち、男女がスポーツや運動を一緒にすると、心臓の拍動が早くなる。この胸のドキドキを「この人と一緒にいるからドキドキするんだ」と錯覚するそうだ。お化け屋敷に一緒に行く、などというのも同じ理由で恋するのに効果的だろう。
 私の場合は綺麗な女性と話をするとドキドキして頻脈発作と錯覚しそうになるから、美女は遠ざけているが(世界一の美女である妻は例外)。
  私たち夫婦が「相思相愛」をさらに深めるために「連理の枝」までえっちらおっちら登ったかどうか、敢えて秘す。
 さあ、いよいよ諫早市街地の観光である。 

「伊曽保物語」を読む-序文-(新米国語教師の昔取った杵柄35)

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河曾保物語

  以下の文章は「天草下島おかえり旅行6-コレジヨ館でイソップに会う-(河童日本紀行317)」という題名でちょうど10年前に掲載したものである。

 「伊曽保物語」について教科書などで初めて触れる人が誤解しそうなことについて触れているので有用ではないかと思い再掲する。


  崎津天主堂を過ぎて右に曲がると「アマクサ・コレジヨ・オラショー館(仮名:以下「オラショー館」)」である。
 私はもう15年ほど前「オラショー館」に来たことがあるが、特に面白い博物館だとは思わなかった。
 ところが、今回来てみると、素敵に面白い場所に変貌を遂げていた。
 何よりここで「伊曾保」に逢ったのは素晴らしい体験だった。
 「伊曾保」とは、言わずと知れた「イソップ」である。
 実は天草は「イソップ童話」が世界で最初に活版印刷された場所なのである。
 それもあの世界最初の活版印刷機である「グーテンベルク印刷機」によって。

伊曾保物語原本

 その1ページ目がこれである。
 私は以前中学生に国語を教えていたことがあって、熊本県の公立高校の入試にも「伊曾保物語」は出題されたことがあるから、この本の存在は相当前から知っていた。
 ただ、その外見からして、
「『イソップ童話』をラテン語で印刷したものなんだろうな…」と思っていた。中世のキリスト教徒はラテン語をその読み書きに使用していたからだ。したがって、入試に出題されたものは誰か日本人がこの本を翻訳したものだとおもっていたのだ。
 ところが、今回初めてこの本が日本語をローマ字表記して印刷されたものであることを知った。
 私のことをあまり知らない人は
「またまた…話を面白くしようとして…」と眉を顰めたかもしれない。
 だが、私をよく知る人は、
「さもありなん」と思ったに違いない。
 私は思い込みが強いのである。観念に囚われてしまうと なかなかそこから抜け出せないのだ。
 事実、「オラショー館」に展示されている「伊曾保物語」を改めて見たとき、
「ラテン語って妙に日本語と発音が似てるな…」
と思いながら文字を追っているうちに、
「これ、日本語じゃないか?」と疑ったのである。
 しかし、ローマ字読みしてもどうしても日本語に思えないので
「やっぱり俺の知らない言葉だな…」と思って読むのを放棄したのだ。「漢字仮名交じり文で書かれていないものは日本語ではない」という先入観が抜け切れない結果である。
 ところが、展示されている説明を読むと、これはやはり日本語をローマ字で表記したものらしい。 

[原文]
 Esopo ga xogaino monogatari riacu.Corevo Maximo Planvde toyŭ fito Gregono cotobayori Latinni fonyaku xerarexi momo nari.
 Evropa no vchi Phrigiatoyŭ cunino Troia toyŭ jŏrino qinpenni Amonito yŭ fatoga vogiaru. Sono fatoni  nauoba Eʃopoto yŭte, yguiŏ fuxiguina jintaiga vogiattaga, fono jidai Europano tencani cono fitoni maʃatte minicui monomo vorinacattato qicoyeta. Mazzu cŏbeua togari, manacoua tcubȏ xicamo dete, fitomino ʃaqiua tairacani, riŏno fȏua tare, cubiua yugami, taqeua ficŭ, yocobarini, xeua cugumi, faraua fare, taredete, cotobaua domoride vogiatta. Corerano ʃugata vomotte minicuicoto tenca busŏde atta gotoqu, chiyeno taqeta monomo cono fitoni natabu cotoua vorinacatta.

 疲れた。
 本当にこれは日本語なのだろうか。
 おそらくは「無知な日本人を神の御許に教化してやろう」という意図のもとに作られたものだろうから、できるだけ当時の現地の言葉を忠実に表記したもののはずである。
 そこで、とりあえず原文のローマ字を忠実にひらがなにしてみたい。

[平仮名]
 えそぽ が しおがいの ものがたり りあく。 これぼ せれぼ ましも ぷらんぶで とゆー ふぃと ぐれごの ことばより らてぃんに ふぉんやく せられし もの なり。
 えぷろぱ の ぶち ふりじあとゆー くにの とぅろいあ とゆー じょーりの きんぺんに あもにと ゆー ふぁとが ぼじある。その ふぁとに なうおば えしょぽと ゆーて、ゆぐいおー ふぃしぐいな じんたいが ぼじあったが、ふぉの じだい えうろぱの てんかに この ふぃとに ましゃって みにくい ものも ぼりなかったと きこいぇた。まっつ こーべうあ とがり、まなこうあ つぼー しかも でて、ふぃとみの しゃきうあ たいらかに、りおーの ふぉーうあ たれ、くびうあ ゆがみ、たくぇうあ ふぃくー、よこばりに、しぇうあ くぐみ、ふぁらうあ はれ、たれでて、ことばうあ どもりで ぼじあった。これらの しゅがた ぼもって みにくいこと てんか ぶそーで あった ごとく、ちいぇの たくぇた ものも この ふぃとに なたぶ ことうあ ぼりなかった。

 ますます疲れた。肩はもうパンパンである。
 なんだかこれは隠れキリシタンの祈り文「オラショ」そのものである。 
 だが、この呪文を何回か唱えていると、そのプロソディーは確かに日本語、しかも天草方言のようである。少なくとも九州弁だと考えれば何となく意味は分かる。

[漢字仮名交じり文]
 伊曾保が生涯の物語、略。これをセレボ・マシモ・プランデという人、グレゴの言葉よりラテンに翻訳せられしものなり。
 欧州の縁、フリジアという国のトロイアという城里の近辺にアニモという里がおじゃる。その里に名をば伊曾保というて、異形不思議な仁態がおじゃったが、その時代欧州の天下にこの人に勝って醜い者もおりなかったと聞こえた。まず、頭は尖り、眼は窄う、しかも出て、瞳の先は平らかに、両の頬は垂れ、首は歪み、丈は低う、横梁に、背は屈み、腹は腫れ、垂れ出て、言葉は吃でおじゃった。これらの姿を以て、醜いこと天下無双であった如く、知恵の長けた者もこの人に並ぶことはおりなかった。

 これでどうにか意味が分かった。「ぼじあった」が天草弁の「おじゃった」であることに気づいたのでぐっと楽になった。

[現代誤訳]
 イソップの生涯、略伝である。セレボ・マシモ・プランデという人がギリシャ語からラテン語に翻訳されたものである。
 ヨーロッパの涯、フリージアという国のトロイアという都市国家の近辺にアニモという郷がある。その郷にイソップといって、異様で不思議な御仁がおったが、その時代のヨーロッパ中探してもこの人より醜い人はいなかったそうな。まず、尖頭で、眼球は陥没しているのに眼窩は浅く突出し、角膜は扁平で、頬は下垂し、頸部は屈曲し、低身長で、肥満で、円背で、腹部は膨満して突出し、吃音だった。容姿の醜さは天下に並びないものだったが、知能でもこの人に並ぶ者はなかった。

 なるほど、たしかに「イソップ物語」である。
 「オラショー館」には「ESOPOの宝箱」という部屋があり、そこにはこの「伊曾保物語」の冒頭の描写そのままの人形が活躍するジオラマが展示されている。
 これは芸術的に相当レベルの高い作品であるだけでなく、素人が見ても楽しめる展示である。
 イソップが最後は高い身分になって、しかも殺されてしまったなど、子供のころに読んだ「イソップ物語」では知ることができなかったことなどもわかった。
 この展示の面白さに興味を惹かれた私は、その部屋で上映されている「天正少年使節団」のビデオも全部見てしまった。
 以前訪れた時には説明文をちゃんと読まなかったので今まで知らなかったのだが、「オラショー館」はかつて河浦町にあった大神学校「コレジオ」にちなんで作られた博物館なのである。
 「コレジオ」はもちろん現代英語の「college(単科大学)」の語源になった言葉である。
 かの天正少年使節も欧州から帰国してこの河浦の「コレジオ」で学んだそうで、その時に彼らが持ち帰った「グーテンベルク印刷機」を使用して「天草本」と呼ばれた「伊曾保物語」や「平家物語」などの書物が印刷された。これはもちろん本邦の書物が活版印刷された嚆矢なのだ。
 1500冊刷られた「伊曾保物語」のうち、現存しているのは大英図書館所蔵の1冊のみだという。
 展示は「伊曾保物語」だけだが、この調子だと「平家物語」も相当面白い表記にちがいない。

 Guionfŏgia no cane no coe fogiŏ mugiŏ  no fibiciari.

 祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり。

 こんな感じだろうか。 
 本当にこんな表記かどうかはまだ見たことがないのでわからないが。一度見てみたいものだ。  
 おもわず館内で売っていた「ESOPO」という絵本を買ってしまった私であった。
 その値段は吝嗇な私には随分と懐の痛むものであった。

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 しかし、包装紙が古地図というのも私には嬉しい。やはりいい買い物であった。

「十訓抄」を読む-大江山の歌-(新米国語教師の昔取った杵柄34)

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若き天才

 歳を取って才能が枯れてきたのを感じるのは寂しい。どう考えても10年前に自分が書いた文章の方が面白かったりする。落日とか黄昏という言葉が実感を以て迫って来る。
 今、海の向こうの仏蘭西では若い才能が次々と爆発している。不発のままに終わったり暴発してしまう人も稀にいるが、それも若さ故のご愛敬である。  
 自分にはもう二度と戻ってこない時間。当時は決して幸せを感じていなかったが、かといって思い出したくもない時間ではない。
 人の名前など、どころか、動物や植物や、筋や細菌の名前すら、一度見れば覚えられた記憶力。
 何を食べても美味しかった。健康だったからに違いない。
 新しい機械を見ても、ああ、こうすれば使えるんだな、とすぐ分かった。流動性知能が高かった。
 困っていたのは惚れっぽかったことで、これは今思い出しても恥ずかしくなるし、要らない「才能」だった。

 大抵の中高年には若さが羨ましいと同時に何かちょっと妬ましい時もある。

 ここに藤原定頼という中年男が居る。
 中年男と云っても、51歳で死んでいるから「当時としては」という形容が相応しいだろう。
 官僚としてもそれなりに出世したが、歌人として有名だった。

  百人一首にも歌を採られている。

[和歌]
 朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらわれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)
[現代誤訳]
 夜が明けて宇治川の川霧がしだいしだいに晴れてくるとうっすらと姿を現してくるのが瀬に林立している網代木なのだ。

 1000年の時を超えて宇治川の畔の風景が甦って来る素晴らしい叙景歌である。
 私の云っていることが嘘でない証拠にこの光景を絵にしてみたいものだが、残念ながら説得力のある絵を描く力量は私にはない。

 さて、定頼が出仕していた宮廷に、若い、というよりは幼い才能が母親によって送り込まれてきた。まだ年の頃13歳(推定)である。この時代の女の名前は残っていない。そんな時代だったのだ。通称は「小式部内侍(こしきぶのないし)」という。なぜ「小式部」というかといえば、彼女を宮中に送り込んだ母親が通称「和泉式部」だったからである。

 和泉式部もまた百人一首に歌が採られている。

[和歌]
 あらざらむこの世のほかの思い出に今ひとたびのあうこともがな
[現代誤訳]
 もうすぐ死んでしまう私はこの世の最後の想い出にもう一度だけあなたに逢いたい。

 この歌はまた1000年の時を超えて高見順の小説の題名「今ひとたびの」として選ばれ、映画化もされた。

 私にはもう少し私的な思い出があって、私がまだ小学生か中学生くらいの時、亡くなった父の元に関東地方に住む女性から手紙が届き、その内容がまさに「今ひとたびの」のだったのだ。
 当時は不治の病だった全身性エリテマトーデス(SLE)で、もはやいくばくも無かったらしい。
 父がその女性の所に行くことはなかった。
 子ども心に「どうせ死ぬんだから焼け木杭に火が付くこともないし、行ってやればいいのに。」と思った覚えがある。

 閑話休題(おおえやまいくののみちはよこみちにそれにそれにしいつものことだが)。

 さて、宮中に入った小式部内侍だが、幼いのに余りに巧みに歌を詠むため、母親が代作しているのではないかと云う噂が立ってしまった。

 そこで皆に唆されたのか、あるいは若き才能への嫉妬か、くだんの藤原定頼が「いらんこと」を云う。

[原文]
 「丹後へ遣わしける人は参りたりや。いかに心もとなく思(おぼ)すらむ。」
[現代誤訳]
 「貴女が丹後へ遣わした使いの人は帰ってきましたか。さぞかし心細いことでしょう。」

 当時母親の和泉式部は夫の橘保昌と一緒に丹後に行っていた。内裏のある京都からは150kmくらいある。交通の発達していなかった当時としては片道5日くらいかかる距離である。

 つまり、母親が遠くにいていつもの代作を頼めないから大変だね、と嫌味を云ったわけだ。

[原文]
 局の前を通り過ぎられけるを、
[現代誤訳]
 小式部の部屋の前を捨て台詞をして通り過ぎられたのだが、

 もし代作が事実だったとしても云わなくていいことであり、中年男の一番嫌なところが出てしまっている。

 ところが、強烈なカウンターパンチが飛んでくる。

[原文]
 御簾より半(なか)らばかり出(い)でて、わずかに直衣の袖をひかえて、
[現代誤訳]
 小式部はドア代わりの簾(すだれ)から半身だけ出して、定頼の服の袖をちょっとだけ摘まんで、

 とあるから、ほんの一瞬の早業である。

[和歌]
 大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立
[現代誤訳]
 大江山から生野の道までだって遠いのに、丹後までいけるわけないでしょ。

 この短時間に「生野」と「行く野」、「踏みもみず(踏み入れたこともない)」と「(母親からの)文も見ず」と二つを掛けて投げかけられた歌に定頼は反応できず、

[原文]
 返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられにけり。
[現代誤訳]
 返歌をすることもできず、摘ままれた袖を振り払って逃げられてしまった。

 これは剣道で云えば「面擦り面」または「面切り落とし面」、柔道で云えば「内股透かし」または「隅落とし」など、達人でなければできない技である。

 そういえば今回の五輪で金メダルが決定した技(合わせ技一本の最初の技)が「隅落とし」だったのに驚いた。
 「隅落とし」別名「空気投げ」は伝説の柔道家三船久蔵十段が編み出した幻の技である。

   相手の袖以外のどこにも触れていないのに相手を投げ飛ばしてしまう技だ。

  私は隅落としは三船お爺ちゃんに取り巻きが迎合して初めて出来る技だと疑っていたから、世界で銀メダルを取るような人が真剣勝負においてこの技で倒されるのを目の当たりにして仰天してしまった。

閑話休題(みなさんくうきなげはじつざいしました)。

 百人一首に歌を採られるような歌人が返歌もできずに逃げ去ってしまったのだから、小式部がその後天才の名をほしいままにしたことは云うまでもない。

 ただし、小式部の大江山の歌は当意即妙で技巧的にも凄いと思うが、何か人間や自然の本質に触れたような感動的な歌ではない(お前、何様)。
 しかし、この天賦の才に人生経験が積み重なっていったとしたら、母親を凌ぐ歌の名手になったに違いない。

 だが、小式部にその時間は残されていなかった。
 
 母和泉式部の挽歌である。

[和歌]
   などて君むなしき空に消えにけむ淡雪だにもふればふる世に
[現代誤訳]
  どうしてあなたは煙になって虚空に消えてしまったの。淡雪だって触れようとすれば触れられるのに。

