沖縄慰霊の日を沖縄戦終結の日とするなら9月7日

実方藤男さんの投稿
より
◆「沖縄慰霊の日」は「6月22日」だった
1961年に「沖縄慰霊の日」は「6月22日」に制定されまし。この「6月22日」という日付には厳密な意味があります。「日本軍による組織的な戦闘が終結したとされる日」というような曖昧なものではありません。
「沖縄慰霊の日」。この日が来ると、メディアはこぞって「日本軍による組織的な戦闘が終結したとされる日」と述べていますが、沖縄戦が正式に終わったのは8月15日より後の9月7日です。日米両軍の司令官が調印を行った「沖縄戦降伏調印」の日が戦争の公式な終結となっています。「日本軍による組織的な戦闘が終結したとされる日」というのも、事実ではありません。「この日」が過ぎても戦闘は続き、多くの人が犠牲になったいます。米軍自身でさえ、攻略作戦の終了を宣言したのは7月2日としています。

◆なぜか「6月23日」に変更されてしまった
さらに、現在、沖縄の「慰霊の日」は6月22日ではなく、「6月23日」に変更されています。どうして6月23日に変更されたのでしょうか。メディアがこぞって触れようとしない「22日→23日」の変更。この事実に「慰霊の日」と「沖縄戦の悲劇」の秘密が存在します。そして、メディアによる無責任な虚偽報道という問題もけっして小さな問題ではありません。

◆最後の晩餐
(1945年)。「6月21日晩 料理人は特別食を用意するよう命令され、午後10時ごろ料理を出した。これが最後の晩餐となった。料理は米ご飯、缶入り肉、ジャガイモ、干し魚、サケ、キャベツ、豆腐汁、パイナップル、茶、酒を用意した」(『沖縄戦新聞』琉球新報社より)。
この晩餐の御馳走。沖縄戦の中で食べるものが激減し、栄養失調と飢餓状態を強いられた人びととの隔たりはあまりに大きくはなかったでしょうか。これが高潔な日本軍の指導者、立派な日本軍人の選んだ贅沢な死だったのです。
沖縄の「慰霊の日」は、「復帰」前の1961年7月に「県民の休日」として「6月22日」に制定されました。このとき、すでに「戦後」16年が経過していました。ところで、なぜ、この日が「慰霊の日」に定められたのでしょうか。
それ以前に行われていた沖縄戦の「慰霊祭」は「6月19日」でした。6月19日は沖縄戦で第三外科壕が米軍に攻撃され、最大の犠牲者を出した日です。そして、1962年以降、慰霊祭は「6月22日」に変更されました。

◆自決は22日午前3時40分
「牛島司令官死亡 米軍が日時特定」
米第10軍のG2(情報部)が6月26日付で作成した報告書によると、日本守備軍・第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長の自決は「6月22日午前3時40分ごろ」と明記している。報告書は、第32軍司令部付き料理人を含む5人の捕虜の証言を突き合わせて作成。米軍は証言を基に司令官の遺体を捜索、25日に司令部壕の海に面した入り口から70メートル下った岸壁の底部の小さな穴に、小石をかぶせていた2遺体を発見。萩之内清憲兵分隊長が牛島司令官と長参謀長であると確認した。

◆魂還りつつ皇国護らん
牛島司令官の訣別の辞。
「……最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。」
辞世の歌。
「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」。
「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん」
1961年6月22日。沖縄県は条例で牛島が「自決」したその日を「慰霊の日」と定め、公休日としています。

◆牛島司令官の「自決」は22日ではなく23日だったために
その後、1965年3月16日の県議会で「6月23日」に変更しました。自決した日が22日ではなく、23日であるとされたからです。この変更そのものが示すものこそ、沖縄の「慰霊の日」というのは、沖縄戦の終戦記念日でもなく、よくいわれるような日本軍の組織的な戦闘の終結でもなく、沖縄戦の「A級戦犯」が死んだ日を記念して制定されたものであるとことが、明々白々であるといわざるをえません。

