祝杯






 例えばの話だが。
 Aさんは親を二人ともBさんによって轢き殺されました、怒りと絶望と悲しみの中がんばって成功を収めました、成功したらBさんが出てきて、あなたが成功したのは私のおかげだ、私があなたの両親を殺さなかったならそうはならなかった、親を失ったからあなたは成功できたのだ、従って1億の財産のうち50%とは言わないまでも30%は私のものとなっていいはずだ。
 などという話があったら、普通は持ちかけられた時点でぶん殴るんじゃないだろうか。と思うのだが、最近はそういう神経の話がよくされるようになっている気がするから今というのはそういう時代なのかもなあなどと。胸糞悪い話だが、恩着せがましさにもほどがあるしなによりも突き詰めると結局金の話だけであり自分の功績と受け取る権利の話にしか行き付かない。


 ・そもそも敵と味方という概念は全く違う性質のものであるといえる。
 味方に喜びがあればこちらも喜び、悲しみがあればこちらも悲しむ。まあ本音は違うものであるにせよ、少なくとも建前はそうするだろうし、そうなるだけの合理性はあるとはいえる。つまりそこには少なくとも社会的な「演技」の介入する余地がある。それが本音であれ偽物であれ、偽物であるならばきちんと整合性の見繕われた演技をすることによってこの社会はそれっぽく辻褄を合わせて成り立っているのだ。味方というものはその演技がヘタクソであろうとなんだろうと、まあそういうものであると許容できる。
 まあこの世の中ってのはそういうものだろうと。


 しかし敵という概念はこれとは全く違う性質のものであるといえる。
 敵に不幸があれば徹底的に攻め抜くし、喜びがあれば舌打ちでもしてやる。
 司馬懿は五丈原で諸葛亮の訃報を聞いて当然のごとく攻め寄せたし、諸葛亮はその対策を取っていた。いわば「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事である。司馬懿は名将ではあったが、この弱小国の宰相を務めた諸葛亮を前にしてもとうとう足元にも及ばなかったと嘆いている。逆に言えば死後はどこへ行っても大活躍の司馬懿ではあったのだが。


 話を元に戻すと敵という概念のもつ性質は味方とは真逆である。それはもう敵と味方という言葉の通りにプラスがプラスであるか、プラスがマイナスであるかというくらい異なっている。義務であるならばともかくとして、敵が困窮していれば塩を送らないのは常道だといえる。まあ歴史上送った人も中にはいるんだけど。そういう敵に対してはすかさず困窮を見て取り、祝杯でもあげるかというのは常道であるといえる。急に熱血教師の愛のこもった体罰を正当化するかのような話になるのはおかしな話であり、愛と権利を主張してきたとしても誤魔化してはならないのは、その本筋とは何かといえば、恐らく敵と味方というものにまつわる概念、ここに行き付くのではないかと思ったという話。


 さらに言えば、味方である、味方をやめる、敵に回る、敵であることをやめる(降伏する)といったことの持つ意味は、一般的にも簡単に言われがちではあるが、そう簡単に言われるほど軽くはないということでもある。一度敵であることを選んだ以上は助けられる筋合いは全くないわけであり、なんなら自らのあずかり知らぬところで「祝杯」をあげられていても何ら不思議はないということ。そしてそれはカード一枚を表裏ひっくり返すほど簡単でも容易なものでもないということ。




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