  我が子を荼毘に付して天に昇っていく煙を見ながら作った歌ではないだろうか。

[和歌]
   とどめおきて誰をあわれと思いけむ子はまさるらむ子はまさりけり
[現代誤訳]
   あの子は遺していく者の誰を心残りと思っていたのだろう。きっとこの子のほかにないだろう。きっとこの子に違いない。

  我が子の遺していった孫の顔を見ながら作った歌だと思われる。

  死因は1950年代に至るまで日本の若年女性の重要な死因の一つであり続けた出産死亡である。
   小式部は生年がはっきりしないので享年を正確に知ることはできないが、25歳前後らしい。

  「おもしろうてやがて悲しき大江山」である。

「徒然草」を読む4-万の事は頼むべからず-(新米国語教師の昔取った杵柄33)

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徒然草を読む

 あまりにも面白い「徒然草」、自制して3回で終わらせようと思ったが、読み進めるとどれもこれも面白いので、再開したい。第212段である。

[原文]
 万(よろず)のことは頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故ゆゑに、恨み、怒ることあり。勢いありとて、頼むべからず。こわき者先づ滅ぶ。財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失い易し。才(ざえ)ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇(あ)わず。徳ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき。君の寵(ちょう)をも頼むべからず。誅(ちゅう)を受くる事速すみやかなり。奴(やっこ)従えりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信あること少し。

 身をも人をも頼まざれば、是(ぜ)なるときは喜び、非なるときは恨みず。左右そう広ければ、障(さわ)らず、前後遠ければ、塞(ふさが)らず。狭(せば)き時は拉(ひしゃ)げ砕く。心を用ゐること少しきにして厳しきときは、物に逆(さか)い、争いて破る。緩くして柔かなる時は、一毛も損せず。

 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざるときは、喜怒これに障らずして、物のために煩わさず。

 兼好法師、何があった。
 この段、一言で云うと、「無頼」である。「ぶらい」と読む。
 現代では「一定の職業を持たず、不法なことをする人」という意味で使われるが、本来は「徒然草」のこの段のような心境を云う。

[原文]
 万のことは頼むべからず。
[現代誤訳]
 全てのことは当てにしてはならない。

 もう冒頭のこの文で作者が云いたいことは終わっていると思われる。
 深く肯じて本を閉じる。
 ところが大抵の人はそうならない。共感できない。だからその理由が述べられる。

[原文]
 愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒ることあり。
[現代誤訳]
 愚かな人は、物事を強く当てにするために、恨んだり、怒ったりすることがあるのだ。

 当てにしなければいい。期待するから腹が立つ。
 ごもっとも。
 だが、そんなことばかりじゃないだろう。当てにしていいことや当てにしていい人もいるはずだ。
 まだ納得できない人に、畳みかける。

 権威権力はどうだ。権力があれば大抵のことはできる。人を従わせられる。権威があれば皆を納得させられる。

[原文]
 勢いありとて、頼むべからず。こわき者先づ滅ぶ。
[現代誤訳]
 権威権力があるからと云って、当てにするな。何かあったら強い者から先に眼をつけられて滅ぶ。

 じゃあ金はどうだ。金があれば大抵のことはできる。権力には従わなくても金に従う人はたくさんいる。

[原文]
 財(たから)多しとて、頼むべからず。時の間に失い易し。
[現代誤訳]
 財産が多いからと云って、当てにするな。あっという間に失ってしまうことも多い。

 それなら才能はどうだ。金や権力がない一介の若者がのし上がっていくのは大抵これだ。

[原文]
 才(ざえ)ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇(あ)わず。
[現代誤訳]
 才能があるからと云って、当てにするな。あの才能溢れる孔子にさえ不遇の時があった。

 では、人徳はどうだろうか。人徳のある人の周囲には色々な人が集まってきて助けてくれる。一人の才能の何倍もの業績を挙げることだってある。

[原文]
  徳ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき。
[現代誤訳]
 人徳があるからと云って、当てにするな。孔子から有徳の人として尊敬された顔回は早くに亡くなってしまった。

 うーん。では上役の引き立てはどうだ。大した才能がなくても上役に気に入られてその引き立てで出世する人はざらにいる。

[原文]
 君の寵(ちょう)をも頼むべからず。誅(ちゅう)を受くる事速すみやかなり。
[現代誤訳]
 君主の寵愛を当てにするな。気が変わったらすぐに誅殺される。

 じゃあ、じゃあ、忠実な部下はどうだ。大した才能がなくても有能で忠実な部下のお陰で出世する人はざらにいる。

[原文]
 奴(やっこ)従えりとて、頼むべからず。背き走る事あり。
[現代誤訳]
 部下が忠実だからと云って、当てにするな。裏切って別の人の下に走ることがある。

 えーい、では、志はどうだ。「匹夫も志を奪うべからず。」と云うではないか。「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」だ。志があればいつかは実を結ぶ。

[原文]
 人の志をも頼むべからず。必ず変ず。
[現代誤訳]
 人の志も当てにするな。必ず気が変わる。

 契りはどうだ。男女の契り、親友同士の約束。これほど重いものはあるまい。

[原文]
 約をも頼むべからず。信あること少し。
[現代誤訳]
 約束も当てにするな。口先だけで信義があることは少ない。

 どないせえっちゅうねん、という時に、兼好法師はこう諭す。

[原文]
 身をも人をも頼まざれば、是(ぜ)なるときは喜び、非なるときは恨みず。左右そう広ければ、障(さわ)らず、前後遠ければ、塞(ふさが)らず。狭(せば)き時は拉(ひしゃ)げ砕く。心を用ゐること少しきにして厳しきときは、物に逆(さか)い、争いて破る。緩くして柔かなる時は、一毛も損せず。
[現代誤訳]
 自分にも他人にも期待しなければ、たまたまうまくいったときには喜び、うまくいかなかったときにも恨まなくて済む。左右が広ければ周囲とぶつからないし、前後が広ければ追い詰められない。人の器が小さいとひしゃげて砕けてしまう。
 思いやりがなくて厳しいと、人に逆らい、争って傷つく。寛大で柔軟な心でいれば、一本の毛すら抜けない。

 最初の一文では入ってこなかった兼好法師の言葉が、心に落ちる。
 特に「一毛も損せず」はいいなあ。私にとっては貴重な髪の毛だから。
 そうだよなあ。ついつい当てにするから厳しくなるんだ。当てにしないから優しくなれるんだ。

[原文]
 人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざるときは、喜怒これに障らずして、物のために煩わさず。
[現代誤訳]
 人は天地のエッセンスのようなものだ。天地には果てがない。人の本性もまた果てのないものなのだ。人の心が寛大で極まりがない時は、喜怒哀楽に心を揺さぶられることもなく、物事に煩わされることもないのだ。

 やっぱり全段鑑賞したくなってきた。

 しかも昔はこの段なんかちっとも面白くなくて「ちっ、ひねくれやがってこの糞坊主が」くらいにしか思っていなかったんだが、こちらの経験が足りなかったんだな。

 ということで、「『徒然草』を読む」シリーズはこれからもときどき復活するかもしれません。

「古今集」を読む-六歌仙-(新米国語教師の昔取った杵柄32)

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チャーリーはどこへ 
 以下の文章は熊本地震の直後、復興支援として

  熊本へ行こう78-JR三角線で行く三角西港リメイク3 川尻駅-(河童日本紀行550)

 という題で掲載したものである。

 主に酷鉄(仮名)川尻駅のことについての記述だが、そういえば終わりの方で六歌仙のことを紹介していたな、と思い出して再掲する。

 川尻駅は三角線開線より古い明治27年(1894)に開設された。 

 川尻は古くは港町として栄えた町である。
 かつての港は遠浅の干潟を必要とし、川尻は天然の良港であった。県北でいうと坪井川河口の百貫港がこれにあたる。
 ところが、船舶の大型化はもっと急激に深くなる海岸地形を必要とするようになったため、こうした古くからの港は近代的な港湾としての条件を満たさなくなった。
 熊本県が近代的な港湾の場所を選定する際、当初百貫港の整備が検討されたが、一転三角に築港することに決定したのは有名な話である。

 川尻は緑川の河口に位置するのが地名の由来だ。
 緑川は遠く宮崎との県境に源を発し、川尻で有明海に注ぐ。川尻では海水と淡水が入り混じる汽水域となる。

 汽水域では良型のスズキ、チンダイ(標準和名クロダイ) が釣れるため、ルアー釣りの好きな人たちの活動エリアになっている。 
 さらに、梅雨時には手長蝦、秋季にはハゼの好漁場として多くの熊本県民がこの付近の川を賑わしている。 

人の頭の自然モザイク

 川尻は県内の多くの土地と同じく良質の湧水があり、それを利用して酒造りが行われている。
 ここの酒造会社が年1回3月に開く「酒蔵祭り」には熊本県内の「えーちくらい(酒のみ)」たちが詰めかけるという話については「10数年ぶりの川尻酒蔵祭り」を参照してほしい。 
 また、ここの酒造博物館には全国の酒飲み垂涎のお猪口がたくさん展示されていた。地震の被害は大丈夫だったのだろうか。
 今日「天草陶器市」に行って初めて思い出した。今は実家の復旧に忙しいとはいえ、薄情な話である。

川尻駅にて

 川尻はかつて「包丁の街」であったが、今でも手打ちの包丁を作っている店はすっかり減ってしまった。 
 それでも、その切れ味は「名刀」に比することができる。

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 熊本は武張った土地柄だから、かつては刀鍛冶(刀工と言わないと怒られるかな)がたくさんいた。
 その一つの成果が玉名で打たれた名刀同田貫である。 装飾のほとんどない、刃幅の広い実用的な刀である。熊本の工芸品にはそうしたものが多い。ちょっと熊本の人間に似ているのかもしれない。

 武士の世の中が終わると、刀鍛冶の多くは包丁鍛冶へと転職した。現在でも県内のあちこちで手打ちの包丁が作られ、どこのものも新聞紙程度だったらスパスパ切れる素晴らしい切れ味である。
 ただ、包丁製造のメッカ岐阜県関の包丁屋さんに以前聞いた話では、熊本の包丁には共通の弱点があるそうだ。 
 それは、鍛造地が海の近くにあるため、どうしても塩分が混入することなのだという。したがって熊本の包丁はよく切れるが、同時に錆びやすい。
 ただ、これには有効な対策がちゃんとあって、 使用後収納する前に全体に熱湯をかけてから綺麗に拭き取るとよいのである。
 取り扱いがちょっと面倒なところも、熊本包丁は熊本人に似ているのかもしれない。 

包丁を研ぐ


 川尻町にある今村家住宅は西南戦争で反乱軍の宿舎になったといわれる。
 人心収攬に長けた西郷さんも熊本隊や協同隊の指揮には手を焼いたかもしれない。
 熊本人で反乱軍に参加したのは3500人くらいだが、このなかに熊本隊や協同隊のほかに滝口隊、人吉隊など指揮系統が別の集団が6つもある。
 現代の私たちから見れば、士族反乱に自由民権を掲げる協同隊が参加しているのも不思議だが、それ以外の隊が同じ指揮系統にいないのも不思議である。

 「肥後の鍬形」という言葉を思い出す。「熊本人は一人一人が(鍬形の標のついた)兜を被った大将」という意味である。
 熊本地震から半年が経ち、そろそろ良い意味でも悪い意味でも熊本人気質が頭をもたげてくるころである。
 復興に向けて、たとえそれぞれの兜は被ったままでも、心はひとつに頑張っていきまっしゅい(言葉が既に熊本弁ではないが)!

 川尻町のもう一つの名物は、「川尻六果匠」と呼ばれる6件の菓子屋である。
 このブログは基本的に店の宣伝はしないのが方針だから、このうちの一軒の店主で土曜の「明日がアールKKラジオ(仮名)」に出演している人の話がムチャクチャ面白いことだけ紹介して、後はおそらくモジリの元になったであろう「六歌仙」の話をする。

 六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集』の序文に記された六人の歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主の六人を指す(Wikipediaより引用)。
  
  まず、僧正遍昭。
[和歌]
  天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ 
[現代誤訳] 
  千の風よ。天に通ずる道を吹き閉ざしてくれ。天女がもう少しだけ天に帰れないように。


  ちらっと垣間見たこの世の人とは思えないほどの美少女。それが去っていく後ろ姿への未練。助平な人である。だが、厳格な儒学徒(嘘)である私にもほんの少しだけ気持ちのわかる歌だ。


  在原業平。
[和歌]  
  世の中にさらぬ別れの なくもがな千代もといのる 人の子のため
[現代誤訳]
  世の中に避けられない別れなんてなければいいのに。親に千年でも生きてほしい人の子のために。


  この歌に触れるといつも亡き父と年老いた母を思い出す。死生の別は人間がどうやっても逃れられない定めとはいえ、やはり辛い。
 
  文屋康秀。
[和歌]
  春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき
[現代誤訳]
  春の陽の光を浴びる私だが、白髪が陽に透けて輝いているのが老いを感じさせて侘しいものだ。

  ご同輩、お互い髪の悩みは辛いものでござるなあ。

  喜撰法師。
[和歌]
  わが庵は都の辰巳しかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり
[現代誤訳] 

  宇治山にある私の住処は都の東南の鹿の棲むような、ど田舎。世捨て山と世間の人は言う。

 鹿は出ないが猿や狸は出るわが三角町。 猛獣である猪が出ないことを祈る。ただし、私は世を捨てたりしていない。

 小野小町。
[和歌]
  うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき
[現代誤訳]
 ちょっとしたうたた寝に恋しいあの人が現れてから、 夢というものを信用するようになった。

 恋をするとなぜか相手の顔を思い出そうとしても思い出せなくなる。 仕方がないので顔を確認するために逢いたくなる。そんな経験はありませんか。
 あ、妻の顔が思い出せない(って、テーブルの向かい側にいるし)。

 大友黒主。
[和歌]
  春さめのふるは涙か 桜花散るを惜しまぬ人しなければ
[現代誤訳]
 春雨が降るのは世の人の涙だろうか。桜花の散るのを惜しまない人はいないのだから。 

 桜に関する歌はどこかせつない。遠く時間を隔てているのに桜花になぞらえられた人々を想ってしまう。

川尻駅

 次はー、富合ー、富合ー。

「源氏物語」を読む-「源氏物語」のヘンな熊本人-(新米国語教師の昔取った杵柄31)

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河童の失恋

 この文章はもともと2011年に書いた文章である。
 「堤中納言物語」と同じく、完全に「国語」から遠ざかっていたときにわざわざ記事にしているので、よほど印象に残っていたのだろう。
 ということで、採録したい。


 国文科の学生や出身者でも『源氏物語』を読破した人は少ないだろう。
 「須磨源氏」といって、「須磨の巻」あたりで挫折してしまう人がほとんどである。
 私も源氏の君が亡くなってからは急速に興味を失ったが、意地で読破した。
 根気のない私が人に自慢できる数少ない「業績」である。
 ただ、この物語には九州人(というか熊本人)から見ると非常に不快な人物が登場する。
 それは「肥後の大夫監(ひごのたいふのげん)」と呼ばれる人物である。
 源氏の君の恋人の一人である「夕顔」は、源氏との逢瀬の最中にやはり彼の恋人の一人「六条御息所(ろくじょうみやすんどころ)」の生霊に襲われて死んでしまう。
 この夕顔に子供がいて、これが「玉蔓(たまかずら)」である。玉蔓は母親の死によって都落ちして九州の筑紫(今の福岡県)で育つ。
 この玉蔓に恋して猛烈なアタックをかけるのが肥後の大夫監である(肥後は現在の熊本県)。
  肥後の大夫監は玉蔓にラブレターを送るのだが、教養がないからラブレターで歌われる和歌もメチャクチャらしく、それを見た都人たちからあきれられ、笑いものにされる。
 私も肥後の大夫監と同じくらい教養がないから、彼の和歌のどこがメチャクチャなのかがわからない。
 とにかく、「田舎モンが身分不相応なことしはって、いややわ」という雰囲気だけはよく伝わってくる。
 人が真剣に書いたラブレターをみんなで回し読みしてバカにしているのも嫌な感じだ。
 とうとう玉蔓は大夫監が嫌で九州を逃げ出し、上洛する。
 その途中で玉蔓が隠れたという「玉蔓古墳」が佐賀県にある。
 玉蔓はやっと京都に辿りつき、源氏の保護下に入り、安心する。
 熊本・佐賀・福岡の中で、熊本だけが悪者である。
 「末摘花(すえつむはな)」の話もそうだが(この話はそのうちにまた)、「あんたみたいな田舎モンの成金の正妻より、源氏はんの愛人のほうがよっぽどマシやわ」という京女たちの心が、柳原白蓮に逃げられた伊藤伝衛門を思い起こさせる(この話もまた今度)。
 「田舎者の何が悪かっか!」とキレそうになる『源氏物語』である。
 ところで、この項を書くにあたって、私は「肥後の大夫監」を「筑紫の大将」だと思いこんでいて、その名称で投稿する寸前だった。
 どうもヘンな感覚に襲われてネットで調べてみて記憶違いだとわかった。
 『源氏物語』には「筑紫の大将」なる人物は登場しない。
 「髭黒の大将」と玉蔓が筑紫で育ったことが入り混じって記憶が変容したらしい。
 無意識の中で「肥後」のついた名前の人物がバカにされるのが許せなかったのかもしれない。
 都合の悪いことは隣国に押し付ける心情は私の中にも根強くはびこっているようだ。(引用終わり)


