詰み感と全能感2






 詰み感と全能感というのはセットみたいなもので、オレの人生は詰んでいる、もう行き詰っていると思えばこそふざけるな!とその範囲内での最大限の自由を求め、人生に渡ってまでは不可能かもしれないができる範囲内では全能でありたいと思う。またはオレの人生は全能だ、万全だと思えばこそ、ちょっとした挫折があったりしてその全能感を奪われたり損なわれたりした時の挫折感も大きく、ショックが大きく死を選ぶなんていうこともあるだろう。そう思うと、この人については少しだけ余裕が見受けられるように思う。
「お前の人生意味なかったな。
 静江さんへ、仁より」
 この言葉を遺して死のうと思ったわけだが、この言葉っていうのは先に思いついていたわけで、この言葉を遺して死ぬ、そしてそれに纏わる自分の思いのたけをぶちまけて死のうと思ったわけだし、これはちょっとした反響がありそうだぞ、おもしろそうだぞと思ったに違いないし、事実そうして反響があったわけで、つまりかなりの部分この人の思い通りに事は運んだということになる。つまり自分の思い付きによる死後の反応の大きさを大なり小なり思ったに違いないし、それはある種の希望でもあり楽しみでもあった、そうしたものを自分の思い付きの先に見出している時点で、余裕があるし、そうした余裕を全てこの思いつきにあてようという意思も感じられる。そういうわけで、まだ余裕がけっこうあるなというものをちょっとだけ窺えたというのが実はけっこうある。


 フランクルがアウシュヴィッツ収容所で囚人がタバコを持っていたという話をしていたが、それに通じるものがある。ラスト一本はみんな楽しみに取っておいたということなんだが、実はそれが結構なカギで、その最後の一本を吸った人間はもうそう長くはもたなかったと。これが楽しみだ、これが希望だと思えばこそ、それを吸ったということはもうそれでオレの人生は終わっていい。最期でもいいという意思があったということになる。逆に言えばラスト一本をまだとっている収容者は生きるための意志があったということになる。
 そういう見方をするならば、この人は自分の思い付きを「最後のタバコ」にあてていた。これはおもしろいぞ、これは反響がある、そしてオレも言いたいことをうまいこと言ってすっきりするというその一点に全てを掛けた。これで死んでもいい、人生終わってもいいという思いがあった。
 この際彼がアウシュヴィッツを知っていたかどうかなんていうことはどうでもいいことだが、人生を終わらせるためのそういう様式があって、それにはある種の普遍性があり、そして彼が人生をそういう形で終わらせることを選んだということに意味がある。そういう様々な事情があり、そしてその一点に「キレイに」まとめ上げる、なんてのはオレからみたらまだまだ余裕だなと。人生泥臭くみっともないマネもしてムダでむしろ逆効果なことだって山ほどあるがそれでもやらざるを得ない、そういう混沌の中で泥臭く生きている人間からすれば、おいおいちょっと楽勝ぶっこきすぎてないか?という思いが実はけっこうある。


 じゃあ何故そう思うかって、いろいろ苦労していろいろな知識と経験と技術を会得していった末に「これだ!」というアイデアに出会ってオレは天才だ!と思ったが、そこに全能感はあったがそっから先挫折にまみれて青息吐息になりつつもやってる挫折まみれの人生だが、それでもこれは絶対にうまくいくと思っているから死ぬ気でうまくいくまでしがみついてやってやる……という人生がオレ。全能感はあったけれどその先ひたすら挫折しかないという(笑)
 この人は確かに詰み感あったろうが、しかしその詰み感の中でその窮屈な中でも全能感を得たい、そして自分の思い付きの一点に結集する見事さに惹かれ、よしこの一点で死のうと思い定めて死んだのがこの人。そういう混沌と泥臭さと、詰み感とキレイに死にたい思いというがあって、なんか好対照だなと。片や無様な生を求め、方やキレイな死を求めるか。
 そういうわけで、ちょっとまだこれ余裕がかなりあるんじゃない?とどうしても思えてしまったという話。






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