現実の自分と本来の自分
「現実の自分」とは、今現在、ありのまゝの自分。それに対して「本来の自分」といふのがあるのでせうか。
「現実の自分」はありのまゝですから、今よく知つてゐる。さう思つてゐるが、意外と知らない。そして「本来の自分」といふものはあるが、それは創り上げていくものといふより、「出会ふ」ものではないか。
そんな気がするので、この二つの「自分」について考へてみます。
「現実の自分」を意外と知らないかもしれないといふことについて、一例をあげます。
Netflixでも人気の高いドラマシリーズ「Good Doctor」。総合病院の外科部を中心に展開される、医師と患者のさまざまな関はりをうまく描いてゐます。
あるとき、車椅子の男性が入院する。最先端の手術をすれば、もしかして歩けるやうになるかもしれない。ところがその手術にはリスクもあつて、低い確率ながら、手術に耐えらずに死ぬ可能性もある。
本人はそのリスクをおかしてでも歩けるやうになつてみたい。しかし妻が反対するのです。
「少しでもリスクがあるのなら、死ぬかもしれない。夫を失ふ危険をおかしたくない。生涯車椅子でも、私がちやんと世話をしてあげる」
と言ふのです。
男性も妻を愛してゐる。愛してゐるからこそ、歩ける自分を妻に見せたいと思ふ。しかし妻に反対されては、躊躇するのです。
二人の様子を見ながら、担当医があるとき妻にそつと会つて、一つの指摘をします。
「あなたは手術が失敗して夫を失ふことだけぢやなく、手術の成功も恐れてゐる。あなたは車椅子の夫しか知らない。彼が歩けるやうになれば、生活ががらりと変はる。彼も変はる。それによつて彼を失ふことを、あなたは恐れてゐる」 |
その指摘に、妻は反論しない。
彼女はさういふ心理が自分の中にあることを知つてゐたのでせうか。反論しないといふことは、少なくとも、その指摘を認めたのです。しかし、明確に知つてゐたとは限らない。
夫の決意に反対しながら、
「どうして私はこんなに反対するんだらう?」
と、内心で腑に落ちてゐなかつた。
医師の指摘で、そのモヤモヤが言語化され、さつと腑に落ちたやうに見えます。
このシーンを見ながら、私は、
「人は自分を騙すことが往々にしてある」
と感じるのです。
人は自分を騙すことによつて、「ありのまゝの自分」を見損なふ。といふより、わざと(無意識的に)見ないやうにする。だから人は往々にして、「現実の自分」を知らないのです。
誰が(何が)自分を騙すのでせうか。
私の「思考(マインド)」が私を騙すのです。「思考」が騙す目的は、私を保護し、安心させるためです。騙すといふ悪意はない。そしてたいていは、現状を変更しないやうに、納得しやすい理由をつけて提案するのです。
さういふとき、「本来の自分」はどこにゐるのでせうか。
これは、今の私にはよく分からない。多分、隠されてゐると思ふ。隠してゐるのは「思考」です。
「思考」は言葉をエンジンにして動く。上の例で言へば、手術で死ぬ確率は15%だと言はれると、「私はその15%に入るかどうか」と考へる。「確率」といふ言葉で考へ、15%に入るか入らないかで、将来、自分の立場、夫婦の関係はどう変化するだらうかと推測する。時間軸の中に自分を置くのです。
時間軸の中に「本来の自分」はゐない。言葉の中にもゐない。だから、「思考」をとめない限り、「本来の自分」は出てこない。
「思考」を継続的に長くとめることは難しいものゝ、一瞬とまるといふ体験は、誰にでもあるでせう。その瞬間、ハツとして、思ひがけないアイデアが降りてきたりする。それが「本来の自分」の片鱗ではないかと思ふのです。
それが、「本来の自分に出会ふ」といふ感じです。「思考」がやむと、「本来の自分」の扉が開かれる。すぐそこにありながら、今まで見えなかつたものが、姿を現す。
医師の指摘を受けたとき、妻の「思考」は一瞬とまつた。
そして、リスクの確率も、将来の変化への不安も消えて、
「自分は夫を『今』どれだけ愛してゐるか」
といふことだけにフォーカスした。
すると、「本来の自分」の気持ちがよく分かり、本当は何がしたいのかが分かつたのです。
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