 今読むと、私が暮らした8年間の関西という土地に対する怨念にも近いものが籠っている気がする。

 正直私が東京の大学に進学して、同じように8年間暮らしていたら、ここまで屈折した感情はなかったのかもしれない。
 要は私の「同じ田舎モンなのにふざけんな!」という関西人に対する反感があったのだろう。

 これは人生の一時期を関西で暮らした九州人が普通に感じるものではないか。
 
 もう30数年前のことだが、私は某新聞に自分の出身大学であるガラパゴス大学が「地方の大学」と書かれた記事を見つけたとき、ムッとすると同時に、何だか「スカッ!」とする感覚があったのを覚えている。

 「いつまで『都』のつもりじゃい!(なぜか出身不明の方言)」というか。

 日本の首都は東京である。
 政治の中心も、経済の中心も、文化の中心も、少なくとも国を成り立たせていく重要指標の全ては東京に集中している。

 そして関西は、いまや私達九州と同じく、一地方である。

 奈良も、京都も、大阪も、兵庫も、福井も、和歌山も、福岡や、大分や、長崎や、佐賀や、熊本や、宮崎や、鹿児島と同じく、一地方なのだ。

 私はそのことに関して、「良くない」と思っている人間である。

 一極集中は価値観の単一化を生むし、何かあった時に国全体が立ち直る力を弱めてしまう。

 私は日本が15年戦争の焼け野原から驚異的な復興を遂げられたのは地方の豊かな実力があったからだと思っている。
 東京が壊滅したときにも、地方には気の遠くなるような昔から培われてきた産業や文化や、そこから育った人材があり、それが復興の大きな力になったことは間違いない。

 しかし、地域への誇りが過ぎると他地域への優越意識や差別感情を育ててしまうことになる。

 私が8年間暮らした関西について回想するとき、懐かしさと共に何となくすっきりしない感情を覚えるのは関西人の意識的無意識的に持っているそうした感覚を思い出すからだろう。

 「源氏物語」の成立当時には関西は「都」そのものであったから、この物語の九州人に関する記述も止むを得ない部分もあったのかもしれないが。

 世界的に評価されている名作の熊本に関する部分しか覚えていないというのも酷い話ではある。

「徒然草」を読む3-出雲に丹波という所あり-(新米国語教師の昔取った杵柄30)

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感動すべきは神官の怪力

 散々文句を云ってすっきりしたところで、如何にも「徒然草」らしい段に行ってみよう。

  236段である。

[原文]
 丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく作れり。しだのなにがしとかや領(し)る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘いて、「いざたまえ、出雲拝みに。かいもちい召させん。」とて、具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゆしく信起こしたり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆゑあらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝の事は御覧じとがめずや。むげなり。」と言えば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言うに、上人なおゆかしがりて、おとなしくもの知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、さだめてならいある事に侍らん。ちと承らばや。」と言われければ、「その事に候う。さがなき童べどものつかまつりける、奇怪に候うことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直していにければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

 これこれっ。
 皆の衆、これが「徒然草」ですよ。

 聖海上人という偉い坊さんが、子分を沢山引き連れて丹波にある出雲の分社に参拝に行った。

 「いざたまえ」というのはこの時代によく使われた勧誘表現で、「さあ、どうぞ。」という意味。この場合は「さあ、行きましょう。」が適当か。

 「かいもちい」は「宇治拾遺物語」の「稚児のそら寝」にも出てくるが、「ぼたもち」らしい。蕎麦掻きという説もある。元々は「かきもちい」だったのが云いにくいので「かいもちい」になったらしい。学問的に云えばイ音便という奴だ。
 いくら偉い人の誘いでも、キャッチコピーが「牡丹餅を食べさせてやるよ」だから、集まってきたツアー客のレベルも知れているだろう。

 ところが、神社に行ってみると、門の所にある狛犬がお互いに顔を背けている。勿論普通は顔を見合わせているものだ。

[原文]
 上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深きゆゑあらん。」と涙ぐみて、
[現代誤訳]
 上人は大層感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方はとても珍しい。たぶん深い由来があるのだろう。」と涙ぐんで、

 多感な人である。私だったら狛犬の向きが違うからといって気付かないだろう。あるいは「ふーん…」と云って通り過ぎるか。私は現実肯定の強い大陸的な男なのだ。
 ここまではまあ、感激屋なんだなあ、で済んでしまうのだが、ここから「やっぱりエライ人ってやだなあ…」と思わせる台詞が出てくる。

[原文]
 「いかに殿ばら、殊勝の事は御覧じとがめずや。むげなり。」
[現代誤訳]
 「どうですか、皆さん。こんな有難いことがあるのに誰も気づかなかったんですか。あんまりじゃあありませんか。」

 この辺り、ご宣託を垂れるのが好きなセンセイの口調を真似て訳してみた。
 いいじゃんか、気付かなくても。気付かない方が幸せなことは沢山あるぞ。

[原文]
 各々怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言う
[現代誤訳]
 人々はそれぞれ不思議に思って、「聖海センセイのおっしゃる通りです。本当に他の神社と違いますなあ。都への土産話にしましょう。」などと云う

 この辺り、センセイの取り巻きの人たちを真似て訳してみた。
 (あまりやると炎上しそうだな。)

 ここで止めときゃよかったんだよな。
 でもこういう人って暴走を止めるような人はとっくに遠ざかるか遠ざけられて、お追従を云う人しか周囲に残っていないのが常である。

[原文]
 上人なおゆかしがりて、おとなしくもの知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、さだめてならいある事に侍らん。ちと承らばや。」と言われければ、
[現代誤訳]
 センセイはなお知りたがって、風格があって教養のありそうな顔をした神官を呼んで、「この神社の狛犬の立てられ方は、きっと深い由緒のあることなのでしょう。少し教えていただきたい。」とおっしゃると、

 あーあ、やっちゃったよ。兼好法師の大好物だな、こりゃ。

[原文]
 「その事に候う。さがなき童べどものつかまつりける、奇怪に候うことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直していにければ、
[現代誤訳]
 「ああ、これですな。悪餓鬼どもが悪戯でこんなことをしてしまいました。実に怪しからんことで。」と云うと、狛犬を所定の位置に据え直して行ってしまったので、

 やっぱり。

 どうでもいいことを騒ぎ立てるから赤っ恥を掻くのだ。

 最後の「上人の感涙いたづらになりにけり。」という突き放した表現が兼好法師の真骨頂だろう。

 この話は今生徒たちに教えている教科書とは違う教科書で読んだのだが、その教科書の「学習の手引き」を読んで爆笑してしまった。

 「神官が立ち去った後の、上人や連れの人々の様子を想像しよう。」

 これができるようになるには世間大学に3年くらい通わないと無理だろう。高校生にこれができたらその子は社会人顔負けの人生経験をしている子だと思う。でなければ余程のひねくれ者や皮肉屋か。

 それより改めてこの段を読んでみて気付いたのだが、神社の狛犬は人一人で動かせるような重さをしていないと思うのだ。子供たちは複数だからまだ動かせただろうが、この神官、物凄い怪力である。さすが「おとなし」と表現されるだけある。

 ということでおあとがよろしいようで。



「徒然草」を読む2-九月二十日の頃-(新米国語教師の昔取った杵柄29)

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 さて、「始まってしまった(キョンキョン調で)」このシリーズだが、作者が何せ私と同じ中高年男であるから、全段を延々と解説、などという非常識なことをしてしまいそうなので、できるだけ感情を抑えつつ、高校の教科書に採用されそうなものだけ取り上げていきたいと思う。

 まずは「九月二十日のころ」から。

[原文]
 九月二十日のころ、ある人に誘われたてまつりて、明くるまで月見ありくこと侍(はべ)りしに、思(おぼ)し出(い)づる所ありて、案内せさせて、入り給いぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂い、しめやかにうち薫(かお)りて、忍びたるけはい、いとものあわれなり。
 よきほどにて出で給いぬれど、なほ、事ざまの優(ゆう)におぼえて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸(つまど)をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかいによるべし。 その人、ほどなく失せにけりと聞き侍(はべ)りし。
 
 え? これが「徒然草」?
 確かにそうなのだ。この一節にも覚えはある。
 しかし、これが「徒然草」なのか。

 思わず魯迅の「故郷」のように呟きたくなる。これにはやはり竹内好の名訳が相応しい。

 ああ、これが四十年来、片時も忘れることのなかった「徒然草」であろうか。
 わたしの覚えている「徒然草」は、まるでこんなふうではなかった。わたしの「徒然草」は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと「徒然草」はこんなふうなのだ。

 私の知っている「徒然草」は、

 色好みでない男はつまらない、とか、
 女は髪の毛が綺麗な人が最高、とか、
 字が下手糞でも自分で書いた字がよくて、代筆させる奴は駄目、とか、
 気難しい人は結局何を云っても激怒する、とか、
 案内人がいないと見当違いのところに行ってしまう、とか、
 伝説は殆どが嘘八百だ、とか、
 雇われ人に酒を飲ませるときは気をつけなければいけない、とか、
 物事は最後になって気を緩めるとえらいことになる、とか、
 友達にするのに良い人、悪い人、とか、
 心を傷つけるのが一番いけないことだ、とか、
 雨の日の花や曇りの日の月もいいもんだよ、とか、
 地位が低くて教養がなくても名言を吐く人がいるからちゃんと人の話は聞かなければいけないよ、とか、
 たいした用がないのに人の所に行くと相手は忙しいかも知れないから迷惑だ、とか、

 飽きてきたのでこれぐらいにするが、面白い話がたくさんあるのだ。
 正直、この項を書くにあたって改めてこの随筆を読んで、「ああ、俺の脊柱の10%くらいはこの随筆から出来てるんだな」と思った。

 おそらく1960年代生まれの多くの知識人の背骨の一部を為しているだろう、243段の中で、教科書を作り、これを検定して制定する人々が、若者たちに伝え、後世に伝えたいのがこの第32段なのか。

 それでも私はこの段を訳することにした。つれづれなるままに。

[現代誤訳]
 九月二十日くらいに、ある目上の人に誘われて、明け方まで月を見て歩くことがあったが、その人は急に思い出された場所があって、下人に案内させて、その家を訪問された。荒れた庭で露が置く雑草が一杯あるような屋敷だったのだが、わざとらしくない匂いがほのかに香っていて、控えめな雰囲気がたいそう趣深かった。
 その人は適当なところでその家を辞されたが、それでも、私は雰囲気が素晴らしいと思われて、物陰に隠れてしばらく見ていると、家の主は妻戸を少しだけ開けて、月を見ているようだ。「あーあ、やっと帰った!」という感じですぐに家に入ってしまったのだったら、残念だったろうが、そうではなかった。物陰から見ている人がいるなどとは家の人は知るはずもないのだが。このような風流は、ただただ日常の心遣いによるのだろう。その人はしばらくして亡くなったと聞いたことだ。
 
 この段で最初に「徒然草」に触れた高校生たちは、「ああ、これが『徒然草』か。」と思うだろう。おそらく彼らの心には、「徒然草」というのは「枕草子」と同じく「風流」について述べた随筆なのだと刻み込まれるに違いない。

 だが、彼らはこの後、子供だったかつての私のように、ワクワクしながら「徒然草」を手に取るだろうか。この随筆をもっと読んでみたい、と思うだろうか。(この後に反語表現を続けたいが、私は卑怯者なので疑問表現のままで終わらせよう。)

  確かに「徒然草」は、風流だ。だが。それ以上に生臭い。そしてなぜ同時代の随筆である「方丈記」よりもずっと人気があるかと云えば、この生臭さの故だと思うのである。

  酔った勢いで頭から鼎(鍋)を被ったら取れなくなって大変なことになる話など、一度読んだら絶対忘れられない段である。
 
  言葉の障壁さえ取り除いてやれば、小学生だって夢中になって読み進めるのが「徒然草」なのだ。

  32段だって、他の段を読んでから読んだら、「その人ほどなくして失せにけり」って、風流の極めすぎで飢え死にしたんじゃねーの、と邪推してしまいそうになるのが私の知っている徒然草である。

 確かに「徒然草」はSDGsで育った現代の中高生に読ませるのには慎重になる必要のある文学ではあると思う。

 しかし、人間と云う者は神性・仏性と同時に獣性を併せ持った存在なのである。

 子供時代の私は「徒然草」を読むことによって人間に潜む様々な優越意識や差別意識に触れた。だが、同時に、人間の持つ思いやりの心や気高い心にも触れることが出来た。
 それは元々文学と云うものが持つ光と影なのだろうと思う。
 そうした世界に子供を触れさせたくないのならば、政府の広報か何かを読ませておけばよかろう。そこには優越意識も差別もマウンティングも嫉妬も憎悪もない。世界はそうしたものに満ちているにも関わらず。

 だいいち、「徒然草」のこの段もそうだが、「伊勢物語」の筒井筒でも、「盗み見」に焦点を当てたら変な方向に行きそうだ。せっかく生臭さを抜こうとした題材がもっと生臭くなってしまう。
 冒頭の絵はそれをカリカルチャライズしてみた。

 子供たちに最初に触れさせる「徒然草」、大いに議論の余地ありと思う。

「徒然草」を読む1-序段-(新米国語教師の昔取った杵柄28)

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中高年男の回想

 私が文学に親しみ始めた小学校のみぎりからいつの間にか文学から離れた中年期まで、巷には「〇〇徒然草」という題名の本が満ち溢れていた。

 そしてその著者の殆どは中高年男性だった。

 当時インターネットというものがあって、「徒然草」で検索したとしたら、このテの「〇〇徒然草」がゴマンとヒットしたに違いない。

 ただ、若者や、年齢を問わず女性の著者で「〇〇徒然草」と銘打ったものはあまりなかったような気がする。 

 それも、当時の斯界の最先端を走る人々の著作名に「〇〇徒然草」はなかった。(と、きっぱり断言できるほど私の記憶力は優れていないのだが。)

 つまり、「〇〇徒然草」は、そろそろ一線から退きつつある中高年男性が、心に浮かびゆく想念を好き勝手に綴ったもの、というイメージで受け取られていたということだろうか。

 では、実際の「徒然草」はどんな文学なのだろうか。

 中学生くらいのとき、「徒然草」の口語訳を一生懸命読んでいた覚えがあるのだが、現在の私はその内容をほとんど覚えていない。

 高校で国語を教えるようになって、文法の例文でたびたびそれに触れるようになったのだが、その内容たるやどれもこれも現在の私の考え方からすると「は?」というようなものばかりで、戸惑いは隠せない。

 「今の基準で昔の人を裁いてはいけない」という、大学時代の恩師の言葉を胸に刻みつつ、この1000年以上前の中高年男性の頭脳から流れ出て来る語句の連なりと相対してみたい。

 では、序段である。

[現代誤訳]
 つれづれなるままに、日ぐらし、硯(すずり)にむかいて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
[現代誤訳]
 どうにも暇なときに、一日中、机に向かって、心に次々と浮かんでくる下らないことを、あれやこれやと書きつけていると、どうしようもなく気が変になりそうだ。

