無縁仏






 母方の実家のそばに多数の無縁仏がある。その墓石の数や数十。かつては訪れ手入れをする人もあったのだろうが、今や行くのも面倒手入れをするのも面倒で、すっかり荒れ果てた感がある。その見捨てたのも昨日今日の話ではなく、30年以上前からとうに見捨てられ打ち捨てられていたのだから、今の荒廃具合というのも推して知るべしといった感じになっている。


 ①この多数の無縁仏、来る人もなく世話をする人もいないのは可哀想だと思い、何かしてやろうと思ってみると決まって言われるのは「やめなさい」と。なぜなのかと聞くと言われたのが「呪われるから」
 いやいや、こちとら可哀想だ、気の毒だと思って何かしてやろうと思っているわけで、やれ墓石にいたずらしてやろうとか悪さを働いてやろうと思っているわけではないというのにそれを呪うとか祟ろうってのはおかしくないか?リクツに合わなくないか?と当時思ったものの、まあそうしておきなさいということだからそうしておいたものだった。それは幽霊とかその手のものをことのほか恐れる個人的な性格によるものなのか、それともそういうことがあったために恐れるようになったのかは知らないが、その手の話はいまだに苦手だし嫌っている。


 ②それから30年も経つと放置された墓地から無数の草木が茂り始めるようになり、日によっては草木が道を塞いでいて通行の妨げになるものだから、いやでも切るなりなんなりしないとならないようになってしまっている。触れたら呪われるぞ、入ったら祟られるぞと言われていたものの、こうなると問答無用で何かしらのことをせざるを得ない。呪われるぞなんて言われたって、切らないと道が通れないんだから仕方がないだろうという感じである。
 こうなると、呪われるとか祟られるというのは一体何だったのかって話だが、入って小さいうちに手を打っていてくれれば大した問題にはならなかったはずのものが、木は大木になり、草木は燃え上るような勢いで栄えているもんだからまあ始末に負えない。じゃあ呪われるとか祟られるって一体何だったんだよって話だが、「めんどくさい」の別名だったってのが話の本質のけっこう大部分を占めているように思われなくもない。そうこうしているうちに呪われているのかもしれんが、そんなことはわからんし、そういう自覚もない。呪われているのであれば毎年お祓いにでも行かないといけないのかもしれないが、それこそめんどくさい話である。しかもお祓い代金って結構高い。それならお祓いよりは刈り払い機にお金使ってキレイにした方がナンボかいいだろう。


 ③しかしこうなっては、お墓を見捨てた人らの一人勝ちといった感じであり、もはや大勝利と言った感じすら出てくる。呪われるかもしれない精神的負担を背負わせ、恐怖を与えつつも強制的に隣人の手を煩わせて自動的に掃除してくれる態勢が30年越しに確立できたのと、おまけに「あーめんどくせー!」となって本腰入れて抜本的に掃除したとすれば、何もしなくても墓はキレイにしてくれるようになったとするならば、もはや優秀な墓守を雇ったも同然である。これはもはや人間版ルンバといった感じであり、いやふざけんじゃねーよ(笑)って話だが、何もしないヤツが一番得するという何とも言えないこの仕組みであり構造というのは非常に厄介な問題だなと思っている。必要最小限で済ませたいところではあるわけだが。


 ④しかし考えてみればこの問題は社会のどこを切ってもあった問題だったんじゃないだろうか。
 「無縁仏」なんていうから墓周りの非常に狭い局所的な話で終わっているんだが、しかし例えばゴミ問題でいえばどうか。ペットボトルをコンビニで買って飲み、それをポイ捨てする。これはいわば「無縁化」である。これによって別に呪われまではしないまでも、これが別に飲めるというわけではなく、拾ったとしても次にゴミ箱までもっていかなくてはならない。ゴミの処理代金と手間暇が必要とされ、じゃあ誰がそれを支払うか問題になっていき、コンビニなんかでは「素晴らしい!」……と一時は言われたかもしれないが、今やコンビニでさえゴミ処理をしたがらないのが現状である。これで誰が一番得するかって、当然捨てた人間である。捨てた人間が、拾わざるを得ない人間に義務と責任を押し付けて逃げ、その余りの多さと煩わしさにもはや誰も拾わなくなった。


