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すべての人は哲学者になる

kitasendo
2024-09-07

ロボットが普及する次の10年、20年は、ひとびとが哲学者になる時代ではないか。僕はそれに先んじて、すべての人間を哲学者にしたいのだ。
(『アンドロイドは人間になれるか』石黒浩)


これが本書の締めくゝりのフレーズです。石黒氏が考へてゐること、本書で読者に伝へたいことは、この一言に尽きると言つていゝと思ふ。

石黒氏は大学の教授ですが、かなり風変はりに見える。表情はつねに不機嫌さうで、笑はない。そのくせ、講演などでは関西弁でかなりのジョークを連発する。

いで立ちは、黒一色。日によつて色合ひを変へない。その理由について、本書の中でかう説明してゐます。

なぜ多くの人は毎日違う服を着るのか。僕にはよくわからない。普通に考えて、変えない方がいいに決まっている。個が識別される、まさに「個性」となりうるのだから。

石黒浩のアイデンティティは「黒」で、1ミリもぶれない。

石黒氏は「すべての人を哲学者にしたい」と言ふのですが、自分は率先して哲学者になつてゐる。もともと哲学者の資質があつたのか、ロボット研究で哲学者になつたのか。多分、前者だと思ふ。この人はロボット技術者ではなく、根つからのロボット哲学者なのです。

それなら、石黒哲学の核心的テーマは何か。

「人間とは何か」
といふことです。

石黒氏にすれば、これほど重要な人生のテーマはないのに、大半の人はこれにあまり関心がないやうに見える。こんなことは考へるまでもなく、分かり切つてゐると思ひ込んでゐるからです。

ところが、これが実はちつとも分かり切つてゐない。人類はこのことを数万年、あるいは数十万年、営々と考へ続けてきたのに、いまだに明確な結論が出てゐない。それくらゐの難題なのです。

これがなぜ、それほどに難しいのか。石黒氏は「自己認識機能はすべて外向きに付いてゐる」からだと考へます。

視覚や聴覚など、五官と言はれるものはすべて、外向きに付いてゐます。高性能の目が2つあつても、生涯ついに、自分の全身を直に見ることはできない。耳も本当の自分の声を聞いてゐない。

一方、脳にも胃腸にも骨にも、感覚器官は付いてゐない。自分の内部を観察し、客観的に自分の行動を観察できるやうになつてゐないのです。

だから、自分のことは自分よりも他人のほうがよく、正確に知つてゐる。自分が自分のことをあまりにも知らない。それを克服しようとして、人類は自己を客観化するために、芸術を生み出し、技術を発達させてきた。人間のあらゆる行動の根本動機は、「私は何者か」を知るところにあつた。そして、技術面の(現時点での)集大成が「ロボット」といふことになる。これが石黒氏の見立てです。

ロボットを工夫するのは、人間の生活をより安楽にするといふ技術面の目的もあるが、それは本質ではない。本質はあくまでも、「人間とは何か」を知るための営みなのです。

技術開発を通して人の能力を機械に置き換えているのが人間の営みであり、その営みは「人間はすべての能力を機械に置き換えた後に、何が残るかを見ようとしている」と言いかえられる。ロボットは「人間を理解したい」という根源的欲求を満たす媒体なのだ。
(「同上」)

技術としては過去最高レベルに達してゐるロボット。それを通して、我々人間はどのやうに自己を知るのでせうか。

ロボットは、人間に代はつて力仕事をしてくれるだけではない。今や、将棋やチェスなど高度に知的なゲームでも人間を凌ぐし、日常の会話にもつき合ってくれる。

もうこれは、ほとんど人間と言つてもいゝのではないか。そこまでロボットが人間に近づいてきたとき、それでも両者の間に残るごくわづかな違ひ。そこに「人間とは何か」が浮かび上がつてくる。両者の違ひが小さくなればなるほど(つまり、互ひに似てくればくるほど)、これまで分からなかった「人間とは何か」が分かつてくる。ロボット哲学者はその点に着目するのです。

たとへば、人間以上に万能に見えるロボットにも、いまだ人間に敵はない分野があります。タスクの定義ができない分野がそれです。

タスクが定義できないと、プログラムが組めない。「この言葉、この作業はこのやうに定義できる」とか「これをすれば、必ずあれが起きる」などといふことが明確でないと、ロボットのプログラムは組めないのです。

ところが人間は定義の曖昧なまゝで行動できるところがある。たとへば「人間とは何か」が曖昧なまゝでも日常生活に支障がない。「考へる」といふ定義も曖昧なのに、あれこれ考へてゐる。

ロボットが限りなく人間に近づいてきて初めて、
「あゝ、我々は曖昧なまゝで生きられる存在なんだ。むしろそれこそが人間なのかもしれない」
といふことが分かつてくるのです。

我々人間は、自己を知るために、必ず他者を必要とする。それは人間としての他者でもよく、芸術や技術などの人工物でもよい。その他者を観察することによって、その他者に映る自分自身を認識するのです。

今のところは、スマホにしろパソコンにしろ、最先端の技術を「利便性」の面で理解してゐますが、今後ロボットがさらに進化し、人間に限りなく似てくれば、それはただ「利便性」だけの存在ではなくなるでせう。人間が自分を映して「私は一体何者か」といふ哲学的疑問を追求していける、最高の他者になりうる可能性があります。

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