 ああ、なるほど。

 この序文だけは焼酎、じゃなかった、小中学校のときには何のことやらさっぱり分からなかったのだが、齢62になって初めて実感できる。

 現実の最先端の何らかの分野では、もう、その一人者として疾走することができなくなった者が、自分の来し方を振り返った時、それは甘美な追憶ではない。

 まず、今までに出会ったムカつく連中。許せない奴ら。
 これは「ものぐる」ってしまいそうだし、「ニヤッとする話」というこのブログの趣旨に合わないので語るまい。

 恥ずかしい自分。
 卑怯なことをしてしまったとき。それを正当化する自分。自虐ネタにもできない情けない自分。
 これも「ものぐるおしい」。

 優しかった異性たち。(なんか歌謡曲の歌詞みたいだナ)
 これもあのときのあの彼女たちとはもう逢えない、という意味で「ものぐるおし」くなる。

 そして、若くて体力と気力があった自分。
 実家と高校を普通にランニング出来てたよな。10kmくらいあったのに。
 50m走6.2秒、走り幅跳び6.2m。これって当時の高校生としては相当のものだった気がする。
 球速130km。かつてのディンプルの軟式球でこの数字が出せる投手はそういなかったはずだ。
 100m歩くのにさえ苦労している今の為体を考えると「ものぐるおし」だ。

 通っていた大学の学生会館と運命を共にした卒業論文。「漱石の三人の母」。
 私が今までに書いた文章の中で最高傑作のような気がする。
 もう読めないとこそ思えば「ものぐるおしけれ」。(無理矢理係り結び)

 閑話休題(ええかげんにせえ)。

 ヤバい、また「徒然草」にのめり込みそうである。

 ということで、次回からは冷静さを取り戻して重要各段を鑑賞してみたい。



「堤中納言物語」を読む-虫愛づる姫君-(新米国語教師の昔取った杵柄27)

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河童愛づる姫君

 以下の文章は私が12年前に綴ったものである。

 既に言語聴覚士として働いていて、所謂国語とは完全に縁が切れたと感じていた時期だ。

 それでも色々なネタの1つとしてわざわざ書きたくなって書いたのだから、よほど心に刻まれていたストーリーなのだろう。

 では、どうぞ。


 日本の古典文学にはずいぶん魅力的な人物が登場する。

 その中でも私を捉えて離さないのは、『堤中納言物語』に登場する「虫愛づる姫君」である。

 なんでもこの姫は宮崎駿の不朽の名作アニメ『風の谷のナウシカ』のモデルになったとかならないとかで、最近ではずいぶん有名になったようだが、私がこの本の口語訳を読んだ高校生のころには、ごく一部の国文学関係者が知っていただけだった。

 あらすじを紹介する時間がないのであらあらすじくらいを紹介すると、
 ある高貴な家のお姫様なのだが、変わり者の姫がいて、「人はすべてつくろふところあるはわろし(現代誤訳:人間は自然が一番なのよね」と言って、化粧もせず、毛虫や芋虫をたくさん飼って、それが成長して蝶になるのを観察するのを趣味にしていた、という話なのだ。

 両親は娘可愛さで好きなようにさせているのだが、周囲の女性は虫を気味悪がって近づきもしないし、なんとか「改心」させようとするのだが、少しも意に介さない。

 この姫の話を読むと「女の敵は女」という言葉を思い出す。

 とにかく現在はすっかり有名な姫だからネットにもこの物語の口語訳がたくさん上がっていると思うので、興味のある人はそれをご覧になってほしい。まあずいぶん規格外の女性である。

 『源氏物語』をはじめ、この時代の物語にはたくさんの「美女」が登場して、想像するだに楽しい。だが、よく考えてみると、当時の女性は眉を抜いて「麻呂眉」にし、午後になると剥がれて落ちてしまうほどの厚化粧をし、お歯黒をしていたのだから、現代にこんな女性が現れたら私などは「キャッ!」と叫んで逃げ出しそうだ。

 「虫愛づる姫君」は、侍女たちから「からしや、眉はしも、鳥毛虫だちためり(現代誤訳:やあねえ、眉毛も抜かないで、毛虫みたい)」「さて、歯ぐきは、皮のむけたるにやあらむ(現代誤訳:まあ、歯が真っ白で皮が剥けちゃったみたい)」などと悪口を言われているのだが、こちらは、盗み見た男性から「なかなかうつくしげなり(現代誤訳:結構可愛いじゃん)」といわれているから、現代に現れたらきっとナチュラルな美しさの女性である。

 この姫はいろいろな名言を吐いているから、ぜひ口語訳でいいから読んでほしい。

 私の最も印象に残っているのは、親から「やっぱり人間は外見も大事だよ」と説教されて、「苦しからず。よろづのことどもをたづねて、末を見ればこそ、事はゆえあれ。いとをさなきことなり。鳥毛虫の、蝶とはなるなり(現代誤訳:人から何と言われてもちっとも構わないわ。いろいろなことを探求して、原因と結果を知るのが楽しいのであって、人に何か言われてそれを止めてしまうなんて馬鹿みたい。毛虫が蝶になることのすばらしさがわからないの。」という場面である。

 小さくなって毛虫にまぎれこんでこういう女性に愛でられたいものだ。(引用終わり)


 何だかこのくらいから私はやっと自分の芯の部分がブレなくなったような気がする。

 「人として生きるのに決して譲ってはいけない部分」というか。

 勿論この世界には「力」を振るうのが好きな人が沢山いる。
 というより、自然界というものが基本的にはそれによって動いているから、人間だけがそこから自由ではいられないのだろう。

 したがって現実日常の私はその「力」に従って生きてゆく。

 しかし、「力」が「理」にそぐわない時、私は決して私の内心を現実の情況と合わせることはしない。

 要は、「私は厭々これに従うが、決して納得していない。」ということだ。

 若い人が私のこの文章をもし読んだとしたら、「は? そんなこと偉そうに云うことか? はっきり反対すればいいだけじゃん!」と思うかもしれない。

 しかし、君たちは、齢62歳の人間がこう明言することが、この憂世で如何に難しいことか、これからの人生で経験していくことだろう。

 「堤中納言物語」の「虫めづる姫君」は62歳まで生き延びただろうか。
 それは誰にも分からない。

 ただ、一つ分かることは、1000年以上前の一人の女性の「私は私らしく生きていく」という言動を「これは後世に遺さなければ」と思った人がいたということだ。

 そして、自分の世過ぎ身過ぎのために「こんなものは破り捨ててしまわなければ」と考える人々の意に反して、この記録がさまざまな世の思潮風潮の変遷を経て現代に生き延びたということだ。

 多くの人に是非この当時としては風変わりな姫の物語を読んでいただきたいものである。

「戦国策」を読む8-私が戦国武将なら。戦国違い-(それでも生きてゆく私145)

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腹がつかえて動けない

 「戦国」で急に思い出した。
 戦国違いは承知である。
 
 我が家の婿殿たちにはある共通点がある。
 それは戦国時代が好きで、それに関するドラマや漫画やなどのメディアによく接しているということだ。
 私は戦国時代はあまりに話が複雑で第一武将の名前や相関が覚えられないので、そこまで関心がない。
 どちらかといえば明治維新に関する話が好きなので、男としては少数派かもしれない。
 だが、婿殿たちが熱心で、我が家に遊びに来た時などはTVでも「戦国関係」を見たりするので、私も見る。別に嫌いではないのだ。ときには話に引き込まれたりもする。
 戦国時代というのは武士の時代だが、江戸時代とはまた慣習も風俗も違う。
 特に感じるのは、主君と家臣の関係である。
 江戸時代の主従関係は、いかにも「上下」という感じである。
 それに対して、戦国時代の主従関係は、欧州の中世に似て、お互いの契約関係に基づいているように感じる。より対等で、時には「下剋上」が起こったりする。 
 その辺りが現代にも通じるところがあって、婿殿達の感性に合うのかもしれない。
 この主従関係の違いは、お辞儀の仕方にもよく表れている。
 江戸時代の家来は主君に対して正座してから平伏して挨拶する。
 それに対して戦国時代には胡坐をかいたまま両手を畳に突いて頭を下げる。
 私は人生の中で「トップ」というものになったことがなく、常に「家来」であったため、戦国ドラマに感情移入した時にもその対象は「家来」である。
 登場人物の「家来」になったつもりでドラマを楽しむ。
 確かに戦国ドラマの家来は主君に対してペコペコしていないから、こうした楽しみ方も十分成り立つのだろう。
 戦国時代が人気なのはそんな理由なのかもしれない。
 主君に対する陰謀を未然に防ぎ、有意義なアドバイスをし、主君がのし上がっていくためのビジョンを構想した私は、屋敷に帰るために胡坐をかいたままお辞儀をする。
 「はっ、腹がつかえてお辞儀ができん!」 
 もう少し痩せないと戦国武将になるのは無理のようだ。 

「戦国策」を読む7-虎の威を借る狐3-背景を知る-(新米国語教師の昔取った杵柄26)

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王は無能が一番

 「戦国策」によれば、この「虎の威を借りる狐」は魏の使者である江乙(こういつ)が楚の宣王に語った話である。

 この部分の前書きは宣王が家臣たちに「昭奚恤(しょうけいじゅつ)が北方の国々から恐れられているのは本当か」と尋ねるところから始まる。
 昭奚恤は当時の楚の重臣で北方の軍備を任せられていた。

 家臣たちは皆答えない。
 こんな質問をするのは宣王が昭奚恤に嫉妬しているに違いないからだ。権力者は自分より評判の良い者が嫌いである。
 質問に「そうです」と云えば王の逆鱗に触れるし、家臣の中には昭奚恤のテの者がいるに違いないから「そうではありません」と云ったら後で仕返しをされるだろう。

 そこで江乙が答える。江乙は他国の者だから家臣たちのような遠慮は不要である。

 「虎の威を借る狐」の話をし、「北方の国々が本当に恐れているのは昭奚恤ではなく宣王です。昭奚恤は虎の威を借る狐に過ぎません。」とご機嫌を取った訳だ。

 これだけならばただのゴマすりだが、実は江乙にはもっと陰険な意図があった。
 江乙はその後も宣王に昭奚恤の讒言を吹き込む。

 江乙が宣王に云った言葉にこんなのがある。どんな人物か分かる言葉である。
[書き下し文]
 人の善を揚ぐるを好む者有らば、王に於ていかん。」王曰く、「此れ君子なり。之を近づけん。」江乙曰く、「人、人の悪を揚ぐるを好む者有らば、王に於ていかん。」王曰く、「此れ小人なり。之を遠ざけん。」江乙曰く、「然(しか)らば則(すなわ)ち且(まさ)に子、其(そ)の父を殺し、臣、其の主を弒(しい)する者有らんとして、王終(つい)に已(もっ)て知らざる者は、何ぞや。王の人の美を聞くを好みて、人の悪を聞くを悪むを以てなり。」
[現代誤訳]
 「他人の長所を称賛するのを好む者がいたら、王様はどうされますか。」王が云った。「それは君子である。その人を重用しよう。」江乙が云った。「人で他人の短所をあげつらうものがいたら、王様はどうされますか。」王が云った。「それは小人である。その人を遠ざけよう。」江乙が云った。「そうならば今ここに子が親を殺し、臣下が主人を殺す者がいるのに、王様がとうとうそれを知らない者がいるのはどうしてですか。王が人の善を聴くのを好んで、他人の悪を聴くのを嫌うからです。」

 そして昭奚恤の前ではこうである。

[書き下し文]
 昭奚恤、彭城君と王の前に議す。王、江乙を召して問う。江乙曰く、「二人の言は皆な善(よ)し。臣、敢(あえ)て其(そ)の後に言わじ。此れ賢(けん)を慮(うたがう)うと謂わるればなり。」
[現代誤訳]
 昭奚恤が彭城君と宣王の前で議論した。王が江乙を呼んでどう思うか聞いた。「二人の言葉は全て素晴らしい。私はあえてその後に意見を云いません。これは賢人を疑っていると云われたからです。」

 散々讒言している癖に本人の前では猫を被っている。

 自分一人では力不足だと感じるとこんなこともしている。
[原文]
 江尹、昭奚恤を楚王に悪(そし)らんと欲すれども、力能わず。故に梁の山陽君の為に封を楚に請(こ)う。楚王曰く、「諾(よし)。」昭奚恤曰く、「山陽君は楚国に功無し。当(まさ)に封ずべからず。」江尹因(よ)って山陽君を得て、之と共に昭奚恤を悪(そし)れり。
[現代誤訳]
 江乙は昭奚恤の悪口を楚王に吹き込もうとしたが、一人だけだと力不足で信用させることが出来なかった。そこで、梁の山陽君を推薦して楚王に領土を貰おうとした。楚王は「いいよ。」と云ったが、昭奚恤が云った。「山陽君は楚の国に何の功績もありません。領土を与えてはなりません。」こうして江乙は山陽君を味方にして、二人で宣王に昭奚恤の悪口を云った。

 「戦国策」の宣王に関する記事はこんな調子で大半が江乙が昭奚恤を讒言する話である。

 まあしつこくて陰険な奴で、「狐はお前だろ!」と云いたくなるが、狐に失礼か。

 それは別にしてどうして江乙がこんなにしつこいかというと、これは任務だからである。
 どんな任務かと云えば、楚の君臣の仲を裂いて力を削ぎ、魏に対する圧迫を弱めようという任務である。
 魏は春秋時代には当時の秦などよりよほど大きい晋という強国だったのだが、韓・趙と共に三分裂することで秦、楚、のちに台頭する斉などの強国によって圧迫される小国となってしまったのだ。
 江乙の昭奚恤への態度には任務だけとは思えない憎悪が感じられるが、小国の切実な必要に忠実だと云えなくもない。

 しかし、宣王が在位中に昭奚恤が失脚したり罰されたりといった史実はないし、江乙が誅されたり追放された、という話もないから、実は大らかでバランス感覚に富んだ名君だったのかもしれない。
 実際宣王のときには秦に対抗して大国の地位を保ち続けていたのだし。

 そう考えると江乙に「間抜けな虎」に喩えられても怒らずに耳を傾ける寛大な宣王の姿が目に浮かぶようである。

「戦国策」を読む6-虎の威を借る狐2-本文を味わう-(新米国語教師の昔取った杵柄25)

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虎の威を借りる狐

 さて、それでは本文にかかろう。

[書き下し文]
 虎百獣を求めて之を食らい、狐を得たり。
[現代誤訳]
 虎がいろいろな獣を求めてはこれを食糧とし、あるとき狐を捕まえた。

 「獅子と虎、どちらが百獣の王か」という論議には未だに結論が出ていないが、生息地が重なっていないこともあり、虎がいるところでは虎が百獣の王であるということには異論は出ないだろう。

 足の速さや狩りの能力から豹はどうか、と思う人もいるだろうが、虎と豹では全く身体の大きさが違い、直接対決させたらカブトムシとダイコクコガネの対決の如く(昆虫マニア以外には分からない喩え)虎が豹を鎧袖一触するに違いない。

 もちろん狐とは比較にもならず、狐と並び評される動物が狸であるのがこれを如実に表している。

 虎は通常草食の哺乳類を捕食するが、熊などの肉食獣、鳥類、爬虫類、両生類、魚類など、およそ食べられる動物は何でも食べる。

 この時虎はかなり腹が減っていたのだろう。狐や狸は人間様が食べてみた感想では「獣臭くて食べられたもんじゃねえ」というものらしい。雑食の動物の肉は臭いのだ。

[書き下し文]
 狐曰く、「子敢へて我を食らふこと無かれ。
[現代誤訳]
 狐が云った。「あなたはわざわざ私を食べることがないようにしなさい。

 「私の肉は不味いからおよしなさい」とでも云うのかと思ったら、狐は不遜なことを云い始める。

[書き下し文]
 天帝我をして百獣に長たらしむ。今子我を食らわば、是れ天帝の命に逆らうなり。
[現代誤訳]
 天帝が私を百獣の王にさせたのだ。今、あなたが私を食べてしまうなら、これは天帝の命令に逆らうことだ。