 ⑤結局何かって言ったら人は「賢い」ってことだ。
 墓場を捨てて押し付ければ全部他人にめんどくさいものを背負わせられる。何一つ負担することなんかないのだ。
 ゴミもそうだった。そして今やそのゴミの余りの多さに環境汚染が進み、ナノプラスチック汚染に人類が脅かされる始末だが、当初そこまで考えてはいない。いくら賢いったって限度があるというわけだ。
 この無縁化の流れで一番得をした人間が、そのプラスチックによって健康被害を脅かされ、日々を生きるにも苦労する暗い難儀な人生を送ってくれたらいいな(笑)というのと。
 墓場問題もそう、全く同じで、見捨てた人間が一番得をする世の中ではなく、厄介を背負わされた人間がいろいろやるごとに所有者で本来いろいろやるべき人間にきちんと罰が当たるような正当な世の中であってもらいたいものだというのと。死んだ人間ちゃんとそこまで思えよというのを言いたい。


 ⑥結論だが。
 そもそもこの「無縁仏」というやつはその思考パターンからして支離滅裂である。本来義務をやるべき子孫を怒るでも叱るでもなく、隣人に厄介をかけて掃除させた方が得……しかし呪われるかもしれないという非常に歪んだ「構造」をしており、隣人の方では呪いだの祟りだのを日々恐れざるを得ない。
 しかしこれは全く筋が通ってないのは上記の通り。


 ・しかしこの筋の通らなさというのはこれはこれで勉強になる要素がある。
 可哀想だとか気の毒だと思った人間をよりによって呪う。
 恩義あるはずの人間を「お情けをもらってしまった、オレは侮辱された!」と憤慨し呪う。しかし一度あげてしまうと「もうないのか!このオレに相応しいだけの量を用意しろ!」と怒鳴られ続けるハメに陥ることになる。お情けで侮辱なら断ればいいだろうという話だが、そうするだけの気概は持てない。
 かといってオレという人間は偉い、本来は素晴らしい人間だからこの程度で満足すると思っているのか!と非常に高い要求を突きつけ、それが当然だと思っているのだが、他者がそれができないことに怒りを感じ、逆恨みをしてくる。もらったものがもったいない、有難いと思えないから当然相手への感謝はしないし、自分は素晴らしい人間だから貰って当然だと思っているし、それで満足するような小さい人間だと思われても困るから要求量は急速にエスカレートしていく。
 つまり根本に「感謝」という感情が完全に欠落している。欠落しているがためにそこらあたりにまつわるものが完全に壊れていると言える。


 そして無視したり視野に入れたりしなければ呪ったり全くしてこない。本来助けるべき立場の人間が完全に見捨てている(普通ならば大激怒するところだ)のを指摘しても怒らない、というより思考があまりにも短絡的すぎてこれを看破できないし、したがって怒れないのだ。
 だから「無縁仏は徹底的に見捨てろ」というのはリクツには合ってないが(リクツの通るような相手ではないのだ)、しかし人の生きる経験則としては確かにこういうパターンがあること。

 人というのも様々にパターンがあるものだが、その中でもこうしたパターンの「無縁仏」タイプっていうのが確かに人の類型にはおり、そういうタイプに絶対に近づいてはならないということを経験的に伝える上では、「無縁仏」というのは教材として案外非常に優れていたのではないかと思われるのだ。
 何かしてもらったら「感謝」ではなく「逆恨み」で返してくる。そして本来なすべきことを完全に無視した人間を怒らない、ならば徹底的に全力で無視を決め込み「決してエサをやらないでください」とやり孤立化させるのがベストである。これは例の経験則的な無縁仏対策とまったく同じものである。


 人を考える上でも例えば個人的には三国志とか古代中国を引き合いに出して結構考えるのだが、それをするまでもないパターン、というよりそれらに当てはまらないパターンというのが確かにあり、それがこの「無縁仏」タイプだったりするのだが、まあ武将なんてごくごく一部なわけで、人の類型としては歴史的にはこういうパターンの方が圧倒的に多かったりするのかもなあ(現代のゴミ問題とか考えても)と思うところである。








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