◆「沖縄戦のA級戦犯の慰霊を行っている」日
そして、その後、6月23日に変更されたこの日は、「命」を尊ぶ平和の日ではなく、玉砕命と、降伏の禁止と言う「命」を否定された日です。兵士はもちろん武器もない民にも、白旗を掲げて生きのびることが禁じられた日です。そして沖縄戦の最高責任者が自らの死でそれを示したのでした。もっとも「最後の一人になるまで戦え」と命令しながら、自らは、自分だけは戦線から逃亡をはかって、名誉の死を、すなわち卑怯者の死を選んだのでした。ですから、沖縄の慰霊の日とは、実際にはいわば「沖縄戦のA級戦犯の慰霊を行っている」日になっています。それが6月23日です。悲しく哀れな一日です。

◆「組織的な戦闘が終結した」はずの戦場で
1945年6月になると、日本軍の戦線は次々に崩壊していきました。増え続ける死者、負傷者たち。野戦病院と呼ぶ施設さえ欠如した地下壕では、治療の術もなく、効能のある薬品もありません。逃亡する軍に同行できず、ただ死を待つ人びとには、あるいは青酸カリなどの毒薬、あるいは手榴弾が与えられ、自決が当たり前のように促されました。1日に数千人が死んでいったといわれます。6月19日、軍との行動を共にし、地下壕で看護に当たっていた「ひめゆり部隊」は、アメリカ軍の手榴弾と火炎放射器で死亡し、生き残った女性の多数も6月22日に断崖から身を投げざるをえなかったのです。
6月23日の牛島司令官の自殺から以降は、米軍による残存日本兵の掃討作戦が開始され、地下壕の陣地で爆弾の炸裂により生き埋めにされ、あるいは火炎放射器で焼き殺されました。組織的な戦闘が終結したはずの戦場で、この掃討作戦だけで日本兵は約9000人が戦死しましたが、捕虜になったものは約3000人といわれています。

◆降伏・捕虜の絶対禁止
牛島司令官は「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と命令を発し、1945年6月23日午前4時30分、摩文仁の軍司令部壕において、辞世の歌を詠じつつ、「日本古武士の礼法に則って」切腹して果てたといわれています。この命令により、捕虜になることが禁止されたわけです。また、司令官の責任放棄により、指揮系統が崩壊したことも、無謀な戦闘行為の継続を出現させ、死傷者を増大させました。たしかに米軍は1945年7月2日に沖縄作戦終了を宣告していますが、なお戦闘は終わっていません。こうして「組織的な戦闘の終結」以降も、米軍の勝利宣言以降も犠牲者はなくならず、さらに沖縄戦は長く続くことになったのでした。

◆聞くこともできなかった「玉音放送」
8月14日には、ポツダム宣言受諾の通告が行われました。そして、翌8月15日には昭和天皇による「大東亜戦争終結の詔書」の録音盤がラジオで放送されました。しかし、沖縄で、この放送を耳にして、戦争の終了を知った人は微々たるものでした。放送局は壊滅し、電波も届かず、ラジオを聴くこともなく、沖縄では「玉音放送」は広く知られることがなかったのです。
やがて、1945年9月7日、南西諸島の日本軍を代表する3名の司令官が、沖縄戦降伏文書に調印しました。米軍がこの降伏を受託し、署名することで国際的には沖縄戦が公式に終結したのです。6月23日の牛島司令官の自殺から、かなりの時間が経過し、それはそのまま犠牲者の積み上げになっていったのでした。
たしかに、6月23日以降は、日本兵や住民の集団投降も増えていきました。とくに住民をみると、日本軍が撤退して存在しなかった避難壕で集団投降は多くなっています。逆に日本軍と住民の「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示に従って行動したために多くの犠牲者が出ることになりました。
住民の多数は米軍の攻撃で死亡したのですが、また、集団自決や日本兵の指示による負傷者の毒殺もありました。さらに、日本軍、日本兵による住民の殺害、集団虐殺も少なくありません。
最後には保護されたはずの米軍の収容所、野戦病院でも犠牲者は出ています。無抵抗の住民が射殺されたり、暴行によって殺されたりしました。また、女性住民への強姦が日常的に行なわれていたのは知られるところです。

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