 これは実に図々しい。虎がカッとなって食べないのに殺されても文句は言えないだろう。実際虎は大きな猫という部分があって、空腹でなくても獲物にじゃれついたりするのだ。勿論虎があの牙と爪でじゃれつくのだから、当人たちにとっては命を落とす災難に変わりはないのだが。
 「天帝の命」とは大きく出たものだが、これくらい大きな話でないと人(じゃないか)は騙せないのだろう。

[書き下し文]
 子我を以って信ならずと為さば、吾子の為に先行せん。子我が後に随(したが)いて観よ。百獣の我を見て、敢えて走(に)げざらんや。」と。
[現代誤訳]
 あなたが私を信じられないと思うのなら、私はあなたの先に立って行こう。あなたは私の後から来て見ていてくれ。色々な動物が私を見て、あえて逃げないものがあろうか。」と。

 この部分の最後は「反語」といって疑問形を取った否定表現である。だからちゃんと教えるときには「あろうか、いや、ない。」と訳しなければならないのだが、日本語として不自然だし、何時もの与太話だからまあ良いだろう。

[書き下し文]
 虎以って然りと為す。故に遂に之と行く。

[現代誤訳]
 虎はそれに同意した。そして狐と一緒に行った。

 虎には「のこのこ」、狐には「ぬけぬけ」という副詞がぴったり来る部分であろう。

[書き下し文]
 獣之を見て皆走(に)ぐ。
[現代誤訳]
 獣たちはこれを見てみんな逃げた。

 この場合の「之」は「狐の後から虎が歩いてくること」である。高校の先生が試験問題にしそうな部分だ。

[書き下し文]
 虎獣の己を畏れて走(に)ぐるを知らざるなり。以って狐を畏(おそ)ると為すなり。
[現代誤訳]
 虎は獣たちが自分を恐れて逃げるのを知らなかったのである。そして狐を恐れているのだと考えたのである。

 まあ随分謙虚な虎さんである。

 しかし、こうも考えられないか。

 実は「竹取物語」同様「戦国策」にも「河童本」と呼ばれるものが存在し、これは琵琶湖畔で発見されたものである。
 そしてその注釈にこうある。

[原文]
 百獣は狐を恐るるなり。陰険姑息なる狐、永年権謀術数を以て度々他獣を脅かす。今、狐、虎を連るるを見て、百獣、豈(あに)此をして如何なる陰謀悪図かと恐れざるや。

 ここから生まれた故事成語が冒頭の「死狐於虎前」である。「虎の前で死する狐」と読む。人間国のものより深いと思うのだがどうだろうか。


「戦国策」を読む5-虎の威を借る狐1-楚という国-(新米国語教師の昔取った杵柄24)

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三星堆の衝撃

 さて、次のお話は「虎の威を借る狐」である。
 これも日本では有名な話であるが、故事成語としては殆どの人が知らず、ほとんど慣用句として「あの〇〇君な、××部長の虎の威を借りてるよな」というように「嫌な奴」を指すのに使用されているような気がする。

 高校の教科書でもこの部分だけが取り上げられているので、もう少し掘り下げてみたい。

 この故事成語も「戦国策」に載っている話であることをまず覚えておきたい。

 ちょっとしつこく感じられるかもしれないが、「戦国策」は中国の戦国時代、つまり周王朝が衰亡して春秋時代となり、さらに春秋五覇の1つである晋が分裂して韓・魏・趙の三国となり、戦国七雄が中原の支配を目指して争闘していた時代である。

 そして「戦国策」はこの時代に自らの政策を各国の王や宰相たちに採用してもらうべく全土を遊説した諸子百家のうち、主に「縦横家」と呼ばれた人々の活躍を記録した書物である。

 そしてこれまたしつこく感じられると思うが、縦横家には二派があって、一つは張儀に代表される連衡説、一つは蘇秦に代表される合従説である。なぜ「合従連衡」という世間の表記に反して連衡を先にしたかといえば、その理由は既にこの「『戦国策』を読む」シリーズ(いつの間にそうなったんだ)で何度も取り上げているので、前々回くらいを読んでいただきたい。

 つまり戦国の各国にまず張儀が遊説して下の図のような「連衡策」を成立させる。
連衡策

 ところがこれは下の図のように斉を強大化させて秦以外の五国を圧迫するものであった。

連衡策破綻

 そこに通説と反するが蘇秦が各国を遊説して「合従策」を成立させる。


合従策

 このようなほとんど〇連による世界秩序維持を思わせるものだったが、残念ながら秦の「遠交近攻」という人間の本質にぴったりと合致した外交政策により短期間で破綻する。

 次に蘇秦が提案したのが下の図のような「新合従策」である。

新合従策への河童の疑問

 これは成功して見事に斉の勢力を削いだのだが、この図を見て頂けば3歳の子供にでも分かるだろうが、この政策は秦の西進と中国の統一の露払いをするようなものである。

 ところで、この図では楚の国は韓・魏・趙や燕などと同等の小さな国として数式化されているが、実は実際の領土を見てみると、


戦国七雄

 秦よりよほどデカい領土を持つ強大な国だったのだ。

 そもそも楚は所謂「中華文明」の源を為すと一般に考えられている黄河流域の国ではない。
 これは長江流域を源とする文化なのである。

 私は自分の大学時代に行われた三星堆遺跡の発掘のニュースに触れたときの興奮を今でも忘れられない。特に青銅でできた「異形」と呼ぶべき仮面の数々は明らかに黄河文明とは違う文明がここにあったことを直感させた。
 現在の中国の学会の通説では「見かけほど異質なものではない」という「科学的」な評価がなされているようだが。

 急に思い出したが、社会人になってこの遺跡に関する本を図書館で借りてきて読んだ。
 当時は夜の仕事(学習塾の教師)をしていたので仕事が終わってから飲み屋で読んだ。
 内容はほとんど覚えていないのだが、えらくはっきり覚えていることがある。それは私の頼んだ野菜炒めにアクリルの欠片が沢山入っていたことだ。
 最初私は何か新しい性質の食材なのかと思って美味くはないが我慢して食べていた。しかし、手に取ってつらつらと見るに、どうかんがえてもアクリルなのである。
 苦情を云って取り替えてもらったのだが、どうも器ごと床に落とした奴をそのまま別の器に入れて持って来たらしい。この店は美味しかったのでお気に入りだったのだが二度と行かなくなった。

 閑話休題(はなしそれすぎ)。

 ついでに云うと楚の貨幣は中原諸国の貨幣とは異質である。

 そもそも中原では長らく金貨と云うものが存在せず、地金(馬蹄金という)として通用していたのだが、楚では郢エン金という刻印を打たれた金貨が通用していた。
 また、銅貨は子安貝を模った蟻鼻銭(蟻の頭に似ていることから来る後世の命名)という独特の形のものが通用していた。
 下のような貨幣である。
蟻鼻銭

 もっともユニークと云えば中原諸国のものものそうで、たとえば燕と斉は刀を模った刀貨、つまりこういうの、
明刀

韓・趙の旧晋二国では鋤を模った布貨、つまりこんなやつ
方足布

同じ旧晋でも魏では円形円孔の垣字銭、つまりこんなの
垣字銭

が使用されていた。
 現在の私達が旧いお金の典型として思い浮かべる円形方孔の銅貨は秦の半両銭だけである。
半両銭

 そして秦が全国を統一したためにこの形の貨幣がスタンダードになった訳である。

 閑話休題(はやくはなしをすすめんかい)。

 楚はその強大さにも関わらず七雄の中では比較的早く秦に滅ぼされる。また、劉邦と項羽が対決した漢楚の戦いでも一敗地にまみれて漢の覇権を許すことになる。

 なぜこんなことになったかと云えば、この国はその豊かさゆえか貴族や豪族の数が他の国より多く、その結果内紛が多く、意思決定がそれに左右されて敏速に対応することができなかったらしい。

 それを象徴するのが屈原である。

 屈原は楚の重臣(合従派)だったのだが、張儀(連衡策の首謀者)の謀略に踊らされた国内の連衡派の讒言によって地位がどんどん低下する。
 その後も屈原はめげずに懐王に諫言を繰り返すのだが王は耳を貸すどころか秦の謀略によって捕らえられ、後を継いだ頃襄王には一層疎んじられてついに南方に左遷される。事実上の追放である。このあたり本邦の菅原道真を連想していただければいいだろう。
 秦の謀略に見事に引っかかった楚は衰亡の一途を辿り、B.C.278年、遂に首都郢を占領されてしまう。左遷先に向かう途中でこれを知った屈原は5月5日、汨羅という川に石を抱いて入水する。

 屈原を哀れに思った住民たちが木の葉に米を包んで川に投げ込んだのが5月5日に食べる習慣のある粽(ちまき)の由来であるという。

 「王、王たらざるとも、臣、臣たり。」(現代誤訳:王が王らしくなくても、臣下は臣下らしくしなければならない。)という儒教の教義の模範のような人物である。
 屈原は永らく儒教的な考えをする人々に記憶され、彼が作ったと伝えられる「楚辞」(楚の詩という意味)の「離騒」は所謂憂国歌として愛唱されてきた。
 この詩は長いのでここで紹介するのは差し控えるが、一つだけこの詩に登場する「兮」という漢字について一言云いたいと思う。

 この字は高校では訓読するときに読まない字、つまり置き字として習う。
 漢文の教科書などにはだいたい置き字や助字の一覧の最後に登場し、「『兮』は置き字としてしか使われない」とそっけない。

 しかし、この字は楚人が作った歌(楚辞)には頻繁に登場する。
 たとえば楚人である項羽が劉邦との最終決戦に敗れ、いよいよ一巻の終わりかというときに作った楚辞、「垓下の歌」には一行に一つは必ず出てくる。


[原文]
力抜山兮気蓋世 時不利兮騅不逝 騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何

「兮」オンパレードである。
[書き下し文]
 力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず、騅逝かず。騅の逝かざるをいかんすべき。虞や虞やなんじをいかんせん。

 原文にあれだけあった「兮」が書き下し文ではほぼその痕跡を留めない。
 
「虞や虞やなんじをいかんせん」などは、古今東西女を護れなかった男の嘆きを凝縮した名訳(書き下し文は古代中国語を古代日本語に訳したもの)だと思うのだが、この名句にして「兮」は「や」になったのかな?という感じである。

 「兮」は語音では「け」、漢音では「げい」と読むが、これは詩中に頻繁に出てきたら興覚めな音である。現代中国語(北京語)では「xi(シー)」「gong(ゴン)」。これも詩中に出てくるとむしろリズムを乱してしまう気がする。ここはやはり中国南方の方言であり、読みもそれを考慮に入れた方がいいのではないか。広東語では「hai(ハイ)」。うーん、後少し。あっ、これは?韓国語「혜(ヒェ)」。ニアピンだ。ベトナム語「hê」。これはトーン(音調)も考えて片仮名にすると「へィ」。

 「虞兮虞兮奈若何」は北京語で読むと「ユー・シー・ユー・シー・ナイ・ユオ・ヘー」で、「シー」はむしろ感情を鎮める働きがあるような気がする。
 ここで「兮」を南方語風に読むと、「ユー・へィ・ユー・へィ・ナイ・ユオ・へー」。
 「お前をどうしたらいいんだ!」という項羽の感情の高ぶりがよく表現できている気がしませんか。

 ということで(何が「ということで」なのかよく分からないが)、「虎の威を借る狐」本文まで行かなかったのでそれはまた次回。

「戦国策」を読む4-漁父之利-(新米国語教師の昔取った杵柄23)

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漁夫の害

 「漁夫の利」とは「互いに争っているすきに、第三者が労せずしてその利益を横取りすること」である。「漁父の利」「鷸蚌(いっぽう)の争い」とも云う。
 この故事成語は趙の恵王(在位B.C.298~B.C.266)の時に成立したものだと記録されている。

[書き下し文]
 趙且(まさ)に燕を伐(う)たんとす。
[現代誤訳]
 趙が燕を攻撃しようとした。

 下の図によって両国の位置関係を確認しておきたい。
 趙は燕の西に位置する隣国である。
 趙の更に西には強国の秦が位置していることも踏まえておきたい。

戦国七雄

[書き下し文]
 蘇代、燕の為に恵王に謂(い)いて曰(い)わく、
[現代誤訳]
 蘇代が燕のために恵王に云うには、

 蘇代は合従策を考案した蘇秦の弟である。
 この時代、親子兄弟といえども同じ考え方をしているとは限らないが、蘇代の場合は合従策の持ち主と考えてよかろう。
 つまり、下の図のような戦略を考えている。


合従策

 つまり秦以外の六国の同盟によって秦に対抗させたいと考えている訳だから、超が燕を攻撃しては都合が悪いわけだ。

 そこで喩え話を持ち出して恵王に燕への攻撃を踏みとどまらせるように説得にかかる。

[書き下し文]
 今者(いま)臣(しん)来たりて易水(えきすい)を過ぐ。
[現代誤訳]
 今私は燕から趙に来るときに易水の畔を過ぎました。

 易水というのは趙から燕に向かって流れる大河である。

[書き下し文]
 蚌(ぼう)方(まさ)に出(い)でて曝(さら)す。
[現代誤訳]
 溝貝(ドブガイ)がたった今干潟から出て日向ぼっこをしようとしていた。

 蚌(ぼう)を蛤(はまぐり)と訳してあるものもあるが、易水は川である。もし燕から趙に来たのなら川を遡って来ることになるから、海の干潟にいる蛤だといくら喩え話でも信憑性がなくなってしまう。溝貝の方が適しているだろう。溝貝は淡水に棲む二枚貝であり、その名の通り泥底の川に棲んでいる。

[書き下し文]
 而(しか)して鷸(いつ)其(そ)の肉を啄(つい)ばむ。
[現代誤訳]
  すると鴫(しぎ)が溝貝の肉を啄んだ。

 鴫は長い嘴が特徴の鳥で水辺にいて水棲動物を食べて生きている。
 おそらく実物をみたら大抵の人が「ああ、あの可愛い鳥ね。」と云うだろう。

[書き下し文]
 蚌(ぼう)合(がっ)して其(そ)の喙(くちばし)を箝(はさ)む。
[現代誤訳]
 溝貝が蓋を閉じて鴫の嘴を挟んだ。

 この話を最初に読んだ人は「小さな貝が嘴を挟んだと云っても鴫には全然応えないだろう。」と思うに違いない。しかし、溝貝は通常のものでも10cm以上、真珠の養殖に使われる大型種だと30cm近いものもあるのだ。体長がせいぜい20cmを超える程度の鴫にとっては生命の危機である。
 こんなデカイ貝に手を出してしまうというのが阿呆な鳥だが、生命体は捕食する際に反射的にそれをやってしまうものが多いので、仕方がない事故だとも云える。

[書き下し文]
 鷸(いつ)曰(いわ)く、「今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即(すなわ)ち死蚌(しぼう)有(あ)らん」と。
[現代誤訳]
 鴫が溝貝に云うには、「今日雨が降らず、明日も雨がふらなければ、お前はあっというまに干からびて死んでしまうぞ。」

[書き下し文]
 蚌(ぼう)も亦(また)鷸(いつ)に謂(い)いて曰(い)わく、「今日出(い)でず、明日出(い)でずんば、即(すなわ)ち死鷸(しいつ)有(あ)らん」と。
[現代誤訳]
 溝貝もまた鴫に云うには、「今日ここから出ず、明日も出られなければ、お前はあっという間に飢え死にしてしまうぞ。」

 両者意地の張り合いである。
 前述したように互いの体格と力量はほぼ同じ、なのである。

[書き下し文]
 両者、相舎つるを肯(がえん)ぜず。
[現代誤訳]
 溝貝も鴫も、お互いに相手を離すことを承知しなかった。

 お互いに「えーい、離せーっ」「お前こそーっ」と云っておけばそのうちに根負けしてお互いに離したかも知れなかったのに、なまじ「お前死ぬぞ」などと要らんことをいったためにお互い意地になってしまったのだ。

[書き下し文]
 漁者(ぎょしゃ)得(え)て之(これ)を并(あは)せ擒(とら)う。
[現代誤訳]
 漁夫がやってきてやったとばかりに溝貝と鴫を両方とも捕えてしまった。

 あーあー、云わんこっちゃない。

 ここから蘇代は恵王を説得にかかる。

[書き下し文]
 今趙且(まさ)に燕を伐(う)たんとす。
[現代誤訳]
 今趙はまさに燕を攻撃しようとしています。

[書き下し文]
 燕と趙久しく相(あい)支え、以(も)って大衆を敝(つか)れしめば、臣、強秦の漁父と為(な)らんことを恐るるなり。
[現代誤訳]
 燕と趙が長くお互いに争い、その結果大衆が疲弊してしまうならば、私は強国の秦が私の喩え話の漁夫のように労せずして利益を得てしまうのではないかと恐れるのです。

 実は蘇代の話の蚌(ぼう:溝貝)は燕、鷸(いつ:鴫)は趙、漁父は秦を喩えたものだったのだ。

 これを「弱小国同士が争っていると強国に併呑されますよ。」などとストレートに云ってしまうと王様を怒らせて車裂の刑か何かにされてしまうかもしれない。
 何せ恵王は即位の際にその障害となった兄と父王を餓死させてしまったというエピソードの持ち主なのだ。

 故事成語は激動の歴史の中で鍛えられてきた中国人の処世術の1つなのである。

[書き下し文]
 故に王の之を熟計せんことを願うなり。
[現代誤訳]
 それで王様がこのことをよくお考えになることを願うのです。

 ここまで来てから初めて希う形で説得であることが分かる。

[書き下し文]
 王、曰(いわ)く、「善し。」と。
[現代誤訳]
 恵王が云った。「分かった。」と。

[書き下し文]
 乃(すなわ)ち止(や)む。
[現代誤訳]
 こうして趙の燕への攻撃は中止された。

 説得成功である。

「戦国策」を読む3-合従と連衡-(新米国語教師の昔取った杵柄22)

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新合従策への河童の疑問

 少し前回のおさらいをする。

 「戦国策」に描かれているのは主に「縦横家」と呼ばれる諸子百家の一派である。
 縦横家は主に各国に遊説してその外交についてアドバイスするのが仕事である。

 戦国時代の外交の中心になっていたのは西方の強国である秦であり、後にこの国が中国初の統一王朝を建てる。

 秦に対する外交方針には大きく分けて二つある。

 一つは合従策であり、これは戦国七雄のうち秦以外の六国が対秦同盟を結んで秦に対抗しようというものである。合従策の代表者は蘇秦と云う人である。
 下の図のような戦略だ。
合従策


 もう一つは連衡策であり、これは戦国七雄のうち秦以外の六国が各々秦と同盟して秦から侵略されないようにするというものである。連衡策の代表者は張儀と云う人である。
 下の図のような戦略だ。
連衡策

 蘇秦と張儀はいずれも鬼谷先生と云う人に師事したのだが、袂を分かってライバルとして活躍した。

 そして、私が小学校のころ、つまり1960年代から70年代初期までは、蘇秦と張儀の関係は次のように理解されていた。
 まず蘇秦が先に六国に働きかけて合従策を成立させ、それにより秦の東進は一旦抑制される。しかし、張儀の働きかけにより六国の政策は連衡策に傾き、各々が秦に各個撃破されて滅んでいき、秦の統一が成る。

 ところがこの通説を覆すことになったのが私が小学5年生の時(1972年)に馬王堆漢墓から出土した「戦国策」の原型ともいうべき帛書(布に書いた書物)であった。
 この帛書は現在では「戦国縦横家書」と呼ばれている。
 このときまるで生きているかのような女性の死屍が発見されて世界的な注目を浴びた話も既にした。
 小学生の私はこの死屍に眼を奪われていた。勿論帛書のことなど気にも留めない。

 さて、この帛書によれば、蘇秦と張儀では張儀の方が活躍した時期が先で、ということは先に成立したのは連衡策であった。この連衡策を利用して国力を大きくしたのが斉で、蘇秦が活躍した当時には秦と並ぶ二大強国となっていた。
 下の図のような情勢である。


連衡策破綻

 蘇秦の合従策は最初秦に対して他の六国が協力して対抗したが失敗し、その後は秦を除く五か国が協力して斉に対抗する策に変化して成功する。
 下の図が対斉合従策である。

新合従策
 冒頭の絵では河童がこの策への疑問を呈しているが、背後の秦をそのままにして斉に対抗するなんて、「侵略してくれ」と云っているようなものである。

 つまり連衡策によって秦の東進は抑制されたがそれが斉の台頭を産み、合従策がその斉に対して用いられたために斉が衰え、結果的に秦の東進と中国統一を準備した訳である。

 しかも、なぜ合従の対手が秦から斉に変化したのか。

 合従が秦に対して行われた時、蘇秦は斉の外交官として各国の説得に当たっている。「史記」や劉向編「戦国策」ではこの部分に脚光が当たっている。

 だが、実は蘇秦は元々は燕の間者であり、斉と同盟国である趙との離間を謀り、最終的にはそれまでは斉の同盟国であった他五か国の対斉同盟を成立させたのだ、という驚きの事実(かどうかは分からない)がこの帛書には書いてあったのだ。

 「淮南子」という歴史書には、

[書き下し文」
 蘇秦は善く説きて国を亡ぼす
[現代誤訳]
 蘇秦は言説が上手で国を亡ぼす。

とあるのだが、「史記」や「戦国策」ではなぜそうだったのかを窺い知ることができない。

 ここで私が思い当たったのは、漢代の人が国教として身に備えていた儒教的な考え方である。前回私は「戦国策」の編纂作業について、「劉向自身は前漢の役人だから儒学者だが、後の人々の価値観に左右されずに保存されていた『古文』の力は大きかったに違いない。」と述べたが、やはり資料の取捨選択についてはこれが影響していたことは否めない。

 儒家が理想とした国家は秦の前に中原を支配した周王朝である。

 では中原を越えて全土を統一した秦はどういう存在だったか。彼らにとって「騎射」など塞外民族のいわば「野蛮」な戦術を取り入れ、徳治と対極(彼らが思っていた)の法治によって中華を強占した許すべからざる王国であった。
 何せ「焚書坑儒(法家以外の書物を焼き儒家を生き埋めにした政策)」を行った国なのである。

 このような「虎狼の国」である秦は、儒家にとって交渉の相手とはなりえない。

 したがって、張儀のように周王朝に柵封された中原の文明国が野蛮国の秦と各々交渉をするという策は彼らの倫理的な禁忌に触れるわけだ。

 だから、司馬遷や劉向が古文や今文に遺されたものの取捨をする場合には、蘇秦の言動を正当化するような文献をできるだけ多く採択することになる。
 蘇秦は中原の国々を束ねて秦に対抗させるヒーローに祭り上げられることになる。

 私はかつて「史記」を読んだ時、蘇秦の列伝の中で、こんな記述があるのにひどい違和感を感じたことを覚えている。
 蘇秦が斉の王に重用されていたとき、それを妬んだ者が蘇秦を暗殺してしまった。蘇秦は苦しい息の下からこう言った。
[書き下し文]
 臣、即ち死せば、臣を車裂し、以て市に侚(とな)えて曰(い)え、蘇秦、燕の為に乱を斉に作(な)すと。此(か)くのごとくせば、則ち臣の賊は必ず得ん。」是に於いて其の言のごとくす。而(しか)して蘇秦を殺しし者、果たして自ら出(い)ず。斉王因(よ)りて之(これ)を誅(ちゅう)す。
[現代誤訳]
 「私が死んだならば、私を車裂き(八つ裂き)の刑に処して、人民にこう言ってください。蘇秦は燕のために斉に不利益なことをしたと。このようにすれば、すぐに私を害した賊はすぐに見つかるでしょう。」王は蘇秦の言葉のとおりにした。すると、蘇秦を殺した者は自首してきた。斉王はこれを殺した。

 とても不自然である。
 もしこれが史実だとしても、王が蘇秦に対して「道具」「駒」以外の感情を抱いていたとしたら、八つ裂きになどしないだろう。

 私は「史記」に登場する蘇秦の言葉そのものが捏造されたもののように聞こえる。
 馬王堆の帛書の中に史実はあるのではないか。
 つまり、斉王はスパイとして蘇秦を部下に殺させ、感情のままに八つ裂きにしたと思えるのだ。
 実際に蘇秦が行った外交政策は斉王にそうされても仕方がないものであった。

 しかし、もしそれをそのまま記述してしまうと、蘇秦はヒーローではなく、自分の利害のために非理の国である秦を利した人物と云うことになってしまうし、虎狼の国と各国を交渉させた張儀の方が正しいことになってしまう。

 やはり歴史はそれを顧みる時代の人々の考え方から自由ではいられないのだろう。

 次回からは、司馬遷や劉向とはちょっとだけ違った見方で「戦国策」を考えてみたい。

戦国策を読む2-「戦国策」とは-(新米国語教師の昔取った杵柄21)

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戦国七雄

 中国で周王朝が衰亡し、秦が大帝国を打ち立てるまでの間の時代を春秋戦国時代という。

 中でも春秋五覇の1つ晋が分裂して韓・魏・趙の3国になったB.C.453年から後を特に戦国時代という。

 この時代が「戦国時代」と呼ばれるようになったのはこの時代に各国が取った国策や活躍した人々の言説などをまとめた「戦国策」という書物に由来している。

 「戦国策」は最初の統一王朝である秦の次の王朝である前漢時代、劉向という人が編纂したと目されている。 
 劉向はB.C.79~8年の人だから、そこに書かれている出来事が起こってから400年くらい経ってから編纂したことになる。

 出来事の記憶というものはそれを扱う人が生きる時代の思潮によって変容していくものだから、これは「前漢の人の価値観で纏められた戦国時代の記録」と思われるかもしれないし、そういった側面はあるだろう。前漢の価値観とは、国教となった儒教の価値観である。

 しかし、この書物の元になった話は竹簡(紙が発明されるまでのメディア)として古くから保存されていたものらしい。

 「え、秦以前の法家以外の書物は始皇帝の『焚書坑儒』で失われたんじゃ?」と思う人がいるかもしれないが、これはそれを避けて壁などに塗りこめられて保存されていたのだ。
 これが前漢になって次々と発見され、「古文」と呼ばれた。現在古い文章を「古文」というのはここから来ている。
 それ以外に焚書されたものも実はその内容は口承されて後世に遺され、それが前漢時代になって書物として纏められた。これを「今文(きんぶん)」という。

 劉向はこの「古文」と「今文」の異同を校訂して統一するという気の遠くなるような仕事をした人なのである。劉向自身は前漢の役人だから儒学者だが、後の人々の価値観に左右されずに保存されていた「古文」の力は大きかったに違いない。

 したがってこの書をつらつらと読んでみるに、「君、君たり」「臣、臣たり」といった儒教的な価値観、つまり「みんな分相応に上に従って生きて行こうね」といった考え方に貫かれたものとはとても言えない。
 「戦国策」の中で生き生きと活躍しているのは縦横家といわれた人々である。
 縦横家は当時の儒家と同じく諸子百家と云われた人々の一派である。

 春秋時代から続く長い戦乱の中、これを終わらせるためにはどんな方策が必要なのか、ということに関して色々な人々が色々なことを云った。そして「俺たちを雇ってくれたら中国を統一させてやる」と各国の君主のところに話をしに行った。これを「遊説」という現在でも選挙などで使われている言葉だ。勿論「ゆうぜい」と読むのは云うまでもない。諸子百家はこれらの人々の総称である。

 これらの人々のうち、主に外交政策について各国の君主にアドバイスをすることを生業とする人々が縦横家である。

 縦横家には大きく分けて二派ある。

 戦国時代の各国の外交は、既に大きな勢力となって周辺諸国を圧迫していた秦にどう対処するかということが最大の関心事であった。
 強者に対する弱者の対応は今も昔も同じである。
 反抗するか、従うか。

 縦横家の中で反抗する戦略を説いた人々が合従派である。蘇秦がその代表である。
 その戦略は下の図のようなものである。

合従策

 従う戦略を解いた人々が連衡派である。張儀がその代表である。
 その戦略は下の図のようなものである。
連衡策

 蘇秦も張儀も同じ鬼谷先生という人の弟子であるが、考え方の違いによりライバルとして活躍することになる。

 かつて蘇秦と張儀は前者の方が先に活躍して六国を秦に対抗させ、それを後者が切り崩していって最終的には秦が全国を統一する情勢を作り出したと信じられてきた。これは司馬遷の「史記」と劉向の「戦国策」解釈が基となっている。

 ところが、私が小学生のみぎりの1972年、中国の馬王堆漢墓というところの発掘が行われ、まるで生きているかのような女性の死屍が発見されて世界的な話題になったのだが、その時に同時に「戦国策」の原型とも云うべき帛(布に書いた書物)が発見され、それまでの縦横家に関する通説が覆されることになったのだ。
 この帛書は現在では「戦国縦横家書」と呼ばれている。

 この帛書によれば、蘇秦と張儀では張儀の方が活躍した時期が先で、ということは先に成立したのは連衡策であった。この連衡策を利用して国力を大きくしたのが斉で、蘇秦が活躍した当時には秦と並ぶ二大強国となっていた。
 つまり下の図のような情勢である。

連衡策破綻

 蘇秦の合従策は最初秦に対して他の六国が協力して対抗したが失敗し、その後は秦を除く五か国が協力して斉に対抗する策に変化して成功する。
 下の図が新たな合従策である。
新合従策

 つまり連衡策によって秦の東進は抑制されたがそれが斉の台頭を産み、合従策がその斉に対して用いられたために斉が衰え、結果的に秦の東進と中国統一を準備した訳である。

 しかも、なぜ合従の対手が秦から斉に変化したのか。
 合従が秦に対して行われた時、蘇秦は斉の外交官として各国の説得に当たっている。「史記」や劉向編「戦国策」ではこの部分に脚光が当たっている。
 だが、実は蘇秦は元々は燕の間者であり、斉と同盟国である趙の離間を謀り、最終的にはそれまでは斉の同盟国であった他五か国の対斉同盟を成立させたのだ、という驚きの事実(かどうかは分からない)がこの帛書には書いてあったのだ。現在の学説はこれに基づいたものと昔ながらの学説が混在した状態のようだ。

 この問題についてはもう少し掘り下げる必要があるので次回また。

戦国策を読む1-故事成語とは-(新米国語教師の昔取った杵柄20)

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故事成語はマニュアル

 日本の隣国である中国の歴史は長い。

 一般に「中国4000年」と自称し、これはあながち誇張でもないと周辺の民族からも思われている。

 そしてそれは数多の王朝の光芒の歴史である。

 実在が確実なところから云えば商(殷)に始まり、周、秦、前漢、新、後漢、晋、隋、唐、宋、元、明、清と、統一王朝だけでも11を数える。

 そして周と秦の間には春秋戦国、後漢と秦の間には三国、晋と隋の間には南北朝、唐と宋の間には五代十国、宋と元の間には遼や金、さらに国共内戦など、分裂国家同士の争闘があった。

 更に王朝末期には陳勝呉広の乱(秦末)、赤眉の乱(新末)、黄巾の乱(後漢末)、黄巣の乱(唐末)、方臘の乱(北宋末)、紅巾の乱(元末)、李自成の乱(明末)、太平天国の乱(清末)など、無数の農民反乱が生起して王朝の命脈を絶ったり、新たな王朝の黎明となったりした。

 また、中国の歴史は塞外民族との争闘の歴史でもある。

 古くは秦漢と匈奴の干戈は有名であるが、こうしたある意味パワーバランスの取れた関係だけでなく、時にはこれらの民族が漢民族を征服して異民族王朝を建てたこともしばしばあった。
 元朝や清朝などは征服王朝として知られているし、唐もまた王族をはじめ政権の中枢に漢民族以外の民族がその地位を占めていたことが知られている。

 全土に号令を発して従わせるような力を持った王朝ですら勃興と凋落を繰り返すのだから、ましてや個人の運命など嵐の海に浮かぶ木の葉のようなものである。
 王侯貴族があっという間にその日の食事にも困るほどに零落し、また襤褸を纏って野良仕事をしていた農民が錦の着物を着て玉座に座る。

 ある日ある時の小さな決断が将来の生死を分けることもある。

 そのような激動の歴史の中、人々は如何にして身を処していくかということを必死に考えざるを得ない。所謂「処世」である。そうして生まれたのが現在でも中国人の頭脳の相当部分を占める「処世術」である。
 そして「処世術」の拠り所になるのは、過去の人々の言動である。
 過去の人々の言動を教訓として残したものは「故事成語」と呼ばれる。

 「故事成語」は日本における「ことわざ」とはまた違った、もっと切実な性質を持っている。
 「ことわざ」が成立時期や成立させた人がはっきりしない「昔からの言い伝え」であるのに対して、「故事成語」は「いつ」「誰が」が非常にはっきりしている。

 これは「故事成語」が単に教養や無意識に保持されるものではなく、具体的な処世場面における参考にすべきマニュアルだったことを意味する。

 日本では「漁夫の利」といえばほとんど諺化してその深刻な成立の事情は忘れられている。
 「第三者が濡れ手で粟」というような。

 しかし、実際にはこの話は動乱の中国史の中でも特別熾烈な統一戦争が行われた戦国時代に苛烈な現実的出来事を契機として出来上がった故事成語なのである。

 では故事成語の世界へようこそ。 

竹取物語を読む9-かぐや姫の昇天-(新米国語教師の昔取った杵柄19)

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虎と富士山

 人間は生命体であるから、生命維持に必要なシステムに支障が出れば死ぬ。

 そしてその確率は加齢にしたがって高くなってくる。

 しかし、それが何時来るのかは誰にも分からない。
 それは遺伝的な要素と環境的な要素の複雑に絡み合ったせめぎ合いの結果だからだ。
 年が若いから死ぬ確率が低く、高齢だから死ぬ確率が高いと単純に云えるものではない。

 だいいち人の世には事件や事故というものもある。
 これは老若男女関係なく一定の確率で人々を襲う。

 また、戦争では若い人ほど先にそれに参加するよう駆り立てられるから、生命維持システムに決定的な打撃を与えられる確率が高いのはむしろ若者である。

 「伊勢物語」の主人公とされる在原業平の辞世に「誰が先に死ぬか分からない」ということに関する戸惑いがよく表現されている。

 [和歌]
 ついにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりしを
[現代誤訳]
 人間はいつかみんな死ぬのだということは知っていたが、この私がもう死ななければならないとは思わなかった。

 そうは云うものの、子を持つ多くの人は、何となくなのだが、「自分はこの子より先に死に、それをこの子が見送るのだろうな」と思っている。

 だが、残念ながらそれは、最初に述べたようにこれは多分に当てにならない確率に基づいた感覚である。

 そして、子に先立たれてしまったときの親の精神的な打撃と云うものは年老いた親を送る子のそれよりかなり大きい。
 全くのところ、この世に神も仏もないという心境だろう。

 私はほとんど40年振りくらいに「竹取物語」の「かぐや姫の昇天」の部分を読んだ時、世の中には少なからずそうした人たちがいることを急に思い出して涙を流してしまった。
 1000年以上前の人から泣かされるとは思っていなかった。

 かぐや姫が月に帰らなければならないと分かった時の翁と媼の狼狽え振りを若い私は嘲笑に近い気持ちを以て眺めていたのだが。

[原文]
 竹の中より見つけきこえたりしかど、菜種の大きさおわせしを、我丈たち並ぶまで養い奉りたる
[現代誤訳]
 竹の中から見つけたのだが、まだ菜種ほどの大きさだったのを、私の背丈と同じくらいまで養ったのだ

という翁の言葉に「『三寸ばかり』って書いてあっただろーが。」とツッコミを入れたりしなければ安っぽくて読んでいられない、と思っていた。

 世界中の人たちが作り出した月世界譚(たとえば日本では兎の餅つきだが)は、亡き人がH+やN3-に還ってしまったのではなく、この世界の何処かに存在してほしいという、人間の願望が作り出したものなのだと、この歳にして思い至ったのである。

 閑話休題(これ、にやっとするはなしだよな)。

 さて、帝をペンフレンドとして3年が過ぎたころ、かぐや姫は月を見ては物思いにふけることが多くなった。ときには月を見て泣きじゃくることもあった。
 これはおかしいと翁が尋ねると、真相が判明する。

[原文]
 おのが身はこの国の人にもあらず、月の都の人なり。それを昔の契りなりけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける。今は帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かのもとの国より迎えに人々まうで来むず。さらずまかりぬべければ、思(おぼ)し歎かんが悲しきことを、この春より思い歎(なげ)き侍るなり。
[現代誤訳]
 実は私はこの国のひとではなく、月の都の人です。それが、昔の約束によって、この世界に参ったのです。今は帰らなければならなくなったので、今月の15日に、元いた国から人々が迎えに来るでしょう。必ず帰らなければならないので、お父様お母様が嘆き悲しまれるだろうと、この春から私も思い嘆いていたのです。

 これを聞いた翁が、
[原文]
 「我こそ死なめ。」とて、泣きののしることいと堪えがたげなり。
[現代誤訳]
 「私はもう死ぬ。」と云って、泣きながら叫ぶことははたで見ていても全く耐え難い様子である。

 かぐや姫は、
[原文]
 月の都の人にて父母あり。片時の間とてかの国よりまうでこしかども、かくこの国には数多(あまた)の年を経ぬるになむありける。かの国の父母の事もおぼえず。ここにはかく久しく遊び聞えてならい奉れり。いみじからん心地もせず、悲しくのみなむある。されど己が心ならず罷(まか)りなむとする。
[現代誤訳]
 私には月の都の人で父母があります。一時のことと思って月から参りましたが、この国にはこのように何年もの歳月を過ごしました。月の国の父母のことは思いだしませんでした。ここにはそれほど長く滞在して慣れ親しみました。今月に帰れるといっても嬉しい気持ちもせず、悲しいだけです。しかし、心ならずもお暇しようと思っています。

と云って育ての親たちと共に泣いている。

 次はこの家の使用人たちの様子である。
[原文]
 かわるる人々も年頃ならいて、立ち別れなむことを、心ばえなどあでやかに美しかりつることを見ならいて、恋しからんことの堪えがたく、湯水も飲まれず、同じ心に歎(かな)しがりけり。
[現代誤訳]
 この家で使われている人たちも長年姫に馴染んで、別れなければならないとなって思い出すと、性格がきっぱりしていて美しかったことなどを改めて思い出して、恋しい気持ちが耐え難く、湯水も飲めなくなって、翁や媼と同じように悲しがった。

 平安時代の使用人は物語などに登場する人たちは結構ドライに主人を見ている場合が多いが、こうした人たちをも魅了していた訳である。適齢の男だけに好かれていた訳ではないのだ。さすが「輝く姫」。

 かぐや姫が月に連れ帰られてしまう、ということを聞し召して、帝は兵を差し向けて護らせようとする。

 しかし、月人たちがやってくると、益荒男達は心と腕が萎えてしまい、闘うことができない。
 姫を護るために閉じられていた扉も全部自然に開いてしまう始末である。

 月人の王らしき人が翁に云うには、
[原文]
 汝をさなき人、聊(わず)かなる功徳(くどく)を翁つくりけるによりて、汝が助けにとて片時の程とて降(くだ)ししを、そこらの年頃そこらの金賜(たま)いて、身をかえたるが如くなりにたり。かぐや姫は、罪をつくり給えりければ、かく賤(いや)しきおのれが許にしばしおわしつるなり。罪のかぎりはてぬれば、かく迎うるを、翁は泣き歎く、あたわぬことなり。はや返し奉れ。
[現代誤訳]
 お前、幼稚な奴よ。ほんの少しの功徳を爺が作ったので、お前を助けようとほんの一時のつもりでかぐや姫を遣わしたのに、長年随分金を貰って、身分が変わったようになったのだ。かぐや姫は罪を犯したので、このような卑しいお前の元にしばらくいただけだ。罪の償いが終わったのでこうして迎えに来たのに、爺は泣き嘆く。分不相応なことだ。はやく姫をお返しなさい。

 ちょっとムッとした。
 誰か力を取り戻してこの人を射てくれないだろうか。

 翁が言い返す。
[原文]
 かぐや姫を養い奉ること二十年あまりになりぬ。片時とのたまうに怪しくなり侍りぬ。また他処(ことどころ)にかぐや姫と申す人ぞおわしますらん。」という。「ここにおわするかぐや姫は、重き病をし給えばえ出でおわしますまじ。」
[現代誤訳]
 かぐや姫を養うことはもう20年あまりになった。一時というにはおかしいぞ。また別の場所のかぐや姫と申す人がいらっしゃるのだろう。」と云う。「ここにいるかぐや姫は、重い病気にかかっているので出てこられないだろう。」

 月人は翁には返事をせず、
[原文]
 いざかぐや姫、穢(きたな)き所にいかでか久しくおわせむ。
[現代誤訳]
 さあ、かぐや姫、汚れた場所にどうして長くいるのだ、いや、いなくてよい。

と云ってかぐや姫を外に連れ出してしまう。

 自分たちの都合で勝手に子供を託しておいて、急に連れに来て「金は十分やっただろう」と云って去ってゆく。何だか韓国ドラマの悪役で登場しそうな月人である。

 姫は養父母に手紙を書いて置いていく。 
[原文]
 この国に生れぬるとならば、歎かせ奉らぬ程まで侍るべきを、侍らで過ぎ別れぬること、返す返す本意なくこそ覚え侍れ。脱ぎおく衣(きぬ)をかたみと見給え。月の出でたらむ夜は見おこせ給え。見すて奉りてまかる空よりもおちぬべき心ちす。
[現代誤訳]
 この国に生まれたというのであれば、お嘆きにならないようにずっと一緒にいましたのに、それをせずに別れてしまうことは返す返すも本心に背くことと思われます。脱いでいく服を形見と思ってください。月が出る夜は私のいる月の方を見やって下さい。お父様お母さまを見捨てて行ってしまう不孝をするので空から落ちてしまうような気がします。

 お付きの者が
[原文]
 壺なる御薬たてまつれ。きたなき所のもの食(きこ)しめしたれば、御心地あしからんものぞ。
[現代誤訳]
 壺に入っているお薬をお飲みなさい。汚い所の物をお食べになったので、気分がお悪いでしょう。

と、またムッとするようなことを云う。
弓方、一斉射撃用意!

 これでお別れは終わりかな、と思ったとき、姫が意外な行動に出る。帝に手紙を書くのだ。
 天人は「早くしろ」とイライラしている。

[原文]
 かく数多の人をたまいて留めさせ給えど、許さぬ迎(まう)できて、とり率(い)て罷(まか)りぬれば、口をしく悲しきこと、宮仕(つか)う奉らずなりぬるも、かくわづらわしき身にて侍れば、心得ずおぼしめしつらめども、心強く承らずなりにしこと、なめげなるものに思し召し止められぬるなむ、心にとまり侍りぬる。
[現代誤訳]
 このように多くの人を遣わしてお留めになったけれど、反抗できない迎えが来て、連れられて行ってしまいますので、残念で悲しいこと、お傍にお仕えすることができませんでしたのも、このような訳ありの身であったからで、嫌な女だとお思いでしたと思いますが、強情を張って求愛をお受けしなかったことで、無礼な奴としてお上の印象に残ってしまうのかと、それが残念です。

 あれっ、実は両想い?
 まあ社交辞令だろうが。ただペンフレンド歴3年は伊達ではない。

 姫が帝の使いに文を渡した瞬間、月人が姫に天の羽衣を着せる。

 その瞬間、姫からは翁や媼や、使用人たちや、帝も、地球人の一切に対する愛情が消失してしまう。

 こうしてかぐや姫は天に昇って行った。

[原文]
 翁・嫗、血の涙を流して惑へどかひなし。
[現代誤訳]
 翁と媼は血の涙を流してじたばたするがどうしようもない。

そして、
[原文]
 「何せむにか命も惜しからん。誰が爲にか何事もようもなし。」とて、藥もくわず、やがておきもあがらず病みふせり。
[現代誤訳]
 「もう死んでしまった方がましだ。かぐや姫のためでなくてどうしてわが身に用があるのか。」と云って、薬も飲まず、そのまま病床に就いてしまった。

 翁と媼はこれにて退場。
 歳を取ってからのこの喪失は応えるだろう。このまま死んでしまった可能性もある。

 帝は姫から「不死の薬」をプレゼントされるのだが、
[原文]
 あうことも涙にうかぶわが身にはしなぬくすりも何にかはせむ
[現代誤訳]
 姫に逢う術もなく涙に浮かんでいるような私の身には死なない薬など何になろうか、いや、なりはしない。

と歌を添えて一番「天に近き」駿河(現在の静岡県)の高い山の頂上で燃やさせた。

[原文]
 その山をふじの山とは名づけける。その煙いまだ雲の中へたち昇るとぞいい伝えたる。
[現代誤訳]
 その山のことを不死の薬を燃やしたので「ふじの山」と名付けたということだ。その燃える煙が今も雲の中へ立ち昇ると言い伝えている。

 実は皇子たちの求愛譚が一つ終了するたびにこうした掛詞が登場していたのだが、どうもダジャレっぽくて好きでなかったのでわざと訳さなかった。
 ただ、不死→富士という掛詞が面白かったので訳してみた。

 また、「竹取物語」が成立した平安時代には富士山がまだ活火山だったのに驚いてしまった。さすが火山国日本である。
 
 これにて「竹取物語」一巻の終わり。

竹取物語を読む8-帝の恋-(新米国語教師の昔取った杵柄18)

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笑う女

 5人の貴公子の求婚を退けたかぐや姫だったが、実は最大の本命が残っていた。 

 なんとお上が姫に懸想したのである。

 私は無学なのでこの方に関して使うべきとされている敬語について十分知らないから、よくわきまえないうちに失礼な言葉遣いをしてしまうかもしれないことを断っておく。

 それでは「帝の恋の物語」である。

 姫の噂を聞し召した帝はこうおわす。

[原文]
 多くの人の身を徒(あだ)になしてあわざなるかぐや姫は、いかばかりの女ぞ。
[現代誤訳]
 多くの人を不幸にしてそれでも結婚しないかぐや姫という女は、どれくらいの女なのだ。

 そして「ちょっとその姫の顔を見て参れ」と家来に命じなさる。
 命じられた家来は姫の家まで行き、姫の育ての親である媼(おうな)に対面させるように云うのだが、姫は

[原文]
 よき容(かお)にもあらず。いかでか見みゆべき。
[現代誤訳]
 大した顔でもないのに、どうしてお会いすることができましょう。

と、断固拒否である。

 媼は「馬鹿じゃないの、ちゃんと返事しなさい」というのだが、姫は取り合わない。


[原文]
 うめる子のやうにはあれど、いと心恥しげに疎(おろそか)なるやうにいいければ、心のままにもえ責めず。
[現代誤訳]
 自分の産んだ子のように育ててきたのだが、このときばかりはあまりに素っ気ない冷たい言い方なので、強く云えない。

 使いがさらに強く云った言葉を媼が伝えると、

 「じゃあ殺してよ!」と云う。

[原文]
 多くの人を殺してける心ぞかし。
[現代誤訳]
 なるほど、こうやって多くの男を殺してきたのだな(河童註:自作自演の嘘がバレて失踪1人、事故死1人)。

と思われてしばらく使いはなかったのだが、

[原文]
 この女(をうな)のたばかりにやまけん。
[現代誤訳]
 これは母親の婆さんが娘可愛さに拒否しているに違いない。負けるか。

と思召して、今度は翁に向かって「官職をやるから…頼む」とおっしゃる。

 何だか「色々な人を袖にしたかぐや姫、如何ほどのものか見て参れ!」とおっしゃっていた割には…。「人間だもの(かぱを)。」

 翁は単純だ。

 金は既に持っているし、後は権力と名誉が手に入るのだから何とか姫を説得しようとする。これは「凡人三点セット」である。

 ところが、姫は「どうしても宮仕えさせようとするなら死ぬ」というばかりである。
 この時の翁の言葉が奮っている。

[原文]
 なしたまひそ。官つかさ冠も、我子を見奉らでは何にかはせん。さはありともなどか宮仕をし給はざらん。死に給ふやうやはあるべき。
[現代誤訳]
 死ぬなんて云うんじゃない。官職も冠も、我が子が生きていなかったら何になろうか。いや、何にもならない。そう思っているのなら何で入内なんかできようか。あなたに死なれたら困る。

そう云って、お上にお断りの言葉を返す。

 「凡人は強し。」
 子供に政略結婚を強いる〇閥の総帥などよりよほど良い人である。
 あなたに近いうちに何か良いことがありますように(つって1000年以上前だが)。

 それでも諦めきれぬ帝は、
[原文]
 造麿が家は山本近かなり。御み狩の行幸し給わんやうにて見てんや。
[現代誤訳]
 翁の家は山本が近いのだろう。狩りに行くときにちょっと見てもいいかい。

とおっしゃる。
 この原文は自分の狩りを「御狩」と云ったり自分の訪問を「行幸」と云ったりして不自然なので、元々は近侍の人が云った言葉が帝の言葉として誤解されているのではないかと思うが、これ以上追求するのは止めておく。

 とにかく帝は狩りを口実に姫の家までいらっしゃるのだが、「ちょっと見る」どころではなく、姫の輝くばかりの美しさに思わず輿を寄せて近づいてしまう。

 その瞬間、姫は、

[原文]
 きと影になりぬ。
[現代誤訳]
 すーっと、透明になってしまった。

これはどう考えても地球上の人類にはありえないことである。

 帝は、

[原文]
 「げにただ人にはあらざりけり。」とおぼして、
[現代誤訳]
 これはどう考えても尋常の人間ではないな。」と思われて、

 「もう宮中に連れて行こうとしたりはしないから元の姿に戻って。」と云ったので、姫は元の姿に戻ったのだった。

 さすがの帝も相手が地球人でないと気付けばこれ以上はどうしようもない。

[原文]
 かへるさのみゆき物うくおもおえてそむきてとまるかぐや姫ゆゑ
[現代誤訳]
 ちっともいうことを訊かずに家から出てくれない君を置いて帰るのがとても辛いよ。

 かぐや姫の返歌。
[原文]
 葎はう下にもとしは經ぬる身のなにかはたまのうてなをもみむ
[現代誤訳]
 草ぼうぼうの家で育った私がどうして宮中のような煌びやかなところに行きましょうか、いや、とんでもないことでございます。

 これを見て、帝は「今夜は帰りたくないっ!」と思われたのだが、門の外で夜明けを迎えるわけにもいかないので帰られたのだった。

 この後の記述が「ちょっとなー」というようなものなのだが、何せ1000年以上前の話なので変な忖度をせずにできるだけ忠実に訳したいと思う。したがって現代の日本語としては少々不自然になるかもしれないことをお断りしておく。

[原文]
 常に仕う奉る人を見給ふに、かぐや姫の傍に寄るべくだにあらざりけり。
[現代唔訳(意味わからんし)]
 常にお傍でお仕えする人をご覧になると、かぐや姫のそばに近寄ることすらできないのだった(河童註:誰の何が?私にはどうしても分かりません。解読できる人教えてください)。

[原文]
 「こと人よりはけうらなり。」とおぼしける人の、かれに思しあわすれば人にもあらず。
[現代呉訳(もっと意味わからんし)]
 「他の人よりは清らかで美しい」と思召す人が、彼女と思い比べてみられると、「人にもあらず(河童註:私にはどうしても訳せません。訳せる人教えてください。)」

[原文]
 かぐや姫のみ御心にかかりて、ただ一人過したまう。よしなくて御方々にもわたり給わず、かぐや姫の御許にぞ御文を書きて通わさせ給う。
[現代衙訳(お許しください)]
 かぐや姫だけがお心にかかって、お后を遠ざけてただ一人でお過ごしなさる。どうしようもなくてお妃さまたちの所にもお行きにならない。ひたすらかぐや姫の所に手紙をお書きになってことづけて通わせなさる。

 これはジュディ・オングの往年の名曲「魅せられて」の歌詞に語らせた方が良いかも知れない。

 男は海♪ 違う女の腕の中でも♪ 違う女の夢を見る♪ んんんんー♪ はああー♪ んんんー♪

 周囲の女性たちはこの帝の恋についてどう思っていたのか、人間界では「竹取物語」のこの記述から数行が失われてしまっている。

 ところが、肥後国江津湖の畔で発見されて今に伝わる「河童本」と云われる「竹取物語」には次のような記述があり、学会でもその真偽が侃侃諤諤たる有様になっている。

[原文]
 さて、かはや姫(ママ)月にかへりしのち、仕ふたてまつる后、妃の御方々、ものもきこしめさらぬ河王(ママ)をしりめに見奉りたまひ、「あなたへがた」と腹をきりて笑ひ給ふ。

 これにてかぐや姫への求婚譚は全て終了。

 翁や媼を含めた地球人全てとかぐや姫との別れが近づいていた。

竹取物語を読む7-燕の子安貝-(新米国語教師の昔取った杵柄17)

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婿取りの法則

 さて、かぐや姫の婿取り譚も最後の「中納言石上麻呂」までやってきた。

 「竹取物語」の「身分が低いほどひどい目に遭うの法則(今考えつきました)」によれば、石上麻呂は中納言であるから一番酷い目に遭いそうである。

 中納言に課せられた難問は「燕の子安貝」。

 子安貝は現代では宝貝と呼ばれ、古くから安産のお守りとされてきた。

 貝だから海にいるものだが、燕が出産と共に産むものがあるという伝説があったようだ。

 私はこの話を18歳くらいで最初に読んだとき、「燕の巣のスープ」を思い出した。
 これは良く知られている通り「鱶鰭スープ」「熊の手」と共に中華三大料理と呼ばれているものの一つである。
 そしてこの燕の巣の採集が困難を極めることでも有名である。
 燕の巣と聞くと日本人は藁で出来たものを連想するが、これはアナツバメという種類の燕が海藻を原料にして作ったものである。したがってコラーゲンたっぷりの栄養食品でもある。
 アナツバメは海沿いの崖の中腹の洞窟に巣を作るため、これを採集するためには人が崖をよじ登る(または降りていく)必要がある。これには時間と手間がかかるし危険も伴う。

 中納言もまた燕の子安貝を採るために同種の危険に晒されてしまった。

 中納言は最初は家の屋根まで足場を組ませて大勢の者に監視させたが、燕は怖がって巣に近寄りもしない。

 そこで倉津麻呂という者のアドバイスに従って籠に乗って高くまで登っていくことにする。簡易エレベーターのような仕組みである。

 ところが、吊り上げられた家来がいくら探っても子安貝を見つけることができない。

 探し方が悪いのだ、と思った中納言は自ら籠に乗って登っていき、手に触れたものを掴んで地上に降りようとする。その瞬間、

[原文]
 綱絶ゆる、即やしまの鼎の上にのけざまに落ち給えり。
[現代誤訳]
 綱が切れて、すぐに大きな鍋の上に仰向けに落ちてしまった。

[原文]
 人々あさましがりて、寄りて抱え奉れり。御目はしらめにてふし給えり。
[現代誤訳]
 人々が驚きあきれて近くによって抱きかかえると、目は白目になって気絶している。

 口に水を入れるとようやく息を吹き返すが、加減を訊かれて、

[原文]
 ものは少し覚ゆれど腰なむ動かれぬ。
[現代誤訳]
 意識は少しはっきりしてきたが、腰から下が動かない。

との訴え。腰椎骨折による脊髄損傷であろう。作者も「御腰は折れにけり。」と描写している。

 そして「子安貝だ」と喜んで握っていたものは、「燕のまりおける古糞」であった。

 噂を聞きつけたかぐや姫が慰めの歌を贈るが、その返歌を辞世として

[原文]
 絶え入り給いぬ。
[現代誤訳]
 息絶えてしまわれた。

 遂に死者が出たか。
 「危険度インフレーションの法則(今思いついたんだけどね)」からすれば予想されたことではあったが。

[原文]
 かぐや姫少し哀れとおぼしけり。
[現代誤訳]
 かぐや姫は少し可哀そうだと思われた。

って、さすが月世界の人、地球人の運命にとても関心が薄いことが伺われる。

 これにて5人の貴公子のプロポーズは全て失敗。

 ところが、大本命が残っていたのである。

竹取物語を読む6-龍の首の玉-(新米国語教師の昔取った杵柄16)

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船酔い

 さて、作者が当時の読者から、「何か似たような話ばかりだね…」と云われたのか、はたまた「リングにこけろ(仮名)」や「禁肉マン(仮名)」のように技のインフレーションが起こったのか、かぐや姫の婿取り譚も残り二人になって急に危険度が高くなる。

 次は龍の首の玉を取って来いと云われた大伴御行の大納言の物語である。

 大納言であるから先の皇子2人や右大臣に比べればずっと身分が低い。

 物語作者も人間であるから偉い人にはケチがつけにくくても身分が低くなるほどシビアに描写できる。モデルにされた人が見て激怒した時の仕返しが違うからだ。

 この大納言に関する記述は赤裸々である。

[原文]
 我家にありとある人を召し集めてのたまわく、「龍の首に五色の光ある玉あなり。それをとり奉りたらむ人には、願わむことをかなえむ。」とのたまう。
[現代誤訳]
 大納言は家にいるありとあらゆる人を招集しておっしゃった。「龍の首に五色に光る玉があるのだ。それを取って献上した者には、何でも云うことを叶えてやろう。」

 家来たちが戸惑っていると、こう畳みかける。

[原文]
 大納言のたまう、「君の使といわむものは、『命を捨てても己が君の仰せ事をばかなえん。』とこそ思うべけれ。」
[現代誤訳]
 大納言がおっしゃるには「高貴な人(自分?)の家臣というものは、『命を捨てても自分の主人の命令を叶えよう。」と思うべきものだぞ。

 ほとんど昭和のどこぞの会社の親方のような台詞である。

 それで家来たちはどうしたかと云えば、大納言から「道(中)の糧・食物に、殿のうちの絹・綿・錢などあるかぎり」を受け取って、

[原文]
 いづちもいづちも足のむきたらむかたへいなむとす。かかるすき事をし給うこととそしりあえり。賜わせたる物はおのおの分けつつとり、あるは己が家にこもりい、あるはおのがゆかまほしき所へいぬ。「親・君と申すとも、かくつきなきことを仰せ給うこと。」と、ことゆかぬものゆえ、大納言を謗(そし)りあいたり。
[現代誤訳]
 どいつもこいつも足の向いた方向に去って行こうとした。こんなもの好きなことをなさることだと悪口を言い合った。頂いたものはそれぞれで分配して、ある者は家に籠り、ある者は自分の行きたいところへ行ってしまった。「親や主人でも、こんな無茶な命令が聞けるかい。」と、埒の明かない命令をすると大納言の悪口を言い合っている。

 ああ、いいなあ、平安時代。人間らしくていいっ。
 これが昭和なら自爆して死ねって云われても「悠久の大義」とか云って自分を納得させて命令に従ってしまっただろう。

 更に大納言はかぐや姫を迎えるために家を新築し、さらにそれまでの奥さんやお妾さんも全部離縁して独り身になり、準備万端で龍の首の玉を待ち受ける。これぞ「捕らぬ狸の皮算用」という奴だ。

 ところが、というか、やはり、というか、龍の首の玉については何の音沙汰もない。
 当然である。みんな逃げ散ってしまったのだから。

 仕方がないので大納言は自ら乗り出す。

 難波(大阪)の港に行ってその辺りにいた船頭に噂を聞いてみるが、「そんな(龍と戦う)船など見たことがない。」とにべもない。

 意気地のない船頭だな、と船に乗った大納言だが、なんと筑紫(福岡)の海まで漂流してしまう。そのうちに、

[原文]
いかがしけむ、はやき風吹きて、世界くらがりて、船を吹きもてありく。
[現代誤訳]
どうしたことだろうか、疾風が吹いて、世界が真っ暗になって、船に吹き付けて弄ぶ。

 ここで初めて大納言もことの重大さに気付く。

[原文]
まだかかるわびしきめは見ず。いかならむとするぞ。
[現代誤訳]
これまでこんな心細いめに会った事はない。どうなっていくのだ。

しまいに「青反吐」を吐いてしまう。加速度病(船酔い)で胆汁混じりの胃液を吐瀉したのだろう。

[原文]
 楫取の御神聞しめせ。をぢなく心幼く龍を殺さむと思いけり。今より後は毛一筋をだに動し奉らじ。
[現代誤訳]
 船の神様聞いてください。馬鹿で幼稚だったため龍を殺そうなどと思ってしまいました。今後は毛一本さえ動かしません。

と神に祈ると、ようやく風が収まり、三、四日で明石の浜に流れ着く。

 この大納言の祈りは、死の恐怖のためというより、今襲われている加速度病(動揺病ともいう)から一刻も早く逃れたいという気持から発せられたものだろう。

 まだ医療人になる前、福岡の学習塾に勤めていた時の事。
 同僚に誘われて鯖釣りに行ったことがあった。
 「船大丈夫?」と聞かれたが、それまで何度か天草に鯛釣りに行って他の人がぐったりしているときでも平気で弁当を平らげていたくらいで自信があったので「全然!大丈夫、大丈夫!」と誘いにいそいそと乗った。自分は船酔いしないという過信のため、前日は深酒をした。
 翌日、玄界灘は慣れている人に言わせれば「まあ普通」であった。
 船は2mくらい上がったり下がったりしていた。
 30分もしないうちに、私は「青反吐」を何度も吐いていた。胆汁混じりの胃液である。
 「お願いだから港に戻ってくれ!」と弱弱しく何度も叫んだが、みんなそんなことは経験済みで、死にはしないことを知っているから、釣りに夢中で見向きもしてくれない。
 船頭さんは「この人根性ないねえ」などと笑っている。
 ショック→否認→怒り→取引→抑鬱→諦め→殺意と心理状態が変化したころ、やっと船が陸に向かって動き出した。もう少しで釣り道具の中から魚を〆る小型の包丁を持ち出すところだった。
 ところが、陸に付いた途端、ケロッとしてしまうのだからなおのこと悔しい。わざと倒れて運ばれてやろうかと思ったくらいだったが。
 家に帰ってもらった鯖を喰ったらこれが脂が乗っていて美味いこと。

 私はこんな経験があるから大納言の事を笑う気には到底なれないのだ。

 さて、可哀想な大納言、精神的ショックと船酔いのためだろうか、

[原文]
 風いとおもき人にて、腹いとふくれ、こなたかなたの目には、李を二つつけたるやうなり。
[現代誤訳]
 風邪の症状が大変重い人のようで、腹がすごく膨れ、どちらの眼の瞼も李を二つ付けたように腫れ上がっていた。

 ほうほうの体で家に帰ると、どこから噂を聞きつけたのか逃げ去った人たちが戻ってきた。

 この大納言の性格だから「今さらどの面下げて戻ってきた!」と云うのかと思ったら、怒りの矛先はそちらには向かわなかった。

[原文]
 汝らよくもて来ずなりぬ。龍は鳴神の類にてこそありけれ。それが玉をとらむとて、そこらの人々の害せられなむとしけり。まして龍を捕えたらましかば、またこともなく我は害せられなまし。よく捕えずなりにけり。かぐや姫てふ大盜人のやつが、人を殺さむとするなりけり。家のあたりだに今は通らじ。男どももなありきそ。
[現代誤訳]
 お前たち、よく龍の首の玉を持ってこなかった。龍は雷神の仲間なのだ。その玉を取ろうとしたので、危なく多くの人が殺されるところだった。まして龍を捕えたりしていたら、私は簡単に殺されていただろう。よく捕えなかった。かぐや姫と云う大盗人の奴が、私を殺そうとしたのだよ。あの女の家の近くだってこれからは通らない。お前たちも近くに行ったりするな。

 可愛さ余って憎さ百倍、かぐや姫は「大盗人」にされてしまった。

ただ、
[原文]
 家に少し殘りたりけるものどもは、龍の玉とらぬものどもにたびつ。
[現代誤訳]
 家の中に少しだけ残っていた財産は、龍の玉を取らなかった家来たちにお与えになった。

とあるから、昭和の〇〇者や〇〇家よりはこれまた人間らしい。

[原文]
 これを聞きて、離れ給いし元の上は、腹をきりて笑い給う。
[現代誤訳]
 これを聞いて、離縁された元の妻は、腹が捩れるほどお笑いになった。

 実に痛快である。「竹取物語」の作者は不明だが、多分女性だな。

 ああ、令和の御代にも龍がいて、こういう自分勝手な人に罰を与えてくれないかなあ。
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